NEXTBACKDOOR|オトナのスイッチ〜デュアルヒーローvs.専属メイドのスキンシップ〜

第2章 メイド in confusion

3.迷走チュウ   #2

 早苗が外出先からわざわざ連絡してまで、マーガレットを用意させた理由は夜になってわかった。

 八時をすぎて二階の自分の部屋に行き、くつろいでいたさなか、静かだった貴刀家の敷地一帯に石畳を踏むタイヤの音が侵入した。そう聞き慣れているわけでもないのに、静かなエンジン音と相まって、結礼は健朗の車だと直感した。窓辺に寄って外を覗くと、確かに車のライトがちらりと見え、それから貴刀邸の陰に隠れてまた静けさが戻る。ドアの開閉音がした。

 昨日、会ったにもかかわらず健朗に会いたくなる気持ちは遮断しようがない。健朗がわざわざ夏生家を訪ねてくるとは思えず、会いたいなら帰るときを逃さないようにするしかない。
 耳を澄ましたところで、貴刀の邸宅のなかで何がなされているのか、見えるはずも聞こえるはずもない。
 健朗は何をしに来たのだろう。貴刀家の行事ごと以外では用事がないかぎり、めったに帰ることはない。
 スパイもどきで、貴刀邸に張りついておくべきか。
「結礼、ちょっといい?」
 外に出て待っていようかとちょうど部屋を出たとき、一階から温子が叫ぶように呼びかけた。

「何? お風呂ならさきに入って。わたしはあとでいいから」
「お風呂じゃなくて、お屋敷に行ってくれないかしら?」
「え……お屋敷に?」
 結礼は急いで階段をおりた。
「健朗さまが帰ってみえたんだけど、奥さまが入浴中なの。それで、あなたにコーヒーを淹れてくれないかって……」
「行ってくる!」
 温子が最後まで云わないうちに応え、結礼は温子が持っていたエプロンを受けとった。半ば駆けるようにして、結礼は足早に邸宅へと向かった。

 まるでお子さまな反応をしていることは自覚している。結礼は勝手口の前でいったん立ち止まり、深呼吸をして息を整えた。髪も整え、指紋認証でロックを解除してなかに入る。廊下を進んでまもなく、キッチンのドアを開けた。
 すると、リビングにいるかと思いきや、健朗と一成はダイニングのテーブルに着いていた。早苗自らがコーヒーを用意する予定でいたのなら、リビングまで持っていくのが億劫だったのかもしれない。
 テーブルの上には、早苗が頼んだとおり、結礼が用意したマーガレットが飾られていた。マーガレットは特に健朗が気に入っている花だ。早苗から用意するよう云われた時点で健朗がやって来ると気づいてもよかったのに、あいにくと結礼は健朗に関する別のことに気を取られていた。おかげで切りすぎたマーガレットは、結礼の部屋に飾り、和んだ空間を醸しだしている。

 二歩キッチンのなかに進むと背後でドアが閉まり、健朗たちはなんの話をしていたのか、会話を中断して結礼のほうへと視線を向けた。
 わずかに緊張してしまうのは、大企業のトップにふさわしく威厳を纏う一成の風格に圧倒されたせいであり、健朗に対してのプラスにもマイナスにもなるという、ごちゃごちゃと入り混じったどきどき感のせいだ。

「旦那さま、健朗さま、こんばんは」
「呼びだしてすまないね」
 一成は六十をすぎて、人に威圧感を与えるわりに若々しい。健朗をより厳めしくした雰囲気はあれど、ふたりはよく似ている。健朗のほうが繊細さを持ち、そのふたりの差はやはり早苗の血筋だろう。
「とんでもありません。すぐ用意します」
 健朗を見やると、いつもと変わらず親の前でも品行方正で、しっとりと微笑んだ。
「僕はブラックでいいですよ」
 健朗は疲れているとミルクも砂糖も欲しがる。ブラックでいいというのなら、もう昨日までの疲れは払拭されたのだろう。ほっとすると同時に、それを癒やしたのはもしかしたらさと美かもしれないと勘繰ったところで憂うつに変化する。
「はい」
 なんとか笑みを浮かべて返事をすると、キッチンのなかに入った。

 勝手知ったる他人の家という言葉どおり、結礼は勝手口の出入りも自由であれば、コーヒーを淹れる程度のキッチンの使い方も、大学生になってから少しずつやってきて慣れている。
 コーヒーメーカーをセットする間、話の続きだろう、ふたりは健朗の音楽活動の報告から今後の予定について話していた。
「海外ツアーはいつからだ」
「初っ端で七月からアジア方面をまわって、八月の後半から秋口にかけてヨーロッパとアメリカにまわります」、
「それなら来月までは東京に落ち着くのか」
「その予定です」

 すでに結礼はスケジュールをもらって知っているが、ツアーについてくるようにとはまだ云われていない。パスポートは持っているから、来いと云われれば一週間前に云われようが行けるだろう。
 けれど、福岡へ同行した話で、さと美に不思議がられたことを考えると、あらためて不自然でずうずうしいことだと知らされた。もし誘われたとしても断るべきなのだろう。
 重たいため息がせっかくのコーヒーの香りを台無しにしてしまう。
 結礼はまださきのことをぐたぐたと悩みながら、コーヒーカップを三つ用意して、できたてのコーヒーを注ぎ始めた。

「おまえに話があるんだが」
 と、一成は曖昧な気配で口にした。
 健朗が吐息混じりに笑う。
「だから僕はこうやって、夜に時間を取って来てるんでしょう?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうことです? 父さんらしくないですね。歳を取りましたか」
 健朗は揶揄した。
「歳は取った。だからこそ、考えていることがある。あるいは悩みだな」
「それで?」
「おまえも二十九になる」
「……そうですね」
 もったいぶったような会話のなか、健朗は年齢を云われてとたんに慎重になる。

 わずかにぴりっとした緊張感がはびこるなか、ダイニングのドアが開いた。早苗が入ってくる。早苗の実家は全国展開の貴金属業を営んでいて、早苗自身がそれを象徴するかのように身に纏う雰囲気は華やかだ。
「結礼ちゃん、ありがとう」
「いいえ、大丈夫です」
 応えながら、ついさっき喜び勇んでここに来たことを思いだした。帰るのを見計らっているよりも、堂々と健朗に会えるだけでうれしかった。想像でしかないことに振りまわされる必要はない。
 結礼は気持ちを切り替え、三つめのカップにコーヒーを注いだ。
「おまえに見合い話がある。ツアーに出るまえに一度、会っておけ」
 結礼の手がぶれ、カップにガラスジャグが当たる。甲高い音と同時に、ソーサーにコーヒーがこぼれてしまった。

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