翌日の午後、有吏館には主宰たちが次々に集まってきた。
　表分家の妻子たちは例によって宿泊の準備を任されたが、今回はその準備だけで、あとは有吏専属のヘルパーと都内に住む総領たち数人に任せて帰ることになっている。
　まもなく二時というとき、戒斗が叶多を探して二階にあるゲストルームの一室にやって来た。
「叶多、三〇分後にはタツオが迎えにくる。母さんは那桜に付き添ってるし、頼と二人になる」
　戒斗はわかっていることをあらためて口にした。
　頼は監視役に抜擢されて、これ幸いと本家の偵察に意気込んでいる。監視される側の叶多にしてみれば、弟の頼はいちばんやっかいだ。そもそも、もうすぐ二十一才になろうかというのに、昨日の言葉は案の定なぐさめなのか、この子供扱いは情けない。
「わかってる。家を出るな、だよね」
「そうだ。おかしなことしたら、衛守家から惟均がすぐに飛んでくることになる」
「……なんだか信用ゼロ」
「信用はしてる。けど、叶多の習性をつかみきれていないからな。叶多の行動はさすがにおれでも予測不能だ」
「酷い云い方してない？」
「だから、誉めてる」
　昨日は受け入れてみたけれど今日は納得できなくて、叶多は口を尖らせた。すかさず戒斗が喰いついてくる。
「イタっ。歯形ついてない？」
　本当に咬みつかれて、できるかぎりで素早く離れた。
「ついてる」
「嘘！　出かけられないよっ」
「そのためにやった」
　戒斗はすまして云いのけた。
「……マスクしておけばいいんだし」
　やり返したつもりが、戒斗は目を細め、吸血鬼みたいに口を怪しく開きながら躰をかがめてきた。さらにキスマークをつけるつもりだと察して、叶多はまたもや飛びのく。
「だ、大丈夫。家でじっとしてるから！」
「ほんとだな？」
「ホントホント！」
「二回続けるって嘘っぽいな」
「ホント！」
　戒斗は吹くように笑って、こういうときにはめずらしく、キスではなくてハグをした。
「ちゃんとおとなしくしてろよ。じゃあな」
　髪が無造作に引っ張られたあと、部屋のドアが閉まった。

　叶多は意味もなくそのドアノブをじっと見つめた。
　云いたくても云えないことはやっぱり云えなかった。
　気持ちだけが焦っている。明確にどうしたらいいとか、そういう考えがあるわけじゃない。そんなことを思いつけるのなら、叶多はもっと器用に世の中を渡ってこれたはずだ。
　けれど、もっと違う見方で、違う方法はないのか。叶多には結論が出せなくても、戒斗ならちゃんと考えられる。
　叶多は急かされるように戒斗を追いかけた。すでに建物の中には姿がなく、重たい玄関のドアを開けた。
「戒斗！」
　十メートルくらい先で戒斗が足を止めて振り向いた。そのずっと先には隼斗と拓斗をはじめ、何人かの背中が見える。戒斗まであと五メートルというところで叶多は立ち止まった。
「なんだ？」
　その問いかけは聞こえたけれど、叶多が動けないでいると、戒斗のほうから近寄ってきた。なんとなくうつむいてしまう。
「戒斗は……卑怯って見られるの、嫌いだって云ってた」
「ああ」
「でも……有吏がやってることは……やろうとしてることは卑怯なことじゃない？」
「何が云いたい」
　見上げた戒斗は首をひねった。不機嫌ではなくても、どこか一線を引いたように身構えた雰囲気がある。
「一族を守れるなら、ほかの人が犠牲になったってかまわない？」
「……どうしてそういうところは気づくんだろうな」
　戒斗はため息紛いで笑い、両手でそれぞれに叶多の髪をつかむ。
「戒斗？」
「犠牲にしてるわけじゃない。守るために手を尽くすことが卑怯というなら、世の中のすべてが卑怯で成り立っている。そうならないか？」
「それって……戒斗らしくない答えだよ」
　しばらく叶多を見下ろしていた戒斗は口を歪め、一度だけ首を横に振った。何をやるかと思えば、つかまれた髪が頭の上でグシャグシャにされた。
「戒斗っ」
「時間だ」
　昨日と同じで、まさに“らしく”なく、避けるように戒斗は話を打ちきった。その背中は呼び止めるなと云っているみたいで、実際にそうしても今度は無視されそうで、それはちょっと遠慮したい。
　意気地なしだ。結局は中途半端にしか云えなかった。

「叶多ちゃん、このさきは何云ったって無理」
　後ろから美咲の声がした。
「美咲ちゃんはどう思う？」
「どう思うって訊かれても、あたしは叶多ちゃんほど知ってるわけじゃないから。よりによって叶多ちゃんが全部知ってるってどうかと思うけど」
「よりによって、って……」
「ヘンなヘマやって有吏一族の足を引っ張らないようにね」
　美咲がぐっと顔を近づけてくる。叶多の頭から口もとまでおりて、美咲は顔を引いた。
「叶多ちゃん、狼にやられた負け犬って感じ」
「え？」
「髪はぼっさぼさだし、口の周り、赤くなってる。歯形？」
　美咲の小馬鹿回しにギョッとしたあと、叶多は慌てて両手で口をふさいだ。
　戒斗のバカ。

　五月の青空は清新を感じるが、窓から覗くその色とはまったく似合わない顔を見下ろした。
「定例会でもないのに、領我家の頭首が休みの最中、わざわざ訪れるとはなんの用だ」
　蘇我唐琢は書斎の椅子にふんぞり返り、デスクの前に立つ領我和人を斜めに見上げた。
「我が法家(のりけ)の出番かと」
「どういうことだ？」
「悪しき所業を小耳にしたところです。この偉大なる蘇我の名を穢す者がいる」
「だれだ？」
「我立家ですよ。まさか頭領の指示ではありますまい？」
「わしの指示だとしたらどうなんだ？」
「……まさか……」
　和人は絶句してみせ、一方で唐琢はせせら笑う。
「約定は破棄されたのだ。報復は当然だろう」
　しばらく睨み合うように相対していると、和人はゆっくりと首を横に振った。二度往復したあと、ため息もどきで息を吐いた。
「愚策としか云い様がありませんな。約定が破棄されたいまこそ、我々の要求が通りやすい。時間がかかれども、全面的和解を構築すれば、無関係の人間に手をかけずともすんだはずです。蘇我はまた罪人に身を落とすおつもりですか」
「また、とはなんだ」
「先の大戦だとは云わずもがな。いいかげん、蘇我本家は目を覚まされよ」
「なるほどな。法家の出番とは、本家を乗っ取る、という宣言のつもりか」
「法家が望むことにそのような卑しい気持ちはない」
　ぴしゃりと云いきり、また沈黙が訪れた。和人が怯むこともなければ、唐琢が引くこともない不動の時間が流れる。
「頭領、法家が望むのは一つです。蘇我に高貴なる繁栄のあらんことを」
　和人は深々と頭を下げ、書斎をあとにした。
　その背を見送りながら、唐琢の顔は苦々しく歪(いびつ)になった。

　書斎から廊下へ出ると、対談が終わるのを待ちかねていたように聡明が姿を現した。
「総領、待たれよ」
　和人はすれ違う寸前で聡明を引き止めた。
「なんだ？」
「身内の争いほど愚かなことはなく、史実を鑑みれば明らか。我が領我家にそのような意図はない。被害妄想はほどほどに。それとも蘇我を廃(すた)らせますか。悪さはこのへんでお収めください。副社長、そして総領としての品格が疑われますぞ」
「勝手にほざいていればいい。まもなく陰の一族の正体も明らかになる。手柄は本家にあり、領我家にはない」
「まもなく、とは？」
　聡明は返事することなく、小気味よさそうに薄気味悪い笑みを浮かべ、和人がいま来たほうへと歩きだす。その姿を追うと、振り向くこともなく書斎へと消えた。
　同時に、隠していた驚きが和人の顔を険しくさせる。聡明とは反対方向に歩きだした。

　一つ角を曲がって玄関口まで来たところで、妹の英美とその息子、孔明がやって来た。
「兄さん」
「英美、大丈夫か」
「ええ」
「つらい立場におまえを置いた。私の後悔の一つだ」
「いいえ。孔明と美鈴がいるのよ。それで賄(まかな)えてるわ。お父さまの秘密主義にはうんざりさせられたけれど、教えられたことは……見てきたことは沁みついているものね。子育て、一人でうまくやれたでしょう？」
　和人は英美の斜め後ろに控えた孔明を見やり、深くうなずいた。
「たしかに申し分ない。必ず改善させる」
「伯父上、向こうには通じそうですか」
　自分の身上が明確になったからだろうか、孔明はこれまでになく意思をその瞳に宿らせている。
「まだ連絡待ちだ。この状況下では両一族がそれぞれに警戒色を強めている。領我家としてもいまは身動きがとれない。下手に動けば一族を曝すことになる。孔明、頭領が一族の正体を見抜いているという可能性はどうだ？　ついさっき、聡明は妙な口振りだったが」
「僕は蚊帳の外ですよ。伯父上がご存知のとおり。ですが、探ってみます」
「気をつけてやれ」
「伯父上、有吏の会社へは行ってもかまわないんでしょうか。判断しかねてるんですが」
　孔明の質問に和人はしばし考えこんだ。
「……孔明、おまえが直談判するというのはどうだ」
「僕が、ですか」
「仮にも付き合いがあるおまえのほうが真意は伝わりやすいだろう」
「……わかりました。僕のほうから働きかけてみます」
「向こうが門前払いをしないかぎり、ということにはなるが。孔明、蘇我を継ぐ者として最初の大仕事だ」
「はい」
　孔明がきっぱりとした返事とともに一礼をすると、和人は満足げにうなずいた。
「とにかくいまは、我立家の動きに細心の注意を払っている。また不穏な動きがあるやもしれん。英美、充分に注意してくれ。孔明、母親と妹を守ってやるんだぞ」
「もちろんです」
「大丈夫。私はいつものとおり、何も知らないバカな女の振りしてるから。いざとなったらあの人含めて蘇我本家を牛耳ってやるわ」
「さすが、父が認めた跳ねっ返り娘だ」
「失礼ね」
　和人はかすかに笑みを浮かべながら、英美の背中を擦り、そして励ますように軽く叩いてから蘇我邸宅を出ていった。

「ママ」
　和人が出ていくのを見届けたあと、柱の陰に隠れていた美鈴は一歩を踏みだした。呼びかけたとたん、英美と孔明がパッとこっちを見て美鈴を捉えた。
「美鈴」
　同時に二つの声が美鈴を呼ぶ。
「何が起きてるの？」
「何も起きてないとは云えないけど大丈夫よ。いずれ話すわ。それでいい？」
　英美は有無の権限をも奪うような云い方をして、美鈴はうなずかざるを得ない。
「美鈴、明日、買い物行きたいって云ってたけど、おまえがいいんならいまからでもどうだ？」
「行く！」
「じゃあ、用意してこい」
　美鈴はうなずいて、奥にある二階の階段へと小走りした。
　子供みたいに気を逸らされたんだということは美鈴もわかっている。
　一族の正体？　お兄ちゃんはなぜ有吏の会社に行くのに“判断しかねてる”の？　我立家に細心の注意？
　声を落とした会話の中からつかんだキーワードが並ぶ。美鈴の頭の中は疑問だらけだった。

　頼が一緒だとまったく自由になれない。幼児に返ったように姉に付き纏うとは如何なものかと思う。
　うんざりしているなか、戒斗から連絡があったのは夜を迎えた七時だった。
　夕食を食べる用意をしていた叶多は手にしたしゃもじを置いて、カウンターの上の携帯電話を取った。
「戒斗！」
　叶多が名を叫ぶとため息みたいな笑みが返ってきた。
『頼はちゃんと役目果たしてるな？』
　戒斗の問いを受けながら、ＩＨヒーターの前でワンタンスープを注ぎ分けている頼を横目で見やった。
「果たしすぎててイライラしちゃう。部屋の前で寝ちゃいそうな感じ」
　戒斗は黙りこんだ。一方で、頼は叶多を向いてせせら笑いを見せた。
　叶多は頼を迫力なく睨みつけながら、戒斗にはおずおずと口を開いた。
「……戒斗？」
『……まあいい』
　って何が？！　という、いつもの怪しげな返事が押しつけられた。こういうときは話題を変えるに限るけれど、その理由よりは、本気で聞きたいことがある。
「戒斗、それでどうだった？」
『決定事項はない』
「……そう。貴仁さんの伯父さんと連絡とか交渉とか、まだできないの？」
『それも含めて、だ』
　叶多は黙りこみ、そのせいで微妙な空気感が生まれた。沈黙に付き合っていた戒斗は、やがて痺れを切らしたようで呼びかけてきた。
『叶多。昼間、おまえが云ったように、昨日、千重史伸も云った。“これ以上、千重家から被害者が出ないよう”というのは史伸の皮肉だ。たしかに有吏のせいだと云われても仕方がない』
「それだけで……認めるだけで、あとは何も思わない？　千重家もそうだけど、那桜ちゃんだって有吏一族のために犠牲になったんだよ。毬亜さんは有吏が正々堂々としてるって。でも違う。全然カッコよくない！」
『叶多』
「会議のまえの戒斗、一族以外どうでもいいって云ったように聞こえた。それじゃ、蘇我とおんなじだよ」
『……まえにも叶多から似たようなこと衝(つ)かれたな』
　電話の向こうで戒斗が薄く笑う。
『じゃあな』
「戒斗――」
　電話はとうとつに切れた。会話はまともに成立することがないまま、また強引に中断された。

「叶多。おまえみたいだと戒斗さんはたいへんだよな」
　携帯電話をもとの場所に戻してため息を吐いたとたん、頼が云った。
「たいへんて？　あたしが戒斗の負担になってるってことはわかってるよ。とんでもない勘違いしたり、どんくさいし。あんまり認めたくないけど」
「じゃなくてさ。戒斗さんに限らず、トップに立つ人間にとって正々堂々ってのは無理だ。一見、正論でも立場とか見方が変われば、それが正しいとは云えないことが多い。つまり、妥協点をどう見いだすか、それがトップの力量にかかっている」
　頼の云うことをしばらく考えた。
「……わかるけど、わかんないよ」
「どっちだよ」
「戒斗、怒っちゃったかな」
「八掟に戻ってくればいい」
「やだ」
「なんだよ、その即答。ムカつく」

　その後の夕食は、甘えたの頼のおかげであんまり深く考えずにすんだ。後片づけを終わって、頼を浴室へと追いやって、叶多はやっと独りになれた。
　その間にユナと崇に連絡を入れた。電話が終わりかけたとき、来訪を知らせるメロディがリビングに響く。それは家族を示す曲で、詩乃が帰ってきたんだろうかと思いながら電話を切り、叶多はソファから立ちあがった。
　廊下に出て玄関に行くまでに、鍵が音を立てる。
　戸が開いて躰の一部が見えたとたん、叶多は目を丸くした。
「戒斗！」
「ああ。帰ってきた。頼は？」
「お風呂。夜、ずっといる？　明日は？」
「明日の朝、また向こうに行く」
「よかった。頼ってばホントにベタベタしてくるんだよ」
「ベタベタ？」
「って、触られてないよっ。あたしは戒斗とくっついてるほうがいい」
　と云いつつ、普段よくやるように戒斗に飛びつくでもなく、叶多はお尻の辺りで後ろ手に組んだままだ。戒斗にしろ、上がり口で靴も脱がずに立ったままでいる。
　促すように戒斗が首を傾けた。すると、もじもじした気分が払拭されて手を解く。戒斗の首に巻きついた。
「ったく。一日くらい離れてられないのかよ」
　不意打ちで背後から舌打ちが聞こえ、叶多は慌てふためく。離れようとしたものの、腰にある戒斗の腕が邪魔をした。
「離れていられるおまえがうらやましいかもな」
　頼は厭味ったらしく鼻で笑ってリビングに消えた。
「いまの、うれしかったかも」
　叶多が囁くと、くっついた胸から戒斗が笑ったのが伝わってきてほっとした。

　頼が指摘したことは間違っていない。そう理解はできたけれど、可能性をないがしろにするのは違うと思う。なんにもならなくても、ちょっとした可能性でも、試みてだめだったほうが絶対にいい。

「頼がいなきゃ、あのおっきなお風呂で“一緒にお風呂！”できたのに」
「いてもできるだろ」
　戒斗は応えないでいいことに応え、叶多は荷物みたいに肩に担がれた。靴を脱いだ戒斗は廊下に上がって、ぐんぐん奥へと進んでいく。
「やだ。できるわけないよっ」
「云ってろ」
　強行に浴室に連れていかれ、身ぐるみ剥がされ、さすがにえっちはなかったけれど、のぼせるほど戒斗とくっついていた。