Sugarcoat-シュガーコート- #153

第15話 All's fair in love and war. -16-


「和久井から聞いたが、君は有吏コンサルの息子らしいな」
 緊張した沈黙のなか、ソファに座っての第一声は千重旺介だった。
「はい。史伸さんのように家業を継いでいないので、父からすれば放蕩(ほうとう)息子らしいんですが」
「音楽を侮っていはいかん。音楽はいい」
 旺介の反応は思いがけないものだ。場が和んで、戒斗は眉を上げておもしろがる。
「何かお好みの曲でも?」
「“巌壁の母”が好きでな。去年、彼女のラストコンサートに行った。あの場にいて泣かない奴はどうかしているな」
 そう云う旺介は泣いたんだろうか。この顔で? いや、顔つきで泣くわけじゃないし……。
 叶多はつい余計なことを思うけれど、旺介は至って生真面目な様で、それに応じた戒斗はかすかに笑ってうなずいた。
 叶多にとっては“巌壁の母”というタイトルさえも定かじゃない。今度どんな歌なのか、おばあちゃんにでも訊ねてみよう。戒斗は知っているんだろうか、と窺っているとその口が開いた。
「泣かせられる音を出せたら最高ですが」
「君は泣かせるより失神させるほうが得意なんじゃないか」
 史伸が薄らと笑みを浮かべて云い、それに過剰反応したのは叶多だった。
「し、失神?! ど、どうしてそれを……!」
「叶多」
 知ってるんですか、と続いた言葉は戒斗の声に被ってだんだんとすぼんでいった。
 ……。
 はたと戒斗を見上げ、隣同士で見つめ合ったあと、叶多の躰全体が沸点に達した。
「へぇ。やっぱり戒斗さん、失神させるのが得意なんだな」
 史伸の云い方は思わせぶりで、叶多の発言を正確に把握していることは明らかだ。冗談ともとれない淡々とした響きがあり、補足、あるいは取り消しができる雰囲気にはない。
 斜め後ろに立って控えている和久井が咳払いをする。和久井を振り向くことはもちろん、千重家の人々と目を合わせることもできない。
 あり得ない着眼点にたどり着いた自分を情けなく、戒斗には申し訳なく、叶多は肩身の狭さが身に沁みる。
 垂れた耳をますます下げたような情けない顔をあからさまにすると、戒斗は呆れたように首をひねり、それから史伸へと向いてため息混じりで笑った。
「彼女に限っていえば、ということで……彼女の前ではずっとそれくらいの存在でありたいと思っていますよ」
 戒斗がどうにか切り返したことに感心するよりも、叶多は驚いて目を丸くした。
「わぁ、お惚気だ」
 お茶を携えてきた毬亜が可笑しそうにからかって、叶多は沸点からさらに超えて蒸発しそうな気分になった。
「て、手伝うよ」
「いいよ。叶多さんはゲストなんだから」
「そのとおり余計なことはするな。叶多のためだ」
 他人に対してはさっきみたいに叶多をかばおうとするけれど、肝心の叶多への対応になると戒斗は容赦ない。たしかに、この不規則な動悸ではお茶を渡すどころか零してしまう可能性を否めない。つまり先回りしてくれているんだろうけれど。
「わかった」
 気落ちした返事に空笑いのような笑みを見せた戒斗は、生真面目な顔に変えて旺介に向き直った。

「千重会長、率直に話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
 お茶を配り終わった毬亜が叶多の隣に座ったとたんの戒斗の申し出だった。
「有吏さま」
「和久井、口を挟むな。本家の意向だ」
 戒斗は旺介に目を据えたまま、止めに入った和久井を逆に制した。一歩踏みだしていた和久井はまた一歩後退して、無言で戒斗の意思に従う。
「いいだろう」
 旺介は和久井をちらりと見やり、それから姿勢を正すように躰を揺らして戒斗に応じた。
「なぜ、我々のダミーを引き受けられたんです?」
「我々……とな?」
「有吏は、蘇我と反対対当にある一族の本家です」
 どういうことかとただ眺めていた叶多は、いまさらで和久井が制止しようとした意味がわかって、この場に居合わせたなかでいちばん驚いたかもしれない。面と向かった三人は、眉を動かしたり首をひねったりというしぐさはあったものの、一様に泰然としている。
「……そうか。和久井から聞かなかったか?」
「伺っています。ですが」
 旺介は手を上げて戒斗を制止した。
「家族を失い、家族を傷つけられる。(いわ)れもなく、だ。その瞬間にあるのは悲しみと苦しみだ。そして自分の無力さとの闘いの始まりでもある。わしの手で――そう思わないか。他人の手を借りようとは思わん。そのためならどんな手段でも乗ろう」
「少なくとも、報道という、私たちにとっては救いの場が、奴等にとっては報いを(こうむ)る場がある」
 旺介の口調は重々しい。そのあとに続いた伶介ははじめて口を開いたのだが、静かな口調の底で煮えたぎるほどの苦しみが隠され、悶えていそうに聞こえた。

 那桜のことがあって、戒斗にはそれらの言葉がどう聞こえただろうか。
 怒りは後回しで、ただ、心配で、無事であるように。
 そう願うのが家族。那桜と会えていない叶多は、まだそう願うこと、そして、何ができるんだろう、その無力感しかない。

「史実がどうだったか、その真実はいまとなってはどうでもいい。いずれにしろ、現代の有り様は受け入れるしかないのだからな。ただし、この時世に“一族”という存在を認めるかどうかは別問題だ。和久井がいなければ、あるいは“もう一つの一族”も叩き潰そうと考えたかもしれない。戒斗くん、忠誠心をこれほどまでに尽くす臣下を持つというのはどういう気分だね」
僭越(せんえつ)ですが、その真理は逆です」
 旺介の発言に和久井がまた一歩前に出た。
「逆?」
「はい。分家こそ、本家から忠心を授かっている、ということです」
「……なるほど、な」
「旺介会長、貴殿も、ですよ。私は千重家からも信頼をいただいています。同等に忠心を尽くしているつもりです。そう見えないとしたら私の思慮が足りないんでしょう」
「そんなことはない」
 和久井の懸念を打ち消した伶介は、徐に立ちあがりながら戒斗へと目を向けた。
「脚に支障はないんですね」
 さきに口を開いたのは戒斗のほうで、その言葉に叶多は考えこむ。
 脚、って?
「ああ。世間では下半身不随で通っているが、私の躰はなんの問題もない。世間にある事実と真実は違うものだな」
 伶介は皮肉っぽく云い、その発言で叶多はかつての陽と毬亜の会話を思いだした。事故後、父親は車椅子生活だとか云っていた。けれど、伶介は人の手も借りずに立った。
「そのようですね」
「戒斗くん、家内に会ってくれないか」
「はい、ぜひお会いさせてください」
「パパ、あたしも手伝うよ」
「ああ。頼む」
 毬亜が即座に立ちあがり、伶介とふたりリビングを出ていった。

 それを見計らったように史伸が身を乗りだした。
「戒斗さん、おれはけっして父たちの決断に納得しているわけじゃないんですよ」
 史伸は意思を明確にするようにわずかに顎を上げた。
「史伸」
「おじいさんは黙っていてください。いまさら翻そうとか思っているわけじゃない。ただ一つ。これ以上、千重家から被害者が出ないよう、総力をあげてもらいたい。アオイのことも含めて、だ」
 最後の言葉はなぜか和久井に向かった。
 史伸は、和久井と初対面のときに抱いた印象と似て、その表情は動くことがあるんだろうかと思うくらい仮面ぽい。戒斗とか、有吏の男たちにありがちな、プラスアルファで持っている冷やかさはないけれど。経験した苦悩が史伸をそうさせているんだろうか。
「史伸さん、云われるまでもなくそうします。すでに、警戒すべき事態になっていることは?」
「和久井から今日聞かされました」
 戒斗は史伸の返事を受け、旺介を向いた。
「方策は近いうちに打ちだします」
 旺介は、うむ、と深くうなずいた。それから傍観者だった叶多へと、ふとその目が移動してきた。叶多は慌てて背筋を伸ばす。

「しかし」
 旺介は奇妙な言葉の切り方をした。どうやら叶多のことらしいし、こういう場合、得てしていいことではなく、叶多は身構えた。
「なんでしょう」
「この話に立ち会えるということは、彼女も分家出身なのかね」
「違いますよ。ただ、彼女には隠すべきじゃないと思っているだけのことです。負担をかけることになりますが」
 即行で否定されたことに驚いていると、戒斗がちらりと叶多を向いて、どういう意味なのか、ふっと笑った。釣られて笑ったものの、疑問は疑問だ。
 もしかして本当に分家じゃなかったりして。なんていう馬鹿げたことを考えた。
「もっともだな」
 旺介は口を歪めて叶多と戒斗を見比べ、おそらく“可笑しそうに”した。
 “しかし”といい“もっとも”といい、どこか不自然な云い方だと思うのは気のせいか。
 訊くに訊けないでいるうちに伶介が戻ってきた。すぐ後ろに車椅子が見え、それを押す毬亜が続いて現れる。叶多と戒斗はほぼ同時に立ちあがって車椅子に寄った。

「こんにちは。八掟叶多です」
 伶介の妻を一言で表すなら、きれいな人、だ。顔立ちは可憐というよりは聡明な印象を受ける。すっと手を伸ばした叶多と違い、膝に置いた手は震えるようにゆっくりと上がってくる。叶多はすくうようにその手を取った。
「こ……にち……は。ア、オ、イ……の、は……はです」
 一つ一つ、呻くように言葉は発せられた。多香子こそ下半身不随で、言語障害をも抱えていることは戒斗から聞いていた。
「ママは多香子っていうんだよ」
 叶多はうなずいて少し身をかがめた。
「ま……アオイさんに仲良くしてもらってます。お邪魔させてもらいました」
「ありが……と……ア、オ、イの……友……だち……はじめて……」
 多香子はうれしそうに笑みを見せ、それだけで部屋が華やかになった気がする。
 その直後、それとは対照的に叶多の内心は重く淀んでしまった。
 何かが間違っている。なんだかおかしい。そう思っていたことが、いま多香子を見ていてはっきりした。気の毒という気持ちがショックに変わる。
 叶多に継いで戒斗が多香子と挨拶を交わす間、やるせなくなった。

「叶多さん、こっちで話さない? ママもこっちがいいよね?」
 毬亜が窓際のラグを敷いたスペースを指差した。多香子がうなずいたのを見届け、毬亜が車椅子を押す。叶多はその後ろからついて行った。ラグの上に座り、多香子はそのまま車椅子で三人は窓辺に落ち着いた。外を眺めると、十二個の花のプランターボックスが時計のように丸く並んでいて、普段ならうっとりする景色だが、生憎といまはそんな気にはなれなかった。
「叶多さんて、行動力あるよね。一寿からウチに来るんだって聞いたときはびっくりした」
「あ、和久井さんから怒られなかった?」
 毬亜が叶多と対面することは許されないと聞いていた以上、叶多の申し出は和久井に断たれるかもしれない。もし受け入れても不快だろうと見当をつけていた。それが、意外にも何も(わだかま)りなく迎えられた。
 和久井が一線を画して叶多に接したのは最初だけだったし、いまは公然と立場ができて、叶多へのにこやかさはおかしくないけれど、毬亜に対してはそうではないかもしれないのだ。
「大丈夫……というより、あたしが叶多さんに会う以前から、一寿は叶多さんが千重家に来ることは予測してたから」
「……え?」
 和久井は予知能力でも持っているのかと叶多は目を丸くする。
 有吏一族ってすごい、と真剣に思いかけて慌てて心の中で打ち消した。そこまで妄想爆裂じゃない。
 そう自分に云い聞かせていると、叶多の内心を読んでいるかのように毬亜が笑う。毬亜は読心術? なんていう馬鹿なことがまた頭をよぎった。
「叶多さんがどういう人か、一寿は知ってるってこと。あたしも、こんなふうに会いにきちゃうんだろうなって思ってた。本当にそうなって驚いてるのは驚いてるんだけど。叶多さんと友だちになれたからわかったんだよ」
「そう?」
「そう。それにしても、あそこで戒斗さんが暴露するとは思わなかった」
「あ、それはあたしも驚いてる」
「正々堂々と、って感じ。有吏一族っていいよね」
 毬亜の言葉は叶多を居たたまれない気にさせる。
「ま……アオイさんは身代わりでいいの? だって千重家は本当の……」
 叶多が云い淀むと、毬亜はにっこりと笑った。
「あたしにとってはね、千重家は本当の家なんだよ。史伸にはちょっと認められていないっていうか、そんなところあるけど、ママもパパもおじいちゃんも本気で娘って思っててくれるから。それはたしか」
「史伸さん、認めてないことないと思うけど」
 叶多は和久井に向けた史伸の言葉を思いだしながら云った。
「ホントに? だとしたら尚更だよ。あたしはいまがいちばん幸せなのかもしれない。千重家の人は嘘を吐かない。あたしはホントに家族だって思えるの。ね、ママ」
「ア、オ、イ……わ……たし……の……むす……め」
 多香子は微笑みながら応じた。
「ありがと、ママ。それに……一寿の役に立てるんだったらうれしい。一寿も絶対に嘘を吐かないし、あたしが信じているかぎり、あたしを見捨てないから。それくらい一寿はあたしを信じてくれているんだと思うの。それって、うれしくない?」

 * * * *

 その後、男女に分かれたまま一時間くらい雑談をしたあと千重家を出た。
 帰り道、戒斗は往路と同じようにくねくねと必要以上に曲がって遠回りをした。千重家に着いたときに和久井が云うまでまったく知らなかったけれど、タツオは逆に近道をして、離合を繰り返しながら警護してくれたようだ。

「それで?」
「え、何?」
 車庫に入ったバイクから降りてヘルメットを渡すと、いきなり戒斗が首をひねって問いかけた。
「何か云いたそうにしてる。それに。何か思うことがあって千重家に行きたいって云ったんだろ。解決できることはあったか?」
「……あたしが口出しできることじゃないから。でも……戒斗、身代わりは必要なの?」
「千重家も了承していることだ。千重史伸は不満がありそうだけどな」
「戒斗、そういう問題じゃなくて……」
 そのさきを云うにはためらってしまい、叶多は口を閉じた。
「明日の午後、主宰がそろう。二日間、有吏館に缶詰かもしれない。明後日には判断を下すことになる」
 それは叶多の疑問の答えにはなっていない。わかっていてわざとそうしたのか、それとも、戒斗の中で――本家の中ですでに結論は出ているのか。
 戒斗はヘルメットをバイクに引っかけると、叶多の手を引いて歩きだした。
「戒斗、あたしのこと分家じゃないって」
「分家を曝すわけにはいかない。まあ、千重旺介もあれが嘘だとは察しているだろ」
 追及ができないまま逸らした話題には意外な答えが返ってきた。それも本家のあり方なんだろう。
「あたし、今日はうれしいこといっぱい云われた気がする」
「気がする?」
「もっと直接的に云ってほしいかも」
「それこそ気絶するんじゃないのか」
 気絶イコール失神、その有向線分(ベクトル)は叶多に失態を思いださせた。
「……戒斗に恥かかせたよね。あたしって成長してない。ごめん」
 叶多がしょげた声で謝ると、戒斗は笑い声を漏らした。
「成長してないんじゃなくて、変わらないところがあるってだけのことだ」
「……なぐさめてる?」
「誉めてる」
 戒斗の顔を覗きこむとおもしろがった眼差しが見下ろしてくる。
 叶多は素直に喜ぶことにして、手を離すと戒斗の正面に回って飛びついた。
「何やってんだ」
 そう云いながらも腕が叶多をすくい、くっついた躰から戒斗の笑みが伝わってくる。

 信じている。
 その気持ちは毬亜と変わらない。
 毬亜は教えてくれた。伶介が自らの躰に問題がないこと、そして多香子と会わせたという真の意味。全面的な信頼を示したことなんだという。
 正しい道、判断すべき道とはなんだろう。
 堂々あっぱれであれ。
 貴仁から教えてもらった言葉を思いだした。

 タイムリミットは明後日、六日。

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