Sugarcoat-シュガーコート- #152

第15話 All's fair in love and war. -15-


 戒斗の腕が上がったかと思うと叶多の首根っこをつかみ、引き寄せられた。笑ったくちびるが咬みつかれる。
「痛い!」
 大げさに叫んでみると戒斗は笑みを漏らし、犬みたいにくちびるの周りまでぺろりと舐められた。
「もうすぐ母さんが帰ってくる。コーヒー、淹れてくれるだろ?」
 そう云われて時計を見るとまもなく三時になるところだ。二日間、病院での寝泊りでは疲れただろうし、コーヒーくらい淹れて待っていなければ嫁失格だ。
「うん」
「孔明はなんだって?」
「……え?」
「電話あっただろ」
 あったにはあった。昼食の後片づけが終わって部屋に上がってきたときだ。けれど、どうして? と疑問を浮かべながらベッドに置いた自分の携帯電話を見やり、叶多ははっと思い当たった。
「もしかして戒斗、履歴チェックしてる?」
「ケータイは覗いてない」
 詰った叶多に対して悪びれることなく戒斗は肩をすかした。それはそうだ。午後になって戒斗ははじめて部屋に来たのだから。けれど、覗いていなくても、逐一、情報を得ていることはたしかだ。
「酷い」
「それで?」
 むくれた叶多におかまいなしで戒斗は問う。
「……孔明さんが作った母の日のプレゼントをラッピングしてあげたから、そのお礼だよ。昨日、貴仁さんから受け取ったって」
「それ以外は?」
 戒斗がしつこく訊ねてきて、叶多は頭の中で電話の内容をリプレイしてみた。が、これといって普段と変わった様子もなく、お礼で終わったような気がする。
「別に何も云われなかったけど?」
「たかに来いとか、お礼に酒飲ましてやるとか、云われなかったのか?」
「酒って……」
 飲酒に関しては、戒斗の叶多に対する信用度はゼロだ。いや、飲酒に限ったことなのか。
「どうなんだ」
「誘われてないよ!」
「休みなのに? 連休なのに何も誘わないって? 孔明が?」
 続けざまに戒斗が詰め寄り、といっても実際に迫られたわけではないけれど、雰囲気に気圧された叶多は身を引いた。そうしながらも、戒斗の云うことはもっともだと思う。律儀な孔明のことだ、本当に“普段”なら宴会だのなんだのと提案するだろう。
「……云われなかった」
 叶多の返事を受け、戒斗はうつむくように首をひねり、またすぐに顔を上げた。

「下、行くぞ」
「あ、うん。……どういうこと、戒斗?」
 戒斗が立ちあがると同時に手を引かれて、叶多もベッドからお尻を上げた。
「知っている、ってことになるんだろうな」
「今度のこと?」
「ああ。窓口を通して領我家の頭首から接触を求められている」
 続け様の思いがけない知らせに叶多はびっくり眼になって、部屋を出ながら覗きこむように戒斗を見上げた。
「……それで?」
「落ちる」
 階段に差しかかり、戒斗は指を差して叶多の視線を修正する。
「こっちの正体はわかっているはずだ。そのうえで窓口を通すということは向こうも慎重にならざるを得ない状況にあるということになる。当然、有吏も慎重になる」
 その答えは申し出にまだ応じていないということだ。短絡的に、もしかしたら穏便にいけるかも、と考えてしまった叶多は内心でため息を吐いた。
「だよね。でも、電話の盗聴はやだ」
「盗聴はしてない。いまは万全を期する。それだけだ」
 戒斗は手前勝手にもっともな口調で正当化した。


 詩乃が帰ってきたのは、ちょうどコーヒーが淹れあがったところだった。
 門の出入りを知らせる音が鳴ると、叶多は少しドキドキしながら玄関に向かった。わけのわからないこのドキドキは不安かもしれない。
 玄関先で待っていると、迎えにいった隼斗が両手に荷物を持ち、斜め後ろを詩乃が歩いてくる。
「おばさん、お帰りなさい」
 元気よくというよりはちょっと控え目に声をかけた。うつむきかげんだった詩乃の顔が上向き、そこにかすかでも笑みが浮かぶのを見て、叶多のドキドキもやや治まった。
「叶多ちゃん、ただいま。ごめんなさいね、家のこと任せてしまって」
「いえ! あたしは大丈夫です。疲れてますよね。コーヒー淹れてるから、それ飲んだら休んでください。もしかしたらと思ってお風呂も溜めておきました。夕食もあたしがやります」
「ありがとう」
 連連(れんれん)と並べ立てた叶多に答える詩乃の声は、いつもより覇気がないようだ。

 リビングじゃなくダイニングのテーブルに着いた詩乃の前にコーヒーカップを据えながら、疲れているせいじゃない、微妙な間合いを感じる。容易に口を開けない雰囲気で、テーブルの周りは奇妙な沈黙が漂っている。
 詩乃に覇気がないのも、この間合いも、原因は那桜のことだろうと思うと、いざ訊くにはためらってしまう。けれど、ここで叶多が口にしないのもおかしい。
「また病院に戻るのか」
 叶多が口を開きかけたそのとき、戒斗がさきに問いかけた。
 叶多の正面に座った詩乃は顔を上げて、またコーヒーに目を落とした。一口飲んだあと、詩乃は戒斗に向かった。
「拓斗がいるから。那桜はもう母親を必要とする年じゃなくなったのかしら。守ってもやれないなんてなんの役にも立たないわね」
 それは看病のことではなく、事件のことを指しているのだろうか。そんなことを思いながら、訊ねる機会を失った叶多は詩乃を見守った。
「おまえのせいじゃない。私の責任だ」
 ワンテンポ間を置いて隼斗が口を挟んだとたん、ピリッとした空気に触れた気がした。詩乃はゆっくりとコーヒーカップを手もとに置き、そこに目を落とした。
「なんなの、それ? 貴方、少しは変わってくれたかと思っていたのに情けないわね。責任だと云えばすむと思ってる。そうやって独りで。どんなに偉そうにしてても貴方は戒斗以下よ。ますます私を惨めにさせる。拓斗が貴方みたいにならなきゃいいけど」
 人前では――家族の前でさえも、隼斗に盾突くことはおろか、その立場を(おもんばか)ってきた。その詩乃が、叶多の前で、ともすれば隼斗を()き下ろしたのだ。それくらい、今度のことをきっかけにして隼斗と詩乃の間に何か起きたのだろうか。いや、再びだからこそ、過去のことが相俟って(ひず)みがもたらされたとしても当然なのだろう。
 隼斗は真一文字に口を結び、戒斗は隣で微動だにしない。叶多もまた固唾を呑んでその場を見守った。
 すると、詩乃はため息を吐いて立ちあがった。
「少し休むわ」
 ため息ががっかりしたように聞こえたのは気のせいだろうか。ダイニングがますます気まずさに淀むなか、詩乃が廊下に出たところで叶多はあとを追った。

「おばさん、那桜ちゃん、ホントに大丈夫なんですか!」
 さっきのふたりを見て、もしかしたら大丈夫じゃないのかもしれないと思った。詩乃の背中に問いかけると、その足が止まってこっちを向く。
「躰は快復するわ。問題は精神的なことだけど……拓斗がいれば大丈夫、と思わなきゃね」
 詩乃は楽観的に処理しようと努めているみたいで、小さく肩をすくめた。
「長引きそうですか」
「長引くとしても……私を見てどう思うかしら? 昔のこと、聞いたでしょう? だったら叶多ちゃんの質問、いまの私が答えになってると思わない?」
 詩乃の云うとおりだろう。叶多はほっと胸を撫で下ろした。よかった、と漏らすと詩乃がうなずく。
「さっきは居心地悪くさせてしまってごめんなさいね。気にしないで。あの人、しばらくしたらのほほんとしたふりして私の周りウロウロしだすのよ。口下手なのはともかく、肝心なところで引っ込み思案になるって、大の大人がまったく呆れちゃうわね」
 引っ込み思案と隼斗という組み合わせが結びつかなさすぎて、叶多は小さく吹いた。詩乃も微笑みを浮かべる。
「叶多ちゃん、今度のことで唯一よかったって思えるのは、叶多ちゃんが被害者じゃなかったってこと。それくらい家族だって思ってること、忘れないでちょうだい」
 もしかしたら那桜じゃなく、自分がそうなるべきだったのかもしれない。そんなモヤモヤした気持ちを詩乃は気づいていたかのようだ。いつもに戻った強制的な口調は、いまばかりは救いで、そしてうれしくなる押しつけがましさで、叶多のドキドキをなくしてくれた。
「はい」
 詩乃はまたうなずくと、お風呂に入るわ、と廊下の奥の寝室へと歩いていった。

 ダイニングへ戻ると、リビングのソファに座り、何事もなかったように“のほほん”と新聞を読んでいる隼斗がいた。
 そのままダイニングテーブルにいた戒斗に目を向けると眉が跳ねあがり、物云いたげな瞳に見返された。叶多はちょっとだけ首をすくめて見せ、キッチンカウンターに行ってコーヒーサーバーを取った。隼斗のところへと向かう。
「おじさん、コーヒーのおかわり、どうですか?」
「ああ」
 さすがに漫画みたいに新聞が逆さまになってはいないけれど、目を通しているだけという、どことなく気も(そぞ)ろといった印象を受ける。
「おばさん、さきにお風呂に入るそうですよ」
「ああ」
 いつもと変わりない返事は不器用さの裏返しのようで、さっきのことは叶多の手前、決まり悪いはずだと思うと笑うのを堪えなければならなかった。
 三〇分後、頃合いを見計らったんだろう、隼斗はリビングを出ていった。それまで戒斗と他愛ない話をしていた叶多はお喋りをやめて、堪らずくすっと笑う。
「なんだ?」
「んーっと……怖いって思ってたのが嘘みたいって感じ」
 戒斗は顔をしかめた。
「なんだそれ」
「そのまんま」

 有吏の身に、那桜の身に起きたことは、歓迎することでは毛頭ないけれど、その厳しい現実を除外して、九年まえのことがこういう時間を育んできたのだから、やっぱり里佳には最大の感謝を捧げよう。呆れたように首をひねる戒斗を横目に、叶多は里佳を思い浮かべて合掌した。
 隼斗がいなくなったことを幸いに、戒斗に夫婦喧嘩について訊いてみたら、目にしたのははじめてでいちおう驚いたらしい。反面、普通だろ、と気にもしていない。
 夫婦喧嘩は犬も食わないというけれど、つまり叶多も口出すなということだ。
 それから夕食時間の七時まで、隼斗と詩乃は自分たちの部屋にこもったままで、出てきたときは、ほらね、と云わんばかりに詩乃が惚けた様子で目配せしてきた。
 有吏本家を牛耳るのはやっぱり詩乃だ、と叶多は思うのだった。

 * * * *

 次の日、叶多の希望はそう時間を置かずして叶えられた。
 千重家に連れていってくれるまで何日かかかると思っていたから、朝起きてまもなく、昼から行くと告げられたときはちょっと驚いた。
 昼食のあと、一時になって戒斗のバイクで千重家に向かった。和久井が来るかと思っていたけれど、毬亜の友だちとして訪ねるならふたりだけのほうが自然だろうと思い直す。
 向かう間も用心のためか、戒斗はグニャグニャとやたらに道を折れていた気がする。
 やがて到着した家は、有吏家のように高い塀に囲まれていた。門の前のスペースに入ると、インターホンを鳴らすまでもなく門扉が開いていく。前方が確認できないうちに戒斗は中へとバイクを進めて、一メートルくらいの落差がある長いスロープの近くに止めた。
 叶多はバイクを降りてヘルメットを戒斗に渡し、それからちょっとした高台を見上げた。そこには洋風寄りのモダンな家がそびえ立っている。さすがに有力者らしく家というよりは邸宅といった感じだ。

「お疲れさまでした。タツオの報告では尾行はなかったようです」
 聞き慣れた声がして、叶多はパッと顔を向けた。
「和久井さん!」
「こんにちは、叶多さん」
 和久井はにこやかに答えた。
「チェックしたかぎりじゃ、おれもなかったと思う」
「ですが、このところ千重家周辺はまさに五月蝿(うるさ)くなっています。むしろ、帰りを警戒すべきでしょう」
「どういうことだ?」
「蘇我家はすでに千重家をターゲットにしているということです。今回の一族狩りは“千重家”への警告だったのではないかと。和瀬の大口が犠牲になったわけですが、千重家だけ難を逃れています」
 驚く、ということにはいつまでたっても慣れないものだと、叶多は調子外れなことを思った。戒斗は何かを考えこむようにしていて、わかった、と答えるまでに少し時間がかかった。
「では行きましょう」
 和久井の案内でスロープへと脇から伸びた階段を上った。向こう端の塀までとスロープは幅広い。
 玄関に立ち、和久井はベルを押すと、勝手知ったるふうで返事を待たずして玄関のドアを開ける。

「いらっしゃい、叶多さん、戒斗さん」
 出てきたのは毬亜だった。和久井が脇に避け、毬亜と対面した。
「毬亜さん! お邪魔します」
「叶多さん、ここでは“アオイ”ね」
 毬亜は茶目っ気たっぷりで忠告した。
「あ、そうだよね」
「アオイ、その人か?」
 叶多の返事に重なって、毬亜の背後から比較的若い声がした。
 覗くように首をかしげると背が高そうな男の人が見えた。近づいてきて毬亜の傍に立つと、やっぱり彼女よりは頭一つ優に高い。年は戒斗と同年代のようだ。淡々と整っている顔立ちとその目が表すとおり、全体的に冷めた印象を受ける。
「そう。叶多さん、これはあたしの兄。史伸(しのぶ)、お友だちの叶多さんと、そのカレシの戒斗さん。戒斗さんて誰だかわかる?」
 毬亜がからかうように訊ねると、史伸は尊大に肩をそびやかしつつも戒斗に向かって手を差しだした。
「わかるよ。千重史伸です」
「有吏戒斗です。厚かましく付き添ってきました。お邪魔します」
「どうぞ上がってください」
 戒斗に続いて叶多、そして和久井がその後ろをついて来て、リビングへと案内された。
「応接室じゃ堅苦しいし、こっちでいいよね」
「うん、全然大丈夫」
「お茶入れるから、そっちで待ってて」
 入り口で左に曲がった毬亜は叶多たちに反対側を示して、自分はキッチンに入っていった。

 戒斗の影になってわからなかったけれど、ソファに近づくと、別の誰かがいるんだろう、「こんにちは、お邪魔させてもらいました」と戒斗がまた挨拶を発した。
「こんにちは、お邪魔します」
 叶多も戒斗の横に出て、相手を確認するまもなく一礼をした。
 顔を上げてみて、はじめて二人いたとわかった。
 写真と変わらず年の功といった迫力満点の顔と、苦労したといわんばかりの苦渋に満ちた顔。一人はおじいちゃんで、一人はお父さんだ。判断するまでもなく、交わされた自己紹介がそれを裏づけた。
 対面してソファに座ったものの、それはとても、友だちの家に遊びに来た、という雰囲気ではなかった。

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