Sugarcoat-シュガーコート- #151

第15話 All's fair in love and war. -14-


 翌朝、いきなり躰をひっくり返されて体内にある異物感に気づき、寝ぼけている暇もなくパッと目覚めた。
 異物じゃなく戒斗の一部だとわかった直後にそれが躰の奥から退去し始めて、引きずられるような感覚に体内がざわめく。戒斗がゆっくり抜けだす間にイキそうになったことはバレバレで、ふたりの躰が離れてしまうとニヤついた顔に見下ろされた。
 戒斗のほうが反応を露骨に曝しているくせに、叶多のほうが恥ずかしいとはどういうことだろう。
 これがアパートだったら襲われるところだが、有吏の実家であり、あまり悠長にしていられる状況でもなく、とりあえずは免れた。
 朝ごはんを用意してその食後は、深刻な現実があるにも拘らず、戒斗は呆気ないほど普通にバンドの仕事に出かけた。隼斗は戒斗より早く会社へと出勤している。
 何かに付けてうんざりするくらいふたりから、特に戒斗から、外出禁止という言葉を繰り返された。
 何もできなくて、せめて心配という負担にはならないようにしようと心掛けるものの、いざ独りになると暇で仕方ない。
 とはいえ、やることはある。

 戒斗を送りだすと、まずはタツオに電話を入れた。
 昨夜、陽から電話のあとにメールがあって、“蒼井毬亜”についての手掛かりを少しでも得たいという。それもそうだ。陽は顔と名だけしか知らないし、叶多に至ってもそれ以上に教えられることはない。
 タツオは、叶多と毬亜が出会った日まで本名さえ知らなかったというから、もしかしたら何も得られないかもしれない。けれど、この場合、当てにできるのはタツオだけだ。多大な期待は控えつつ、連絡を取ってみた。
 が、それ以前にすんなりとはいかなかった。分家の長には非常事態を通達すると同時に箝口令(かんこうれい)も敷かれている。タツオも今回の深刻さは知っているし、何より叶多という立場の護衛につく以上、もっと厳しい位置にいるからだ。

『戒斗の次に、あたしを助けてくれるのはタツオさんだって思ってたのに。あたし、タツオさんを頼っちゃだめなのかな』
 という叶多の泣き落としにとことん困り果てるタツオだったが、
『知らないほうがいいなんて詭弁(きべん)だよ。だって毬亜さんのこと好きだから“知らない”じゃ納得できない。知っておきたいってだけなのに、あたしってそんなに信用されてないのかな。有吏は高貴な一族でしょ? あたしってのん気だし、バカだし、本家にはきっと相応しくないんだね』
と、陰気な声で独り言みたいに云うと、そんなことないですよ、と慌てたタツオのフォローが飛んできた。
『知ったからって何ができるってわけでもなくて何かが変わるわけでもないの。それはわかってる。タツオさんとあたしって、戒斗と和久井さんみたいな、阿吽(あうん)の関係になれたかなって思ってた。でも、ホントはあたしからの一方通行で、もしかしたら信用っていうまえに嫌われてるのかな』
 もう一押しと思って云ったことはますますタツオを慌てさせ、『とんでもないですよ!』の次に『わかりました』を引きだした。
 タツオには悪いことをした。タツオには迷惑をかけないことを誓いつつ、数少ない情報を手に入れた。

 “あおい”という名で風俗店に勤めていたこと。連合体組織の傘下にある一暴力団体に囲われていたこと。その組織内の対立抗争があったとき、仲裁に入った和久井組によって、つまり和久井によって救いだされたこと。毬亜がそんな世界に踏み入れるきっかけが親の借金にあったらしいこと。
 聞いてしまってから、叶多はごく私的なことに立ち入ってしまったと気づいて後悔を覚えた。けれど、けっして無関係じゃない。知るべきだと自分に云い聞かせた。

 陽と連絡を取って伝えると、電話が空くのを待っていたかのように、今度は呼びだす側ではなく受ける側に替わった。
 八掟の両親からはもちろん、頼、維哲、美咲、そして深智と矢継ぎ早にかかってきた。深智に至っては、やはり瀬尾のマンションに閉じこめられているという。
 那桜の見舞いにも行けないと不満そうに云ったけれど、叶多と一緒で、迷惑をかけられないという気持ちからあきらめて受け入れているみたいだ。それに、深智は過去に二回も拉致犯罪に遭遇しているわけで、外出したくない気持ちのほうが強いんじゃないかと思う。叶多だって怖いという気持ちはある。
 和久井が云っていたことを思いだしながら、もしかしたら自分が、ということを深智が知っているのか疑問に思ったものの、さすがにそれは訊けなかった。自分のかわりに、と考えたら深智もまた傷つく。
 そこまで考えて、ふと何かが引っかかった。なんだろう。しばらく考えても何かは出てこなくて、叶多はいったんあきらめた。

 その後、昨日の事件と、詩乃がいないということ、戒斗がほぼ一時間ごとに電話してくること以外、通常とは何事も変化なく一日が終わった。



 孔明は眉間にしわを寄せ、貴仁を睨みつけるように目を細めた。
 どうもおかしい。
 どこが何が、と問い詰められても答えられないほどの微妙な空気感の違い。
 今日一日、仕事の間、絶えずあった。その理由がいま貴仁から聞かされたことで符合した。
 蘇我邸の二階にあるブラウンを基調にした孔明の部屋は、濃淡がうまく組み合わされていて落ち着いた雰囲気だ。夜になって閉めきったカーテンは、オレンジ寄りの色で暖かさを感じる。それがいま、茶系の中にただ一色紛れこむ、緩やかに波打ったベッドカバーのブルーが鮮明に映り、ひんやりとした風を感じた。
 今日だけのことじゃない。最近こそ感じることはなくなったが、仕事を始めた当初はどこか歓迎されていないという印象を受けていた。
 ただ一人の新人であり、卒業まえから、つまり大学に在籍しながらという異例だからだろう。正式採用というわけでもない。そのうえ、それぞれ会社の大事を扱う仕事だけに神経質にならざるを得ないからこそ。そう解釈していた。

「それでどうなんだ。那桜さんは大丈夫なのか?」
「有吏コンサルのトップが出社して普通に営業やってるんなら、命にかかわることじゃないということまでは確かだ。有吏一族の分家が経営してる病院だ。入院していることまではわかってもそれ以上の情報は閉ざされている」
 そう聞いただけでもなぐさめにはなった。
 孔明は短く息を吐き、ふとそんなふうに安堵する自分を不可解に思った。
 戦中戦後、そして現在へと貴仁から明かされた経緯は(にわ)かには受け入れがたいことだ。自分ほど微妙な位置にいる者はいないのではないか。
「孔明、もう迷っている暇も選んでいる暇もない。そもそも、そういうことは無用だ。祖父の血、それがおまえのすべてだ」
 貴仁はいきなりで膨大な立場を押しつけたうえ、これで終わりだと話を打ちきるべくソファから立ちあがり、孔明が思量する時間も奪った。
 階下ではまた一部の一族を集めた会合が行われている。このところ頻繁だ。貴仁に聞かされるまでもなく、それが悪巧みであることを疑うことはない。
 貴仁は誰にも邪魔されないようにとその時間を狙ってきたらしい。長居すれば鉢合わせする可能性もある。貴仁の気質からすれば何も疑われることはないだろうに、それでも用心をするところは貴仁の強かさだ。

 邸宅から出て駐車場まで貴仁に付き合った。車のドアが開いたと同時に孔明は、貴仁、と呼びとめた。ゆっくりとうつむきかげんだったその顔が上向き、孔明と目が合う。
 その瞬間に思うのは、似ている、ということ。
 蘇我本家に生まれたところで利に感じたことは何もない。それでも、これが、出会いがなかったら、あるいは自分に関係ないと何もかもを一蹴したかもしれない。
 “蘇我”の名を継ぐ自分と、対極にある、自分の中に流れる血脈。
 何かあるとは察していたものの、事実は突拍子もなくいきなりに違いない。それでも、自分のルーツを受け入れている。優先順位をつけるまでもなく、気持ちはすでにそこにあるのだ。
 母の“教育”は心底に根付いている。

「おれはおれの役目をやる」
 自分もまた、似ている、のだろうか。
 貴仁はにやりと笑う。
「それでこそ、おれたちは“一族の一員”だ。蘇我だからといって、真の一族に恥じ入ることはない」
 薄らと笑って応じた。そのとき、ふと影を感じる。同時に、貴仁が耳を澄ますように身構えるのがわかった。
「あら、貴坊。何してるの?」
 現れたのは玲美だった。
「ああ、玲姉さん。孔明が作っていた母の日のプレゼントを持ってきてやったんだ。仕事で忙しそうだからさ」
 貴仁はそつなく返事をした。対して玲美は、
「ふーん、なるほどね」
と、言葉どおりに納得しているのかいないのか、どうでもいいといった相づちを打った。それから顔を貴仁にぐっと近づけた。
「そのプレゼントってあそこで作ったガラスよね。出入り禁止かもって云ってたわりにずうずうしく通ってるってことは、貴仁、よっぽどあの子にご執心なわけだ。そこまで健気(けなげ)だとはね」
「おれの勝手だろ。玲姉さんはここで何してるのさ」
「パパを迎えにきたのよ。美鈴ちゃんとこ寄ってたんだけど、煙草吸いたくなって出てきたってわけ。でも」
 玲美は不自然に途切れさせ、思わせぶりに、ふふ、と笑みを浮かべて大げさに首をかしげた。
「“でも”なんだよ」
「そうねぇ……ついでに、蘇我のおじさまにお願い事してっちゃおうかな」
「なんだ?」
 孔明の問いに玲美が振り仰ぐと、その動きに伴って強烈なパーヒュームが撒き散らされる。暗がりで身形(みなり)がよく見えないぶん、パーヒュームが派手さを補っていて、孔明は強烈な臭いに顔をしかめた。
 玲美は質問に答えず、また短く笑い声を漏らした。
「ヒ・ミ・ツ。じゃあね」
 それはニヤついた声に聞こえた。玲美は邸宅へと歩いていく。その背中を目で追っていた孔明と貴仁は顔を見合わせた。
「聞かれたか?」
「だとしても失言はしてない。ただ、気をつけろよ。玲姉さんは煙草を吸わないまま戻った」



 五月三日。世の中はゴールデンウィークの山場であり、一般と同じく有吏の会社も休みに入り、戒斗もその関係で仕事としてのバンド活動は休日だ。それなのにどこにも出かける予定がない。
 戒斗は朝から隼斗と拓斗と一緒に書斎にこもった。
 今日は拓斗が病院に戻り次第、詩乃も帰ってくる。
 掃除を一通り終えて、コーヒーでも淹れようかと思ったとき、携帯電話の呼びだし音が鳴った。
「渡来くん、おはよ!」
『おまえのそのノー天気さ、唯一の尊敬すべきとこだな』
「ありがと」
『もとい、ただのバカだ』
「頑張ってるだけだよ」
 むっとして云い返すと、ため息なのか笑っているのか息を漏らした音が聞こえる。
『蒼井毬亜の件、わかったことだけ教えておく』
「もう?」
『こういうのは金が物云うって世界だ』
「お金って……」
『おれが気になるって云っただろ。そこはおまえが気にすることじゃない。んで、本題だ』

 それから陽に報告されたのは、タツオから聞いていたことに加えて、両親が行方不明であり、毬亜が天涯孤独であるということ。おまけで千重家の、陽に云わせれば『不幸続き』のその後もはっきりわかった。
 脳みそが伸びきっている、とか自分で云っていたとおり、毬亜は中学さえ半分くらいしか行っていない。
 そんな普通が欠けた生き様の果てに、千重アオイとして、有吏家の身代わりとして、毬亜は自分を危険の中に曝すんだろうか。
 理不尽。毬亜に降りかかったことはすべてがその言葉に尽きる気がした。
 それでも、それでいいと納得するのは和久井への想いがあるから?
 その和久井は、守ることも含めて千重家に対して一切の責任を負うと云う。断固とした宣言を思うと、和久井の中にもなんらかの強い意思があってもおかしくない。
 そういう犠牲の下にあるのは、一族のために、本家のためにという(かせ)。枷というには少しずれているのかもしれないけれど、そんな志操があることは否めない。

 なんだかおかしい。
 守りたい気持ちを否定するわけじゃないけど、身代わりなんて。
 那桜ちゃんだってもしかしたら深智ちゃんのかわりで……苦しいくらい悲しむ、という人が変わっただけ。
 え……待って……身代わり……って。

 玲美、瀬尾、深智。けっして無縁じゃないキーワードだ。それに、和瀬の顧客といえば叶多も当てはまる。
 助けてあげるわ。玲美はわざわざ瀬尾を訪ね、そう云ったという。あの事件以来の訪問らしい。ということは、たか工房に“わざわざ”やって来たということにも意味があるのかもしれない。もしかしたら、叶多もなんらかのせいで“助けられた”という可能性はある。
 昨日、引っかかっていた“何か”が判明した。
 あるいは――と、一昨日、和久井が途切れさせたその言葉のあとに続くのは“叶多”という名前ではなかったか。
 時間が止まったように感じた。正確には、止まったのは叶多の思考力だ。


 午後になって部屋にこもっていると、戒斗がやって来た。
「どうした?」
 ベッドに腰かけた叶多の目の前まで来たあと、何気ない声が話しかける。努めて笑ってみた。戒斗はかすかに首をひねり、その場に腰を落とした。見上げていた叶多は見下ろす側に変わる。
「それで?」
「千重家のこと、決まった?」
「いや、まだだ」
「戒斗……」
 云い淀むと、戒斗の手が叶多の長い髪の裾のほうををつかんで軽く引っ張る。元気出せ、そう云うかわりによくやる戒斗のしぐさだ。
「叶多が気負うことない。いろんなことをおれは叶多に教えすぎたんだな? 負担かけるつもりじゃなかった」
「そんなことない!」
「叶多」
「それはホントにホント。知らなかったってほうが嫌だよ。そうじゃなくて……」
 叶多が云い淀んでも、今度は手助けせずに戒斗は待っている。

 戒斗は叶多が何か(つまず)くことがあっても、自分で解決できるように運んでくれる。もしくは解決できるまで待っていてくれる。そうじゃなければ、また同じところに戻ってしまうから。
 いまは躓いたわけじゃないけれど、ここで気掛かりを無視したら、手遅れになるくらい大きな問題になって返ってきそうな予感がする。

「戒斗、千重家に連れてって。毬亜さんの友だちとして訪ねたら全然おかしいことじゃないよね。身代わりにするかどうか、あたしが口出すことじゃない。わかってる。ただ会ってみたいって思うの」
 しばらく戒斗は真意を探るように叶多を凝視していた。
「……戒斗?」
「わかった。和久井に連絡する」
 堪りかねて返事を催促すると、戒斗は意外にもあっさり了承して、それから息を吐きながら首をひねった。それがどういう意味なのか、戒斗は可笑しそうにして、今度は叶多も努めることなくほっと笑った。

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