Sugarcoat-シュガーコート- #150

第15話 All's fair in love and war. -13-


「千重家? あの毎読の千重家か?」
 隼斗がかすかに眉をひそめて問い質した。
「そうです」
 怪訝そうにしたのは隼斗だけでなく戒斗もそうだ。和久井が肯定したあと、戒斗はいろんなことを咬み合わせているようで、次に口を開くまでにちょっとした間が空いた。
 叶多にしろ、毬亜とタツオの会話を思いだしながらやっと合点がいった。
『あたしは有吏を守るためにあるの』――毬亜が云った“もしもの計画”とは有吏本家の身代わりとなることだったのだ。

「なぜ千重家だ」
「千重旺介の長男は二十六年まえの犠牲者の一人です。暴行を受けたすえ、内臓損傷で命を落としました。当時、犯人は挙がらず――当然、千重家にとっては理由なき襲撃であり、それが“蘇我”であるゆえに一切の証拠は消されたわけですから検挙されるはずもありません。千重家に残された手がかりは、“一族狩り”という長男の最後の言葉だけでした」
「一族狩り?」
「はい」
 和久井が短く応じるのを聞きながら、“一族狩り”という言葉にも、亡くなった人がいるという事実にも叶多はぞっと身震いした。
(あぶ)りだしだ。動けば曝されることになる」
 隼斗が云い添えた。
「そういうことがありながら、約定という手段しかなかったのか」
 戒斗の声音は険しく、答えを誰かに委ねるよりは自らに問うようだ。
 それを受けて惟臣がわずかに身を乗りだす。
「総領、次位、理解していただきたい。首領が内密にされたことも約定も、すべては一族のためです」
「惟臣、それ以上はいい」
 隼斗は制止させようとしたが、惟臣は首を横に振って抵抗を示す。

「いえ、那桜さんに同じことが起きた以上、首領が当時なされた判断を知るべきです。夫人が――本家が、犠牲になったということが分家に伝われば干戈(かんか)を動かすことにもなりかねない。もちろん、本家の指針に反する者などいません。ですが、仇討(あだう)ち心を抑制するということは身を切られるような思いです。我が衛守家はこの二十六年、まさにその辛酸を()めてきました。何よりも、業報(ごうほう)を切望されたのは、いえ、いまでも抱持されているのは首領であり、それを凌ぐことがどれほど苦辛だったかということをお察しください。それを自ら知ってこそ、内密にされたんです」

 惟臣の諫言はけっして抵抗じゃなかった。隼斗への忠誠が言葉の、声の、端々に見えた。
 重い沈黙が蔓延(はびこ)る。隼斗の心情を同レベルで抱いているに違いない拓斗は、その表情をまったく無にして口さえも閉ざしている。
 拓斗にまして、本題に入って以来、口をまったく開かないのは和惟だ。普段が流暢(りゅうちょう)なだけに、それは至極(いびつ)なことに見えた。

「和久井、続けろ」
 戒斗は反論することもなければ触れもせずにさきを促した。
「はい。千重家は長男の死以来、ずっと事件を追っていました。私がそれを知ったのは三年ほどまえ。旺介の次男、伶介は蘇我という一族の存在を突き止め、我々を窓口とした別の一族の存在をも知ったわけです。伶介は蘇我から出た代議士に付き、裏で真相を探っていました」
「それであの銃撃事件か」
「はい。何度も手を引くよう忠告しました。ですが……」
「報復を(こいねが)うのは皆かわらない」
 和久井が語尾を濁すと、惟臣がつぶやくように口添えした。
「そのとおりです。私は止める一方で、あることに着意し、模索を始めました」
「それが身代わりだと? それで千重家になんの利点がある? ますます危険に身を曝すだけだ」

「毎読は世界に誇る報道機関です。そのトップにさえ知らされないまま、中途で握りつぶされてきた容易ならない非情な事態がいくつもある。二十六年まえのことも銃撃事件のこともそうです。そうしているのは蘇我であり、毎読から蘇我を排除できればそういった不正は矯正され、すべては明るみに出せる。つまり、蘇我が持つ権力への抑止力にもなる。何よりあらゆる糾弾が可能になるということです。千重家にとって“危険”というのは、もはや意味がありません。報復ならずとも、蘇我の失墜(しっつい)を望んでいます。我々一族がバックにいるかぎり、千重家が保証されることも確かです」

 もう何度目だろう。またもや、彼らは各々の思考に(ふけ)り、息遣いさえ目立ちそうな沈黙が満ちた。
 叶多が固唾を呑んで見守っていると、
「一考の余地はある」
と、やがて隼斗が内談の終了を告げた。
 直後、終わるのを待ちかね、打ち合わせていたかのように、同時に拓斗と和惟が立ちあがった。
「病院に戻る」
 拓斗の言葉に叶多はハッと思い当たった。部屋の隅に置いていた紙袋を二つ取ると、すでに廊下に出たふたりを追いかけた。
「拓斗さん、おばさんからの頼まれものです。着替えの服とか入ってますから」
「ああ、預かるよ」
 拓斗よりさきに和惟が答え、叶多の手から紙袋を受け取った。

「拓斗さん、那桜ちゃんは大丈夫ですか? 戒斗は大丈夫って云うけど、顔見ないと安心できなくて……」
「大丈夫だ。長引かないうちにここに戻ってくる。叶多はそれまで戒斗の云うとおりにしておくことだ。戒斗までもが同じ思いをすることはない」
 いいな、と説得するように拓斗が首をひねると、叶多は重々しくうなずいた。淡々と聞こえても、そこには“二度と――”という、やりきれない無念さが見えた。
「はい。拓斗さんも背中、ほんとに大丈夫ですか」
「おれのことは心配いらない」
 靴を履きながら答え、それから顔を上げた拓斗は諭すようにうなずいた。
「“痛い”よりも“不覚だ”ってことのほうが遥かに身に沁みるんだよ」
 和惟が口を挟んだ。
「不覚?」
「そう。拓斗がいて、おれがいて、那桜が犠牲になる理由なんてどこにもなかった」
「和惟」
 止めたのか、早くしろと促したのか、拓斗が和惟の名を呼んだ。そのあと、拓斗の目がふと、叶多の背後に及ぶ。
「和久井、戒斗と叶多のことを頼む」
「御意。身を(てい)します」
 和久井が頭を下げ、軽くうなずいた拓斗は玄関の戸を開けて出ていく。
「和久井」
 続いて和惟が和久井に呼びかける。
「わかっている。死力を尽くすのみ。ただし、和惟、徒死(むだじに)に陥るのは愚者(ぐしゃ)だ。ここに来て、おれたちは本家を活かしてこそ真価が在る」
「徒死? 冗談だろ。そうなるくらいなら、蘇我の頭領と正面から刺し違えてやろう」
 和惟は口を歪めて和久井に応じた。
 リビングでは一言も発しなかった和惟は果たして何を考えているんだろう。いま、正面から見上げた顔は不適な様で笑みを浮かべているが、それが横顔に変わっていく間に、いつもの魅惑的な面持ちから一切の表情が消え去った。

 気になって玄関の軒先まで出ると同時に、和久井が隣に並んだ。
「和久井さん、不覚、ってなんのことですか?」
 拓斗たちを目で追いながら、質問をぶつけた。
「いつの時も油断ということはあってはならない。そう誓ってきた有吏一族の男たちが、守るべきものを犠牲にして自分の無様さを突きつけられること以上に残酷なことはありません。今回のことに関しては、私にとってもまったくの不覚です。けりは付けなければなりません」
 和久井が云った最後の言葉は自分に向けているようで、いつになく険しく思えた。

「あたし……。和久井さん、拓斗さんはきっと那桜ちゃんを助けようとして背中からやられたんですよね。そういうの、守りたいって気持ちだし、“不覚”じゃなくてカッコいいと思う。でも……」
 車へ向かう拓斗と和惟の背中は怯むでも滅入るでもなく、毅然(きぜん)としている。
 彼らは閑静に自分を責めることしか知らない。隼斗もそうだ。
 強いということはそんなふうに人を不器用にさせて、こんなにも悲しく見せるんだろうか。
「でも?」
「……ううん、いいんです」
 それが有吏の男たちの生き方で、叶多が否定することは、あまつさえその志操(しそう)を奪うことはまったくのお門違いだ。

「叶多さん、もう中へ」
「はい」
 叶多の返事を聞いたあと、和久井は家に添い、拓斗たちとは別の方向――壁との区別がつかず出入り口ともわからないような裏口へと向かう。一族狩りがあった直後のいま、表立って有吏家への出入りはできないのだ。
「和久井さん!」
 ふと訊きそびれたことを思いだして叶多は呼び止めた。和久井は足を止めて振り向く。
「千重家って、ま……アオイさんの家ですよね?」
「……そうです」
 和久井は目を細め、少しためらったのち肯定した。
「アオイさん、有吏家の身代わりって知ってるんですね?」
「叶多さんが気に病むことではありません。千重家に関しては私が一切の責任を負います。守ることも含めて。早くお入りください」
 和久井は深々と一礼をして、叶多にそれ以上のことを云えなくさせた。一つ大きなため息を吐いて家に引き返す。
「叶多」
 玄関に入って内側から鍵を閉めると、背後から戒斗の声がかかった。振り向けば、戒斗は様子を窺うように首をひねり、叶多はちょっと笑って見せた。それに応えて戒斗の眉が少しだけ跳ねあがる。
「父さんと衛守主宰と書斎に入る」
「わかった。お風呂、さきに入ってていい?」
 戒斗が可笑しそうに叶多を見下ろした。
「いいけど、寝るなよ」
「わかってる!」


 戒斗に注意されるまでもなく、叶多にとって風呂場は寝るところじゃなく考える場所だ。
 その考えも一向に纏まらない。さっき聞かされたことに関する断片ばかりが表れて、筋道が踏めないのだ。もちろん、叶多に正しい結末が出せるくらいなら、戒斗たちはとうにそうしているはずで、書斎にこもることもないだろう。
 着替えを用意して浴室に来て、それからパジャマを着るまで優に一時間はかかったのに、リビングを覗いても部屋に戻っても戒斗はいない。まだ書斎ということだ。
 ベッドに腰かけて息を吐くと、デスクに置いた携帯電話が光っていることに気づいた。デスクに近寄って携帯電話を手に取ると、陽からの着信履歴がある。三〇分まえだ。
 怒られそうな気がする。そう思いながらボタンを押した。

『遅い』
 第一声は案の定、苛立ち満タンだ。
「ごめん。お風呂入ってた」
『ってまさか実家で戒と一緒に風呂ってわけないよな』
「な……わ、渡来くんっ、そんなことあるわけないよっ。ヘンなこと想像しなくていいから!」
『したくもねぇよ』
 慌てふためく叶多に対して、陽は素っ気ない一言で一蹴した。
 だったら云わないでよね。という文句は自分の心に収めておく。
『戒に電話しても出ないし』
「あ、いま書斎入ってる。おじさんと衛守のおじさんと三人で話してるから」
『どういうことになってる?』
 陽の問いに喋っていいのかどうか迷ったのはつかの間で、戒斗と陽の会話を思いだすと、報告してもいいんだと自分で自分を納得させた。
 叶多は覚えているかぎりのことを陽に伝え、ただし、二十六年まえのことについては、詩乃のことは伏せておいた。
 しばらく有吏の家にこもることを云うと、意外にも陽はクレームをつけることなく、だろうな、とまるで同意するみたいに片づけた。
「渡来くん、千重アオイさんのこと調べられる?」
『なんで戒に頼まないんだ? おれより早いだろ』
「いまは戒斗に余計な気を遣わせたくないんだよ。あたしが気にしてるって知ったら、たぶん心配させるから」
『……ふん。少しは成長してるらしいな。ま、おれも気になるところだったし、ちょっと時間かかるかもしれないけど調べてみる』
「ありがと。それと、渡来くん、千重アオイさんていうよりは蒼井毬亜さんかもしれない」
『それくらいわかってる。こういうことは協力してやるから、八掟、とにかくおまえはうろうろするなよ』
「だから、戒斗と同じこと云ってるよ」
『信用ゼロだな。じゃ、また電話する』
 軽く毒を吐きながらも陽は請け負ってくれて、今回は怒る気にはなれなかった。
「うん、ありがと!」


 戒斗が部屋に入ってきたのは日付が変わる寸前だった。風呂もすませていたけれど、戒斗が長風呂じゃないことを考えると、二時間は書斎にいたことになる。
 ベッドに入っていた叶多が起きあがりかけたところで、戒斗が掛布団の上に載ってきた。布団が張って手の動きさえ封じられ、真上に戒斗の顔が迫ってくる。
「戒斗」
 呼びかけると戒斗の表情が無から緩んだ。
「ああ、大丈夫だ」
「どうするの?」
「まずは蘇我グループを強請(ゆす)る」
「貴仁さんとか孔明さんは? 連絡しないの?」
「いまは無理だ」
「毬亜さんの……千重家のことは?」
「考えてる」
 戒斗の答えは『大丈夫』とは程遠く思えた。
 何かが間違っている。
 何もできなくて、頭も回らなくて役に立つことはなくて、戒斗のことは疑っていないけれど、なぜか叶多はそう感じた。
「叶多は考えなくていい」
 聞きようによっては侮辱的だ。ただ、その声が祈りのように響いて、本気では拗ねられない。
「渡来くんから電話あったよ。おばさんのこと抜きにして話したんだけどよかった?」
「ああ。着信あったし、風呂入るまえに電話した」
「拓斗さんがね、和久井さんに戒斗とあたしのこと頼むって。戒斗が同じ思いすることないって。いつも兄弟っていうよりは親友みたいにしてるけど、やっぱりお兄さんなんだなってちょっと感動したかも」
「“同じ思い”はもうしてるだろ。生きてるだけでいい。そう思うのは確かに金輪際ごめんだ」
 気に喰わないように云ったあと、戒斗のくちびるはおもしろがったように歪む。
「ベッドの上で五人も男の名前を連ねるっていい度胸だ」
「って、なんだか違うよね?!」
 叶多は大きく目を見開いて戒斗を見上げる。
 ニヤリとした戒斗は不意打ちで叶多のくちびるを襲った。身動きができないなか息苦しいほどに、まさに襲われた。寝ているのに頭がクラクラしておかしな感覚に陥る。
 思考力が鈍ってもうだめだと思ったとき、戒斗が離れた。布団が剥がされてやっと躰の拘束が解けたものの、(せわ)しい呼吸が落ち着かないうちにまた躰を跨いだ戒斗は、叶多のパジャマと下着まで剥ぎとっていく。

「戒斗っ?」
「逆らうな。抱いてやるだけだ」
 叶多の声に潜む拒否を無視して云いつつ、叶多の上で戒斗もまた裸体を曝していく。戒斗の手が下半身にかかると目を閉じた。
 忍び笑いが聞こえたと思った次には胸の先が暖かい湿地帯に招かれた。どっちの手だろう。指先は脚の間を掻き分けてくる。
 戒斗の言葉どおり、いつかのように裸で抱きしめられるだけだと受け取っていただけに、叶多は虚を衝かれた。今日はとてもそんな気になれない。そう思っていたのに、躰は戒斗に応える。浅はかだ。
「やだっ」
「わかってる」
 そう云いながらも戒斗は叶多の脚を開いた。止める間もなく、いつになく加減することもなく、戒斗は一気に躰を沈めてきた。いくら反応していても充分というには当たらず、たとえ充分でも最初はきつい。呻き声は喉の奥で詰まり、叶多の背中がのけ反った。
 戒斗の躰が圧迫されるギリギリのところで上半身に伸しかかってくる。頭の下に戒斗の腕が潜って、その肩に顎が載るように抱えこまれた。それから、戒斗は動くことなく叶多の躰から強張りが解けるまでそうしていた。
 躰が緩むと、戒斗が動いて躰の位置が逆転する。戒斗の上で躰を震わせながら呻いているうちに、その格好のまま叶多の背中に布団が被さる。照明が消された。

「戒斗?」
「このままでいさせてくれ」
 そうつぶやく声に応えたのは、我知らずに出た、満ち足りたような深い吐息だ。
 背中に回った戒斗の腕の重さも、額に感じる首筋の脈動も、ふくらみの下で起伏する胸の硬さも心地いい。
 浅はかじゃなくて、そうするのが、そして触れていたいのがきっと、戒斗だから、だ。
 いくら年中無休とはいえ、こんな時に、と疑った。けれどそうじゃなくて、こんなときだからこそ、傍にいられることを確かめたい。
 そんな手段がこんな形であってもいいよね。

「うん」
 説明不足で無理やりという一見すると無神経な行為でも、実は不器用というだけで戒斗らしい。そう思えて叶多は笑みを浮かべた。こっそりそうしたつもりが躰は繋がっていて、体内で戒斗に伝えてしまう。
「動くな」
 戒斗は呻くように云い渡した。
 戒斗の反応は、結局は叶多に返ってきている。
「んっ……そうする」
 叶多は喘ぎながらつぶやいた。
 しばらくは躰が連動して互いを朦朧と刺激していたけれど、やがてその(そよ)ぐような痙攣は叶多を抱きしめる戒斗の躰ごと揺りかごの役目に変わっていった。

BACKNEXTDOOR


* 文中意  干戈を動かす … 戦争を始める、志操 … 主義や考えを固く守る意志