Sugarcoat-シュガーコート- #149
第15話 All's fair in love and war. -12-
片時の安心と入れ替わりに、それまでとは別の不安が忍びこんでくる。あたりまえながら、助けだされたから終わり、というわけじゃないのだ。
戒斗に巻きつけた腕を解くと、伴って叶多を抱きしめていた腕も緩んだ。不安と引き換えに頼りなかった足はしっかりと地についたけれど、戒斗の手は支えるように叶多の肘に添わせたままだ。
「戒斗、那桜ちゃんは大丈夫なんだよね? 怪我とかしてる?」
見上げた戒斗はどこか浮かない顔つきで、その気分を払拭するように、目を閉じながらちょっとだけ首をひねった。
「誰も命に別状はない。病院に運ばれてるけど、それだけはたしかだ」
「……誰も、って……那桜ちゃんのほかにも病院行ってるってこと?」
「診てもらわなきゃいけないほど負傷してるのは、一族に限っていえば拓斗と那桜だけだ。……だから、大丈夫だ。命にどうこう係わることじゃない」
ますます不安そうにしたに違いない。戒斗は云い聞かせるように同じことを繰り返して付け加えた。
「ほんとに?」
「ああ。中に行くぞ」
戒斗が肩を抱くように手を回し、叶多の背中を押して促した。
前庭のアプローチを通って玄関へ行くと、戒斗はポケットから鍵を取りだしてシリンダー錠に差しこんだ。戸を開けて入った家の中はしんとしている。
「おばさんは……」
「病院だ」
当然だ。叶多は靴を脱ぎかけてやめる。
「あたしたちも――」
「行かなくていい」
戒斗は叶多の云いたいことを察して、即座に的を射た答えを出した。
「病院に押しかけたところで、いまはショックを受けてるから那桜には負担になる。母さんも和惟も付き添っている。誰よりも拓斗が一緒だし、それ以上に那桜の助けになることはないんだ。無理やり、大丈夫とか云わせる必要はないだろ」
戒斗の云い分はそのとおりだと叶多も思う。けれど、戒斗はそれ以上に何かを懸念しているようだ。
「戒斗?」
叶多が覗きこむと、そのくちびるが少しだけ緩んだ。
「父さんが帰ってきたらいろいろと動くことになる。しばらく外出禁止だ」
「外出禁止って……」
心配してのことだとはわかるけれど、『しばらく』がどれくらいかかるのか、これからさきの窮屈さを考えると曖昧な返事になってしまった。“たか”で戒斗が云った『しばらく』はたかに限ったことではなく、叶多をこの家に閉じこめる気らしい。
「うろちょろするなよ」
戒斗は犬扱いをした。
「酷い」
戒斗は意図して口にしたのだろう。からかった言葉に乗せられたふりをして口を尖らせると、おそらくは深刻な状況下、少しだけふたりの間が和んだ。
「伯父上、どういうことです?」
領我家に上がりこみ、貴仁は和人と対面するなり詰め寄った。
たかに軟禁されている間にあった電話は和人からだった。
叶多、陽、そして戒斗の様子を窺うなかで、最悪の事態を覚悟し、ましてや、戒斗たちがたかを出てすぐ、和人と連絡を取って大まかな事情を聞かされたというのに、貴仁はそう訊かずにはいられなかった。
和人は一言も発せず、ただ首をゆっくりと横に振った。仮面のように表情のない皮下にあるのは、悔いか憤りか。
つい昨日、ここで意見したことは徒らに終わった。
“あってはならない”ことが再び繰り返されたのだ。
“一度目”の大事を知ったのは五年まえ。蘇我本家の独裁を防ぐべく、領我家が他分家へと働きかけ始めた一年後だった。
領我家には、蘇我一族にはない独自の教育がある。その精神のもと、終生、傷を負った顔を隠していた祖父は、何があったのかを告げるだけで肝心な“誰か”ということを伏せたまま領我家――和人に職掌を命じて、七年前に他界した。
『再生は崇家に始まる。否、刷新、始まらなければならない』
暗の一族を試すだけではなく、領我家を継ぐ者たちも試されているのだろう。
真の“上”と、そして暗の一族。ともに接点は崇家にあり、留意すること一年、そこで真の上の継承者である芳沢則友と出会った。同時に領我家は始動したのだ。
その後――およそ三年まえ、則友は有吏戒斗と会うことになり、貴仁が則友を見破ったように則友もまた一目で見抜いた。
それからまもなく、則友から彼の父親によって与ったという伝承を聞かされた。
則友は自らの境遇を無体と片づけ、気脈を通じてしばらくは隠者のように振る舞っていた。変化が見られたのは、やはり出会うべくして出会ったからこそなのか。
『戒定慧をもって暗命と如実に仁愛を拓き、克己を忘れず、泰然として信真のもと忠心に尽くす』
伝承はまさに、領我家が受け継いできた教育そのものだった。
祖父の計算、もしくは曾祖父――真の曾祖父の計算か。表の上家をしがらみから救うべく、和人と同じ血とすり替え、そして蘇我本家に領我家の血を注ぎ、蘇我一族の長としてあってもおかしくはない立場に孔明は置かれている。
即ち、それらの最後の詰めは、その孔明を暗の一族と繋ぎ、孔明を伝承のもとに改まらせ、信頼を築いていく。
出会わなければならないという必然の下で、偶然は成立した。
約定という手遅れが生じるまえに阻止しなければならない。
『堂々あっぱれであれ』
真の意味を履き違えてはならない。
こちらが動くまえに、暗の一族のなかで何があったのか、約定は翻された。
残るは接触を待つ、あるいは頃合いを見計らい、こちらが動くか。
その矢先――。
一度目は申し訳が立つ。本家の独裁のもとになされたことであり、次第に距離を置きつつあった領我家に知らされることはなかった。他分家と手を組んでいくなかで得られた情報だった。
しかし、今回に至っては予兆として認識していた。にもかかわらず、二度目が起きてしまった。
誘き寄せるためだけの“一族狩り”と称された非情は、再び多くの犠牲者を出した。
嘆いても何もならない。考えるべきは次にどうするか。
そうわかっていても、無念さが喉を突いて出そうなほど込みあげる。いや、曾祖父の無念さはそれ以上だったはず。
貴仁は歯を噛みしめ、それから口を開いた。
「接触は難しくなりました。僕をも警戒しています」
「気づいていないと?」
再生の場である崇裕紀もまた、何かを察し、あるいは知っている。その崇が戒斗になんらかを打ち明けているシーンはこの目で間違いなく見た。
「いえ、ある程度の察しはついているはずですが、いやしくも領我家は所詮“蘇我”ですから」
和人は顔をしかめたまま、何かを制するように手を上げた。
「私が連絡を取ろう。随伴する分家を集結させる。最悪、分立だ。いずれにせよ、本家は独裁を貫くかぎり衰退する」
「孔明には?」
「無論、覚悟してもらおう」
「引き受けました」
“則友”を探すに付けて、はじめて見かけたときから足掛け七年。この目のまえで遙かに成長した笑顔が脳裡にちらつく。
全力を尽くすよ――。
戒斗がいるのに何をやっても心の中がわさわさしてすごし、夜の八時になってやっと隼斗が帰ってきた。
それ以来、一同がそろうまで、有吏家のリビングは異様に引き締まった空気がこもっていた。
大人三人でもゆったりと掛けられるソファには、戒斗、拓斗、隼斗と並び、その向かいに、衛守家の長である惟臣、和惟、そして和久井が座っている。
叶多がお茶を出している間、うんともすんとも発せられず、六人はそれぞれに内心で試行錯誤しているようだ。
並べ終わってもあとの指示は何もなく――お茶も出せと命令されたわけではないけれど、叶多は部屋に引っこんでいるべきか迷った。ただ、彼らが書斎でもなく応接室でもなくリビングにいること、そのことで退室する必要はないと判断した。
叶多はダイニング側に戻ると食卓の椅子を引き、リビングを向いて座った。自分の湯呑みを両手で包むように持った。
「まずは実情を報告します」
叶多が座ったのを合図にしたかのように和久井が口を開いた。
「和瀬ガードシステムの顧客が十二名、犠牲になりました」
湯呑みに口をつけたとたんのその報告に、叶多の動きが止まった。
昼間の戒斗の言葉が甦る。『一族に限っては』とそう聞かされた。限らなければ、ほかにもいたということになるのに、叶多はないがしろにしてしまっていた。
「そこに、顧客じゃない那桜がなぜ犠牲になる?」
「我立玲美が瀬尾を訪ねてきたことはご存じのはずです。云い様から、もともとの標的は矢取家の深智さんではなかったかと。和瀬の顧客ですし。あるいは――」
「和久井」
理由を訊ねた戒斗自身によって和久井は発言をさえぎられた。和久井は即座になんらかを悟ったようにうなずく。
「失礼しました。とにかく我立玲美の思惑によって標的は変えられ、巡ったと推測します」
推測と云いながらもそれは限りなく断定で、再び誰もが沈黙した。その間に、深智の名前に驚いていた叶多は、巡ったさきが“那桜”というところまでやっと追いついた。
那桜はしばらく入院することになった。いまは衛守惟均とともに詩乃が付き添っていて、拓斗によれば眠っているという。戒斗が云ったとおり、命に係わるようなことはなく、深智のときと同様に療養ということだ。
拓斗は拓斗で傷を負っている。帰ってきたときはジャケットを着ていてわからなかったけれど、着替えたあとにゴミだと云われて預かった袋の中には、気分が悪くなるほど血塗れになって切り裂かれたシャツが入っていた。背中をやられたんだという。何針もの縫合手術をしたというからかなり深い傷のはずなのに、拓斗は痛みを見せることもない。
その拓斗が口を開く。
「蘇我は不要だ」
「無論だ。共存共栄に値しない」
戒斗が眉一つ動かさず、無下に口添えした。
「なぜです?」
隼斗を向いた拓斗の口からは、とうとつに疑問だけが発せられた。
「なぜ、父さんは蘇我との約定に踏みきったんですか?」
「案は先代から出ていた」
疑問を投げられた隼斗は淡々と答えた。その語尾に被せるように戒斗が口を出す。
「ただし、父さんは反対していた。おれはそう認識している。翼下を守る。それはわかる。けど蘇我は、少なくとも蘇我本家は対話で収まる相手じゃない。むしろ、約定が成立した時点で有吏を無き者にする。それが向こうの目的じゃないのか。それなのになぜだ?」
「総領次位、首領には――」
「二度目だ」
惟臣を阻み、隼斗が短く唸るように云い放った。
「なんのことだ」
「今回と似たようなことが二十六年まえの夏にあった」
「……どういうことだ」
戒斗が反応するまでに一瞬の間を要したことは、叶多と一緒で、戒斗もまた驚いていることを知らせる。拓斗もめずらしく険しい表情を顕わにしている。
驚いていないのは衛守家のふたりと和久井であることに気づき、それは日頃からするとまるで反対の反応に思えた。
「被害者は詩乃だ」
叶多は息を呑み、同時に誰もが凍りついたような表情ばかりになって、リビングはこれまでになく酸素が沈殿したような重々しさに淀んだ。
「当時は華族を含め、多くの有力者が標的になった」
「だから……なのか?」
「迂闊だった」
隼斗の一言にはいったいどれだけの感情が集約されているのだろう。叶多はそんなことを思った。
私のせいなの――詩乃が云ったことを思いだす。
傷ついた詩乃と隼斗の間になんらかの葛藤があったとしても当然に違いなく。
約定は、二度と一族から“詩乃”を出さないための契約だったのだ。
自分の子供たちを犠牲にしてまでも? それでも、叶多が――深智も那桜も、そして詩乃も、味わったような恐怖に曝されるよりはましだから?
疑うことはなかったのに。詩乃はそうも云った。
たぶん、隼斗もまた傷ついていた。詩乃がそうであるより、もっと傷ついていたのかもしれない。
戒斗が祐真を失くしたときのように。捌け口に叶多を傷つけ、それでまた苦しんだように。
だって、隼斗が詩乃を大事にしていることは丸見えだから。
「知っていたのか?」
長引いた沈黙のあと、戒斗の疑問をぶつけられたのは和久井だ。
「四年まえに」
和久井が答えると戒斗は険しく眉をひそめた。
「なぜおれに云わない?」
「私が知っているのは“あった”ということだけで、犠牲になったのが首領夫人だと知ったのはたったいまです。本家自身が――首領が内密にしている以上、貴方が知らないということになんらかの意味があると考えました」
「もし……」
戒斗らしくない“if”――それから続く言葉は途切れた。
「知っていながら先手を打てず、初動が遅れたのは我々の責任です。約定が破棄された時点で上程すべきでした」
「何がある?」
「身代わりを」
「身代わり?」
「はい。有吏本家の代わりに、暗の一族として表に出る一家を活かします」
「どういうことだ?」
「蘇我が約定の第一目的としているのは暗の一族の正体を知ることです」
戒斗と和久井の会話は想像もしなかった方向へと進んでいく。それとも、考えもつかないというのは叶多だけなのか。
「だろうな。けど、誰がそんな危険なことを引き受ける」
「千重家です」
え?
一瞬の思考停止のあと、叶多は和久井の淡々とした答えにハッと目を見開いた。