Sugarcoat-シュガーコート- #148
第15話 All's fair in love and war. -11-
大きく開いた目に映っているものはたぶん脳内までに伝わっていない。そのかわりに、いろんな過去のシーンがばらばらにコマ送りされる。戒斗の報告は、事態の深刻さとは不釣り合いに、あまりに端的であまりに淡々としていて、意味を把握するまでに時間を要した。
「戒斗……消えたって……」
「あとで説明する。渡来とかわってくれ」
「う、うん。ちょっと待って」
戒斗は陽が当然いるものとして叶多に命じた。
どうして陽がたかにいることを知っているのか、疑問に思うどころか脳信号は遮断されていて、叶多は素直に命令に沿って陽に携帯電話を差しだした。
陽は異常を察したように顔をしかめていて、いつもなら飛びだすに違いない皮肉もなく、叶多から携帯電話を受け取った。
「なんだよ」
ぶっきらぼうな第一声のあと、戒斗が何を話しているのか、無言でいる陽は見る見るうちに険しく眉をひそめてしまう。
「……わかった。事故んなよ。何がなんでも死守してやる」
陽は毒づきそうな様子で云いきり、叶多に携帯電話を戻した。いきなりで、慌てて耳に当てた。
「戒斗」
「叶多、おまえが拉致されたとき、あのとき、どうなった?」
「戒斗が来たよ?」
「那桜も同じだ。追ってる。叶多、いま、そこで、叶多が信用していいのは渡来と崇さんだけだ。いいな?」
戒斗は説き伏せるように言葉を区切って云う。そして、則友と貴仁を排除したこと。それが事の重大さ、つまり蘇我が関連していることをしっかりと叶多に教えた。
「わかった。戒斗、気をつけてね。あたしは大丈夫だから! 渡来くん、いるし!」
「最後は余計だ。じゃあな」
呆れたのか笑ったのか、戒斗の漏らした息が電話越しに聞こえて、ふっと和んだ印象を受けた。付け加えた甲斐があった。伴って叶多自身の緊張もわずかだが解けた。
「うん」
「待ってろ」
電話はプツンと途切れた。
いつになく『じゃあな』の次に続いた戒斗の言葉は、“待つ”のは果たしてどっちなのか、叶多にそんな疑問を抱かせた。
「わんこ、どうした?」
「叶っちゃん、なんだって?」
「叶ちゃん、どうかした?」
電話している間、見守るようにしていた三人は、崇に続き、則友、そして貴仁という順で重ねるように質問を口にした。
叶多は、見つめていた携帯電話から顔を上げ、貴仁のほうへと横を向いた。すると目の前にいた陽が、ほんの少し叶多を隠すように右肩を張りだしながら貴仁に向かった。
そのしぐさにすかさず気づき、意味を量るように貴仁は首をかすかに動かした。
「あー、えっと――」
「戒がいまからこいつを迎えにくるんだってさ」
叶多をさえぎり、陽はつっけんどんに答えた。
則友が陽から叶多へ、それから陽へと視線を戻した。おもしろがっているようだが、どこか曖昧な表情だ。
「急だね」
「盛りがついてるからな」
「わ、渡来くんっ」
「春だし?」
「年中無休だろ」
どうして知っているんだろう――じゃない!
内心でついつぶやいたのは本心だったけれど、それどころじゃなく叶多は慌てて打ち消し、赤面した。なぜなら、則友はおどけた様で肩をすくめ、貴仁はしょうがないなといったふうな笑みを口もとに浮かべ、背後では崇が豪快に笑っているのだ。明らかにほのめかされたことはみんなに通じている。
取り繕おうにも何か云えば墓穴を掘りそうで、叶多はだんまりを決めこんだ。
「図星、みたいだな」
陽の声が叶多に向いて、ぼそっと追い打ちを吐いた。
「渡来くん――っ」
耳までカッと火照らせながら抗議しかけたそのとき、また携帯電話の着信音が鳴った。今度は貴仁の音だ。そう思ったと同時に、貴仁がジーパンのポケットに手を入れる――その瞬間。
「ストップ」
陽が鋭く待ったをかけた。
貴仁はわずかに怪訝そうにした顔を陽に向け、動きを止めた。問うように眉をひそめる。
「戒が来るまで、外部との連絡も、ここを出ることも一切“No can do.”だ」
「どういうことなんだ?」
「そういうことだ」
陽はにべもなく、答えにならない返事で応じた。
携帯電話がしつこいほど鳴り響いているなか、たか工房はいつになく不穏な様相に変わっていく。不穏とはいえ、険悪ではない。強いていえば、陽だけが刺々しいけれど、ほかの三人は案じるような様だ。
貴仁がいろんなことを考え廻っているのがわかる。
「と……りあえず、片づけるね」
「則、仕事だ。半人前が休んでどうする」
崇はいつもと変わりなく手厳しく云い、則友は、わかりました、と苦笑いで応じた。そのことが少しだけ工房内を普段に戻した。
道具を片づける最中、貴仁の携帯電話が二度鳴ったけれど、陽の云い付けどおりに出ないでいると、そのあとは相手があきらめたのだろう、呼びだしはなくなった。
叶多はやりかけのガラスの具合を見ながら、完成はいつになるんだろう、なんていうことをふと思ってしまう。
「渡来くん、今日来たのって、もしかして戒斗から何か聞いてた?」
犬に番犬というのもなんだけれど、いまの陽はそんな感じで叶多の背後を見張っている。その先にいるのは、作業机でガラスに向かった貴仁だ。
「おまえに関するかぎり、重大事があるならおれには知る権利がある」
大げさな云い方で、叶多は陽を振り仰いだ。
「知る権利って……」
「おれはおまえの許婚だ。破談になろうが、その立場を放棄したつもりはない。戒に譲ってやっただけだ」
「渡来くん……。……許婚って、渡来くん、そういうことに拘るって古くさくない?」
もったいない。やっぱりそう思ってしんみりしてしまった叶多だったが、戒斗が再三、誰に付けても似た言葉を云うことを思いだした。
渡来の勝手だ。得てしてそれは突き放しているように聞こえるけれど、そうじゃなくて尊重しているともとれる。
思い直して、突っこんだ叶多の発言に、陽が睨めつけるように目を細めた。
「古くさい? 光栄に思え――」
文句をつけている最中に立てつけの悪い工房の戸がうるさく音を鳴らし、陽は言葉を切った。陽と叶多のみならず、視線が一斉に開いた戸へと向く。
戒斗の目は工房内をさまようこともなく、最初から叶多がいる場所を見通していたかのように捕えた。すぐ帰ることを示すように戸を開けっ放しのまま入ってくると、戒斗はまっすぐ叶多のところへやって来た。無言で手にしていたライダースジャケットを差しだす。
目の前に立った戒斗はいつもと変わりなく見えるけれど、どこか強張っている感じだ。
「あたしのことは大丈夫だよ」
無意識に受け取りながら、なんとなく云わなければと思ったのはそんな言葉だった。戒斗はかすかに首をひねると、ああ、と口を歪めて笑み紛いを見せる。
「戒斗」
崇は近寄ってきて傍に立ち、名を呼んだだけで質問に代えた。声のトーンは崇が懸念していることを示している。
「崇さん、しばらく叶多の仕事は保留してもらえますか」
「どうした」
「大丈夫です。時期が早まっただけの話ですから」
まともな返事にはなっていなかったが、よくよく戒斗を見上げていた崇はやがて小さくうなずいた。
その傍らで叶多は、和久井の車じゃなくバイクなんだと思いながらジャケットを羽織った。ジッパーを上げきったところで、目の前に叶多のバッグが差しだされた。
「はい」
「あ、則くん、ありがとう」
「気をつけるんだよ」
その意味がどこまで広がるのか、叶多が再び、ありがとう、と云ってうなずくと則友は戒斗へと向いた。戒斗はその眼差しを受け止め、ふたりは無言で視線を交わし、それから貴仁へと移した。
「貴仁、直に曝せない――曝せなかった理由はなんだ?」
回転しっぱなしの研磨機の音さえ消えたように、工房内がしんと静まった。
「戒斗さんが“おれ”を知らないように、おれも“戒斗さん”のことを知らなかった。そういう、すべての証拠が絶たれている状況下、いきなり打ち明けても伝わらないだろう。事実、戒斗さんはいまだにおれを信用しきっていない」
そう云って貴仁はちらりと陽を見やった。
「それは、おまえがおれを試しているからだ」
戒斗が逆ねじを食わすと貴仁の口もとがかすかに笑みを形づくり、小さくうなずいた。
「そのとおりだ。おれは曾祖父から代々与っている言葉がある。“戒斗さん”がそれに相応しいかどうか見極めなきゃならなかった」
「なんだ」
「叶ちゃんを見ていればわかるはずだ。戒斗さん個人に限っていえば、戒斗さんが叶ちゃんを選んでるってことですでに答えは出ていて、もしかしたら量る必要はなかったのかもしれない」
貴仁は抽象的に答え、叶多に目を向けて続けた。
「叶ちゃん、“死守する”――その気持ちは渡来くんとも、そして戒斗さんともかわらないくらい、おれも持ってる。全力を尽くすよ」
貴仁の目は叶多から離れ、最後の言葉は戒斗を真っ向にして発せられた。
ふたりは互いに見据える。息が詰まりそうな、不自然な沈黙が漂ったが、やがて戒斗のため息によって解消された。
「叶多、帰るぞ」
「うん。崇おじさん、またね。則くんも貴仁さんも」
三人ともがうなずいて応え、それを見届けるとふたりは陽を伴って工房をあとにした。
「戒斗、那桜ちゃんは?」
「さっき場所が特定された。大丈夫だ。拓斗が向かってる。和惟含めて衛守家もだ」
叶多は自分に降りかかった大事からの救出劇を振り返り、それなら大丈夫だと自らに云い聞かせた。けれど、この不安はなんだろう。
「戒斗、でもどういうことなの? あたしのときは蘇我じゃなくて、あの玲美さんの暴走だったけど……」
「帰ってから話す」
「戒、本当に大丈夫なんだろうな」
「これ以上、エラーはない」
陽が云い終わるより早く、戒斗は道破した。
「そうしろよ。おれもおまえんちまでついていく。見届けないと気がすまないからな」
たかの店内を通り抜け、外に出ると陽は角を曲がってバイクを取りにいった。
戒斗は店の前に置いたバイクに跨り、ヘルメットを叶多に渡す一方で、携帯電話に繋いだイヤホンマイクを片方の耳に装着した。耳全体に被せるタイプのイヤホンで、そこから口もとにマイクが伸びている。
「和久井さんじゃないんだね」
「和久井はすぐそこに待機してる」
戒斗は顎をクイッと上げて進行方向を差した。けれど、車は影も形もない。
「……堂々とできないってこと?」
手口が巧みだと思われるのはまずい。以前に戒斗が云ったことを思いだした。
「そんなところだ。尾行されていないかもチェックしてる。まあそのことよりは、バイクのほうがいざとなったときに小回りが利く。事故に遭えばダメージが大きいってリスクはあるけど、和久井と、途中でタツオもつくし、まず、おれがそう簡単に事故るわけがない。シャドウを壊してたまるか」
「……もしかして、やっぱりあたしよりバイク?」
叶多がしょげて訊ねると、戒斗がはっきり笑った。
「叶多のことはわざわざ云う必要はない。わかってるはずだ」
すごく肝心なことを云われた気がして、叶多の尖らせていた口もとも笑みに広がった。小さく笑い声が出ると、戒斗の手が頭の後ろに回ってそのまま叶多は引き寄せられた。
信じられない事態が起きていることは確かで、戒斗からの電話以来、そわそわと落ち着かなく現実離れした気分でいる。そういうなか、ほんのちょっと掠めたキスは、傍にいることが実感できてうれしい。
「しっかりつかまって、あとはおれに任せろ」
戒斗がヘルメットを被ると叶多もそれに倣い、戒斗の肩に手を置いてフットレストに足をかけた。タンデムシートに跨ったときちょうど陽がやって来た。
「和久井、出るぞ」
背中越しに戒斗の声が響いてくる。マイクに向かっているんだろう。
それから戒斗と陽は互いにうなずき合い、戒斗がエンジンをかけると同時に発進した。
最初の角を曲がり、交通量がわずかに多くなったところで横道から出ようとしている黒い車に気づいた。その前を通りすぎた直後にその車が出てきて背後についた。和久井の車だ。そしてしばらく走って大通りに出たあと、また横道にタツオが引っ越しのときに使うワゴン車が見え、和久井の後ろについた。それだけで心強い。
有吏の家に着くまで、時々ぴたりとくっついた背中からこもった声が伝わってきたけれど、話し相手が誰なのかも、その内容もまったくわからない。
何事もなく有吏家の敷地内に入ったときは脚が震えるくらいほっとした。それだけ知らないうちに緊張していたんだろう。
タツオの車は有吏家の道沿いに入る直前に折れ、最後までついて来た和久井は有吏家に立ち寄ることなく通りすぎていった。
いったんバイクを止め、ヘルメットを取った戒斗は後ろに続いてきた陽を向いた。
「おまえがいて助かった」
「ふん。戒、とりあえずここは安全なんだよな?」
自動で閉まった門扉を見上げ、陽はそこからぐるりと敷地内を見回した。戒斗が渡英から帰ったあともしばらくこっちにいたわけだが、そのとき陽もここに来たことがある。警備体制に一様に驚いていたが、あらためて確認しているようだ。
「ああ、間違いない」
「頼むからな。八掟、いちばん信用できないのはおまえなんだよな。自分から災い招くなよ」
酷い云い様だ。
「そんなことするつもりないよ」
「つもり、じゃなくて今回に限っては絶対に“するな”よ」
「わかってる。いまそんなことしたらほんとに足手まといになるだけってわかってるし」
陽はまた鼻で笑った。
「戒、情報流せよ。じゃな」
片手を上げ、陽は開きかけている門扉の隙間から器用に出ていった。戒斗が操作をしてまた門扉が閉まると、バイクを車庫まで進めた。
エンジン音が止まり、静かになる。
「戒斗、立てないかも」
いざ降りようとすると、フットレストに置いた足に力が入らない感じだ。さきに降りた戒斗が口を歪め、叶多の手からヘルメットを取りあげたあと、バイクのシートから抱きあげた。
すると思いの外、強く抱きしめられた。
「那桜は救出された」
「ホント!?」
「ああ」
叶多の期待どおりの答えが返ってきて喜んだのもつかの間、朗報にもかかわらず、肩越しに発せられた戒斗の声が淀んでいたことに気づいた。