Sugarcoat-シュガーコート- #147
第15話 All's fair in love and war. -10-
ボーイズラヴ。
そんな言葉が叶多の脳裡にフェードインするなか、戒斗は腰を引きながら鳩尾パンチで真理奈を引き離した。
「酷いわ!」
真理奈は胃の辺りをかばうように躰を折り、苦しそうに、そしてどこかうれしそうに抗議した。
「警告してたとおり、胸をつぶしてやろうか」
目を細め、首をひねり、唸るような声で戒斗は強面に出た。
真理奈はホールドアップして一歩下がる。ただし、後悔する様子はなく、おもしろがっている。
「この胸にいくらかけたと思ってるの? 苦労したんだから。一回くらいいいでしょ。減るわけじゃないんだし」
「一回くらい、だな。間違っても二度目はない」
「わかってるわよ。叶多ちゃん、ありがと」
礼を云われるような何を自分がしたのか、叶多はそれを考えることさえできないで放心している。
真理奈は投げキッスをしながら家の中へと消えた。
「昼のいまで警告がなんにもなってないってどういうことだ? 真理は男だ」
真理奈を追っていた目を慌てて戒斗に向けた。理解するまもなくくちびるがふさがれて舌までが侵入してくる。ゆっくりと口の中を一回りしてから戒斗は離れた。その目が、さっきよりは緩いけれど狭まって、戒斗の不快さを露骨にする。
「何飲んだ? まさかキッチンドリンカーなんてことはないよな」
叶多がまったく気づかなかったことをキス一つでわかるなんて、戒斗の舌はどうなっているんだろう。
「そんなわけないよ! 真理奈さんがジンジャエール出してくれたんだけど、ブランデーが入ってたらしくて。でも、少しだよ。足、全然しっかりしてるし――」
戒斗の眼差しがだんだんと険しくなって、かわりに叶多の声はだんだんと小さくなり、終いには途切れた。
「ってことは、真理の部屋に入ったんだな。一人、で」
「……」
敢えて『一人』が強調された以上、はじめてじゃないのは知ってるよね? という云い訳は通じそうにもなく、叶多は閉口した。
二歩下がる。すると、戒斗が一歩踏みだして薄笑いを浮かべる。叶多はもう一歩下がると、にじり寄る戒斗をかわすべく身を翻した。
玄関ドアを開ける途中、ちらりと見えた戒斗は、真綿で首を絞めるようにゆっくりと近づいてくる。鍵をかけたい誘惑に駆られたが、そうすれば煽るだけだろう。
急いでサンダルを脱ぎ捨てたものの、家の中に入ったところで逃げ場所があるわけもない。ダイニングに入り、ため息を吐きながら観念して振り向くと、戒斗はすぐ傍まで来ていた。
「実家! いまから行かないといけないよね?!」
「すぐ終わる」
「……って何が?」
「ナニ、が」
さながら、満月を見てしまった狼男、血に餓えた吸血鬼、はたまた妻を切望したフランケンシュタインの怪物か、戒斗はまっしぐらだ。
「で、でも、戒斗だって真理奈さんに抱きつかれてたっ。卒倒しそうだったんだから!」
訴えたあと、叶多がだしぬけに戒斗の肩に手を伸ばして埃を払うようなしぐさをすると、戒斗はくちびるを歪めて可笑しそうに首をひねる。
「おれが虫除けしたいって思ってる度合いからすれば、その億分の一くらいなんでもないだろ。加えて、真理は男だ」
「でも! きれいだし、胸あるし」
「はっ。相当なコンプレックスだな」
「コンプレックスないとこ、ないよ」
叶多がしょげると、戒斗は笑いながら身をかがめてくちびるを舐めた。それからの吸盤みたいなキスはやっぱり気持ちいい。
「行くぞ」
「うん」
午後になって領我家を訪ね、伯父、和人の気に入りの場所である茶室に入った。和人は貴仁の顔を見ないうちから、ここに座れというしぐさで手を振った。
「蘇我グループはいつ乗っ取りということになってもおかしくなくなりましたね。ここ半年、気味悪いくらい出来高も株価も安定してますよ」
「ああ、明らかに操作されている。一般の投資家とはわけが違う。他企業との持ち合いも当てにならんな」
「二割、それとも三割? いずれにしろ、彼らが本腰を入れるのなら本家は引かざるを得なくなる」
和人はゆっくりとうなずいた。
「それで、どうなんだ?」
「いま曝せるところまで打ち明けましたよ。決断を――接触を待つのみです」
「あとわずかだ」
「はい。本家はどうです?」
「表立って動く気配はない。だからこそ……」
和人は憂いながら言葉を濁した。
「伯父上、しばらく我立家に留意していただけませんか」
和人の眼差しが鋭く貴仁に向けられた。
「どういうことだ」
「何かある、ということです。もしかしたら――」
「早急にやる」
「はい、お願いします」
最近になって、実家に行くたびに強くなっていくのは“お邪魔している”という感覚だ。まだ結婚したわけでもなくて、家族と呼べるのは八掟家なのにちょっとした距離感が生まれている。
さみしい気がしつつも、しばらくいればそう感じていることすら忘れてしまっているけれど。そのとおり、母方の祖母が作った“いきなり団子”もどきを出されたとたん、叶多は早速かぶりついた。
「美味しい。……何よ」
正面のソファに座った頼が、い草ラグの上にぺたりと座りこんだ叶多を見下ろし、顔をしかめながらジッと見つめている。
「お気楽に幸せそうだなって思ってさ」
「幸せって思わないほうが罰当たりそうだよ」
「それに、気楽にしてられるのは叶多のいいとこでもある。少なくとも、おれにとっては助けになってる。……ということです、八掟主宰」
斜め後ろのソファに座った戒斗は叶多をかばい、頼から哲へと話す対象を変えた。
千里は、あら、とうれしそうに笑う。一方で哲は、普段なら喜びそうなのに、今日は神妙な面持ちで深くうなずいた。そのことが、約定の決着はまだこれからであることを叶多に思い知らせる。
「足手まといになるな。本家の云い付けは厳守するんだぞ」
哲はわずかに顔を険しくして叶多に忠告した。
「わかってるよ」
子供扱いにムッとしていると、戒斗とは反対の後方から笑い声が立つ。そして頭の上に大きな手が被さった。
「足手まといとか、なりたくてなってんじゃないよな」
「お兄ちゃん!?」
本当に子供扱いが抜けないのは維哲だろう。電話で定期的に話すことはあっても会うことがないぶんだけ、維哲の中での叶多の成長率はゼロパーセントなのではないかと疑っている。
振り向いた叶多を見下ろして、維哲はニタリとした。
維哲と会うのは一月の成人式以来であり、やっぱり怒るよりはこうやってそろっていられることが断然うれしい。戒斗もいるということが今日を格別にしている。
叶多の表情が剥れた顔から笑顔に変わると、逆に維哲は生真面目に変え、戒斗へと向いた。
「戒斗、これからどうするつもりだ?」
「まずは蘇我グループから揺さぶりをかける。いま現在で一族が保有した株を合算すれば、まもなく三〇パーセントだ」
「ここ二年、蘇我の株価が安定して上昇しているはずだな」
「ああ。貴刀グループが怖れる理由はない」
「紘斗はそんな肝っ玉の小さい奴じゃない」
維哲が貴刀の次期社長候補を即座にかばうと戒斗は笑った。
「忠実だな。それがなぜ一族に対してじゃなかったのか疑問だ」
「ガキの頃、“いまのおまえ”がいたら違ってたかもな」
「誉め言葉だろうな」
「じゃなくてなんだってことだ」
ふたりは鼻で笑い合う。やっぱりいい感じだ。頼は拗ねてるみたいだけれど。
「頼、語りたかったらもうちょっと大人にならないとね」
「叶多、二十才すぎてもやっと高校生にしか見えないおまえに云われたくない」
「……あんたね、ホントにあたしのこと好きなの?」
「脳みそレベルの低い姉貴なんて、好きじゃなきゃとっくに絶縁だ。おれがどんだけおまえの面倒看てきてやったって思ってんだ」
叶多の頭上で維哲が笑いだし、千里はしょうがない子ねと云わんばかりにため息を吐き、哲は聞こえないふりをしている。
「大事なのは脳みそのレベルじゃない。そうわかってるから、姉離れできないんだよな」
戒斗の云い方は挑発的で、維哲の笑い声は高まる。頼は“姉離れできない弟”というレッテルを貼られて不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。叶多にしろ、かばってくれたまではいいがよくよく意味を捉えると微妙な云い回しだ。
「戒斗さんこそ、弟相手に嫉妬丸出しってどうなんですか」
「一族はそれが関係ないと認めたんだ。それに、そういう感情が生まれないことのほうが問題なんじゃないのか」
頼の挑発返しにハラハラするなか、戒斗の受け答えは完璧すぎて叶多はこっそり驚く。誰に煽られようが鼻先で笑うくらいで、表面上は相手にもしなかったのに今日は余裕綽々で応じている。
「まあ、好きなもんはしょうがない。なあ、頼」
頼は、ちぇっ、と漏らして、ふてくされたようにため息を吐いた。維哲になだめられるとさすがの頼もすぐに引いてしまう。それくらい憧憬の対象なのだ。
「叶多、詩乃さんがなんでもやるからって甘えてちゃだめよ」
二時間くらい滞在してから帰り際、千里はまえと同じことを云った。
「わかってるよ。那桜ちゃんと相談してちゃんとやるから」
「千里さん、叶多はちゃんとやれてるよ。だから本家にも一族にも認められたんだろ」
一緒に八掟家を出ることにした維哲は、辟易した叶多の頭に手を置いた。ただ、叶多をフォローするというよりは千里をなぐさめているみたいだ。たしかに母親の立場としては気が気ではないというのもうなずける。その前提の事情が事情だから。
叶多だって、いくらタフだとはいえ、戒斗のことを心配しないことはない。
「そうですよ。叶多は云わなくてもちゃんとやれてますから」
「ああ、そうよね。高校生のときに出しちゃったから、いつまでもそのつもりでいるのよね」
戒斗にもなぐさめられ、千里はため息混じりに弁解した。
「お母さん、大丈夫だよ。ありがと」
「当然のことよ」
もう一度大きく息を吐いてから千里は、またいらっしゃい、と叶多たちを送りだした。
「戒斗」
玄関先の階段をおりながら呼びかけた維哲の口調は至って真剣だ。
「なんだ」
「蘇我本家の運転手の話だ」
「昔の仲間って奴か」
「ああ。そいつが云うには、このところ我立家の出入りが頻繁らしい。蘇我と我立の繋がりは世間が知るところじゃない。一流企業のトップの身内に暴力団がいるってシャレにならないからな。それなのにおかしくないか」
「……わかった」
「おまえを信じてる」
維哲は横に並んだ戒斗の左肩を握りしめるようにつかむ。すぐに手を離すと、後ろをついてくる叶多に、頑張れよ、と頭をつかみ、それから手を上げて先に門を出ていった。
「戒斗?」
覗きこむと顎のラインが強張って見える。が、叶多を見下ろしてきたときには、むしろ気味悪いほど緩んでいた。
「維哲さんに何回触られた?」
やっぱり。内心でため息を吐く。
「だから、おなかは違うけど兄妹だよ」
「関係ない」
一言で一蹴された。
そのあと訪れた有吏家では、八掟家と同じく、まるで里帰りのように迎えられてほっとした。神経質とまではいかなくても、どうやら緊張はしていたらしい。
それを知ってか、散々脅していたにもかかわらず、戒斗は眠るときはただ背後から抱きしめているだけだった。
*
翌日、五月の初日はわくわくする青空で始まった。
青南大は大型連休中で、叶多はたか工房へ、戒斗はメンバーとの打ち合わせにと出かけた。
「昨日、急に来ないって云うから何かあったのかって思ってたけど、戒斗さんちに引っ越したって?」
やっぱり情報が早い。貴仁は昼一番でたか工房にやって来て早々、作業中の叶多に訊いてきた。二日まえ、戒斗と危うい雰囲気になったというのに、貴仁はなんでもなかったようにいつものとおりだ。
とにかく、たか工房に行きたいんだけど、と叶多が遠慮がちに云ったとき戒斗が止めなかったということは、貴仁のことを不安がる必要はないという保証だ。
「うん。ゴールデンウィークだし、戒斗はバンドが三周年に入って仕事が忙しくなるから。正確にいうと、引っ越しじゃなくて居候するってだけ。また戻るよ」
「いつ戻んだ?」
突然、貴仁とほぼ同時刻に来た陽が口を挟む。まだ陽には知らせていなかったのに驚いているふうでもなく、どうも先刻承知のようだ。
「まだわかんないよ」
陽は叶多の答え方が気に喰わないようで、怪訝に眉をひそめた。
「まさか、結婚が決まったとか云うんじゃねぇだろうな」
真理奈と同じような疑いをかけられ、叶多は手と首をそろって振り回し、否定した。
「そうなったらうれしいけど、段階があるし」
「のんびりしてると盗られるよって伝えといて」
則友はゆったりとからかう。そんなことを伝えようものなら痛い目に遭うに決まっている。笑ってごまかした。
「渡来くん、それより今日はどうしたの?」
「来ちゃ悪いかよ」
「じゃなくって――」
迫ってきた陽を避けようと一歩後退していると、ジーパンのポケットに入れた携帯電話がブルブルと震えだした。
「あ、ちょっとこれ持ってて」
携帯電話を取りだしながら陽の手に吹き竿を押しつけた。電話は戒斗からだ。
「戒斗!」
開口一番いつもと変わらず叫ぶように出たけれど、戒斗からはいつもの息を吐くような笑い声は聞こえてこない。
「叶多、どこにいる?」
返ってきたのは妙に静かな声だった。質問にしろ、叶多がたか工房にいることは知っているだろうに、おかしな気配だ。
「どこって、たか工房って云ったよ?」
「いまから迎えにいく。たかから一歩も出るな」
「……そうするけど、戒斗、どうかした?」
「那桜が消えた」