Sugarcoat-シュガーコート- #146

第15話 All's fair in love and war. -9-


 翌日、叶多が起きたのは太陽が高々と上がった正午だった。ゆっくりとベッドの上に起きあがると家の中が静かなことに気づく。戒斗は出かけているんだろうか。戒斗が起きたことも気づけていない。
 おまけに、疲れを癒すのに睡眠は役に立っていない。睡眠というより、長時間きっと気絶をしていたのだ。
 躰を動かすのが億劫で、何より酔っぱらったときよりも記憶が定かじゃないというのが怖いところだ。
 ベッドから降りたとたん、体内からはトクンと粘液が零れて脚を伝った。戒斗は最後まで避妊していたはずだから、叶多が体内生産したものに違いない。
 赤くも蒼くもなりそうなそのとき、玄関ドアの開閉音がして、直後に戒斗が寝室に入ってきた。驚いて固まっているうちに戒斗は真っ裸の叶多を眺め回す。それがふと脚におりると、恥ずかしいと思うまえに、タイムマシンに乗って過去の時間に戻ったみたいに感じた。
 けれど、次の瞬間に笑った戒斗はあの少年っぽい笑顔じゃなく、悪魔かオヤジかわからないニヤけた顔つきだ。
 それが発情に変わらないように、叶多はベッドから薄手の布団を取って素早く躰を隠した。
 戒斗の眼差しは何やっても無駄だと云いたげだ。
「昼、買ってきた。食べるぞ」
「あ、うん。すぐ着替えて行くよ」
 とりあえず、いまはその気がないようでほっとした。出ていってほしいと遠回しに云うと、戒斗はニヤリとしてから部屋を出ていく。

 手早く着替えてダイニングに行ってみれば、戒斗が広げているお弁当からいい匂いが漂ってくる。半日以上、何も口にしていないわけで、おなかが即座に反応した。
 お茶を準備してからいつもの斜めの位置に座り、そろって食事を始めた。お弁当屋のカツ丼はボリューム満点で、カツを二切れ、戒斗に譲る。
「戒斗、有吏の家にいるの、しばらくってどれくらい?」
「わからない。いずれにしろ、約定はなんらかの形で清算しなきゃならないだろうな。少なくとも、それまで、ってことになる。拓斗と那桜も近いうちに戻ってくる」
「ホント? 賑やかで楽しそう」
 うれしそうにした叶多を見て戒斗は笑う。
「姑と小姑そろうってのに楽観的だな。そういうとこ、叶多のすごいとこだと思ってる。おれも、叶多が愚痴云わなくてもすむように努力するつもりではいるけど」
「大丈夫。戒斗についてくるものはなんだって受け入れちゃえるから」
「……へぇ」
 戒斗がニタッとしながら相づちを打つ。またさっき寝室にいたときの表情に戻った。
「へ、へんな想像してるでしょ! その話じゃないから!」
 慌てふためいて弁解すると、戒斗は含み笑う。そして、警告するような様に変わった。
「おれは、悪いけど、叶多についてくるものは追っ払う。受け入れるなんてごめんだ」
「……」
 ここは当たり障りなく。そう思って。
「カツ、もう一個あげる」
 戒斗はおもしろがって肩をそびやかした。

   *

 昼食後、家を空けるまえに一通り掃除しようかとすると、戒斗がほとんどすませていてくれたという。よくよく見れば、段ボールとかギターケースがダイニングの片隅にまとめて置いてあった。
 大学のテキストなどと、叶多の荷物もほとんどは片づいていて、服や洗面具くらいの梱包ですんだ。
 あとは冷蔵庫の中身だ。幸いにして、戒斗が休みの今日、一緒に買いだしに行こうというところだったからわずかしかない。残っているのは鶏肉とピーマンと人参と玉ねぎだ。
 捨てるのも惜しくてどうしようと考えていたら、隣の部屋から、いるよと自己主張するようにゴトゴトと音がして、叶多はふと思いついた。
 何か作って真理奈に持っていけばいい。思い立つと早速、叶多は料理に取りかかった。
 その間、戒斗はタツオを呼んで、一足さきに引っ越しの荷物を有吏の家へと運んでいる。叶多たちは八掟家に寄ってから行く予定だ。
 まもなく塩焼きしている鶏肉から香ばしい匂いが立ちこめた。塩コショウで炒めた野菜たちにピザチーズを絡め、鶏肉の上にトッピングする。叶多は熱々のお皿を持って部屋を出た。

 隣の部屋のドアチャイムを鳴らすと、鼻にかかった艶っぽい声が返事した。
「あらぁ、叶多ちゃん。お隣なのに久しぶりね」
 化粧をしていない真理奈の顔は中性的だ。Tシャツにジーンズという格好もどっちつかずで、唯一、胸もとのふくらみが女性だと裏づける。その実、おおもとが男であることを考えると頭がこんがらがってくる。肌の手入れは抜かりないようで、叶多がうらやむくらい艶々している。
「真理奈さん、こんにちは。よかったら食べてもらえないかと思って」
「ま、いつもありがとう。私の大好きなチーズだわ。遠慮なくいただくわね」
「どうぞ。お皿はしばらく預っててください」
「どういうこと?」
「また戒斗の実家に行くことになって。戒斗はいま、荷物運んでるんですけど」
 真理奈は目を見開いた。
「もしかして、結婚決まっちゃったの?! 酷いわぁ。私に黙って、しかもお隣さんじゃなくなるなんて!」
 真理奈の早とちりに叶多は手を振って否定する。
「真理奈さん、違いますよ! ちょっといろいろあるみたいで、あくまで“しばらく”です」
 真理奈は何やら思案しながら叶多を見下ろす。
「いろいろ、ねぇ。よっぽどほっとけないのね。いつまでなの?」
「急に戒斗が決めたことで、いつ帰ってくるかははっきりしてなくって」
「そうなのぉ。会う会わないはべつにして、隣にいるのといないんじゃ全然違うのよ。このまえもすごくさみしかったんだから。……いいわ、ちょっと話さない?」
「え?」
「戒斗との昔話、ずっとまえにちょっと話したでしょ。詳しいこと聞きたい?」
「え、もちろん聞きたいですけど、でも戒斗が――」
「戒斗の話じゃなくって、私の話で私が話すって云うんだからいいじゃない。戒斗の裸を見た話よ。聞きたいでしょ、知りたいでしょ」
 押し迫られて身を引きつつも、真理奈の云うとおり、真理奈の話だ、と叶多は自分を納得させる。こっくりとうなずいた。
「そうこなくっちゃ。いらっしゃい」
 真理奈は強引に叶多を家の中に引っ張りこんだ。こうなるとは思わず、足を突っ張って抵抗したものの、ずるずると引きずられる。こんなときでも日本人の心得は失われることなく、叶多はサンダルだけは脱いだ。
「や、真理奈さんっ、家の中じゃなくっても――」
「裸の話を外でできるっていうの?」
 疑うような声が降りかかった。
 そのとおりではあるけれど、この場合、疑惑を持つのは叶多のほうだ。
 何かの罰で、校舎中のワックスがけをやらされて一緒にシャワー浴びたっていう話だったはずで、その“そもそものこと”のほかに、そんな“簡単に話せないこと”があるの?
 叶多は疑心暗鬼になり、ぜひとも聞かなければと思考転換した。

 真理奈の部屋は、鏡を挟んだように叶多たちの部屋とは逆の配置になっている。相変わらず、クローゼットに入りきれない服がパイプハンガーにかけられていて、光沢のある生地がミラーボールみたいに部屋をキラキラさせている感じがした。
 真理奈は叶多の差し入れをダイニングテーブルに置いたあと、冷蔵庫からペットボトルを取りだした。流しの水切り籠からグラスを二つ持ち、畳部屋にやってきて叶多の斜め向かいに座る。
 ペットボトルに入ったジンジャーエールをグラスに注ぎながら、真理奈は話しだした。
「高三の夏の話ね。その頃の私って、ものすごく曖昧。男の子を好きになったり女の子を好きになったり、自分で自分がおかしいって思ってた。格好に関してはやっぱり女の子になりたかったかしら。こういうことって……自分のことなのに自分でも受け入れ難いのね」
 叶多にグラスを渡したあと、真理奈は自分のグラスを取って叶多より女性っぽいしぐさで口にする。
「いまもやっぱり……その、きついってことありますか?」
「ないことはないわよ。人って浮き沈みあるじゃない? でもね、いつもこれがいいって落ち着いちゃうんだから、それが私にとってベストってことなんだわ。男にも女にもなりきれないって、叶多ちゃんからは中途半端に見えるだろうけど」
「そんなことないです! 真理奈さんのこと好きだし、ってことは“それが真理奈さん”って思ってるってことですよ」
「あら、ありがと。戒斗と似たようなこと云うわね。飼い主に似る? 飼い主はどっちかしら」
 真理奈は可笑しそうにした。
「似たようなことですか」
「そう。戒斗は云ったっていうよりは態度で示してるって感じかしら。曖昧だった私はその夏、抑えきれなくなって告白したの」
「戒斗に?」
「違うわよ。高校の頃の戒斗はね、おっかなくて誰も近づけなかった。話しても伝わってるのか聞いてないのか、“うん”とも“わかった”とも云わないし、向かい合ってて決まり悪いったらないのよ。そのうえ、なんでも手際よくこなしてたからケチのつけようもなくて。戒斗のやることなすことが、私は見下されてるように感じてたのよね。たぶん、私だけじゃないと思うわ。そういう戒斗と対等になろうってするのはすごく難しいし、劣等感の(かたまり)だった私には、好きとか対象外だったわね」
「そうですよね。あたしもそのときのままの戒斗なら避けちゃうかも」
 記憶の遥か奥のほうにしまわれていた、戒斗の過去の姿を取りだして、叶多は真理奈に同調した。
「でしょ。まあ、事が起きるまえに尾行したことあるんだけど。高校生にしてはちょっと特異ではあっても、そのへんの男と変わりはなかった。どういうことかわかる?」
 真理奈は試すように問いかけた。戒斗のことには無関心じゃいられないし、深智に聞かされたことだとはすぐに見当がつく。
「想像はつきます」
 渋々した答え方だと自分でも思う。真理奈は声には出さず、目一杯で口もとを広げて笑んだ。
「叶多ちゃんて可愛いわねぇ。いまとなっては問題にもならないでしょ。とにかく、私が戒斗について回ったのは告白のあとのことだから。告白は叶うなんて思ってなくて、いまになるとその男の子に対する自分の感情もよく思いだせなくて、その程度の好きだったのかもしれない。つまり、思春期の暴走ね」
「それがワックスがけのもとですか?」
「そう。その子が暴露しちゃったわけ。身の危険を感じたのかもね。三回くらいチャレンジしたし、私が男だから」
 真理奈は自らをからかうように云ったけれど、傷つかなかったはずはない。
「酷い」

「もともと女々しいで通ってたし、真理(まり)って呼ばれてたから、冗談だって弁解しても通じなくて、逆にこの際って感じで噂は誇張されていくだけ。男を好きになるっていうのも本当だったから、私の弁解も説得力なかったかもね。すぐ先生の耳に入って、風紀上好ましくないとかなんとかで退学をほのめかされた。二回目に呼びだされたときにね、戒斗がかばってくれたの。ふざけてやらせたって云って。あとで聞いた話では私の告白、一度見てたらしいのね。そして、バカげたことで騒がせたから反省しろってワックスがけすることになったわけ。でも、発端が有吏家の戒斗だけに、処分するときは先生の顔が引きつってたわ」

 真理奈はおどけたように肩をすくめ、飲みなさいよ、と叶多のグラスを指差した。勧められるままグラスに口をつけると、炭酸のせいか、ちょっとだけ喉が焼けるような感じがした。
「それで、あの……裸見たっていう?」
「そうよ。ワックスがけはふたりして黙々ひたすらやったわ。かばってはくれたけど、気まずすぎてありがとうもごめんも云えなかったし、戒斗が何かを云うわけもないし。シャワーで汗流してるときだったの。『男にコクるんなら相手選べ』って一言。そのとき思ったのよね。戒斗って無関心なようでいて、いろんなことを見てるのかもしれない。私のことも見透かされていて、だから私は近づけなかったのかもって。それがはっきりしたからって、戒斗は毛嫌いするわけでもなくて。じゃなきゃ、一緒にシャワー室にいるわけないでしょ。そのときよね、戒斗に惚れたのは。無性に抱きつきたいって――」
「だ、だ、抱きついたんですかっ」
 叶多の脳裡の表面に、男ふたりが怪しげに重なった光景が迫ってくる。
「間一髪で避けられたわ。『おれは選ぶ相手じゃない』ってね。反射神経よすぎなのよ」
 あからさまにほっとした叶多を見て、不満げだった真理奈は小さく吹きだし、口もとを緩めて続けた。

「それからね、私が戒斗について回るようになったのは。夏休み明けて戒斗はだんだんと砕けて、周りに人が増えていった。何がそうさせたんだろうと思ってたけど、それが叶多ちゃんだったとはね。はじめて会った日は衝撃的だったわ。どこからどう見ても頼りないのに、あの戒斗に常識外れなことさせて、対等にやれてるんだから」
「対等に、っていえるのかな」
「というより、戒斗とは正反対の叶多ちゃんじゃないと対等にはなれないのかもね」
「それって、あんまり誉め言葉じゃないですよね」
「あら、充分にうらやましいけど。私は追いかけても友だち以上にはなれないのよ。だから、叶多ちゃんがいない間、擬似でも恋人って関係だったのはラッキー。償いも果たせて、私はやっと戒斗と対等に友だちなれたのかもしれない」
「償い?」
「そう。戒斗がかばってくれたとき、私は違うって云えなかったから。やっぱり、知られるのは怖かったのね。いつか償えたらって。だから、女避けになってあげた。戒斗は借りがあるって思ってる。私もそう思わせてるけど、ほんとはそんなことないの。戒斗は、自分はだめだって最初にきっぱり通告したし、それでも追いかけたのは私。まあ、償いっていっても、私にとってはつらいことじゃなくて、逆にすごくうれしい時間だったんだけど」
 真理奈は茶目っ気たっぷりで首をかしげた。
 叶多が持っている戒斗への気持ちに負けず劣らず、真理奈にもそんな気持ちがあることをあらためて知る。
 叶多の顔を見た真理奈が、ふっと笑いながら手を伸ばしてきたと思うと鼻を摘まれた。
「同情はいらないわよ。お隣さんで楽しくやってるんだから」
「わかってます。そうじゃなくって、いろんなことあってるけど、“戒斗とあたし”ってことではなんだかうまくいってて、真理奈さんの話を聞いてたら、順調すぎてちょっと怖いなって感じてきたんです」
「うーん、やっぱり思考回路が可愛いわぁ。不安なときはジンジャーエールよ。飲んでしまって。戒斗は帰ってくる頃かしら」
「あ、ほんと」
 時計を見ると三時半を過ぎている。真理奈のところで時間つぶししていたと知ったら、いらぬ嫌疑をかけられかねない。叶多は残り少ないジンジャーエールを一気に空けた。おなかがカッと火照ったのは気のせいか。
「じゃあ」
 と、立ちあがりかけたとたん、くらっとして叶多はテーブルの端をつかんだ。
「あら、叶多ちゃん、ほんとにお酒効くのね」
「お酒?」
 真理奈は、うふ、と叶多が空けたグラスを指差した。
「ブランデー入り。戒斗がガードしてるから叶多ちゃんと晩酌もできないのよね。イケルらしいじゃない?」
 貧血じゃなかった。どうりで眩暈はすぐ治まるはずだ。と、納得している場合じゃない。
「真理奈さん!」
「ちょっとだけよ。ちゃんと送ってあげるから」
 悪びれることなく云うと、真理奈は叶多の肘を支えて立ちあがらせた。
「お酒の匂い、しませんよね」
「大丈夫よ」
 玄関でサンダルを履く頃には、真理奈の云うとおり微量だったようで、躰のバランスが取れてきた。外に出ると、真理奈までついて来る。

「真理奈さん、もう大丈夫ですよ。隣だし」
「さみしくなるわねぇ。帰ってくるのがいつってわからないんじゃあ……」
 感慨深くして真理奈は叶多を見下ろしてくる。
「真理奈さんの顔を見に、差し入れしにきます。栄養失調で倒れちゃってたら嫌だし」
「あらぁん」
 甘えるような相づちのあと、いきなり叶多の顔は未曽有のプルプル地帯に埋もれた。赤ちゃんの頃の本能か、気持ちいいと変態的に思ったのもつかの間、息苦しくなってもがきだす。
「真理」
 息がままならないなか、据わった声が地の底からのように響いてきた。
 真理奈の腕が緩み、やっと顔を上げられて息ができたことにほっとすると、叶多はそれ以上のことは考えなしに声がしたほうを見た。視線の目的地にきらりとした眼光を認識したとたん、しまった、というセリフが浮かぶ。
 戒斗は首をひねりながら一メートル先まで距離を縮め、叶多と真理奈を交互に見やった。
「何やってんだ」
 誰に向けたのかわからない質問だ。叶多は慌てて真理奈の腕から抜けだす。
「お、お別れの挨拶!」
「ここは日本だ」
「もう、ツレないわね。返してあげるわよ」
 よっぽど何かに気を取られていたのか、いつもの反射神経は役に立たず、一瞬後には叶多の目の前で戒斗は真理奈に抱きつかれていた。

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