Sugarcoat-シュガーコート- #144

第15話 All's fair in love and war. -7-


 和久井に送られて家に帰り、風呂の湯を溜めている間に米を研いだりと叶多が明日の準備をする最中、戒斗の携帯音が鳴りだした。
 戒斗は寝室ごもりして、湯がいっぱいになってもまだ電話の終わる気配はない。叶多は邪魔になるかと迷いつつも寝室を覗いた。
 うつむきかげんだった目が叶多を向き、戒斗は携帯電話を耳から放すと送話口をふさいだ。
「さきに入っていい。長引く」
「わかった」
 叶多がチェストに向かう間に戒斗はまた電話の相手と話しだした。会話を聞き取ろうにも、戒斗は特段の表情も浮かべずに相づちばかりだ。
 浴室へ行って脱いだ服を洗濯かごの中に入れ、躰から髪まで全身を洗って湯船に浸かると、叶多は一息吐いてほっとした。
 モヤモヤした気分が胸の辺りで痞えている感触がある。例えば、戒斗に指摘されるまでそれとはわからなかった心のしこり――夏の始まりになると表れていた、すっきりしない切迫感に似ている。
 和久井が警告した、“そろそろ蘇我も動く”。(まさ)しく、それが原因に違いない。
 頭の中の、見えないくらい片隅のほうに追いやっていたけれど、もう二十を超えた大人だ。約定が単なる破棄ではすまされないだろうことは、いくら安易な思考回路に陥る叶多でも察せる。
 ただの権力者じゃなくて、有吏と同じように歴史をどうとでも操ってきた蘇我だから、おそらく分別(ふんべつ)は通じない。
 風呂の中で温まっているにもかかわらず、叶多は背筋がぞっとしたように感じて身震いした。
 戒斗は見た目、神経質になることもなく、どっしりかまえている。だからこそ、これまで真剣に考えることなくいられた。戒斗が心底では平気じゃなく、あらゆる模索をしつつ、もしかしたら一時期がそうだったようにもがいているかもしれないことはわかっているのに。
「あたしって、まったく成長してない」
 思わず口に出してがっかりとため息を吐く。
 せめて、できることを考えよう。でも……あたしに何ができるんだろう。
 戒斗が一族に関することを含めていろんなことを打ち明けてくれるようになっても、何一つ叶多は手柄になれていない。
 あ!
 叶多はふと顔を上げる。
 手柄といえば、貴仁を思いだした。
 あのこと、どうやって切りだそうかな。
 思案しながら、今日、貴仁が白状したことと拉致事件のことを絡み合わせていると、叶多は肝心なことを聞いていなかったと気づいた。

 有吏が守ってきた八掟をなぜ貴仁が知っていたのか。八掟は“(かみ)”に献上され、有吏一族のなかでも封印された。それを貴仁が知っていた理由は一つ。戒斗は、あの場にいて叶多にそれを云わせた人物、つまりは貴仁と上が繋がっていると云う。
 それなら、檻を出たっていう上は誰?
 電話して訊いてみようか。教えてくれるかどうかは貴仁次第だけれど。

 思い立ったら即実行の叶多だ。勢いつけて立ったとたん、のぼせたのか、クラクラと倒れそうになってあわてて浴槽の縁をつかんだ。そのときちょうど浴室のドアが開いて涼しい風が入ってきた。
「叶多、長す……どうした?」
 戒斗は云いかけてやめ、心配した声音に変わった。
「のぼせたかも」
「だろうな。三〇分すぎても出てこないし」
 戒斗は手に取ったバスタオルで叶多を包むと浴槽から抱えあげた。恥ずかしいよりもらくになったことにほっとして、それにお姫さま抱っこは気分がいい。
「もう三〇分もたってる?」
「四〇分だ。考え事するのはかまわないけど、風呂場ってのはどうなんだ? しかも、のぼせやすいときてる。おれがいるからいいけど、いないときは気をつけろよ。裸で遺体発見ていう場面に遭遇したくはない」
「あたしも恥ずかしくてやだ」
「死んで恥ずかしいなんてあるのか疑問だけどな」
 叶多をベッドに転がすと、戒斗が肩の両脇に手をついて真上に迫ってきた。呆れた様から真顔に変わる。
「どうかした?」
「冗談抜きで、風呂場じゃなくても遺体発見は容赦してくれ」
 その言葉は叶多が思っているとおりの戒斗の内情を裏づけた。
「大丈夫。あたしは戒斗の腕の中で死ぬって決まってるから!」
 真剣に答えたつもりが、戒斗はどこか“力なく”だったけれど吹くように笑った。
「よくそういうことが自信満々で云えるな」
「“運命”だから!」
 戒斗は叶多をじっと見下ろし、意味ありげな間を置いたあとニヤリとした。何やら思考転換したようだ。
「だから逆らえない?」
 躰を隠していたバスタオルが胸の真ん中から剥がされそうになる。叶多は重たい手を精一杯早く上げてタオルの端を押さえた。
「え、えっちの話じゃないよ」
「だろうな。だいたいが逆らってるし、素直じゃない」
「たぶん……自分に自信がないから」
「自信がない? おれをこれだけ執着させてるのに、か?」
「執着?」
「まさか義理とか色欲だけでセックスしてるって思ってるんじゃないだろうな」
「んー……っと、よくわかんない」
「やっぱ自覚が足りない。色欲だけならイケばすむことだし、義理なら一回イカせればすむことだ。それだけじゃすまないってことがどういうことか知るべきだ。休みがてら考えてろ。風呂入ってくる」
 戒斗は不満げに目を細めながら躰を起こすと、寝室を出ていった。

 男の心裡なんて理解できるはずがなく、何を考えろというんだろう。内心で愚痴って、叶多はすぐさま思考を停止した。考えることがえっちに関することだけに、あらぬ方向へと至るのは目に見えている。
 とりあえず、パジャマを着るまで一休みだ。
 何気なく上目遣いで見た時計は十一時近くになっている。大げさじゃなく、本当に思い(ふけ)っていたらしい。
 あ、でも。
 戒斗もそれだけ長電話をしていたということだ。早く終わっていればお風呂に入ってくるに違いないから。たか工房であったことの報告とか、そんなことだろうとは見当がつく。戒斗は崇との、そして則友との会話から何を得たんだろう。
 これもまた考えたところで叶多が何かを得られるはずはなく、体力が戻るまでちょっとだけ、と横向きに丸くなって目を閉じた。

   *

 ふと意識が鮮明になり、気づくと真っ暗闇を脇目も振らずに駆けていた。けれど、足が思うようについてこない。鉛でも引きずっているかのようにのろのろとしか動かないのだ。
 なぜこんな状況に陥ったのか、気持ちばかりが焦る。誰かを呼ばなくちゃいけない。その“誰か”ははっきりしているのになぜか名が出てこない。
 足も記憶も、意思から置き去りにされているのだ。
 暗闇で何も見えないのに、まっさらな空間であることは意識にある。それを証明するかのように障害物にぶつかることはない。けれど障害物がないからこそ、永遠に走り続けなければならない。途方に暮れた。そのなか、地が揺れたと感じると、とうとつに隠れ()が現れた。
 そこだけなぜ“見える”のか、考えることも迷いもなく突き進む。陰に身を隠すと(あつら)えたように躰がすっぽりと収まった。恐怖のためか疲れのためか、がくがくと躰を震わせながら、荒い息をなるべく潜めた。一方で、隠れた瞬間からむやみに安心しきっているのも不思議だ。
 呼吸が落ち着くにつれ、自分が何から逃げていたのか疑問が浮かぶ。そして、隠れ処が温かいことに気づき、ともに背後から息遣いを感じた。
 誰? その言葉が耳もとでぐるぐるとエコーする。いったん離れようとしたが、躰はやっぱり思うように動かない。もがいたとたん、隠れ処が躰を絞めつけた。
 うぅっ。
 叫んだつもりが呻き声にしかならない。
「叶多」
 なだめるような声が耳もとのすぐ傍でつぶやく。自分の名だ。そう意識した直後、口から”誰か”の名が飛びだした。
「戒斗っ」
「大丈夫だ」
 すぐ背後の隠れ処から聞こえた。

 叶多ははっと目を覚ました。気色悪いほど動悸がする。躰が仰向けにされ、視界に戒斗が現れる。ほんの傍で片肘をついて横たわった戒斗が首をひねり、自由なほうの右手を叶多の心臓辺りに添えた。
「なんの夢見てた?」
「……戒斗……」
「おれ? おれが怖いか」
 戒斗はからかうようでいて、どこか本気で訊ねているんじゃないかと思った。
「……そうじゃなくって……暗いとこでなんだかわからないけど逃げてて、隠れ場所見つけたら……」
 思いだしながら口にする途中で、何も見えないのに隠れ処が見つけられた理由がわかって、戒斗の手のひらの下で動悸が一気に鎮まった。
「見つけたら?」
「戒斗の腕の中だった」
 叶多の口もとが広がった。戒斗もふっと気が抜けたような笑みを漏らす。
「思いだすんじゃないかって、叶多がこうなるのは覚悟してたけどな、やっぱきつい」
 もしかしないでも戒斗は弱音を吐いた。叶多は驚きつつ、問うように目を見開いた。
「思いだすって?」
「我立玲美と会ったからな。あの直後は夜、眠れなかっただろ」
 戒斗がそんなふうに気を回しているとはまったく思っていなかった。叶多の知らないところで、戒斗はどれだけ叶多のことを考えてくれているんだろう。なんとなく、もったいない気になる。
「……そうだけど、いまのはきっと違うよ。どんなことがあっても、さきが見えなくっても、あたし、戒斗のところに戻れるって自信ついた!」
「そうくるか」
 戒斗は呆れたようで、それでいて可笑しそうにして、複雑な表情になっている。と思うと、顔がぐっと近づいてきた。急激に食指が動いたみたいに口が開く。叶多は慌ててその口をふさいだ。
「なんだ?」
 手のひらの中でもごもごと戒斗の口が動く。
「えっと、歯、磨いてくる。それに喉、乾いたし」
「逃げるんじゃないだろうな」
「戒斗から逃げるわけないよ? ……え、えっちだって結局は逃げてないんだから!」
 疑うような眼差しを受け、叶多は余計なことを付け加えてしまった。案の定、手のひらの中でも戒斗の口が歪んだのがわかる。
「だな。無駄な時間稼ぎはやめて早く戻れよ」
「わ、わかってるよ」
 少し口を尖らせながら、急かされたように叶多は躰を起こした。自分がどんな格好をしているか意識になく、気づいたときは胸に置いた戒斗の手が滑り落ちるのと同時にバスタオルが剥がれた。
「っ……やだっ」
 とっさにバスタオルに伸ばした手が捕まれ、考えられないくらい素早く戒斗が胸に喰らいついてきた。なだらかだった胸先がすぐに戒斗の舌を撥ね返す。ぞわぞわした感覚が胸の表皮から下腹部へと伝い、叶多は背中を丸くして身を縮めた。
「戒斗、待ってっ」
 キスマークをつけるときみたいに吸引しながら、意外にも戒斗はすぐに離れた。
「対照的だな」
 触れたほうとそうじゃないほうを見比べて戒斗はニヤついた。叶多は思わず下を向いて確認してしまい、戒斗の云ったことがわかって顔を赤くした。
「スケベなおじさんみたい」
「おじさんだって? まだ二十六だ」
「あたしの頭の中、小学生並みだって云うけど、きっと戒斗の頭の中は仙人並みに生きてきて古くさいの」
 戒斗の瞳がきらりと光った。後悔するも遅く、叶多はバスタオルそっちのけで戒斗を乗り越え、急いでベッドからおりた。
「覚えてろ」
「覚えてない!」
 お尻丸出しで寝室を飛びでると、戒斗の含み笑いが不気味に追いかけてきた。

 時間稼ぎはともかく、どうやって戒斗の気を逸らそう。
 洗面台のまえに立って叶多は顔をしかめた。鏡を覗くと、強く吸いつかれたせいで充血したように右の胸先が赤くなっている。ズキズキして熱く感じるのは痛みのせいにしよう。叶多は自分に云い訳する。
 まずは棚に置きっぱなしだったショーツとパジャマを身に着けた。歯磨きをしている間にギターの音が鳴りだす。ふわふわと水に浮かんで流れているような、それくらい身を委ねたくなる心地いい音色だ。FATEの曲でも祐真の曲でもないけれど、なんとなくいつか聴いたバラッドだと思った。
 浴室を出て冷蔵庫へと向かう途中、ダイニングテーブルに置いた携帯電話が目につく。貴仁に電話するはずだったことを思いだしたけれど、時計を見れば十一時半だ。貴仁がもう就寝中だとは思わないものの、電話するには(はばか)れる時間だ。
 明日でいいけど……貴仁さんのこと、戒斗に話さなくちゃ。
 それに、気を逸らす材料にはなる。
 冷蔵庫からナチュラルウォーターを取りだして喉の渇きを癒やすと、叶多はそのペットボトルを持って寝室に戻った。

 戒斗はベッドの端に腰かけてまだギターを弾いている。揺らさないように気をつけながら叶多はベッドにあがった。最後まで聴きたいと思っているのに、さっきから同じところで戒斗の指が止まる。祐真が最高と太鼓判を()したアレンジャーの戒斗としては、こういうのはめずらしい。そこまで考えて叶多ははたと思い当たった。
「戒斗、もしかしてその曲、戒斗のオリジナル?」
 戒斗は口を歪めるだけで答えない。ということは叶多の憶測は当たっているんだろう。
「イメージはあるのに組み立てられない。たぶん、迷いがあるんだろうな」
 戒斗は肩をすくめて立ちあがると、ギターをクローゼットの戸に立てかけた。
「迷うって、戒斗が?」
「だから。重大事であればあるほど、結論は揺るがなくても、迷いは付き纏う。正確に云えば迷いじゃなく」
 中途半端なところで口を閉じ、戒斗はゆっくりと近づいてきて躰を折ると、ベッドに手をつき、叶多の目の前まで顔をおろした。
「……迷いじゃなくて?」
「怖い、のかもしれない」
 戒斗の瞳に映る自分がびっくり眼になっている。そして叶多のくちびるが目一杯広がった。
「笑うことか?」
 むっつりした声に聞こえなくもない。
「強い戒斗も好きだけど、泣いちゃう戒斗も大好きだから。それに、悲しいことも怖いことも認められたら、きっと逆に戒斗はホントに怖いものなし! なんだよ」
 戒斗の口もとに笑みが形づくられ、笑い声にはならないけれど確かにおもしろがっている。
「叶多が云うとその気になる」
 叶多はうなずいたあと、ちょっと伸びあがって戒斗の笑みをペロリとなぞった。
「誘惑してるらしい」
「じゃなくって! なんとなく。そのまえに話したいから」
 叶多は慌てて顔を引き、両手のひらを突きだして、襲うぞといわんばかりに手を上げた戒斗を押し留めた。戒斗は首を傾け、ここでもあっさりと身を引く。ベッドにあがってきた戒斗は、飲む? と叶多が差しだしたペットボトルを受け取りながら壁に背中を預けた。

「叶多」
「うん」
「負担かけるけど」
「何?」
「とりあえず」
 戒斗は考え考え云っているように、文節ごとに言葉を切る。もどかしくなって叶多は胡坐をかいた戒斗の脚の上に載っかった。
「戒斗、いいから早く云って!」
「イク?」
「云う!」
 戒斗は笑いだした。
「おれが毎日毎回口説くたびに、どれだけ面倒くさい思いしてるかわかったか?」
「わかんなくていい」
「まあ、無理強いしている感は悦楽ともいえなくはない。そのさきには淫乱に堕ちた叶多が見られるし、男の征服欲は完全に満たされてる」
「その話はいいから!」
 叶多は戒斗の口をふさぎたい気分で叫んだ。なまじっか、戒斗の仕打ちは気に入っているのかも、と自分を疑うところであり、否定できないのだ。
「あとで証明する」
「だから! とりあえず、って何のこと?」
 叶多は強引に話を戻した。内心では、証明なんて不要だと思いつつ、悦に入った顔つきで悪魔のごとく片方だけくちびるを上げた戒斗を見て慄いた。が、そうした表情もつかの間で戒斗は生真面目な顔に戻った。
「とりあえず、実家に行く。しばらく様子を見たい」
 和久井が口にして以来、叶多もそうなるだろうとは思っていたけれど、さっきのいまで戒斗がこんなふうに即断するとは思わなかった。
「いつ?」
「明日」
「……そんな急に?」
「我立玲美は瀬尾のところにも現れた。何か動くかもしれない」
「……わかった」

 しばらくふたりは無言で互いの眼差しを受け止めた。
 不安じゃないといったら嘘になるけれど、おそらくは有吏一族のかつての長が望むように、なるべくして事は動いている。それなら、きっと悪い結果にはならない。有吏の長という立場にいる戒斗を知っているからこそ、そんな気になれるんだろう。
 叶多が(おもむろ)に笑顔に変えていくと、伝染したように目の前のくちびるも歪んだ。

「崇おじさんとの話ってなんだったの?」
「則友さんの父親の写真を手に入れた。それで崇さんに確認してもらった」
 則友が孤独と云ったように、芳沢一家は本当にひっそりと暮らしていたようで、世間との繋がりがほとんどなかったという。情報が挙がらず、さすがの有吏も手間取っていた。
「どうだった?」
「崇時宜(ときのり)で間違いなかった。母親のほうは母さんに見てもらって、大雀華乃(おおさざきかの)だと確認できた」
 則くんのお父さんが崇おじさんの義理のお兄さん。それに、則くんのお母さんが詩乃おばさんのお姉さんということは……戒斗と則くんて従兄弟同士ってことで……。
 ある程度、戒斗が見当つけていたことであるのに、いざ事実になると、簡単な筋道にもかかわらず頭がこんがらがってきた。
「……それでどういうことになるの?」
「いろいろ咬み合わせた。崇時宜は“上”だ」
「え……檻から出た上って……則くんのお父さんのこと?!」
「そうだ。則友さんが教えてくれたことで確信した。則友さんは有吏の八掟を知っている。叶多、あのとき、おまえに八掟を云わせたのは誰だ」

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