Sugarcoat-シュガーコート- #143
第15話 All's fair in love and war. -6-
車体の低いスポーツカーは、美鈴が普段に載るセダン車に比べると乗り心地がいいとはとても云えない。ましてや玲美の車はすべてがうるさくて、会話するには大声になってしまい、何か云っても訊き返されることがしばしばで無駄に疲れる。
よって三〇分ほどして貴仁の家の前に到着するまで、ほとんど車中の会話は成り立たなかった。
「玲姉さん、ありがとう」
後部座席に乗った貴仁がドアを開けたと同時に、カーオーディオのボリュームが下げられた。美鈴はほっと息を吐きだす。
「貴坊、あんた、『おれらにとってまずいことになる』って云ったけど、いつから啓司の正体を知ってるの? 啓司があっちの窓口だってことを知ってるのはごく一部の一族だけよ。そういう意味で云ったんでしょ?」
玲美が迎えにきて以来、まったくチンプンカンプンな話ばかりで、いまもまた美鈴は眉をひそめて聞き入った。後ろを振り向くと、貴仁はすでに躰を外に向けていて、そのままの姿勢で首を回して玲美を見やっている。
「最近だよ。見当をつけてたってところだけど、いま玲姉さんが云ったことではっきりした」
貴仁はあくまで事態を軽く扱おうとしているのだろう、おもしろがって答えた。玲美は、しまった、といったふうに片側だけほんの少し顔を歪めている。
「そう……貴坊」
「わかってるよ。玲姉さんが喋ったってことは云わない。玲姉さんには散々世話になってるからね」
いまのふざけたふうの貴仁と、たか工房にいるときの貴仁は違っている。美鈴としては、ふざけている貴仁がずっと普通であったのに、最近ではたか工房にいるときの落ち着いた様が貴仁の普通なんじゃないかと思い始めた。
どんなに惚けた口調でも、口にすることはもっともなことが多いと母の英美はよく云う。甥だからひいき目だったり、かばっているんだろうなどと思っていたけれど、いまの受け答えにしろ、隙がないように思う。軽薄でありつつも、さっきは絡まれていた叶多たちから、気分を害しない程度にうまく諭しつつ玲美を遠ざけていた。
「あたりまえでしょ。あんたにはいつもうまーく乗せられて、喋らされてる気がするのよね」
「気のせいさ。それより玲姉さんのせいでおれ、たかに行けなくなったかもしれないだろ」
「そこまであんな子が好きなの?」
「あんな子、じゃないよ」
「ふーん」
玲美は思わせぶりに相づちを打った。貴仁が拗ねたような顔になる。
「なんだよ」
「あんたに免じてあの子は助けてあげるわ。さっきのお詫び兼ねてね。なんだかんだいってもあんた、憎めないのよね。得な性格」
「そうかな。まあ、玲姉さんにそう云ってもらえるとうれしいけどね。それより、助けるってなんのこと?」
「ちょっとパパと幹部たちの話を聞いちゃったのよね」
「だから何さ」
「これ以上は云えないわよ」
「そこまで煽ってさ、ひでぇ。とにかく、叶ちゃんに何かしたら、いくら玲姉さんでもおれは黙っちゃおかないよ」
「だから、助けてあげるってば。それより、だいたいなら領我家ってこういうこと、いちばんに知るべき分家のはずよね。それが蚊帳の外だなんて。領我家はいったい何したの? 本家から謀反扱いよ?」
「領我家は蘇我一族のために動いている。それだけだ。独裁じゃ、いつか躓くんだ。本家は閉鎖的すぎてそのうち裸の王様になる。それをなんとか打破しようとしているのが伯父だ」
「まえはその伯父さんが生真面目だってうんざりしてたみたいだけど?」
「おれも大人になってるのさ」
貴仁はひょいと肩をすくめて車を降りると、躰をかがめて車の中を覗きこんだ。
「玲姉さん、美鈴が乗ってんだからむちゃな運転しないでよ。おれは楽しいけどさ」
「わかってるわよ。じゃね」
玲美は前に向き直って姿勢を安定させるとギアに手を伸ばした。
美鈴は窓を開けて貴仁を見上げる。貴仁はどこか考えこむようで、見たこともない険しい表情がよぎった。一瞬のことで、美鈴の見間違いかもしれない。いや、やっぱりたったいまの顔は貴仁の本質だ。玲美との会話は何気なく聞こえても内容自体は怪しげで、貴仁は何かを引きだそうとして叶わなかったのだ。
「貴仁くん、またね!」
「ああ」
貴仁は軽快にうなずいた。手を振った直後、いましがたの返事はどこへやら、玲美は豪快にエンジンを吹かして車を出した。同時に音楽もボリュームアップされる。ミラーを見ると、貴仁の見送る姿がどんどん小さくなった。
「ちょっと寄り道していいかしら」
玲美が声を張りあげた。
「うん、大丈夫」
そのあとはまた沈黙で――といっても雑音だけは最大級で、車は十五分後、見知らぬ通りへと入っていった。そして、角を一つ曲がったとたんに別世界に入りこんだ。ネオンサインに満ちたビル群が溢れている。美鈴には無縁の場所だ。
玲美は通い慣れているようで迷いなく進むと、ふと車を歩道に寄せて止めた。また音楽のボリュームを下げ、運転席と助手席の間のボックスから携帯電話を取った。
「オーナーを呼んでくれるかしら。玲美よ。ぜひとも出てくるべきだって云ってちょうだい。さもないとカノジョがどうなっても知らないわよ、ってことだから」
玲美は相手の返事を待つ様子もなく携帯電話を切った。
「玲美お姉ちゃん、さっきからなんの話してるの?」
玲美は首をかしげ、ふふっと意味ありげに笑う。
「美鈴ちゃんはね、なんにも知らなくっていいのよ。いつかは王子様がって感じが似合ってる。わたしは差し詰め、シンデレラの姉かしら。足の指切ってでも靴履いちゃうぞって。それは認める。でも、こっちはプライド潰されるだけ潰されて、自分だけハッピーエンドだなんて虫がよすぎるのよ。あ、もう出てきた。カノジョのためだったらなんでもするってね。わたしにとってはラスト、アンド、ビッグチャンス!」
玲美は独り言みたいに一方的に喋ったあと、ミラーを見て車が来ていないことを確認してドアを開けた。
美鈴は理解不能なまま、車を回る玲美を追い、それからその先にいる男が目についた。
二〇代後半だろうか。スーツを着こなした雰囲気からもっと上に見えなくもない。髪は後ろにまとめられ、きれいな顔立ちが灯りの中で鮮明に見て取れる。
口角がかすかに上がっていて微笑んでいるように見えるけれど、全体的にクールな印象を纏い、それは眼差しも同じで、彼は玲美を捕え、追う。
美鈴は車の窓を十センチほど下げてみた。そのときちょうどふたりが車から二メートルもないくらいの位置で向かい合う。彼はこちらを向き、玲美は背を向ける形だ。
「玲美さん、めずらしいな」
「あれ以来、わたしってお利口さんにしてるでしょう? 今日はもう一つ、啓司のために役に立ちたくって来たの。これでチャラにしてくれるわよね」
「なんのことです?」
最初の一言にあった物柔らかな声に加えて怪訝さが混じった。玲美が呼んだ“啓司”というのは、たか工房の店先で何度か出た名だ。この人がそうなのかと思いつつ美鈴は見守った。
「啓司のカノジョ、助けてあげるわ。わたしが、ね」
玲美は貴仁に云ったことと同じことを云ったが、反応は明らかに違う。彼は眉をひそめ、クールさに棘が見え隠れする。
「どういうことですか」
「そのうちわかるわよ。そしたら啓司、身の振り方を考えるべきね。回答を楽しみにしてるから」
玲美が踵を返して背中を向けたとたん、彼は一気に殺気立った雰囲気にかえ、そしてすぐに消した。
玲美が車に乗りこむと、彼の視線がおりてきて、一瞬だけ美鈴と合ってしまう。美鈴は慌てて顔をそむけた。
「終わり?」
「そう。帰りましょ」
「玲美お姉ちゃん、安全運転ね」
「わかってるわよ。美鈴ちゃんに怪我なんてさせたら、おじさまから縛り首に遭っちゃうわ」
玲美は冗談めかして云った。
その実、父の唐琢は美鈴が怪我しようが事故死してしまおうが、何も動じない気がする。怖いだけの人だ。小さい頃に抱っこされた覚えもないし、一緒に出かけたこともないんじゃないだろうか。少なくとも美鈴の思い出にそういった光景はない。
同じ屋根の下に住む、聡明やその家族とは他人じゃないかと思うくらい、形式ばった挨拶しかしない。異母兄である聡明よりはその子供たち――姪と甥とのほうが年は近いのだが、それもなぐさめにならないくらい距離は隔たっている。親しくしようにも、聡明がそれをさえぎる。
玲美は、領我家のことを蚊帳の外と云ったけれど、美鈴にしろ、その待遇は変わらないと思っている。それとも、領我家の血を引くからこそ、母や兄と同様、軽くあしらわれているのだろうか。
母も兄も美鈴をかまってくれるからあまりさみしく感じることはなく、玲美の云うとおり、なんにも知らずに、もしくは何も知ろうとせずに今日に至っている。
ただ、何かうごめいているのがわかる。最近、あの大きいだけの家の中がそわそわしているのだ。
そして、この一時間の間に耳に入った意味不明の言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
美鈴は誰もが認めるとおり、おとなしくて控え目だ。消極的という難点は一つだけ長所を生んだ。黙っているぶん人を観てきて、雰囲気をつかむのは自分でも長けていると思う。
たか工房からの帰り際、どこか剣呑とした様があって、それまでの和気あいあいを消したのは玲美に違いなく、いくら美鈴でも何かあることだけは察知した。もしかしたらその中心人物である叶多は、露骨じゃないけれど怖がっていた。
叶多は人を惹く。思いこみが激しそうで、注意力散漫というよりは一極集中型。その点、美鈴もあまり人のことは云えないけれど、とにかく人の根本に対して偏見がない。だから人の意見を素直に聞ける。そうしたら誰だって自分は受け入れてもらっていると思うし、自分だって何かしたいと手助けしたくなる。
貴仁はもちろん、兄の孔明にしろ、自分では気づいていないようでも妹の美鈴からすれば歴然とついちょっかいを出しているふうに見える。
叶多は誰からも好かれ、それは“いい子ぶってる”とか、同性に嫉妬心を抱かせてしまいそうな女の子なのに、その気を起こさせないところが叶多のいちばんすごいところじゃないかと美鈴は思っている。
一方で玲美は正反対だ。
玲美のことは慕っている。わがままで、欲求をすべて満たしたがる傾向が強いのは、我立家の家柄のせいだし、格好や自信過剰すぎる言動に圧倒されることはあるけれど、従姉妹たちの中にいても控え目にしか行動できない美鈴をいつも守ってくれた。
だからもし、玲美がおかしなことをしようとか、もしくはヘンなことに関わっているのなら、嫌って離れるよりはそれを止めたいと思う。
なんとかしなくちゃ。
うるさい音楽に紛れ、美鈴はそうつぶやいた。