Sugarcoat-シュガーコート- #142

第15話 All's fair in love and war. -5-


 玲美の目が戒斗に留まり、下へとおりて繋いだ手のうえでまた留まった。そして、ふっと美鈴へと向く。
「美鈴ちゃん、貴坊がご執心だって女、この子じゃないの?」
「そ。叶多さんだよ」
「カレシいるみたいじゃない。それともあの人、お兄さん?」
「戒斗さんはカレシさんだよ。同棲までしてるんだから」
 玲美はしたり顔でニヤニヤしながら、貴仁に近づいて正面に立った。
「何、貴坊、よりにもよってこの子で、しかも報われない恋っていうこと?」
「玲姉さんには関係ないだろ」
 貴仁は拗ねたふうに答えた。玲美は可笑しそうに眉を上げて、今度は叶多たちのほうへと寄ってくる。
 叶多の手に力が入ると、戒斗の手が大丈夫だとなぐさめるように一瞬だけ強く握り返した。
「啓司のとこに来てるときも場違いだって思ったけど、こんなチンケな子がいいなんて趣味を疑っちゃう……あら……?」
 玲美の口から『啓司』という名が出たとたん、叶多はまた手をきつく握られる。見上げた戒斗は眉間にしわを寄せていて、叶多はその無言の問いに応え、かすかにうなずいた。
 一方で、叶多に対して侮辱的な言葉を吐いた玲美は、暗がりの中、戒斗を間近に見ると言葉を途切れさせ、その目を大きく開いた。
 戒斗の公然の立場を察したんだろう。戒斗はそれにかまわず口を開く。
「貴仁は“趣味が悪い”わけじゃない。むしろ、見る目は確かだ。これ以降、一言でも非礼なことを口にするなら、瀬尾が果たせなかったことをしてやろうか」
 戒斗の声は怒っているわけでもなければ脅しているようにも聞こえず、ただ淡々として、逆に深い洞窟の底から冷ややかに響くようで薄気味悪い。
 戒斗をたぶん知り尽くしている叶多でさえそう感じるのだから、玲美は殊更(ことさら)のはずだ。案の定、彼女はわずかに怯んだ表情を見せた。戒斗が瀬尾の名を口にしたことで、玲美も悟ったはずだ。そのやったことを知られているという具合の悪さもあるのかもしれない。
「わ、わたしを誰だと思ってるの?! それに、そんなことして困るのはあんたのほうよ。あんた、FATEってバンドの――」
「おまえが誰だろうと同じだ。おれが警察に訴えなかったのは彼女が五体満足で帰ってきたからであり、瀬尾の顔を立てたまでだ。瀬尾はおまえの親父の顔を立てたらしいけどな。惚けた真似をしてみろ。瀬尾にすべて証拠を出させる。刑務所に行くのはどっちだ?」
 玲美は悔しそうに下唇を咬みつつ、冷やか極まりない戒斗の顔を気丈にも睨みつける。
 そこへ貴仁がやって来て、玲美の肩を軽く叩いた。
「玲姉さん、帰ろう」
「貴坊、わたしに引けって云うの?」
「あのホストは怒らせないほうがいいってわかってるだろ。“おれら”にとってまずいことになるよ」
 玲美は何やら胸算しているのか、諌めた貴仁を睨むように見上げ、口を一文字に結んだまま微動だにしない。

「あの……玲美お姉ちゃん、刑務所……って?」
 まるで話の筋をわかっていない美鈴は『刑務所』という言葉を慄きながら口にした。玲美は美鈴の声で我に返ったように殺気をなくし、かわりにばつの悪そうな表情を浮かべている。
 美鈴の口から玲美のことを聞いたことがなかっただけに、叶多は興味を持ってそんなふたりを見比べた。ほんのいままで怖さに近い不安があったのに、そんな余裕が持てるのは、戒斗が立ち会っていることで解消されたからだろう。
 彼女たちを並べて客観的に想像すれば、玲美のほうが優位に立っていて、美鈴にどう思われようが笑殺しそうに見えるのに、実は自分の負の面を知られたくないような感じを受ける。美鈴が本家で、玲美が分家という立場を考えれば、玲美が出しゃばるのも程々になるのか、特に美鈴が虐げられいるわけでもなさそうだ。
 彼女たちには性格的にも外見的にも共通点は見えないし、不思議な関係に見えた。
「なんでもないの。美鈴ちゃん、帰りましょ」
 叶多が挨拶しなかったことを咎めたくせに、玲美はさよならも云わず、くるりと身を翻して車に向かった。
「えっと……じゃあ、叶多さん、またね」
「うん、またね」
 叶多が同じように返すと、美鈴はほっとしたように笑って車の助手席に乗った。
 美鈴が車の中に納まったのを確認して、貴仁は戒斗へと正面を切った。互いが何も語らず何も表さず、ただ時間が止まったように視線を絡ませている。
 結局は何も言葉を交わさないまま、貴仁は叶多に視線を移してうなずき、則友をちらりと見やったあと玲美の車の後部座席に乗りこんだ。
 玲美は二回も無駄な空吹かしをしたあと、車体後部が置き去りにされそうな勢いで派手に発進する。あっという間に車は小さくなってしまった。

 爆音を撒き散らして走り去るスポーツカーを見送りながら、則友が呆れた様で息を吐いた。
「季節外れの台風が去ったって感じだ。叶っちゃん、大丈夫?」
「うん。びっくりしてるけどなんとか」
「戒斗くん、あの彼女との間に何があったか知らないけど、とにかく気をつけたほうがいい。いや、気をつけるべきだ。叶っちゃんに何かあってもらっちゃ困る」
「それはおれがいちばんわかってる」
 戒斗は、則友に対してはめずらしく穏やかじゃなく云い返す。則友が気づかないはずはなくて、なだめるように軽く片手を上げた。
「ああ、その点に関して疑ってるわけじゃない。ただ、僕が云いたかっただけだ。じゃ、叶っちゃん、また明日」
「うん」
「則友さん」
 不意に戒斗が呼び止め、則友は一歩進めた足を止めて振り向いた。戒斗を見上げてみると不穏さは消えていて、眼差しには何かを得ようとする意思が窺える。
「則友さんが貴仁と知り合ったのはいつなんだ?」
「戒斗くんと大して変わらないよ。叶っちゃんがここに連れてきたときだから二年まえになるね」
 とうとつであり趣旨不明の質問にも、則友はそつなく答えた。
「もう一つ、則友さんの父親のことが知りたい」
「いきなりだな。それで何を?」
 則友は苦笑しながら戒斗に問い返した。
 叶多にも則友の返事に戒斗が何を求めているのかはわからない。崇と話したがったということは、また何かが判明したことを示している。戒斗が性急に疑問を投げかけるのは、もしかしたらそれが則友と繋がっているというんだろうか。
「父親というよりは、その芳沢時宜(ときのり)という人の両親が誰かわかれば充分だ」
「残念ながらそれは答えられない。なぜなら、僕は祖父母に会ったことはないから。覚えているかぎり、僕ら親子は血縁もなく孤独だった」
 則友は『孤独』というさみしい言葉をなんでもないことのように使い、軽く肩をすくめる。
「聞いたこともない、と?」
 戒斗が尚も食い下がった。
 すぐには否定も肯定もせず、則友は他所(よそ)に目を向けて口を噤んでいたが、やがて意を決したように短く息を吐き、戒斗へとまっすぐに目を戻した。

「戒斗くん、君が僕を信用している、という前提で話させてもらうよ。……ない、と云ったら嘘になる。父が自分の出生子細(しさい)を知らされたのは中学に入ってからだそうだ。僕が祖父母と会ったことがないという以前に、父自身が産みの両親とは面識がなかった。ただ“見る”ことだけはできたけど。父の死に際に会いにきたのが最初で最後。人の目を盗み、極々内密にね。そのとき僕は、父方の祖父母がそういう立場にいる、ということをはじめて知った。そのあと、僕は父からすべてを聞かされ、伝承を(あずか)った。父は――おそらくは祖父母たち、もっといえばそのずっと先代までもが願っている。還りたい、とね。それを叶えるのが僕なんだろう。僕の判断で云えるのはここまでだ。いいかな」

「充分です」
 戒斗はそう云いながら、まるで敬礼するように足をそろえて頭をかすかに垂れた。
 則友はそんな戒斗を目にして、世間への関心を失った世捨て人みたいに力なく笑う。

「叶っちゃん抜きで君に会うことになっていたら、僕は伝承も封印したまま、誰にも話すことはなかったかもしれない。ガキっぽくいえば、かなりムカついてたんだよ。わけのわからない血統にね。父や母を見ていたから、それなりに何かあるとはずっと感じていたけど、いざわかったことは常識外れもいいとこで素直には受け入れ難いことだった。いろんなことを知らされた直後に父が死に、それからたった一つの遺命だった、“たか”に来るまで一年かかった。そのとき、そこに叶っちゃんのガラスがなかったら、一生たかに入ることはなかったと思う」

 則友は入口のすぐ横にあるショーウィンドウを指差した。それから、話の展開にきょとんとしている叶多を見て、則友はいつもの温和な表情に戻って可笑しそうにした。
「最初に会った日、叶っちゃんのガラスが好きだって云ったときと同じ顔してるよ。非現実みたいな現実の中にいると、そういう叶っちゃんの変わらなさに安心させられるんだ」
「……いちおう誉め言葉だよね?」
「僕は戒斗くんと違って、少なくとも叶っちゃんに対してはそういうこと惜しまないよ。じゃ、気をつけて」
 最後は戒斗に向かって云うと、則友は手を上げて駅のほうへと歩いていった。

「戒斗?」
 則友の背を追っていた戒斗の視線が叶多へとおりた。
「則友さんのことはだいたいのことがわかった」
「そう?」
「ああ」
 戒斗が返事したと同時に、さっきの玲美とは正反対で、いつの間にというほど和久井の車が静かに現れ、店の前に止まった。

 叶多は和久井と会うたびに毬亜を思いだす。毬亜とは、成人式の日から直で連絡を取り合うことなくいまに至っている。和久井に毬亜の様子を訊ねるのはもってのほかなのに、つい訊きそうになってしまって叶多はハッと息を呑む。
 ただ、心配することはないともわかっている。和久井組という家柄であっても、和久井は弱い者を酷く扱うほど卑劣な人じゃない。タツオによれば、和久井が毬亜の行動を知ったことは確かで、それ以来、毬亜は千重家にこもりっぱなしだという。元気にしているらしく、タツオに気を遣わせて叶多のほうがなぐさめられる始末だ。

「和久井、我立玲美を監視だ。瀬尾に伝えてくれ」
 車が動きだしてすぐ、前置きもなく戒斗が命を下した。
「どういうことです?」
「さっき会った。貴仁たちを迎えにきたらしい。あの女は叶多を覚えていた。いまのところ、どうこうしようっていう他意は見えないが……瀬尾の名を出して脅してはいる。それが役に立たない愚かな奴もいるからな」
「わかりました」
 和久井は重々しく答えた。
「戒斗、玲美さんにあんなこと云って大丈夫? 戒斗が戒ってわかってたし、もし何かあったらFATEが……」
「だから瀬尾の名を出したんだ。瀬尾のバックに正体不明の一族がいることは向こうも承知だ。つまり、我立の――蘇我の名をもってしても融通の利かないことがあることも承知している。だから下手な手は出せない」
「そっか。よかった」
「大丈夫か」
「うん。全然怖くなかったっていえば嘘になっちゃうけど、戒斗がいるってわかってたし」
 正直に云うと戒斗は笑った。
「戒斗、しばらく本家へ行かれたらどうです?」
 和久井がルームミラー越しにチラリと戒斗を見やった。
「どういうことだ」
「約定を破棄して十日を過ぎました。そろそろ蘇我がなんらかの動きをするのではないかと」
「勘か? それとも根拠が?」
「どちらもですよ。あの蘇我です。我々が水面下で動いているように、このまま黙っているとは考えられません」
「もっともだ」
「戒斗?」
 物騒な話に身震いしながら叶多が呼ぶと、戒斗は手のひらを上にして差しだした。そこに自分の手を預けるとしっかりと包まれる。すると、知らぬ間に強張っていた肩の力がふっと抜け、叶多はそっと笑った。それを目にした戒斗がくちびるの端を片方だけ上げる。それでまた安心した。


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