Sugarcoat-シュガーコート- #141
第15話 All's fair in love and war. -4-
戒斗が来たことで、詩乃だけがさきに帰り、あとのみんなはずるずると夕ごはんまで相伴した。引き止められたのか居座ったのか、限定できないところに、“もと”のわからない引力を感じる。
叶多は美鈴と一緒に片づけを終えて居間に戻った。
「叶ちゃんの手料理、久しぶりだったな。美味しかった」
「ホント。ガラスだけじゃなくって、お料理も叶多さんに弟子入りしようかなって思うんだけど」
美鈴は本気っぽい目を叶多に向けてくる。叶多はとんでもないと手を振って否定を示した。
「そんなに上手なわけじゃないよ。普通の料理が普通にできるってだけ」
「その“普通”が意外に難しいんだよ。ね、戒斗さん」
意味ありげに戒斗を見やった貴仁は、明らかに料理についてじゃない話をしている。戒斗は取り合う気がないようで、息を漏らすだけの笑みを返した。
『触るな』から一見、穏和に戻ったかのようだが、これまでのことを考えるとまだ尾を引いているに違いない。
けっして穏やかじゃない状況下、あのことは話していいんだろうか、と目下のところ、叶多には悩みの種になっている。信用するどころか、戒斗にとって貴仁はますます敬遠の対象になりそうな気がする。
「貴仁くんの云うとおり、普通にありそうなことが普通にないことって意外に多い。“主婦の手料理”って縁がないから、僕にとっても崇さんにとっても叶っちゃんは貴重なんだよね」
「則くん、三〇だし、独身やめちゃってもいいと思うんだけど」
つい云ってしまうと、今度は則友まで意味ありげに戒斗を見やった。
「んー、叶っちゃんがそうしていいって云うんだったらいつでもやめる覚悟はあるよ。あ、覚悟っていらないね」
叶多に答えているはずが、則友の目は戒斗を向いたままで、見た目は至って平和的なのに口にしたことは戒斗にとって挑発そのものだ。
こういうときは知らんぷり。そう思って、叶多は戒斗に目をやりそうなのをぐっと堪える。
まえは気づけなかったことがいまは気が回るようになって、それは成長したのか、はたまた戒斗のことをすっかり学べたのか。気づけないで馬鹿を見るのもどうかと思う反面、気づかないでいるほうがらくだとも思う。同じ罰でも、わかっているのと不意打ちでは気分的な被虐指数にかなりの差が発生するのだ。
「……え、っと、あたしがどうこう口出すことじゃないよ」
「わんこ、渡来の倅が云ってたが、いよいよ分身の術を覚えるべきだろうな。たか工房は則で終わるやもしれんぞ」
せっかくわかっていないふりをしてうまく収めたつもりが、崇はまるっきりおもしろがって無駄にした。
渡来くん、余計なことを崇おじさんに……。
叶多は顔をひしゃげ、うっかり戒斗を見てしまった。
……。睨む相手があたしなんて絶対に間違ってる。
叶多と戒斗以外の吹きだすような忍び笑いのなか、誰に向かってか内心で抗議しながら、叶多はこっそり嘆息した。
それからしばらく他愛ない話になってほっとしていると、美鈴の携帯電話からFATEの最新曲が鳴りだした。画面を見た美鈴は、携帯電話をバッグにしまいながら貴仁に向かって首をかしげた。
「貴仁くん、帰らない? ママからメール入って、もうすぐお迎えが来るらしいんだけど」
「ああ、それなら便乗しようかな」
「じゃあ、僕も帰ろう。明日もあるし」
柱に掛けられた時計を見るとまもなく九時になるところだ。叶多も腰を浮かした。
「あ、そしたら戒斗、あたしたちも――」
「さきに行ってろ。崇さんとちょっと話がある」
叶多はいったん動きを止め、戒斗を見つめた。戒斗は促すようにうなずいてみせた。
「わかった」
戒斗はたぶん則友たちが残らないように叶多をさきに行かせようとしているんだろう。本当にコバンザメ扱いだと、気の毒に思わなくもない。当の則友と貴仁は暗黙の了解みたいに、茶々を入れることもなく立ちあがった。
「じゃ、崇おじさん、また明日ね」
「ああ。則、戒斗が行くまでわんこを見張っとくんだぞ」
「わかってますよ」
「かといっておまえが攫わんようにな」
野良犬扱いに辟易したところに、崇はさらに戒斗の不愉快を煽るようなことを云い、叶多はがっくりと肩を落とした。則友は苦笑混じりでため息を吐き、戒斗はといえば、案の定、細めた目で叶多を見ながら首をひねる。
だから、悪いのはあたしじゃない! と、そう叫びたい気分だ。
「まだ殺されたくはありませんよ。身軽に見えても、遂げなければならないことがあるので」
美鈴がくすくす笑うなか、則友はちらりと戒斗を見たあと、
「叶っちゃん行こう」
と、さきに土間におりた。
崇の住まいを出ると最後尾を歩きながら、叶多は一頻り息を吐きだした。斜め前を行く則友が振り返る。
「何か憂うつなことでもある?」
「や、何もないよ!」
へんに勘繰ってもらっても困ると思い、叶多は即座に否定した。則友は何を思ってか、可笑しそうにした。
「おもしろいんだよね」
「……なんのこと?」
「戒斗くんと叶っちゃん」
「あんまり聞きたくないかも」
則友の口調からするとからかわれるのは必至だ。控えめに、もういいと云ったつもりが人の口に蓋をするのは不可能で、則友はますますおもしろがって喋りだした。
「戒斗くんてさ、何云おうが何しようが落ち着きはらってるくせに、叶っちゃんに絡むとムキになるっていうか。叶っちゃんが戒斗くん一筋ってこと、本人もわかってるはずだけどね。僕たちがわざとちょっかい出してることもわかってるだろうに、それでもいちいち反応せざるを得ない」
「わざとって、それ、あたしに返ってくるんだよ?」
叶多は口を尖らせた。前を歩いている貴仁も美鈴も聞き耳を立てているようで、プッと吹きだした。
「念のため云うと、叶っちゃんが大事だって気持ちはからかってるんじゃなくて本気。たぶん、貴仁くんもね」
則友は本気を示すように生真面目な声音に変えた。
「たぶん、じゃない」
すかさず貴仁が口を挟む。則友と違い、貴仁はいつもの軽い調子だ。
いずれにしろ、叶多には身に過ぎることであり、いつまでたっても応えられないことで困り果てる。
こんなことで困るなんて罰が当たりそう。そう思ったせいか、叶多はゾクッと身震いした。もしくは、叶多の頭の上に戒斗専用の電波塔が立っていて、いまの会話も残らず聞いたぞという警告を、犬の本能が察知したのかもしれない。
「則くん、貴仁さんも。あたしは――」
「わかってる。奪おうとか押しつけるとか、そんな気はないよ。叶っちゃんがヘンに気を遣って会えなくなることのほうが不本意だから。そのぶん、戒斗くんに手を出してるわけだけど」
「だから、それがあたしに返ってくるんだよ」
「なるほど。それがさっきのため息の原因なんだ。何が返ってくるのか興味あるところだけど」
勘繰られないようにと思っていたのに結局、自ら暴露していたことに気づくと、叶多は焦って顔の前で手を振り回した。
「興味なんて持たなくっていい!」
則友はめずらしく、皮肉っぽいニタリとした笑みを浮かべた。
「僕としても聞かないほうがいいんだろうな。ま、わがままを“返し”たくなるほど戒斗くんが叶っちゃんを大事にしてるってのはわかった。いちいち反応するのは、余裕がなくなるっていうよりは、叶っちゃんが一筋だからこそ欲張りになるってね。戒斗くんが主導権を握っているようで、実は“お返し”でなだめてる叶っちゃんが一枚ウワテだったり」
あの、下手すれば気絶させられるという酷い仕打ちは果たして“なだめている”ことになるんだろうか。
や、酷いと云っても……。
“云っても”? 普通に考えてその次に来るのは否定形で、それはつまり酷いと反対の意味ということで、酷くない……って、しかも無意識でそんなことを思うなんて、もしかしてあたしって、あれを気に入ってる?!
衝撃的な結論に叶多の思考はクラクラしてしまう。
思い返せば、次の日、毒を呑まされたみたいに気だるくふわふわした感覚はどこか心地よくて、至って爽やかな戒斗から起こされて目覚めるのは嫌じゃない。
あたしってば究極のえっち好きかも。や、違うって! 戒斗に限って、の話なんだから。それに、普通に――人のなんて見たことないから、たぶん、だけど、とにかく普通に終わらなくてそこまでやっちゃう戒斗だってエロくてヘンタイだよ。
でも、受け入れて、それがなだめることになって。こういうことで相性がいいってどうなんだろう……。
「相変わらずの百面相だね」
ちょうど店を通り抜け、ため息を吐いたとたん、笑み混じりの声が降りかかる。ここに来るまでつぶさに則友に観察されていたらしい。店先だし、夜であることが幸いして、赤くなったのはどうにかごまかせたはずだ。
「そんなにヘンな顔してる?」
「ヘンなわけないよ」
当てにならない答えが返ってきた。なんとかのひいき目だ。則友の場合なんだろう、と考えていると、唸り声のような車のマフラー音が聞こえてきた。見えないほど遠くからでも聞こえるということは、かなりうるさいということだ。
「美鈴、誰が迎えにくるんだ?」
貴仁が怪訝そうに美鈴を見下ろした。“嫌な予感”といった表情に見える。
「さあ。いつもなら我立おじさんところの誰かだけど、今日はなんだか玲美お姉ちゃんて気しない?」
何を根拠にしているのか、美鈴はおもしろがっている。
叶多は『玲美』というのをどこかで聞いた名だと思った。考え巡ったがすぐには思い浮かばず、それよりも、迎えが誰かはっきりしてなくてもかまわないなんて、自分よりもよっぽど美鈴のほうがのんびりしていると、叶多はちょっと安心を覚えた。
一方で、貴仁はなぜか顔をしかめ、叶多を向いた。
その間にもどんどん車は近づいてきている。
「叶ちゃん、戒斗さんのところへ戻ったほうがいい。則友さん、頼むよ」
「わかった」
「あ、でも、戒斗は崇おじさんと話してるし――」
「いいから」
貴仁が叶多をさえぎったそのとき、車の音が最大値になり、叶多たちがいる歩道に横付けされた。こんな近くでは本当にうるさくてかなわない。
「叶ちゃんは……姉さんに会わないほうが……。あとで……するから早く……って」
止まったくせにわざわざエンジン音を吹かし、あまりの騒音で貴仁の声は途切れ途切れにしか聞こえない。が、ここでもどこかで聞いた響きが頭に残る。
“――姉さん”という云い方と貴仁の声、それに美鈴が口にした名が、夕方に甦らせられた二年もまえの出来事を生々しく連結していく。
「叶っちゃん、行こう」
叶多の中で一本に繋がったと同時に、車のドアが開いて、ヘビー級のロックがガンガン外に漏れだす。近所迷惑もいいところだ。が、そんな常識的なことを考えられず、則友が促すも叶多は立ちすくんだ。貴仁の云うとおり、会うのはまずい、となんとなく思った。
「叶っちゃん」
則友が今度は少し強く叶多を呼ぶ。
「あ……うん」
「玲美お姉ちゃんがわざわざ来てくれたの?」
美鈴がうれしそうな声で迎える。
釣られて目を向けると、貴仁の脇から、あの爆発したようなヘアスタイルと、真理奈よりも派手な服装がちらりと見えた。
「そ。貴坊が一緒だっていうし、ちょっと興味あったのよね」
「玲姉さん、ガラスに興味あるの?」
くるりと躰を回して叶多に背中を向けた貴仁は口振りを変えた。これまでよりももっと茶目っ気たっぷりで小年ぽい。あのとき、拉致した男たちに使っていた口調と同じだ。
貴仁が盾になって、玲美から叶多は見えていないだろう。その間に、と則友がそっと叶多の腕を引いた。
「興味あるのはガラスじゃなくって貴坊」
「おれ?」
「そうよ。あ、ちょっと!」
玲美が声を張りあげた。呼びかけの対象が貴仁でも美鈴でもないことは確かだ。叶多は思わず立ち止まった。いくら対面したくない人でも、無視するには不自然すぎる。振り向くのと同時に、叶多をなるべく隠すように、則友が目の前に左肩を入れて立った。
「なんだよ」
「貴坊じゃなくて、あんたの後ろにいる子よ」
貴仁が惚けて返事をするも、玲美は簡単にあしらった。
おそらく玲美は、いったんターゲットに定めたら食い下がるタイプだ。だからこそ、瀬尾にあんなふうに撥ね除けられても深智を攫うなんてとんでもないことができるのだ。
大丈夫。貴仁さんは敵じゃなくて、則くんはいるし、戒斗だってすぐそこであたしの電波をキャッチしているはずだ。
叶多はいまあるかぎりの気強くなれる条件を並べ、腹を据えた。
「大学の後輩だよ」
「挨拶なし? 普通ねぇ――」
「あ、こんばんは」
玲美が覚えているかどうかもわかないなか、叶多はなるべく玲美の記憶を触発しないよう、則友の脇から覗いて、髪が頬にかかるまで首をかしげた。叶多に続いて則友が口を開く。
「こんばんは。彼女、ちょっと病みあがりでちょうど休ませようかってところだったんだよ。無視したように見えたのなら謝るよ」
則友は即席でもっともらしい云い訳をした。玲美の目が品定めするように則友を上から下まで見回す。当然それが叶多にも向けられるに違いなく、いざ玲美の目と合ってしまうと、自分は飛び退く寸前の犬みたいにしているんじゃないかと思った。
玲美はかすかに眉間にしわを寄せた。と、貴仁と美鈴の間を通ってつかつかと叶多に歩み寄った。
「玲姉さん」
貴仁の制止は無視された。叶多が一歩退いたのと、玲美に腕をつかまれたのはほぼ同時になった。
「玲姉さん、放しなよ」
「確かめたいだけよ。ちょっと来て」
「え、あ、どこ――」
ずるずると引きずられるなか、最後まで云い終えないうちに玲美は立ち止まった。外灯の真下で厚化粧した顔が近づいてきて、化粧品か香水か、どぎつい匂いに襲われた。まじまじと叶多を見たあと。
「やっぱり!」
玲美はしっかり覚えていた。疑惑に満ちた顔つきで叶多に見入っている。
「……え、っと……やっぱり、って?」
「あんた、啓司のとこにいたわよね?」
「……いえ、あたし、警察にお世話になったことはないんですけど」
「刑事、じゃなくて啓司。瀬尾啓司よ。惚ける気?!」
ない思考力を働かせて惚けようとした努力はまるっきり役に立っていない。
「ああ……瀬尾さんのことなら知ってますけど」
叶多の手を離しながら、玲美は首が落ちるんじゃないかと思うくらい傾けた。薄気味悪く目がきらりと光ったのは気のせいか。
「貴坊、どういうこと?」
「何がだよ」
「あんた、この子と別荘で会ってるわよね?」
「なんの話なんだ?」
「知らないって云い張るんなら、ますますおかしいことになるわね。こんな偶然てある?」
「玲姉さん、まさか、あのとき別荘にいた子って……?」
貴仁の見開いた目が叶多に向いた。
「知らないはずないでしょ。あんたはあそこに“いた”んだから。いつの間にかうまく消えちゃってたけど」
「玲姉さん、あそこで会ったといっても、部屋は暗くされてたから覚えられるわけないだろ。それに、あのときは“始まる”まえにいきなり侵入者に襲われて怖かったんだよ。おれは朝まで二階のトイレに隠れてた。玲姉さんには連絡つかないし、だからどうしようもなかったんだろ。トイレで寝てたら助けが来てて、けど伯父さんに知れたらまずいし、出られなくてさ」
貴仁は情けない少年を演じて肩をすくめた。
「ふうーん……」
玲美は何やら思案をめぐらしているようで曖昧に相づちを打った。
「なんの話をしてるの?」
叶多からすれば息が詰まるように静まったなか、美鈴が不思議そうに貴仁と玲美を見比べる。
貴仁が再び肩をすくめてみせたとき、店の戸が開く音がした。叶多は瞬間的に戒斗だと決めつける。
「戒斗!」
確認しないまま、振り向きざまに名を呼び、叶多は店先へと戻った。
やっぱり戒斗で、その手のひらに自分の手を滑りこませ、叶多はぎゅっと力を込めて握った。見上げると異変を感じ取ってくれたのか、戒斗の瞳になんらかの意思が宿る。
戒斗はゆっくりと初対面の玲美を見やった。直後、叶多の手をつかむ戒斗の手が痛いほどきつくなった。