Sugarcoat-シュガーコート- #140

第15話 All's fair in love and war. -3-


 洋館の一階にある比較的こじんまりした応接間のテーブルに、小さくこもった音を立てながらお茶が並ぶ。すべてに行き渡ると、給仕は一礼をして出ていった。ドアが閉まり、室内はしんと静まる。
「経緯を」
 淡々とした聡明の一言が長テーブルの上を滑った。
 唐琢の両脇から聡明をはじめ、本家が信頼を置くごく側近の者という、総勢十二人がずらりと向かい合っている。新年度を迎えた四月も半ばを過ぎ、午後八時という時間帯でもそれなりに服を身に着けていれば寒くないという気温のなか、聡明の声には何かしら身震いさせるような意志が窺えた。

「この三カ月、我々は約定を成立させるべく、能動的に掛け合ってきました。陰一族に譲歩しながら、時期について具体的な案をいくつか提示してきましたが、これまで報告したとおり回答は得られませんでした。それが、つい一時間まえ、窓口を通して陰一族から連絡があったという次第です。約定は……破棄されました」
「どういうことですか!」
 交渉に立つ示我(しが)家頭首の報告を受け、隅のほうから疑問が飛ぶ。
「協定条件について改善の要請を受けました」
「正体を明かすのをためらったか」
「いや、拒否、だろう。小賢(こざか)しい」
 聡明に続いた唐琢は忌々しく付け加え、テーブル上は怒りに触れまいとするかのように静まり返った。
 やがて、唐琢が身動ぎをし、ヨーロピアンチェアのかすかに軋む音が沈黙を破る。
「揺さぶりをかけろ」
 情けのない言葉は、重低音のように空気を振動させる。湯気のみならず、湯呑みの水面がぶれたのは偶然か。
「それはまた――」
「一族狩りだ」
 我立(がりゅう)家の頭首をさえぎり、聡明は言明した。
「しかし、先回、結果は何も得られませんでした」
 唐琢は顔をぐいと向け、そう云った頭首を睨めつける。
 先回の“一族狩り”は二十六年まえ、一族を特定するために一定の間隔を空け、ためらいなく実行された。狙われたのは、旧財閥と華族、そして戦後、急速に頭角を現した有力者だ。その成果が表立つことはなかったが。
「何も得られなかった? そんなはずはない。先回の(あぶ)りだし策の目的は、仇討ち心を煽ることにあった。たとえ一族の端くれでも、そこからたどればなんらかが得られる。しかし、奴らは用心深く、抜かりがない。それゆえ、たしかに即座の反応はなかった。だが、どうだ? およそ三〇年、(ことごと)く撥ね退けられた約定はあの一年後に軟化した。つまり先回、一族の犠牲者がいた、ということにはならぬか」
 頭首たちがどよめき、伴って期待感が漂う。
「では、先回のリストに添うということですね」
「いや、今回は約定がある。一族狩りというよりは脅しが目的だ」
「では、どこを?」
「和瀬ガードの顧客を狙え。そうすれば和瀬が気づき、自ずと本家も知ることになる。再来と察するのも容易だろう」
「和瀬の顧客といえば、孔明さんの研修先である有吏コンサルの次男もそうですが」
「義理とはいえ、弟ながら、何を考えているのか、まったく惚けている。蘇我グループでも充分に学べることだ。あくまでもあいつが勝手にしていること。関係ない」
 唐琢は聡明に同調を示してうなずいた。
「順番は?」
「先回と違って、空けることに意味はない。一斉だ」

 当面の見通しがつき、誰もが気強さにうなずくなかで、ただ独り、示我家の頭首が(おもんばか)った表情で首をひねった。
「どうした?」
 そういった違和にすかさず気づくのは蘇我の後継者に一番手で名乗りを上げるに相応しいというべきか、聡明が促すと、示我家の頭首は姿勢を正す。
「二年まえです」
「何が?」
「約定について、妙に窓口が堅くなったことです」
「どうことだ」
「いえ、はっきり何がと云えるわけではないんですが。ただ、ある事と、もしかしたら関わっているんではないかと……」
「もったいぶらなくていい」
 聡明は顔をしかめ、催促した。頭首が唐琢と同じくらいの年配であろうと、そこに尊敬を示す素振りは一欠片もない。
「はい。あくまで私の主観的な見解ですが。千重家のことです」
「毎読トップの息子か。あの番記者はとんだ食わせ者だ」

 千重伶介は、陰一族の存在を知り、ともに探りたいと蘇我一族から出た代議士に付いた。御方(みかた)だと思わせ、その実、蘇我が陰一族と同類の一族であることを承知のうえで、陰一族ではなく蘇我一族を追究するために近づいたのだと判明した。千重家への警告は、蘇我が総力をあげれば真実を真実とできないということを思い知らせた。

 聡明は不愉快さとせせら笑いと、どっちつかずに口を歪めた。
「あれ以来、千重家はおとなしくなった。制裁は役に立ったようだが?」
「はい、二年半まえでした。私がおかしいと感じ始めた時期とほぼ一致します。それでもしや、千重家は陰一族ではないかと。さらに突き詰めるなら、陰一族の本家では? 公然と報道を牛耳る立場にいれば、世を動かすことも容易な位置です。千重家の長男は二十六年まえの犠牲者でもありますし」
 頭首たちは身を乗りだし、示我家の意見にざわめき立った。
「本家だとするなら、追究しなくとも我々の所業は知るところだったはずだ」
「抜け目ない一族ですよ。我々がリークもとを突き止めるであろうことは承知でしょうし、だからこそ正体を隠すために、取材という既成事実をつくったとも考えられます」
「それを本家自らが引き受けたと?」
「蘇我に直に入りこむということは、陰一族にとっては綱渡りだ。危険であればあるほど本家が動くと聞いている。示我家の見解もすじは通りますな」
 聡明のまさかという疑問に、我立家の頭首が口添えた。
「しかし、矛盾しませんか。報道を牛耳る立場にあれば尚更、我々の圧力は撥ね退けられるはずです」
「いや、我々の圧力が封じられるということは、千重家自ら陰一族と認めるか、あるいは関係を曝すようなもので、なんら矛盾しない」
 頭首たちの会話には一理ある。聡明は険しく眉をひそめた。
「なんのために曝露する必要があった?」
「約定の破棄、ですよ。我々が白日の下に晒されれば、拒否の理由になる。なんらかの理由で、陰一族は約定に対する考えを変えたんでしょう。現にいま、破棄されました」
「……まさか千重家が」
 頭首の一人が唖然とつぶやいたあと、再び沈黙が満ちた。

「一考の余地はあるだろう。リストから千重家を外せ。本家だとわかれば、そこで絶やす。それで終わりだ。陰一族は本家に忠心を置くからこそ手強いが、本家を失えば求心力も無くなるだろう」
「今回においても、我が我立家が先導を引き受けましょう」
 唐琢は徐にうなずき、席を立ったところで緊急の招集は解散された。



 四月も今日を含めてあと二日というゴールデンウィークの初日、たか工房には常連が集まった。二週間後の母の日を控えて、誰もがガラス細工をプレゼントすることにしたのだが、わいわいやるための口実といえなくもない。
 去年、孔明の母親のために叶多がつくった一輪挿しは、美鈴によれば好評で、今年は彼女自身がガラスのペーパーウェイトをつくろうと張りきっている。詩乃は、実母がすでに亡くなっているから、沖縄にいる義母の百恵へのプレゼントにするそうだ。
 則友は詩乃と組んでいるため、必然的に美鈴には叶多が付き添うことになった。貴仁は独りでやれるまでになっていて、黙々とガラスに細工している。
 孔明は欠席だ。連休の間に遅れがちな仕事を挽回するとかなんとかで来ていない。和惟が云っていたとおり、有吏リミテッドカンパニーではクソが付くくらい真面目に励んでいるんだろう。戒斗が見込みあると云うくらいで、孔明の熱心ぶりには、貴仁も自分のことのように満足げだ。そんな貴仁と孔明の関係はやっぱり不思議だと思う。

「お茶、持ってきたよ。冷たいのでいいよね」
 午後から集中して、もう四時だ。貴仁が、休もうか、と声をかけるまで三時間近くやっていたことになる。暖かい季節も相俟って、みんな汗を流している。
「かまわん。わんこ、戒斗はまだか」
「うん。さっきメール入って、あと三〇分くらいで来れるって」
「ふふん。ちゃらちゃらした仕事にああまで打ちこむとはな」
 戒斗は、バンドがまもなく三周年を迎えるということで、ことのところ全国を巡る記念ツアーの準備に追われている。
 崇は小馬鹿にしたふうだが、ここにいるみんながひねくれた愛情表現だと知っている。音楽でいいのなら、ガラスでもよかったんじゃないか、というところだろう。なんやかや云っても、崇のいちばんのお気に入りは戒斗なのではないかと思う。
「さみしいならさみしいって戒斗くんに云えばいいんですよ」
 則友がからかうと吹きだすような笑い声があがった。
「ふふん。私はな、結着を待っているだけだ。おまえが引っ越してくれば何も云わん」
 戒斗と結着と則友の引っ越しがどう結びつくのか、皆目わからない。叶多のみならず、誰もが首をひねった。ただし、則友だけには通じているのか、可笑しそうに崇を見やっている。いや、貴仁の表情もまた、したり顔に見えなくもない。
 詩乃が首を傾けて隣に立つ則友を見上げた。
「そうよね。そうすればいいのに。則友くんこそ、ご両親とも亡くなっていて、独りでさみしくない?」
 似ている。そう気づいたのは陽の指摘があってからだ。あまりに近くにいすぎて気づけなかったのは戒斗も同じなようで、戒斗はある結論に達している。
「さみしくはありませんよ。たか工房は僕にとっては実家のようなものです。そういう場所があるだけで充分ですよ」
 いつものとおり率直な詩乃の疑問に、則友は微笑んで答えた。
「則友くんのお母さんは……ご両親は幸せだったかしら?」
「はい。もともと母は病弱で、僕を産んでからは特に寝こんでいることが多かったんですけど、父は母を大切にしていましたし、記憶にある母は笑顔ばかりと云っていいくらいですよ」
「よかった」
 詩乃は童心に返ったような笑顔を見せた。いつからだろうか、詩乃もまた気づいている。叶多はそう感じた。
 崇もわかっているんだろう。目を向けると叶多を見て、思考まで読み取っているかのように眉を跳ねあげた。
 それから貴仁はどうなんだろうと視線を移したそのとき、工房内にベルが響く。店に客が来たようだ。
「あたし、行ってくるよ」
「おれも行こう」
 貴仁が云い、ふたりで店に向かった。相変わらず、店は無用心にも開放されている。それなのに、泥棒に遭遇したことがないというから不思議だ。

「いらっしゃい」
「あ、おばさん、こんにちは!」
 貴仁の背後から覗くように来客を見ると、近所の住人という馴染みの顔だった。バニラの香りが漂ってくると思えば、その手にマフィンが山盛り積まれた皿を持っている。
「叶多ちゃん、来るって聞いててね。これ、作ってきたんだよ。みんなで食べてちょうだい」
「ありがとう! いい匂い。それにあったかいよ」
「ちょうど休憩中でした。遠慮なくいただきます」
「どういたしまして。明後日、孫たちが来るのよ。昔ながらの遊びを教えてあげるのが楽しみだわ。そのお礼よ。じゃあね」
 おばさんはうれしそうにして出ていった。
「お礼って?」
「あ、おはじきを作ってあげたの。美鈴さんがやってるペーパーウェイトみたいに、ガラスの中にお花のガラスを埋めこんだおはじき」
「そういうことか。お返しが来るって、この町は人情溢れるって感じだな」
 叶多が持ったマフィンを見下ろしながらの短い笑い声は、すぐ嘆息に変わった。
「貴仁さん、どうかした?」
「鈍いっていうか、人を疑うことを知らないのか、どっちなんだろう?」
 叶多は、首をかしげた貴仁をきょとんとして見上げる。
「なんのこと?」
「こうしたらわかるかな」
 貴仁は背後に回り、叶多の両目をふさいだ。いきなりで躰がふらつきそうになり、足を踏ん張った。

「口をふさぐまえに、きみに約束してほしいことがある」
「口をふさぐ、って……貴仁さん?」
「いずれ、きみは僕の正体を見破るかもしれない」
 貴仁の手がふさいでいなかったら、たぶん目は飛びだしてるんじゃないかと思う。戒斗がすり替えてくれた暗闇の記憶が、そっくりそのままの言葉を伴って叶多の脳裡に一瞬にして逆行再現された。
 持っていたお皿を取り落とす寸前、貴仁が正面に回って叶多の手を支えた。
「叶ちゃん?」
 叶多が目を開けられないでいると、貴仁が怪訝そうな声で呼びかけた。全身が金縛りにあったように硬直している。頭の中は現状と再現の区別がつかないほど、ぐちゃぐちゃしている。もしくは完全停止している。返事ができないうちに息を呑む音が聞こえた。
「ごめん。おれ、また怖がらせたんだね。叶ちゃん、大丈夫だよ。戒斗さんがすぐ来る。そうだろ?」
 戒斗の名が出て、叶多はやっと目を開いた。貴仁が、叶多から取りあげたお皿を陳列棚の上に置いた。
「貴仁……さん?」
「悪かった。いまみたいになるほど怖いはずだったってこと、気づくべきだった」
「いまみたい?」
 さっき貴仁を呼んだときは頼りなかった声が、今度は自分でもしっかりして聞こえ、ほっとした。それは貴仁も同じなのか、案じていた顔がわずかに緩んだ。
「震えてた。戒斗さんの名前出したとたん、止まったけどね」
 硬直していたはずが、反対に震えていたんだろうか。驚き覚めやらず、叶多は戸惑って目の前の貴仁を見つめた。

「あのとき……戒斗に電話して、あたしに云わせたのは貴仁さん?」
「おれは卑怯なことをした。車に連れこまれてるとき、叶ちゃんたちを助けようと思えば助けられたんだ。けど、おれはあることのためにそれを黙認した」
「あること、のため?」
「そう。おれはある一族をずっと探している。廻り合ったら、伝えなければ――やらなければならないことがある。それがおれの役目だ。それであいつらの犯罪計画に乗ったわけだけど。叶ちゃんをどれだけ怖がらせてたのか、それを知ったいまはバカバカしいとさえ思う。ほかに方法があったはずだ。これってなんだろうな」
 貴仁は自嘲して笑う。
 貴仁もまた、役目という言葉を使う。その響きは、戒斗をはじめとする有吏一族の男たちが云う苦しさと一緒だ。
 そうだ。いくらそれが本能でも、苦しさがないはずがない。
「あたしは、まだ云っちゃだめなのかな」
「ここまで来たんだ。もう、叶ちゃんに任せるよ。おれが敵か御方か、そこは戒斗さんの判断に任せる。やっぱり卑怯だけどね。試さなきゃいけない。そして信用してもらわなくちゃいけない」
 “ここまで”というのが、どこまでのことをいうのか、叶多にはさっぱりわからない。ただ、探している一族が“戒斗”であることを、貴仁が確信していることはわかった。それでもどんなふうに返事をしていいのか迷う。それを知ってか、貴仁は笑った。

「おれがいつか云ったこと、覚えてるかな。『見返りを期待してたら、真の意味で人は助けられない』。叶ちゃんはあの子、矢取深智って子を助けようって必死になってた。一生懸命でさ……おれは領我家の末裔として、ある言葉を与っている」
 話が変わったのか、貴仁の云わんとするところは見当もつかず、叶多は眉をひそめて首をひねった。
「“堂々あっぱれであれ”。あのときの叶ちゃんはまさにそれだ。見返りなんて頭にない。無心で助けるからこそ人は救われる。与った言葉の真の意味がわかった」
「あれは……助けようっていうより、何も考えてなかったと思う」
「だから、それが“無心”だって。叶ちゃんのすごいとこはさ、そのまんまを取っておきたいって気にさせるとこだろうな」
「そのまんま、って戒斗もよく云うけど……?」
 貴仁は可笑しそうに笑い、棚からお皿を取った。
「味見」
 一つマフィンを手渡され、ついあったかさに引かれて受け取って一口頬張った。素朴な甘さがちょうどいい。
「美味しい」
 そう云って笑ったとき、また貴仁の手のひらが目の前に来た。
「怖い?」
「大丈夫」
「最初の頃は、気づかれないようにって背後から声をかけるのは避けていたんだけどな。その必要はなかったみたいだ」
 おもしろがった声だ。さっきもいまも不意打ちなのに、貴仁にあった曖昧なイメージがいまはない。このまえの親睦会では、戒斗は危険人物とは見なしていないようなことを云っていた。戒斗がそう思うんであれば怖がることはないのだ。
「怖いこと、戒斗が忘れさせてくれたから」
 どうやって、とは云えないけれど。そう考えて密かに慌てるも、貴仁の手が視界をさえぎっているせいか赤くならずにすんだ。
「うらやましいくらい“絶対”なんだな」
「そう!」

 笑ったのかため息なのか、息が漏れて聞こえ、貴仁の手が離れようと浮いた瞬間、ドアの開く音がしてその直後。
「触るな」
 その声は目を瞑っていても開けていてもすぐにわかる。それだけじゃない。声に潜む脅迫は、叶多の本能が察知した。もちろん、貴仁だけにではなく叶多にも向かっているのだ。
 貴仁の手が離れたかわりに、戒斗の手が背後から叶多の目を覆い、拭うように撫でた。視界が晴れた叶多の正面で、戒斗のしぐさを見た貴仁は、明け透けにからかいを込めてニヤリとした。
「失礼。いつもいない間を狙って手出してるわけじゃない」
「あたりまえだ」
 消そうと努力したのか、そのつもりがまったくないのか、頭上から発せられる声には不愉快さが滲みでている。
 叶多はクルリと躰を回した。機嫌とろうがとるまいが、さきは見えた。が、こういうときはさきなんて見ないに限る。
「おかえり、戒斗」
 満面の笑みを浮かべて戒斗を見上げると、叶多の覚悟を知ったのか、不機嫌さが消えてついさっきの貴仁とそっくりな笑みが返ってきた。

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