Sugarcoat-シュガーコート- #139

第15話 All's fair in love and war. -2-


 三月も終わりに近くなって、有吏邸の周りを囲む花壇は、チューリップをメインに花たちが彩りよく咲き誇っている。今日は、空気がわずかに霞んでいながらもポカポカした陽気だ。
「叶ちゃん、お花、取っていい?」
 叶多が花に水遣りをしながら歩いていると、カーディガンの裾をつかまれた。見下ろしたら、“又”がいっぱい付く五才の従妹が、一つ向こうにある花壇に咲いたピンクのチューリップを指差した。一本くらいいいだろう。
「一つだけだよ。大事にしてね」
「うん!」
 女の子は大きくうなずいて、花壇の周囲ををぐるりと回っていく。
 春休みはじめての土曜日、いつもなら明日の親睦会に備え、掃除したりお茶会をしたりというところだが、半日前倒しになって、今は小さな子供たちのお世話係というのが叶多の役目だ。
 おやつの時間を終わって、母親たちのみ有吏邸に残し、ほか全員が家の中から外へと出て遊び始めたばかりで、庭園は子供たちのはしゃぐ声で賑やかだ。
 こういう場景はわくわくして、普段なら、五才児と同じだとか戒斗から云われてしまいそうに浮かれる叶多も、生憎と今日は素直に楽しめないでいる。叶多だけじゃない。有吏邸は幼い子供たちを除けば、みんながみんな緊張感を漂わせている。
 それは、今回の一族の集結が例年になく初日に全員がそろった、ということから始まった。現在、有吏館の二階では一族分家の長、つまり全主宰が集まり、午後一時から密議が執り行われている。

「さすがの叶多ちゃんも落ち着かなさそうだ」
 いつのまにか、ほんの近くに和惟が来ていた。和惟は存在感があるくせに気配を消すのがうまい。
「さすが、っていい意味じゃないですよね?」
「おれが云うんだから、いい意味じゃないはずないよ」
 和惟は、口の端を絶妙な角度で上げるという、男の色気ムンムンの微笑を浮かべる。戒斗は絶対にしない笑い方だ。
 や、してもらっても困るかも。和惟くんにさえクラクラしそうなのに、これが戒斗だったらホントに骨抜きになっちゃいそう。
「じゃあ、遠慮なく」
 叶多のちょっと頓珍漢な答えに和惟は小さく吹きだした。
「和惟くん、訊きたいことあるんですけど」
「いいよ。未来の首領の母君だ。遠慮する必要はない」
 その立場は、このまえ戒斗に指摘されて気づいたことだけれど、いまだにピンと来ない。まだ認めてもらっているわけじゃなく、障害も消えたわけじゃない。障害に限っては、いままさにそれに関した密議がなされていて、ドキドキ(しき)りなのだ。叶多は困った顔で曖昧に首をかしげた。
「仲介のおじさんは縁談進めるのが役割で、一族の男の人には恋愛の自由がなくて結婚する人が決められるって。でも、和惟くんは結婚してないし、そういう話もないですよね。それで考えてみたんですけど、戒斗は約定で有吏のほうはガードを付けていいって……。もしかして、和惟くんて那桜ちゃんと一緒に蘇我家に行くことになってたのかなって」
「合ってるよ。おれは那桜を護るためにある。状況が違ってもその役目はずっと変わらない」
「なんだか……」
 叶多は最後まで云わずに小さくため息を漏らした。
「何?」
「立場とか役目とか、二十四時間、ホントに必要なのかなって思って」
「叶多ちゃんの場合……というより戒斗の場合、夜の十一時から朝八時まで、つまり一日の三分の一以上は立場とか役目とか放棄してるらしいけどな」
 和惟は短く笑ったあと、叶多が慌てるようなことを持ちだし、頬がカッと熱くなる。
「べ、べつにあたしが駄々こねてるわけじゃないですよ!」
「もちろんだ。戒斗がそうしたいからそうしてる。人に云われたからって納得しなければ動かないだろう? それはともかく、叶多ちゃんらしい疑問だ。男は――少なくとも有吏の男は使命を受けるのが本能かもしれない。苦痛に感じることはない。逆に、それを全うしきれないことのほうが苦しい」
「苦しいって……和惟くん?」
 笑っているのにどこか淡々として、それは和惟の中に何かが隠されているかのようだ。
「とにかく、おれは那桜が望むべきことを護りきる」
 どういうことだろうと思っているうちに和惟の視線が叶多から外れた。

「和惟、まだ終わらない?」
 那桜がすぐ傍に来て、少し遅れて深智がやって来た。
「那桜が心配してることなら、承認は間違いなく得られる。代替案を出すにしろ、そうしないなら不測の事態の対処法とか、いろいろ考えなければならないことは多いんだ。だから時間がかかってる」
 いまになって、ようやく大まかなことを知らされた那桜は、自分たちのことが叶多と戒斗にどんな迷惑をかけたのかを知るに至った。おそらくは叶多よりも今後のことを心配している。和惟の返事にとりあえず那桜はほっとしたようだけれど、密議が終わらないかぎり、またすぐぶり返すんだろう。
「那桜ちゃん、それより仕事、慣れた?」
「慣れたっていうより、那桜ちゃんの話を聞いてると楽しそうだよ。わたしも何かやりたいなって思ってるんだけど」
 那桜のかわりに深智が答えた。
 那桜は去年の十月から有吏リミテッドカンパニーで働きだした。正月の親睦会では、まだ覚えきれていないと戸惑っていたようだが、深智の言葉にうれしそうにしながらうなずいている那桜を見ると、いまはうまくいっているらしい。
 出来心というのもなんだけれど、そんな軽い気持ちで叶多が口にしたことを、那桜が本当に実現させるとは思わなかった。楽しくなったというのなら、叶多としても安心するところだ。
「啓司は、はいどうぞって云うには難しいかもな。戒斗と叶多ちゃんのことが認められるのは、蘇我のことで貢献してるっていう理由がつけられるからこそだ。一族はまだ結婚の自由を認めたわけじゃないから、深智ちゃんと啓司の立場は曖昧だ」
 深智は首をかしげながら少し顔を曇らせた。
「でも、戒斗がきっと変えてくれるよ。あたしのことだけなんて、うれしいってちゃんと喜べない気がする。戒斗だってそうに決まってる」
「叶多ちゃん、大丈夫。人に認めてもらえるとかもらえないとか、わたしにとっては重要なことじゃないから」
 深智はにっこり笑う。けれど、さっきの表情の変化から、たとえ重要じゃなくても気にしていることはわかる。
「和惟」
 心配と批難の入り混じった声に呼ばれた和惟は、那桜を見やったあと、叶多と深智を交互に見ながら降参したみたいに軽く手を挙げた。
「ああ、悪い。ちょっときついこと云ったけど、叶多ちゃんの云うとおり、一族は変わっていく。拓斗と戒斗なら間違いなくやってくれる。プライドの塊だし、自分たちだけ自由ってことじゃ、長たる者として示しつかないだろう」
「それは云えてる。プライドが邪魔して、拓兄の悪あがき、すごかったんだよ。ね、和惟?」
「那桜」
 今度は和惟が咎めた。意味深な那桜の笑みは、和惟にだけ通じているようで、叶多と深智は顔を見合わせた。那桜はどこ吹く風で和惟を見上げ、さらに笑みを深めて、挑んでいるようにも見える。それが消えたかと思うと、那桜は深智に向き直った。
「深智ちゃん、拓兄たちに限らなくって、一族の男ってプライドの塊で、啓司くんだってそう。でもいつかきっと大丈夫。叶多ちゃんだって戒兄を動かしたんだから」
 “だって”という言葉に多少引っかからなくもないけれど、叶多は、そうだよ、ととりあえず賛同した。
「深智ちゃんも、すでに同棲してるっていうのが啓司を動かしてるよ。まあ、それでも仕事させてくれって説得するのはたいへんだろうな。那桜も派遣やるってときはかなり粘って、やっとだったから。さすがに今回は拓斗の目の前にいるわけだし、渋々でも反対はしなかったけどね」
 和惟の目が深智から那桜に移る。それを追った叶多は、その瞬間に和惟の眼差しが変化するのを捉えた。
 夏に行った道場でのことが甦る。表分家の従妹という立場では、那桜も深智も一緒だ。年も同じなのに、和惟の那桜を見る目は深智に対するものとは違う。
 いつも和惟は笑っているか穏やかな表情だ。一族の男にありがちな無表情になることもなければ、怒ることもない。いままで考えたこともなかったけれど、それは和惟の仮面で、その奥にはちゃんとした喜怒哀楽があるはずだ。
 そう思うと、“那桜が望むべきことを――”という、ついさっきの和惟の言葉は、役目というにはちょっとずれていると感じた。

「お姉ちゃん、お母さんがちょっと来てって!」
 美咲の声が玄関から馬鹿でかく響いた。深智は首をかしげて応え、有吏邸に向かった。その姿を見送りながら那桜がため息をつく。
「でもね、拓兄、また考えを変えちゃいそう」
「どういうことだ?」
「孔明さん。わたしは事務やってるんだし、それでなくっても同じ会社内にいるんだから、孔明さんとも話すことあるじゃない? それなのに、喋ってるとおもしろくないみたい。なんとなく、だけど」
 怪訝そうにしていた和惟は可笑しそうな様に変わる。
「まあ、もとを(ただ)せば蘇我孔明は那桜の結婚相手ってことだし、拓斗にとって心中穏やかじゃないことは確かだ。孔明を雇うって聞かされたときは首領の裁量に疑問を持った。けど、いまはわかる気がしないでもない」
 和惟にしては消極的な云い方だ。わかると云いながらも百パーセント納得しているわけではないらしい。
「どういうことですか?」
「孔明は、根は真面目そうだ……というより生真面目すぎるって惟均(ただひと)は云ってる。おれから見ても裏表はなさそうだし、使い様によっては……っていうと聞こえが悪いけど、孔明を通して蘇我を動かせるかもしれない。惚けた奴だけど、意欲は人並み以上らしい」
「惚けた奴って?」
「どこをどうとっても二十二才の喋り方じゃないだろ。妙に硬いんだよな」
「それ、硬いんじゃなくて“オヤジっぽい”ですよ。貴仁さんが云うには、お父さんとお兄さんの真似っていうか、対抗してるうちにああなっちゃったって。まえに週刊誌で見たんだけど、お父さんは、戒斗から聞かされた蘇我っていうイメージそのものだし、お兄さんも、義理の関係だからうまくいかないっていうよりはお父さんにそっくりなんだって」
「なるほど。今度、会ったら叶多ちゃんがオヤジって云ってたって云おう」
「だめですよ! ヘンな云いがかりつけられるし、ホントにヘンなことでそれが戒斗に知れたら、あたし、二次災害に遭っちゃいますから!」
 真剣に云ったにもかかわらず、和惟はニヤリとして、那桜は吹きだす。
「叶多ちゃんも同じなんだ」
「廻り廻って孔明は叶多ちゃんの結婚相手になるかってこともありえたわけだし、やっぱり兄弟だな」
「和惟くん、笑い事じゃないです」
「いや、笑い事になるべきだ」
「……大丈夫かな」
 和惟が笑みを引っこめてごく真剣に云いきると、那桜がまた憂い顔に戻った。叶多がせっかく気を逸らそうと仕事の話に持っていたことは水の泡だ。
「那桜ちゃん、だい――」
「大丈夫、だったみたいだ」
 叶多に重ねた和惟の声は確信に満ちている。見上げると、どこか遠くを見ていて、その和惟の視線を追った。

 有吏館のほうから、ざっと十人くらいが一塊になってこっちに向かってきている。あとからもぽつぽつと人が出てきている。そのなかから見つけるまでもなく戒斗を認めた。哲の姿もある。
 叶多は駆けていきたい衝動に駆られたものの、子供っぽく、もとい、犬っぽくなるのをすんでのところで踏ん張った。
 本家の男たちは継斗を含めて全員が参加したわけだが、並んで歩いてくる姿は同じ血統だというのに各々が異質の気配を持ち、背後に分家の長たちを従えて壮観な様を呈している。
 だんだんと距離が縮むにつれ、その表情も見えてきた。密議に入るまえは、顔にこそ表れないものの強張った雰囲気があった。それが払拭されて和んで見える。以前なら気づかない変化かもしれない。すっかり馴染みになったいまだからこそ、わずかなことも気取ることができるんだろう。もっとも、和惟は叶多よりも目敏く、遠目でも落着したことを察していたようだが。
 隼斗たちは有吏邸へと向かい、戒斗と拓斗だけが叶多たちのほうへとやって来た。目の前に戒斗が立ち止まる。

「うまくいったんだな」
 何から口にすればいいのか、叶多が考えあぐねているうちに和惟がいちばんに声をかけた。
「拓兄?」
「そうでなければどうかしている」
 拓斗はかすかに笑みを浮かべ、傍に立った那桜を額を撫でながら答えた。
 拓斗の返事を固唾を呑んで見守っていた叶多は、希望を最大限にふくらませ、期待を込めて戒斗を見つめた。
「ホント?」
 戒斗は口を歪めてうなずいて見せた。
「当然、全員一致だ。蘇我との約定は白紙になった。別の方向性を探っていく。緊急事態については、全分家から本家への一任を取り付けた」
「よかった」
「戒兄、叶多ちゃんとのことは?」
「異議なし」
「戒斗、ホント?」
「間違いない」
 答えたのが戒斗じゃなく拓斗だったことが現実味を帯びて聞こえ、叶多の顔が一気に綻んだ。
「うれしい」
 たった一言にすかされたようで、戒斗は首をひねった。
「それだけか?」
「深智ちゃんたちのことは?」
「なるほど。それも問題ない。瀬尾たちだけじゃない、一族の政略婚自体が見直されることになった」
「昔に比べると、情報の伝達は人を頼らなくていい。現状、充分にやっていけてるんだ。これ以上に手広くする必要はないし、すぐに決着はつく」
「よかった!」
 今度は叶多と那桜、ふたりそろって歓声をあげた。
「あとは蘇我、だな。内乱の主犯はどうする?」
 和惟が要点をつくと、ほっと和んだ空気もつかの間、俄かに緊張が戻る。
「孔明が拓斗に打ち明けたとおり、領我家だろう。けど、そう決定づける隙が見つからない。外部に漏れないということは強かということだ。最大で憂慮すべきなのは、貴仁がどういう意図でおれたちに接してきたかってことだ」
「そこが明らかになれば、方向性もはっきり出せるんだろうけどな」
 戒斗の発言を受け、和惟は眉をひそめた。朗報を聞かされたにもかかわらず、どうも、和惟はなんらかを案じている。戒斗は和惟に向かって問うように首を傾けた。
「崇さんの口振りからすれば――そう人を受け入れない崇さんが出入りを許してるってことを考えても、少なくとも貴仁に危惧することはないと思ってる。叶多が独りでたか工房に行くとわかっても引き止めないのは、おれ自身が崇さんと同じことをわかってるからかもしれない」
「そう願ってる」
「アマちゃんだって云いたそうだな」
「まさか。総領次位の目を疑うつもりはない。本心だ」
 戒斗と和惟は互いに口を歪めて笑い、それから戒斗は肩をそびやかした。
「とにかく、こっちがアクションを起こさないかぎり、動くつもりはないのかもしれない。領我家の頭首が用心深いことは確かだ」
「こっちにとっても、領我家の動向が突破口であることに違いない。早急にやることじゃああるけど、いますぐどうなるわけでもない。戒斗、とりあえずいまは、父さんたちからおまえたちのことを公に認知してもらうべきだろう。那桜、行くぞ」
「うん」
 拓斗が先立ち、ついて行く那桜を間に挟む形で和惟が横に並んで歩いていく。

「戒斗、ホントにあたし、戒斗といていいんだね?」
 三人の後ろ姿を見ながら、叶多がなんとなく呆けた気分で訊ねると、可笑しそうな眼差しに見下ろされた。
「いままでもいただろ」
「そうじゃなくって」
「ああ。一族の障害はなくなった」
「戒斗、なんでこうなっちゃったんだろう」
「こうならないほうがよかったって?」
「違うよ! 何もしてないから……うまくいきすぎて不安ていうか……」
「“何もしてない”っていう、自覚というべきか思いこみというべきか、そこが叶多のすごいとこだ」
「そう?」
 皮肉でもなくからかうような声でもなく、めったにない戒斗の誉め言葉に、叶多は戸惑って首をかしげた。すると、戒斗がニヤリとした笑みを浮かべて、顔を近づけてきた。
「云っとくけど、おれが引き止めないからって、たか工房でだれかとイチャイチャなんてことになったら、即、繋ぐからな」
 戒斗は自分の喉もとに手をやって首輪をイメージさせる。叶多は慄きながら顔を引いた。
「イチャイチャなんてするわけないよっ」
「当然だ」
 戒斗は云いきって、それから催促するように首をひねった。
「子供たちいるんだけど」
「遊び回ってる。おれたちに関心を持つわけないだろ」
 それもそうだと思って、叶多は爪先立ち、かがんだ戒斗のくちびるに触れた。子供たちは駆け回るか、庭の探検に勤しんでいると思っていたのに、その直後。
「あーっ、叶ちゃん、チュウぅってしてるぅ!」
 叶多は慌てて戒斗から離れた。
 甲高い女の子の声は庭中に響いているんじゃないかと思った。冷や汗をかきながら見回すと、すでに有吏邸の玄関に到着していた那桜たちの視線に合った。聞こえたのは明らかだ。おまけに玄関のドアは目一杯開け放たれている。
「戒斗、酷い」
「ついでだ」
 おもしろがって云うなり、恥も外聞もなく、戒斗は子供たちの前でハグした。
 一瞬のことで、子供たちには大受けだったけれど、美咲に云わせれば、間違いなくふたりの評判は落ちた、らしい。

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