Sugarcoat-シュガーコート- #138

第15話 All's fair in love and war. -1-


一月十日

 夜の八時半、一日の仕事を終えた介護ヘルパーが部屋を出ていくと、蒼井(あおい)毬亜は電動式のリクライニングベッドの片側をゆっくりと起こした。
「ア、オ、イ……」
「わかってるよ、ママ。お礼なんかいいから。本はこれでいい?」
 ベッド脇のチェストから取った本を見せると、千重多香子は緩慢にうなずいて微笑んだ。そのとき、ふいに寝室のドアが開く。
「アオイ、和久井が来てる」
 ドアへと目を向けると、車椅子に乗った千重伶介が部屋に入ってきた。ドアを閉めた伶介は車椅子から立ちあがる。多香子の様子をちらりと見てから、伶介は難なく自発歩行でベッドへとやって来た。普段から脚を使わない伶介の下半身はほっそりとしているが、なよなよしているというほどでもない。
「多香子のことはいい。行きなさい」
 一寿が来るのは予測していたことであり、毬亜は驚くことなくうなずいた。
「毬亜」
 ドアへと一歩進んだとたん、伶介は本名で呼び止めた。振り向くと、斜め後ろから案じた眼差しが毬亜を見下ろしている。
「私は君を“アオイ”と思っているわけじゃない。それは二年まえ、最初に会ったときから変わらない。だが、いまは娘だと思っている」
 毬亜にとってこれ以上にない言葉だ。しかめた表情がすっかり染みついた伶介の顔は、めったになく緩んで口角が上がっている。その向こうにいる多香子もまた同じ表情だ。
「パパ、あたしもパパって思ってる。ママもね」
「心配事は遠慮なく云うんだぞ」
「うん。パパ、ありがと」

 二年半まえ、伶介は妻の多香子と娘のアオイを車に乗せ、東京から熱海へと向かった。高速道路を走らせていた途中、何者かに銃撃を受け、一泊の家族旅行は楽しむこともなく悲惨な結末に終わった。
 現在、伶介は毎読新聞社の編集や論説の総責任者として主筆という立場にいるが、当時は第一線で活躍していた一記者だった。
 銃弾は二発。一発目は前輪のタイヤを撃ち抜き、二発目は果たして誰を狙ったのか、助手席のヘッドレストを貫通してアオイの頭を撃った。
 伶介は全身打撲と腰の骨を折るという重傷を負ったが、幸いにも完治へと至った。それなのに、人を油断させて自分の身を、()いては家族を守るためだと、表向きは下半身不随を装っている。身内を含め、ごく限られた人しか真実を知らない。
 一方で後部座席に乗っていた多香子は、脊髄損傷という深刻な状態に陥った。下半身不随に加え、頭部外傷により言語障害が出て言葉もうまく扱えなくなった。
 そして、アオイは意識不明の重体が続いた。

 世界が知る毎読新聞社の重鎮、旺介が率いる千重家は、毬亜とは縁のない世界のはずだった。それを繋いだのは一寿だ。
 毬亜は名前も顔もアオイに似ていた。

 一人っ子の毬亜はどこにでもあるサラリーマン家庭に育ち、贅沢な暮らしはできなくても普通だと思っていた。その普通が、母が努力してつくっていたものだと気づいたのは、中学二年生になったときだ。
 父はどうしようもない賭博中毒で、母の努力も間に合わなくなり、いかにもといった風貌の男たちが返済を迫りに家に来ることが多くなった。
 夜のほうが時給がいいから、という母の仕事は、聞かされていた弁当工場の従業員ではなく、クラブのホステスだったと知ったのもその頃だ。
 毬亜も脅されるようになって中学にも通えなくなった。そのかわり、母が働いていたクラブで年齢を偽って働くようになった。両親に無理強いされたわけでもなく、手助けしたいという献身的な気持ちもなく、ただ、怖いという印象しかない男たちから逃れたかったからだ。
 その最中、父は最も愚かな人で、賭け事でまたお金を返そうとしていた。挙げ句、二進も三進もいかなくなるほど借金を膨らませて、果ては毬亜が十六才のとき消えた。
 消えたというのが、ただ単に毬亜や男たちの前から、というだけなのか、この世から、なのかはわからない。とにかく消えた。
 母はなぜ父と別れてしまわなかったのだろう。あの人は病気なの。母はよくそう云った。

 父がいなくなってまもなく、男たちは、もっといい金になるから、と無情に毬亜を暴行したあと、自分たちの管轄下にある風俗店で働かせ始めた。
 いくら稼げているかもわからず、いつまでやらなくちゃいけないのか期限もわからない。
 どうなるんだろうという恐怖と絶望で呆然とすごすうちに、母とも連絡がつかなくなった。全部終わった、とそう思った。
 どうにかしようと(あらが)うよりもあるがままを受け入れたほうが、どんなにからくだろう。あきらめたことで、痛みでしかなかった男たちの行為が、反吐(へど)が出そうだった男たちへの奉仕が、毬亜の躰にとっては快楽に変わった。
 にもかかわらず、やっぱり、どうなるんだろう――時折、そんな不安が押し寄せる。
 それを心の隅に押しやって流されるままだったある日、男たちの抗争事件に巻きこまれた。その真っ只中に現れたのが一寿だった。部屋の隅に裸でうずくまった毬亜に名を訊ねた一寿は、顔を上げたとたん、かすかに目を見開き、そして震える声で名乗ったとたん、冷ややかな顔に一瞬だけ何かをよぎらせた。

 アオイ――そうとしか名乗るな。そうしてくれるなら清算してやる。これからの一生の生活をおれが保障する。

 和久井一寿。そう名乗っただけで何者かはわからない。ただ、こんな状況のなか、ここにいるということは、すぐそこに血塗れで倒れている男たちと同じであることは見当ついた。警察の介入とも考えられたが、警察官がそんなことを云うはずはない。そのくらいは毬亜でも考えられる。
 さっきの一瞬を除いて何一つ表情を出さない眼差しは、なぜか嘘吐きだとは感じなかった。

 毬亜は一寿の家に連れていかれた。木製の塀に囲まれた、大きすぎる家は昔風で、その職業とは――職業とするには云い(はばか)ってしまう存在だが、それとは不釣り合いな品格すら感じた。一寿の第一印象と一緒だ。二十才の無知な毬亜に比べると、一寿は二十六才という年齢よりもずいぶんと落ち着いていて威圧感があった。
 中に入ると、予想していたとおり、いままでと対して変わらない見かけをした男たちばかりで、けっして助けられたわけではなく、囲い主が変わっただけでまた同じことをさせられるのだと思った。男というのがどれだけ身勝手で単純で無責任な生き物か、わかっていたのにはじめて会った男を、しかもどういう世界に身を置く男かわかっていながら信用するなんて、男より単純で馬鹿だと泣きたくなった。
 それが、思いの外、毬亜は男たちから丁重な扱いを受けた。和久井家での生活に慣れて、馴染んで、いろんなことを考えられるようになった。
 あまりに安穏としていて、あたしはこのままここにいていいんだろうか、とそう思い始めた矢先、一寿から提案――いや、命を受けた。毬亜には普通に生きる術がない。正確にいえば、どうすれば、何をすれば普通にやっていけるのか見当もつかない。
 血統に限っていえば、自分とはまったく無縁の“千重アオイ”という名をもらったそのとき、あの冷ややかさが消えた一瞬の意味がわかった。そんな価値しかないのかと思った。違う。価値を求める立場にはない。毬亜は自分の名と安寧の住処(すみか)を引き換えたのだから。

 毬亜は条件を出した。身の程知らずでも、どうしても欲しいものがあった。
 抱いて。今日だけじゃなくて、ずっと。そしたら、一寿のためだったらなんでもする。
 そう云わせたのは一寿を慕う自分の気持ちだ。あの申し出が毬亜のすべてになった。
 それまで、一寿は一度も毬亜を抱くことがなかった。女に不自由することなんてなさそうで、穢れた躰に興味ないんだろうと思った。かといって、ほかの男たちにも手を出させることなく、むしろ一寿の“いろ”として立場を保全されていた。毬亜に学がないと知るとそのフォローさえした。たとえそれが利用するためだったとしても、いや、そうだったと断言できるいまも、一寿への気持ちは消えることがない。

 一寿に拾われて一年、銃撃事件から約半年後の千重アオイの死は伏せられ、そのかわり奇跡的に意識が回復したとされ、蒼井毬亜は千重アオイとなった。
 似ているとはいえ、往年来の知人からすれば別人とわかる。その疑いを解消するために、記憶喪失と、事故時の顔面損傷により整形というもっともな理由がつけられた。
 千重家と和久井家の間でどういう過程があり、どう結着がついているのか詳細は知らない。ただ千重家の役目を聞かされ、毬亜はアオイとして千重家に招き入れられた。
 入院中の多香子が不在だったなか、千重家に住んでいるのは伶介と、アオイの祖父になる旺介、そしてアオイの兄という三人だった。最初の頃、彼らは当然ながらアオイの死に沈んでいて、毬亜は居心地の悪さしか感じなかった。
 特に、兄である史伸(しのぶ)が快く思っていなかった。祖父たちの決断が理解不能だったという。いまでも納得したわけではないようだが、毬亜への態度は徐々に改善されていった。多香子が入院生活を終えて退院してきてからだ。
 千重家にいても家政婦がいて何もすることがないから、なんとなく、ヘルパーと一緒に多香子のフォローをした。そうしているうちに伶介たち同様、史伸との間も壁みたいなものがなくなっていった。
 ぎこちない『パパ、ママ』がすっかりあたりまえになった。史伸はいまでも『お兄さん』とはけっして呼ばせてくれないけれど、無視することはなくなった。

 毬亜にとって、いまや千重家は実家といっていいくらい安心できる場所になっている。反対に、何かの拍子に簡単に壊れそうな不安もある。たぶん、毬亜はアオイであって、毬亜ではないからだ。
 さっきの伶介の言葉がその不安を緩和してくれたけれど、まだ不安は半分くらい残っている。
 向かう先に一寿がいるかと思うと、半分の不安が急加速して表面化し、毬亜を落ち着かなくさせる。自分の考えなしの行動が招いたことであり、一寿の逆鱗に触れることもわかっていたのに、いざとなると反応を見るのが怖い。
 寝室を出た廊下から左に折れる寸前、手にしたコートをギュッと抱きしめながら、毬亜は立ち止まって一つ深呼吸をした。それから玄関へと続く廊下に一歩出たとたん、ちょうど旺介と鉢合わせした。
「おじいちゃん、一寿とちょっと出かけてくるから」
 旺介は伶介と違い、ずんぐりむっくりとして、けれど、それをカバーするように顔には(いか)つくしわが寄っている。あまり背の低さを感じさせない人だ。八十二才という年を吹き飛ばすほどピンピンしている。
「若い娘がこんな時間から出ていくとは感心せんな」
 大きく太い声を出し、旺介はちらりと背後に顎を向けて、ほとんど白くなった眉を跳ねあげた。一寿との関係は旺介も承知していることであり、いつもは小言なんて云わないのだが、さすがに何かあったと察しているらしい。
「いつものことだよ」
「ならいいが……」
「いってきます」
「わしが起きているうちに帰ってこい」
 旺介は脇を通りがてら、聞こえよがしに毬亜を見送った。

 旺介が目の前からいなくなると、正面の玄関先に立っている一寿と対面した。
 能面のような顔に変わりなく、何を思っているのかさっぱり見えてこない。なんとかつまずかずに行くと、一寿は毬亜を一瞥してから踵を返し、背中を向けた。
 ついて来いという無言の指図は、いかに自分が卑下されているかという実証でもある。それでも逆らえない。毬亜の中の半分の不安は、どんな意味であれ、一寿が毬亜を必要としなくなることだ。半分じゃなく全部かもしれない。
 千重家のボディガードである和久井は、名目上、毬亜を後部座席に乗せ、車を発進させた。和久井家に向かう間、車中は一言も発せられず、重苦しい空気の中、息することも咎められているように感じた。
 黒っぽい木製の門扉から中に入り、車は所定の位置に止められた。どこで察知されるのか、一寿が戻ったことは家の中に逸早く伝わっている。広い玄関口に入るなり、いつものように組員たちがそろって出迎えた。
 そのなか、タツオと目が合う。
 わかってるな。そう念を押す眼差しと気遣いが()い交ぜになっている。
 わかってる。云うかわりに毬亜は一度ゆっくりと瞬きをした。

 昨日の夜、叶多に成人式のお祝いメールを送ったあと、タツオ経由で叶多から連絡があった。毬亜の禁じられた行動が一寿にばれるかもしれないと知らされた。
 叶多のみならず、有吏本家と接触したことで、もっと早くにそうなると思っていた。そうならなかったということは、叶多を取り巻く人たちの叶多に対して持つ信頼度の高さの証明なのか。
 その叶多は毬亜のための軽減措置をいろいろ考えてくれたようで、毬亜と一寿の関係を叶多は一切知らない、そしてタツオは叶多と毬亜の接触を知らなかった、ということにするべきだと打ち合わせた。それは、叶多やタツオに迷惑をかけない、いちばんの方法でもある。
 組員たちの間を通り抜け、一寿のあとをついて部屋の奥から二階へとあがる。一寿の部屋の前を過ぎてすぐ向こうにある、一寿の妹が使っていた部屋に入った。
 一寿の妹は毬亜が来る以前に結婚していて、和久井家にいる間はずっと快く使わせてもらっていた。この家で唯一の洋室だ。
 一寿はけっして自分の部屋に招くことはない。それは毬亜に超えられない一線を思い知らせる。
 あとから室内に入った毬亜がドアを閉めると、一寿はくるりと向き直った。ただでさえ鋭い一寿の目がさらに狭まり、身内でさえ震えあがるような威光を放つ。

「どういうつもりだ?」
 前置きなしの声は冷え冷えとしている。すぐに答えないでいると首の付け根を片手でつかまれ、押されるまますぐ後ろにあったドアに背が当たり、張りつけられた。
「知りたかっただけ」
 呻くように答えると、手が少し緩む。
「何を。おまえが知るべきことは教えてきた。それでも知りたいことがあるならおれに訊け。叶多さんに――有吏家に接触する必要はない」
 一寿は冷静ながらも語気を強めた。
「聞いてもわからないことがあるんだよ。千重家の役目もあたしの役目もわかってる。やめたいって思ってるわけじゃないよ。だから、ただ納得するんじゃなくて、一寿みたいな、有吏一族のためにそうしたいって気持ちを持ちたかっただけ。一寿の“叶多さん”なら、そういう気持ちにさせてくれるって思ったんだよ」
 そうしたらもっと一寿に近づけるような気がした。
「自分がどういうことをやったか、わかってるのか? おまえが叶多さんと接触した以上、もし有事があって、千重家の立場を叶多さんが知ることになれば、叶多さんはどうすると思う? 会ったならわかるはずだ」
「わかってる。いまは後悔してる」
 一寿は首を少しひねりながらしかめた顔で目を閉じ、それからすぐに目を開けると毬亜を見据え、非情な命を下した。
「蘇我との件が落ち着くまで、おまえはここから一歩も出るな」
「だめ。ママのとこに戻らなくちゃ」
「おまえがいなくてもヘルパーがいる」
 一寿はただ事実を云ったにすぎない。けれど、毬亜にとっては心を(くじ)く言葉だ。毬亜を毬亜として知る一寿は、“蒼井毬亜”を否定しない唯一の盾なのに。
「ここにいるかわりに千重の家から一歩も出ないから。あたしは一寿を裏切らないよ。叶多さんの身代わりだって、義務じゃなくて喜んで引き受ける。だから千重の家に戻らせて。あたしはきれいじゃなくてバカだけど、役に立ちたいって気持ちはおんなじだよ」
「……きれいじゃない?」
 一寿は怪訝に目を細めた。
「叶多さんはきれい。あたしはきれいじゃない」
 だから、一寿は自分から毬亜を抱くことはない。わかっている。
「おれをほかの男と一緒にするな」
 毬亜が云ったことをどう捉えたのか、一寿の云う意味はまったくわからない。毬亜は首をかしげた。
「一寿は誰とも違うよ」
 数えきれない男たちとセックスをした。顔は誰一人として覚えていなくても、あきらめてから快楽を覚えた。けれど、気持ちが伴って繋がる本当のセックスは一寿としか知らない。
 ストレートに受け取ってストレートに云うと、睨み合いのような張りつめた沈黙の時間が流れる。
「帰らなくちゃ。おじいちゃん、怒っちゃう。約束はちゃんと守るから心配しないで」
「そのまえにヤルことがあるはずだ。旺介氏と約束した覚えはないが、おまえとの約束は忘れていない」
 驚いているうちに一寿は毬亜の躰を攫い、触れ、容易く開いた。
 一寿から始まったのははじめてだった。

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