Sugarcoat-シュガーコート- #135

第14話 Double-Crosser -5-


「もうお湯止めちゃっていいよね」
 叶多が振り返ると戒斗もまた浴槽から出ようかとしているところで、大事なものが目についてしまい、慌てて正面に戻った。
「いや、止めないほうがいいんじゃないか」
 含み笑いと同時に戒斗は叶多の背後にかがんだ。躰の両脇から腕が伸びてくるのを視界に捉え、叶多はすぐ前が壁であることも忘れてとっさに逃げだそうとした。壁にぶつかる寸前、背後から腰をつかまれる。とりあえず頭は無事だったが、四つ這いになった叶多に戒斗が覆いかぶさった。
 成り行きでおかしな態勢に陥ったうえ、戒斗の手が回りこんで胸をつかんだ。脚の間では戒斗の慾が当たっていて余計に混乱している。
「か、戒斗っ」
「充分温まっただろうし、寒くはないな?」
「や、でも、お酒! 飲みたいんだけどっ。そしたら――」
「そしたら恥ずかしくなくなるって? まあ、酔っ払って大胆な叶多も好きだけど、それじゃ罰にならないだろ」
 あの気つけ薬は最初からここで罰を実行するための、本当に気つけ薬だったらしい。
「でも罰ってやっぱり違うっ」
「だから、口実、だ。違っても違わなくてもいい」
 起きあがろうとしても伸しかかった戒斗を退かすことはできず、戒斗は自分の脚を叶多の脚の間に割りこませて開脚させた。狭い浴室の中、叶多は拘束に近い状態で捕われてしまった。

 胸から戒斗の手が離れたのもつかの間、すぐにもとに戻ってきて、ぬるりとした手の中に叶多の胸がすっぽりと納まった。ぎゅっと胸をつかんだ手は石けんに(まみ)れていて、つるりと先端まで滑った。流れで指先が先を摘む。
「あ、やだっ、戒斗!」
「いい感じだ」
 胸先にかかる圧力は云い様がないくらい絶妙な加減になっていて、叶多がいちばん苦手とする胸の攻められ方だ。
 “苦手”ではなく、たぶん気持ちいいんだけれどそれは認められないで、つい、やだっ、と漏らしてしまうのはどうしてだろう。“たぶん”なんてつけること自体、いかに消極的であるかを示している。
 戒斗の手はぬるぬると動き続け、躰はプルプルと震えて応える。それが戒斗の慾と触れている脚の間をもとんでもない快楽に繋いだ。逃げようと躰をくねったことも自分に返ってくる。
 湯の流れる音に紛れるようにして、背中の向こうから戒斗のくぐもった声が聞こえた。と思うと、戒斗の右手が胸から離れて腰へと這いあがり、指先がお尻の間を沿いながら滑り落ちていく。あらぬところを通過され、叶多はお尻をひくつかせて悲鳴をあげた。そして指先は、石けんとは違う質で(ぬめ)る場所に否応なく、それでいて気遣うように潜ってきた。
 あっ。
 痛みもなくて、叶多の体内は易々と受け入れた。探るように指がうごめくと胸の感覚と相俟って躰から力を奪われ、肘が折れる。伴って肩から先がかくんと落ちると、指は体内から引っこんでいく。抜けだしたのに合わせて身震いした。それがさみしいのかほっとしたのかわからないうちに両手で腰を鷲づかみにされて、入れ替わりで戒斗の慾がゆっくりと入ってきた。
 ぅっあ……んふっ。
 奥まで到達すると、膝立ちしていた戒斗が腰を少し落とした。ぎゅうぎゅうで繋がっている叶多のお尻は引きずられるように落ち、戒斗の太腿に跨っているような格好になった。
 戒斗が腰を押しあげるようにして動き始める。それに加えて、逃げられないようにつかまれた腰を押したり引いたりされた。
 んあっ、あっ、あっ……。
 ゆったりした律動に合わせて声が跳ねた。中の襞を引きずるようだった動きはだんだんと滑らかになっていて、それは叶多の体内が戒斗の慾に慣れたことを示している。戒斗の手はそれを見越して腰を離れ、またぬらりとした胸に戻った。
 やあっ。
 一際大きい自分の喘ぐ声が浴室に木魂して、叶多はめいいっぱいの恥ずかしさに襲われる。出しっぱなしの湯の音は確かに声を紛らせてくれるけれど、それでは間に合わない。自分の腕に顔を突っ伏して口を押さえた。
 んはっ…ふっ。
 胸先が(つね)られるたびに躰がくねる。それが体内まで刺激していて、きっとゆっくりうごめいている慾に伝わっているだろう。
「まず一回だ」
 叶多にとってはまるで惨憺たる言葉が耳に届いた。身構える間もなく、戒斗の片手が脚の間の繊細な神経に触れた。そこも胸も体内も、同時に摩擦を受けた瞬間、叶多は背中を反らし、首をもたげて悲鳴をあげた。振り絞った声が途絶えたあと、全身を痙攣が伝い、上半身は浴室のラバーマットの上でペタリと伸びた。

 叶多の体内が蠢動する間、その刺激に耐えていた戒斗もまた緊張を解き、横向きの叶多の顔から濡れた髪を払った。ふにゃふにゃに崩れた叶多は力なく泣きだした。
「なんで泣くんだ」
「どうしてこんな格好なのかわかんない。なんだか……潰れたカエルみたいで……ヘン」
「だから、ヘンじゃない。そそられる。叶多が泣いてれば尚更、な」
 最初は単におもしろがっただけの戒斗の声が、だんだんと薄気味悪くなっていった。云い終えたとたん、戒斗の腰が動く。 
「戒斗っ、あぅ……も、やだ」
「やだって云われても叶多が喰いついてて離れられないんだよな」
「そ、あっ、そんなことないっ」
「なら」
 戒斗が下向きに押しつけるようにして腰を引いた。ずるっという音が立ちそうなくらいの摩擦に、叶多は息を呑み、それから甲高く声をあげた。何かが緩んで溶けそうな感覚と一緒に、体内がぎゅっと(しぼ)んだ気がする。同時に抜けだしそうな慾に釣られ、叶多はお尻を差しだすように戒斗に押しつけた。
「っ……どうだ? 抜けようとしてもついて来るのは叶多だ」
 戒斗の声は唸るようにくぐもっている。それが余裕のなさを証明しているのならうれしいけれど、云い分に納得するには抵抗がある。
「あたしじゃなくって、躰の条件反射!」
「つまり、気持ちいいってことだな」
 反論したつもりが窮地にはまったようで、口を歪めていそうな声は悦に入っている。
「だ、だから、こんな格好やだってことなの!」
「だから、気持ちいいって?」
「……」
「認めないなら、さっきの、もう一回やるか」
「さ、さっきのって何?」
 さっきのは確かにこれまで感じたことのない感覚だったけれど、限定される意味がわからない。不安丸出しで訊き返すと、戒斗は含み笑った。
「叶多のウィークポイントってとこだ」
「……どうしてそんなところがわかるの?」
「学習能力は人一倍あるつもりだ。特に、叶多には尽くしたいって気持ちもあるからな。まあ、体制は変えてやっていい」
 戒斗は恩着せがましく云い、背後から叶多を抱き起こした。繋がったままクタクタした脚をまとめて持ちあげ、くるりと正面向かせる。それから仰向けに寝かされるまで、余韻も伴って叶多はずっと呻いていた。
「背中、大丈夫か」
 戒斗の手が顔にくっついた髪を払った。
 本物のえっちをするようになって一年。つい先週、浴室内用にラバーマットを買ってきた戒斗の意図はあからさまで、目を丸くした叶多はニヤついた顔で見返された。戒斗ってえっち、と焦ったように云うと、へぇ、これってそういうときに使うものなんだな? とまるで叶多が好色であるかのように云われたのだ。
 確かにマットはふわふわしていて、躰を洗うにもアヒル座りができていい感じだ。いまだって背中は痛くない。けれど、絶対に心地よさのためじゃなくて、いまみたいなときのためだ。
 叶多が恨めしそうに見ると、戒斗は惚けた顔で笑う。それから膝を抱えて身を乗りだしてくると、お尻が持ちあがって慾が押しつけられた。

「戒……んんっああっ」
 いきなり擦りついた慾は、戒斗の云う弱点を突いて、叶多は苦しくなるほど躰を痙攣させて喘いだ。イッたばかりのせいか、一回きりの往復で一気に息があがる。
「戒斗! ふっ……えっちは……もぅ尽くさなくていいっ! あたし、はっ、きっと……弱点だらけだからっ」
「認めたらしい。けど、最大の自分の弱点はちゃんと知っておくべきだ」
「だめっ、戒――う――っ」
 二度目、引き止める言葉も呻き声も途中で途切れた。異質の感覚に鳥肌が立つ。
「戒斗っ、なんだか違うっ」
「違わない」
「やっ、何かおかしい! も……も、漏れちゃいそうなのっ」
 恥ずかしいながらも、叶多は切羽詰まって打ち明けた。
「似てるらしいけど違うから大丈夫だ」
「似てるとか違うとかって何?!」
「こういうときに躰のメカニズムについて説明するって野暮すぎるだろ。とにかく風呂場だし、遠慮することない」
「遠慮とかそういうんじゃなくって――!」
「力抜けよ」
 三度目、息を詰めたなか、そこを擦られたのが続けて二回。云われるまでもなくその一回目で脱力した。二回目は、同時に太い指が剥きだしの触点を緩く練るように這い、どこがどうなったのかわからないまま体内から何かが搾りだされたような感覚に襲われ、一瞬後にはそれが脚の間からおなかに温かく伝い落ちてくる。
 悲鳴さえ出ることなく、ただ酸素が不足して怖いくらいに激しく喘いだ。直後には戒斗が体内から抜けだして、おなかに温かさが重なった。おなかから下半身まで異様に重たく、叶多の躰はこれまでになくぐったりした。腰が抜けているんじゃないかと思う。

「大丈夫か」
 しばらくしてから、さきに息の整った戒斗が叶多の上に伸しかかるようにして訊ねた。
「……あた、し……どうなったの?」
「男の気分を味わえたんじゃないか?」
「……え?」
「叶多の躰は云うことなしだ」
 叶多の不安をそっちのけにして、悦に入ったらしい戒斗はニヤリと最大に口を歪めた。シャワーを取った戒斗は叶多のおなかをきれいにしていく。
「やあぁっ戒斗っ、そこ触らないでっ。もうだめ!」
 戒斗の手が脚の間におりて、逃れようとした叶多だったが、やっぱり腰が抜けているらしく躰を微々とも動かせない。ただ痙攣という反応だけがある。
「洗ってるだけだけどな」
「死にそうなのっ」
「それは困る」
 まるっきりおもしろがった声だ。
「あたしの気分、戒斗にもあげたい!」
 投げやりに叫ぶと戒斗は笑いながら、叶多を抱き起こした。
「風邪ひいてもらっても困るし、これ以上はやめたほうがいいな」
 戒斗にすくい上げられ、その胸に背中を預けた格好で浴槽の中に落ち着いた。
「今日はもう終わりだよね」
「大事に尽くしてやる」
 あえて質問にはしなかったはずが、戒斗は明確に意思を表して叶多をウルウルと泣かせた。



 ミザロヂーの店内は冬の寒さを忘れさせるくらい、人の熱気に満ちている。例年のカウントダウンライヴも、叶多が参加するのは早、三回目だ。顔馴染みもずいぶんと増えた。何よりもメンバーといることがここ最近あたりまえのようになってきてうれしい。
 高弥と昂月に絡んだ、FATEとしても深刻であった事件は転機にもなった。
 (かね)てからうまくいっているとはけっして云えなかった木村がFATEのマネージャーを降り、かわりにアマチュア時代にそれらしいことをやっていた唯子があとを継いだ。
 交代劇の裏では戒斗が何やら木村の弱みに付けこんだようで、表向き穏便に引き継ぎはすんだらしい。加えて、唯子はやはり頭が良くて、要所を弁えつつ木村に相談を持ちかけることでさり気なく木村を立てているという。つまり事務所との関係は、いまは何も問題ない。
 そのおかげで、戒斗はFATEの集まりによく誘ってくれるようになって、叶多にしたら万々歳なのだ。
 いまステージでは、隣の会話も耳を近づけないと聞こえないくらい、エイトビートの激しい音が途切れることなく流れている。激しいとはいえ、うるさいのとは違う。つい躰でリズムを刻んでしまうほどに誘われる音だ。
 おそらくFATEにとっては方向性の転機でもあって、これからのことを考えると最大の転換期を迎えているのかもしれない。
 右隣に座ったユナとその向こうの永は、今回がはじめての参加で、普通のライヴのときとは全然違うと昂揚ぎみだ。叶多もたったいまのFATEのほうが断然好きだ。

「そういえば叶多」
 隣に座った慧が顔を寄せてきた。その向こうには、九月の終わり以来、すっかりリラックスした様子の昂月がいる。
「何――あ、ちょっと待って」
 叶多は答えかけたところで慧に断りを入れ、ポケットの中で振動し始めた携帯電話を取りだした。電話じゃなくメールで、相手は詩乃だ。
『千里さんに聞いたんだけど、明日、八掟家には昼間に行くらしいわね? 夜はうちにいらっしゃい。泊まる用意してきてね』
 いつもながら強引な申し出だ。叶多は手早く了解の返事を送り返した。
「叶多、それってイギリスのお土産?」
 慧は衛兵ベアの携帯ストラップを指差した。
「そうだよ。実を云うと、アパートはこの衛兵ベアだらけなの。マグカップとかタオルとかぬいぐるみとかいろいろ」
 戒斗が帰ってきた翌日、宅配で最大サイズというダンボールが三つも有吏家に送られてきたのだ。そのうち二つが叶多のだというから何かとワクワクして開けてみれば、あたしって熊が好きだったっけ、と自分に問いかけてしまうほど熊だらけだった。
「なんで?」
「あたしのお守りなんだって」
「ぷ。それで衛兵なんだ。愛されてるねぇ」
「ユナにも同じこと云われた」
 衛兵ベアのことはともかく、そう云われることはうれしいことだ。叶多は照れ笑いをしながら首をかしげた。
「それでさっき云ってたの、何?」
「叶多が知りたがってたこと、わかったの?」
「なんのこと?」
大雀(おおさざき)家の話」
「あ、忘れてた。慧、調べてくれたの?」
 いろんなことを知ったいまなら戒斗に訊いてもいいのに、ほかの大事を知りすぎて慧に依頼していたこと自体がどこかへ消えていた。

「うん。西暦四〇〇年前後の仁徳(にんとく)天皇。その人の別名が大雀命(おほさざきのみこと)。サークルの先輩とか教授とかにも当たっていろいろ調べてみたんだけど、歴史に残るところではそこしか見つからなかった。古事記とか日本書紀あたりの人だから、いろんな説があってはっきりはしないところなんだよね。一説では父親の応神天皇と仁徳天皇は二人で一人、つまり同一人物って云われてる。逆に、大雀天皇と難波高津宮(なにわのたかつのみや)天皇の二人を一人とされたって説もあるんだよ」
 慧の説明を聞いている間、叶多は詩乃が云ったことを思いだしていた。現天皇家同等に有吏から守られてきた――ということは、遥か先祖自体が天皇であり、つまり大雀家は(かみ)家の一門なのだ。
 二つの上家。一方は二つの一族に支えられながら天下を治め、もう一方は密かに有吏一族に守られてきた。そこにも何かしらの理由があるのだろうか。
「慧、ありがとう。なんか、すっきりした」
「すっきり? サークルじゃあ盛りあがっちゃってたいへんなんだよ。古事記の原文見せられて、自分なりに訳せ! だって。あたしの頭の中、いま漢字だらけなんだから」
 慧は目をくるくるさせて肩をすくめた。その実、楽しそうだけれど、とりあえず叶多は、ごめん、と謝っておいた。

「ここ、いいか?」
 ふいに頭上から戒斗の声がした。いつの間にステージから降りてきたのか、手にはグラスを持っている。
「どうぞ。叶多、永と向こう行ってくる」
 ユナが逸早く立ちあがり、ステージのほうを指差した。きっとリズムに乗りたくて堪らないんだろう。
「ユナちゃん、ありがとう」
「渡来が云ってたとおりですね」
「何?」
「戒斗さんがところかまわず叶多にくっついてるって」
 ユナは可笑しそうに云い、右手を軽く上げて、じゃ、と永と連れだって席を離れた。別のテーブルにいる陽を見やった戒斗は鼻で笑うと、背後から椅子を跨いで腰を下ろした。
「カウントダウン終わって三〇分したらふけるぞ」
「またからかわれちゃうよ」
「云わせてろ」
「おばさんからね――」
 叶多は云いかけて途切れさせた。
「ここ、いいかな」
 と云いつつ、返事を待たずして、永がいた席に座ったのは、陽と同じテーブルにいた高橋州登(しゅうと)だ。三十三才という若さながらも、政財界を専門にするやり手のジャーナリストという。なんでも高弥と昂月の事件にかかわっていたとかで、それ以来、FATEの集まりに何かと顔を出している。
「君と話したいと思ってたんだよ」
「いつも話してる」
「いや、個人的に、尚且つ真面目な話だ」
 高橋は荒削りながらも顔つきは整っていて、煙草を吸っているときは特にだけれど、叶多はどこか祐真に似た印象を受けている。そのせいか怪しい雰囲気は感じ取れず、むしろ、まだ簡単に数えられる程度しか会っていないのに親しみさえ抱く。
 戒斗は首をひねり、椅子の背に背中を預けた。
 高橋は煙草を一本取りだし、テーブルにあるライターを取って火を灯した。

「僕の父は高登(たかと)不動産の代表をやってる」
「知ってる」
「当然だな」
 高橋は薄笑いして戒斗を見つめ、戒斗は片方の眉を問うように上げた。
「当然?」
「最近、高登には不穏な動きがあるらしい。父が嘆いていてね。僕なりに調べてみた」
「それで?」
仁補了朔(にほりょうさく)。知ってるよな」
 高橋は、表分家である戒斗の従弟の名を挙げた。質問じゃなく確認であり、叶多は驚きが顔に出ていないように祈った。
「従弟だ」
「どういうことだろうな。偉大な有吏リミテッドカンパニーから、たかが不動産業に転職か?」
「偉大な? 有吏は一コンサルティングファームだ」
「いや、僕はそう思っていない。まえまえから興味あったんだよな。実のところ、昂月さんの件にかかわったのは、有吏リミテッドカンパニー代表の息子がFATEにいたからでもある。知ってるかな。この世の中は一見、開けた情報のなかで誰もが平等の権限を持って動いているかのようだけど――少なくともこの日本は、ほとんどの人間がいざとなればすべてを白日の下に晒せると思っている。けど違う。少なくとも、この日本には絶対に明かされることのない闇がある」
 高橋は『少なくとも』を繰り返し、まったく逆の説を唱えた。
「それが“偉大な有吏”とでも?」
 戒斗はからかうような表情で、尚且つ挑むように応えた。高橋は笑うと同時に煙草の煙を吐いた。
「警戒しないでくれ。そうしてもらいたくないから、まずは知り合うことからはじめてきた。職業柄、推察できる立場にはいるけど、ジャーナリストとして発言してるわけじゃない。個人的にって云っただろ。僕は高登がどうなろうとどうだっていい。ワンマンな父に対する恩義はこれっぽっちもないから。できのよかった兄と散々比較されて辟易している。兄のことは尊敬してた。駆け落ちしてしまって、そのあと若くして仕事中に事故死したんだ。父が勘当しなければ、兄は今頃高登を継いで、会社もうまくいってたはずだ。僕は反逆だろうが革新だろうが大歓迎する」
「高橋さんのことはべつに警戒していない。ただスクープを狙うっていうジャーナリストじゃないことは知ってる」
「うれしいね。高登はどうなる? 経営的にも芳しくないんだろう? 破綻するには犠牲が大きすぎる。僕も創業者の出ではあるし、いちおう経営責任だけは感じてるらしい」
 高橋は肩をすくめておどけた。
「福岡支社にいい人材がいると聞いている」
「ああ、吉川さん――吉川昌紘(まさひろ)さんだな? けど、吉川さんの経歴は知ってるのか?」
「ああ。自分の会社を潰すことになった経緯までわかってる。あれは吉川さんのせいじゃない。だからこそのノウハウが活かせるだろ。六〇という年齢を考えれば繋ぎってことになるけど、立て直しの時間を五年は稼げる」
 戒斗の言葉に高橋はうなずいた。
「僕はいつでも協力するよ」
「ほかにも協力してもらうことがあるかもしれない」
「いつでも」
 おもしろがった高橋の目がふと叶多を向く。おそらくぽかんとしている顔を慌てて引き締めた。高橋は吹くように笑う。
「叶多ちゃんていいキャラしてるよ。戒のカノジョを想像しろって云われて、まず叶多ちゃんは思い浮かばないな」
 高橋が叶多のことをどう捉えているのか、叶多はひしゃげた。見上げた戒斗までおもしろがっている。
「それって酷い気がします」
「いや、いつも不思議だと思ってる。思い浮かばないのに、ふたりセットにするとしっくりくるんだよ。それに、叶多ちゃんの実力は僕も認めてる」
「実力?」
「“fill”」
 高橋は一度きり世に出たモデル名を挙げた。
「君たちの熱愛、もしくは結婚報道は僕に任せてくれ」
 叶多が目を丸くしているうちに高橋は席を立って、昂月の向こうにいる高弥の隣へと異動した。にこやかな高橋と対照的に、高弥は露骨に迷惑そうな顔をしている。それはいつものことであり、高橋はめげることなく、昂月を巻きこみ、三人で話しだした。何があったのか知らないけれど、叶多からしてみればこの三人の組み合わせのほうが不思議だ。

「戒斗、バレてる!」
「さすが、だな」
「あたしのことはともかく、有吏のことは?」
 叶多は声を潜めた。戒斗は深刻さも慌てる様子もない。それどころか、笑った。
「包囲網だ」
「包囲網?」
「護るためには譲歩も必要になる。自分の眼を過信してるつもりはないし、慎重に築いてるってとこだ」
「そう?」
 叶多は訳がわからないまま確かめた。
「心配することはない」
「あたしは戒斗の目を信じてる!」
「それはつまり、自分がいちばんて思ってるってことか?」
「……あたし、いちばん?」
 戒斗は身をかがめて叶多の耳もとに口を寄せると、
「帰ったら尽くしてやる」
とつぶやいた。

BACKNEXTDOOR