Sugarcoat-シュガーコート- #130

第13話 My One and Only Place -10-


 喜々としたあまり飛びついてハグしたまではよかったが、戒斗のせっかくの警告を無視してしまったことになり、結局ただのハグでは終わらなかった。叶多は戒斗に抱きついた格好でその腕の中、“本望”を遂げた。
 目覚めたのは昼の二時になろうかとする頃だ。
 戒斗は見当たらず、夢なのかとまた不安を覚えたのもつかの間、起きあがるにも躰の節々が軋むようにだるく、それが夢じゃないことを証明している。服を着ようとベッドをおりると体内からは証拠が零れてきて、叶多は慌てつつ、うれしくなってしまった。
 下着を身につけ、ショートパンツとTシャツを着てから部屋を出ると、階段に差しかかったところで戒斗の頭が見えた。
 叶多の足音に気づいた戒斗が顔を上げ、階段の途中で立ち止まる。
 ジーンズに短い袖のTシャツというお馴染みの姿は、戒斗が帰ってきたことを実感させてくれる。起伏のある腕に咬みつきたい気持ちになるのは犬体質のせいだろうか。
「戒斗、おかえり!」
「何回、云ってるんだ?」
 戒斗が可笑しそうに口を歪めて応じた。
「たぶん、しばらく云ってると思う。いま、いちばん好きな言葉かもしれない」
 戒斗は吹くように笑い、叶多はその目と同じ高さになるまで階段をおりて止まった。昨日は夜だったし、そのあともまともに見られる状態にはなく、いま、美の詰まった顔を目の前にして感慨無量だ。
「喰いつかれるまえに餌やったほうがいいらしいな」
「餌って酷い」
 まじまじと魅入っていたことは確かで、叶多は(むく)れながらも決まり悪く首をかしげた。
「ちょうど高菜ライスつくったとこだ」
「ホント? ここに来ておばさんがつくってくれてはじめて食べたんだけど、すごく美味しくて好き」
「那桜の大好物でさ、定期的に福岡の平井家から高菜の漬物を送ってくる。父さんは苦手らしいけど」
「そう? おじさんもちゃんと食べてたけど」
 戒斗の云うことを聞いていて、だから「美味しい」と云ったときに詩乃がやけにうれしそうにしていたんだと思い至る。戒斗はちょっと間を置いてから、へぇ、と何やら感心したように相づちを打った。

 リビングに入ると高菜独特の匂いがして、逸早く叶多のおなかが反応した。もう半日以上食べていないから、おなかにはちょっとかわいそうなことをしている。ホカホカの高菜ライスをお皿に盛ってその上に鰹節(かつおぶし)をかけると、香ばしさと同時に鰹節が美味しそうに踊りだした。
 有吏家でふたりの定位置となっている席に隣り合わせで座り、そろって早速食べ始めた。
「美味しい」
 戒斗とふたりきりの食事は二カ月ぶりのことだ。美味しさが倍増する。
「ああ。素朴な日本食を食べたかった」
 その言葉に叶多はハッと手を止めた。
 ツアーから帰ってくるたびに外食は飽きたと云う戒斗だから、イギリスに一カ月以上もいれば尚更で家庭料理が恋しいだろうと思っていた。いちばんにしてあげたいと決めていたのに。無理やりに襲われたとはいえ、間抜けすぎる。
「ごめん。あたしがつくらなくちゃいけなかったのに」
「いちばん食べたいってのは、叶多からもう喰わせてもらってるんだけどな」
 戒斗がニヤリとすると、叶多でも何を云わんとするのか見当はついて、後悔どころではなく、かわりに赤面した。そそくさとまた食べ始めた叶多の隣で戒斗が忍び笑う。取り合えば馬鹿を見るのは叶多に決まっていて、無視することに努めた。
 そのうち食べることに夢中になっておなかも落ち着いた。

「アルバム、上出来?」
「いつものとおりベストは尽くしてる。それでなくてもあんだけ時間取られたんだ。そのはずだろ」
 思いがけず、答えた戒斗の口調はいつもの満足感からかけ離れて皮肉っぽい。叶多は覗きこむようにして顔を傾けた。
「帰るって云ったのも急だったし、何かあった?」
「事務所がこそこそ何かやってる。まずは高弥と昂月ちゃんだ」
「え?」
「引き離すか、高弥を降ろすか」
 どういうことなのか叶多が理解するには時間を要した。小学生並みの沈滞する思考回路のせいじゃない。信じたくないからだ。お箸を放りだして戒斗の腕をつかんだ。
「昂月たちもFATEも、バラバラはダメだよっ」
「当然だろ」
 一気に不安になった叶多と違って戒斗の声は余裕たっぷりだ。
「ホントに?」
「悪いけど、おれはすべてを手に入れる」
 わざとなのか、それは尊大な云い方で、叶多の不安を払拭して、それどころか笑わせた。
「全然悪くない」
 叶多が即座に答えると、今度は戒斗が笑った。
「まあ、すべて手に入れるためには当面、捨てなきゃならないこともある」
「何?」
「一からって話、したことあるだろ。そろそろ潮時だと思ってる」
「うん。ファンは――本当にFATEを知ってて大好きだっていうファンならついてくるに決まってるし、ほとんどのファンがきっとそう。みんなカッコいいからデビューしたてのときはアイドルぽかったかもしれないけど、いまはそういう目で見てる人って少ないと思う。誰もバラバラになることなんて望んでない」
 叶多は絶対の確信で云いきる。戒斗は可笑しそうにして、皮膚に喰いこむほどしっかりと自分の腕をつかんでいる叶多の手を見下ろした。そして顔を上げると、片方の口端で笑いながら首をひねった。
「そういちばんに望んでいるのは叶多だな。それを裏切ったらおれの名が(すた)る」
「良哉さんのことも!」
「云うまでもない」
 見上げた戒斗の眼差しは心配する隙がないくらい自信たっぷりに見える。叶多は戒斗の腕をつかんだ手を緩めた。
「うん! あ、でも……。戒斗、『まずは』って?」
「はっ。維哲さんの云うとおりだな。肝心なところを聞き逃してない」
 戒斗は短く笑い声をあげ、徐に顔を近づけると叶多のくちびるを舐める。唐辛子がピリッと絡んで叶多はくすくす笑った。
「何があるの?」
「わからない。これから調べてみるつもりだ」
 そう聞いたとたん、事態の深刻さとは裏腹に叶多は笑みを零す。これまで決めたことを、あるいはある程度まで決着ついたことを話してくれることはあっても、こんなふうにまったく曖昧なことを打ち明けてくれることはなかったと思う。
「戒斗、うれしい」
「何が」
「話してくれて」
 戒斗は肩をそびやかして、叶多はそのしぐさにすべてうまくいきそうだと感じた。

 *

 戒斗が調べてみると云ったことは、有吏の力ではなく戒斗自らが動いていて、そこに音楽に対する、戒斗の情熱とプライドが見えた。事務所から時間を縛られることはないといったにも拘らず、戒斗はよく事務所に顔を出している。そこから何かを得ようとしているらしい。
 そして、祐真の鎮魂(レクイエム)ライヴの準備、有吏の仕事と戒斗は案のごとく忙しい。ただ、叶多が休講中であることが幸いして、一日の半分は一緒にいられるし、いざとなったらすぐに会える距離でさみしくもない。
 渡英まえ、えっちが少なくなったとか戒斗が以前と違うことに不安を抱いていたことが馬鹿馬鹿しいくらい、近くにいられることが貴重な気がする。離れてまた一緒にいられることで、自分が贅沢になっていたと気づいた。それは肝に銘じてわかっていたつもりが、やっぱり叶多は会えなかった五年間をいつの間にか(ないがし)ろにして、目先のことだけで不安になっていたのだ。
 何より、祐真のライヴに対する妥協しない姿勢が、あらためて戒斗にとって祐真の死がどんなに辛酸だったかということを叶多に再認識させた。加えて、その延長上で叶多と戒斗に起きたことにどれだけ戒斗が苦しんできたかという、その深さの証明にほかならない。
 いつも戒斗が叶多に対してそうしてくれているように、傍にいて見守っていればいいことであって不安に思うことじゃなかった。
 なんにせよ、戒斗は離れたことで何かを吹っきれたのか、叶多が不安な気持ちで戒斗を見ることはなくなっている。

 一方で、FATEを(おびや)かす事態は良くも悪くも進展していない。
 九月の初めの日曜日、FATEが内輪でやった食事会で高弥はもちろん、昂月と会った。
 事務所から圧力を受けているはずの昂月はそのことについて何も云うことなく、一見、高弥とは普通にやっている。ただし、それはやっぱり“一見”で、どこかずれた印象を受けた。高弥と同伴で来たわけでもなく、それにも増して、昂月は慧を連れて、呆気ないほど早く帰った。
 そしてその三日後、戒斗は『まずは』の次の『わからない』ことを探り当てた。同時に、瀬尾からもセデュースで得た情報が入って裏づけられた。
 祐真の新曲が命日に合わせて発売されるという。アルバムからカットされるのではなく、まったくの未発表曲らしい。
 神瀬(かんぜ)家はもとより、祐真の顧問弁護士であり、高弥の父親である伊東弁護士さえ知らないことだった。
 祐真が歌というのをどんなに大事にしていたかということは、祐真を本当の意味で知っている人なら誰だってわかっている。歌えなくなっていた祐真がまた還ってくるつもりだったことははっきりしていても、そして、そこに新曲なるものが存在したとしても、それを家族も弁護士も知らなかったとすれば、発売が祐真の本意かどうかなんて誰にもわからない。
 祐真を敬愛する誰もが納得することなく心痛を抱えていて、昂月は尚更だ。

 何もできない自分をもどかしく感じるたびに、叶多は祐真との約束を思いだす。
 証人になること。見ているだけでいいから立ち会ってほしい。
 本当を云えば、見ているだけというのはつらい。昂月のことも、ちょっとまえの戒斗のことも。
 それでも戒斗がいまに至ったように、昂月もまた自分で進まなければ、きっとまた迷宮の中に逆戻りすることになるんだろう。


「戒斗、大丈夫?」
 今日の戒斗は、最近にしてはめずらしく日付が変わる遅い時間に帰ってきた。部屋に入ってくるなりベッドにどさりと腰を落としたその直後、ため息が聞こえて叶多は呼びかけた。
 帰国から一カ月弱、まもなく祐真の命日を控えている。祐真の新曲についてもFATEのことについても、戒斗が話すのは要所だけだ。叶多に見えないところでも何かと問題が起きているだろうことは察しがつく。
「悪い、起こしたな」
「ううん、起きてた。何かあった? レコーディングうまくいった?」
 叶多が質問しても戒斗がすぐに答えることはなく、何かあったことは瞭然とした。
 レコーディングとはアルバムではなく、ネット配信用の新曲だ。高弥の依頼で祐真の新曲発売に合わせて無料配信するらしい。FATEの人気ぶりを考えると破格の企画だ。
「良哉に続いて高弥だ」
 その一言でFATEにとって重大な挫折が起きていることはわかった。祐真の死以来、良哉はいまだに音楽活動から離れたままだ。
 戒斗はベッドにあがりこんで叶多の躰を跨ぐ。
 ずっと戒斗がタフであることには変わりないけれど、いま、その表情はちょっと違ってきた。叶多の真上で自分にうんざりしているようにまたため息を吐く。
「FATEは絶対に大丈夫!」
 何かにつけ、お(まじな)いみたいに叶多はそう繰り返している。
 戒斗は薄く笑って、顔をおろしてきた。
「生理まえだよな?」
「もしかしてそれ狙ってる?」
「いや、盛りのついた飼い犬をなぐさめてやるつもりだ」
「失礼だよ」
「いいだろ?」
「戒斗、その云い方、やっぱりセクハラ上司みたい」
 いいだろうと云われれて、うん、と答えるには抵抗がある。自分でも素直じゃないと思う。ごまかした叶多のくちびるがぺろりと舐められた。
「そういうシチュエーションでやりたいのか?」
 戒斗は憤慨せずに揚げ足をとってからかう。
「声! 聞こえちゃうから……」
「おれに咬みついてればいい」

 戒斗が帰国したところで、ふたりしていまだに有吏の家に滞在中だ。アパートへは祐真のライヴの翌日に戻ることになっている。時間があると云ったわりに、隼斗夫妻のことを考えればえっちはそうできるものじゃなく、その実できていない。
 そういうなかで、この頃は戒斗がため息を吐くたびにやられている気がする。悪くとれば、ストレス解消なのかもしれない。けれど、どこか当てにされているように感じている。


 その後、叶多の呪文が効いたのか、祐真の祈りが届いたのか、レクイエムライヴを直前にしてFATEも昂月も落ち着いた。事務所とも妥協点を見いだし、折り合いがついたという。
『無理やり歌わされてる』と云っていた高弥はそこに迷いがあったのかもしれない。ようやくいまに来て、高弥の中で歌うことが自分の意思に変わったという、戒斗から万々歳なことを聞かされた。
 昂月とは食事会以来、連絡は取れていなかった。戒斗や慧からある程度のことを聞きつつ敢えて連絡はしていない。心配していないわけではなくて、“さき”には高弥がいたから。

 ――このさきにどんな選択があろうと、おれと昂月の時間が間違っていないと証明したい。
 祐真がそう信じていたように、叶多もそう信じた。誰かの言葉ではなくて、昂月が何よりも必要としたのはきっと高弥がいること。
 叶多だってそうだ。電話が通じることよりも、傍に感じられること。
 抱いてくれないことが不安ではなくて、戒斗がなんらかの畏れとそこから派生する迷いを抱えている、ということが叶多にとっても畏れだった。イギリスから帰ってきて以来、戒斗の中にその迷いは現れない。そのことで叶多の杞憂(きゆう)は嘘みたいに解消されて素直に信じていられる。もちろん、触れていられれば文句なしだけれど、渡英まえの一緒にいるのに不安であることと、いま別々の場所にいても安心していられること、それは雲泥の差だ。
 愛想がいいとはいえなかった高弥が、このおよそ一年の間に、全部とはいわなくても会話とか笑うこととか表に出せるようになったという変化もまた、昂月がいるから――そこに信頼があるからに違いないのだ。

 ライヴの二日まえ、戒斗にはじめて連れていってもらったレコーディングでは、あとからやって来た昂月の顔を見たとき、一目でこれまでと違っていることに気づいた。というより、それまで昂月がどんなに人に対して身構えていたかということがわかった。
 それくらい昂月は傷ついていて、そしていま、祐真がそうであったように、自分の時間を認められたんだろう。
 昂月は、戒斗との時間を取りあげてごめんね、と謝ってきたけれど、叶多は取りあげられたなんて思っていない。戒斗の落ちこんだため息なんてめったに遭遇することではないし、むしろ、みんなが悩んでいる最中、申し訳ないくらい叶多としては幸せだと実感できていた気がする。

 いよいよとなったライヴの前日は雨で、屋外ステージでやるだけに天気は心配なところだった。結局は取り越し苦労で、当日の二十七日はこれまでになく爽やかな秋空が広がった。
 祐真の新曲とそれにタイアップして無料配信されたFATEの曲は、相乗効果で話題をふくらませている。今日は、日本にいるほとんどの人の脳裡に祐真が現れたんじゃないだろうか。
 夕方になって叶多が会場へ行くと、すでに昂月が来ていて、経緯はわからないけれど、祐真の新曲“ONLY ONE”の発表が祐真自身の意思であったことを聞かされた。
 この日を待っていたかのように憂いはすべて払拭されていく。
 夜のライヴが始まる頃になると、遥か高い空には澄みきった月が輝きだした。

「嫌なことがあったら苦しめばいい。行き詰ったら悩めばいい。歌えなくなった祐真が乗り越えてまた歌を始めたように、ただ、そのさきになんらかの答えがあることを忘れないでほしい」

 ラストを迎え、高弥が祐真のファンに向けたメッセージは、祐真の気持ちそのものだと思えた。
 “さき”にたどりつけば、また何かがあるかもしれない。それでもきっと、乗り越えられるようにできている。誰にとってもその繰り返しなんだろう。
 ライヴのあとはそろって祐真のお墓参りをした。
 そこで思い出を語り合いつつ誰もが――戒斗さえも、人目を(はばか)らずにはじめて見せた涙は、苦しかっただけの祐真の死を受け止められた証なのかもしれない。忘れるということではなくて、祐真がいなければ出会わなかった人たちであり、だからこそ祐真の友人であるという誇りを誓い、心底(しんてい)に刻んだ瞬間だったかもしれない。
 それくらい、帰るときのFATEは力強く感じられた。


「戒斗、大丈夫?」
 有吏の家でベッドの中、叶多はうつぶせになると肘を突いて顔を起こした。
「そう訊かれなきゃならないほど頼りないか」
 答えた戒斗は怒るでも、不甲斐ないというため息を吐くでもなく、可笑しそうにしている。
「ううん。なんだかうれしくって」
「何が」
「戒斗が泣くとこ見られたから。去年は見えなかった」
 戒斗はため息紛いで笑った。
「おれだけじゃないだろ」
「だから余計に。思い出話してるときはあたしも泣いちゃったけど、みんな泣きだしちゃったら、あたしはすごくうれしくなってきた。祐真さんは証明してくれたから」
「証明って?」
 叶多は少しだけ打ち明けるのをためらった。
 でも、祐真さん、もういいよね?
 心の中で問いかけた。祐真のことを戒斗と共有できたら、祐真の魂にずっと近づいていられる気がする。そんな理由があったら祐真も笑って納得してくれるはず。
「祐真さんは昂月と離れなくちゃいけないって云ってた。だから、いなくなって……。あたしは那桜ちゃんたちのことがあるし、離れる必要ないって思ったけど云えなかった。たぶん、祐真さんの中ではもう結論になってたから、あたしがそう云っても――」
「叶多」
 戒斗がいきなり名を呼んでさえぎり、肩肘をついて起きあがった。
「うん?」
「おまえ、祐真と昂月ちゃんが実の兄妹だって知ってたのか」
 戒斗は叶多の話からポイントをすかさず捉えた。その言葉に戒斗が知っているとわかったのだけれど、同時に純粋な驚きを目にすると、叶多はこの期に及んで極々プライヴァシーである秘密を喋っていると気づいて、戒斗が知っていたから良しとできるものの、ちょっと後悔を覚えた。
「うん。ずっとまえ……路上ライヴした日に教えてもらった」
 戒斗は回想しているのか、表情を止め、それから力なく笑った。
「叶多、ほかにどれくらい、おれに隠し事があるんだ?」
「もうないよ!」
 一つでもあったら酷い仕打ちにあいそうで、叶多は慌てて戒斗の疑惑を打ち消した。本当か、という眼差しが向く。
「まあいい」
 その云い方は明らかに脅しで、言葉の意味とは程遠い。
「ホントにない!」
「いいって云ってる。続けろ」
「え……っと、だから。祐真さんは……祐真さんには離れるっていう選択があって、それが“戻ってくる”ことに繋がってるなら、祐真さんは正しかったってことだと思う。それが昂月と高弥さんを繋ぐことになっていて、それなら昂月にとっても間違ってなかったってあたしは思う。でも、拓斗さんは祐真さんとまったく反対のことを選んだ。それからいまの“那桜ちゃんと拓斗さん”に繋がっていて、あたしはそれも間違っていないと思う。それなら、どんな選択しても、そのさきにどんなことがあっても、ちゃんと切り開いていく力はみんな自分の中に持ってるんじゃないかって。そういうことを祐真さんは証明してくれた気がする。だから、あたしと戒斗のことも、まださきはわからないけど一緒にいられることは信じていられるの。どこまでだって頑張れそう」
 叶多はどうかなと問うように首を傾けて笑いかけた。戒斗は難題を向けられたみたいに目を細めて叶多を見返してくる。その表情が緩むまでに不思議なくらい時間がかかった。
「なるほど。じゃあ、やろうって思ったら遠慮なくいかないとな」
「戒斗?」
 真剣な顔が一転、ニヤリとしたあと、有吏家での最後の夜、「解釈が違うと思う!」という主張は無視され、叶多はコテンパンにやられた。

 *

 翌日の夜、夕食を一緒にとったあと、叶多と戒斗は有吏家を出ることになった。
「おばさん、お世話になりました」
「どういたしまして。楽しかったわ。また来てちょうだい」
 玄関先まで見送りに出た詩乃に深々と一礼して、それから頭を上げるとリビングから隼斗が出てきた。
「おじさん、お邪魔しました」
 さっきリビングを出るときに挨拶はしたものの、せっかく隼斗が出てきたのだからと、もう一度叶多は声をかけた。
「邪魔なことはない」
 返ってきたのは本当に思いもしない言葉で、叶多はいつもの厳つい顔にどう反応していいか戸惑う。
「はい」
「何かあったときは遠慮なくうちに来るといい。どこかのマンションよりはここのほうがずっと安全だ。戒斗、いいな」
 叶多が目を丸くしているうちに、隼斗の目は戒斗を向いた。
「わかりました。遠慮なく。帰るぞ、叶多」
「あ、う、うん。お世話になりました」
 叶多は再び頭を下げて、戒斗に促されるまま玄関を出た。

 *

「さみしいわね」
 詩乃はリビングに引き返しながら独り言のようにつぶやいた。
「私では不足か」
 玄関の鍵を閉めた隼斗が背後で思いがけないことを口にした。叶多本人に限らず、さっきの隼斗の発言には詩乃も驚いている。それは少しずつでもまだ変化していける余地があることの保証で、詩乃を心強くさせる。
 隼斗と自分がこうしているのは遥か昔からの宿命。守られるために大雀(おおさざき)家は生きてきた。宿命を(いと)い、いったん狂った歯車はもとに戻ったようで、いまになってまたいろんなことが動いている。それを“運命の廻り合わせ”というのだろうか。
「せめて戒斗くらい喋ってくれるようになったら、さみしくないって認めてあげるわ」
 見上げた隼斗はいつになく顔をしかめ、詩乃はくすりと笑った。

 *

「戒斗」
 隣を歩く叶多が覗きこむように戒斗を見上げた。
「なんだ」
「さっきのこと」
「最大の収穫だな」
「そう?」
「おざなりであんなことは云わない」
「よかった」
「ああ」
「なんだか帰る場所が一つ増えた感じでうれしい」
 車庫に向かって先を歩く叶多は笑顔で戒斗を振り向いた。戒斗は首をひねって失意混じりで息を吐く。
「何?」
「いや。おれには一カ所しかないんだけどな。やっぱ釣り合ってない」
「え?」
「こっちの話だ。前向いてないと転ぶぞ」
 と、戒斗が忠告した矢先に叶多の躰が傾く。戒斗は素早く叶多の腕をつかんで支えた。
「ありがと」
 自分のドジぶりに情けない顔をして、それから叶多は照れ隠しに笑う。

 すべてを手に入れる。その笑顔も泣き顔も、躰も心も。
 どこにいても帰る場所は唯一無二。
 それが、こっちの話、だけじゃすまない。
 叶多にとってそれが戒斗であること。
「教えこまないとな」
「え?」
 とうとつな言葉に首をかしげながら、戒斗の腕に縋りついた叶多の手が緩む。その隙をついてくちびるに咬みついた。言葉のかわりに嫌というほど躰で躰に刻みつけようか――警告のつもりが。
「戒斗のキス好き。戒斗がいちばんだけど」
 (よこしま)な誓いを立てるも、場所を考えていない、いや、襲えない場所だからこそなのか、叶多は飛びかかってきてあっさりと戒斗の気を挫いた。

* The story will be continued in ‘Double-Crosser’. *

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