Sugarcoat-シュガーコート- #128

第13話 My One and Only Place -8-


 イギリスはそんなに居心地いいんだろうか。
 戒斗から無造作に電話を切られた叶多はそう疑って、声に出るくらいのため息を吐いた。ティッシュで目尻に滲んだ涙を拭いたあと、ベッドに伸びてまた一つため息を吐く。
 今月中に帰ってくるというのでさえ疑いたくなる。
 気分は声をあげて泣きたいところだけれど、それでなくても二十才を過ぎてのこの泣き虫ぶりにはさすがに自分でも呆れている。つい、陽や孔明たちのことを持ちだして挑発してしまったのも後悔した。
 せめて大学が休みでなければいいのに。夜はとにかく暇でしかたがない。夏というのにわざわざ押入れから引っ張りだした布団を被り、叶多は目を閉じた。
 戒斗に独りえっちをさせられて……違う、違う! イッたわけでもないし、けっして気持ちよかったわけじゃなくって!
 叶多は慌てて自分に弁明する。
 ただ、触れてもらえないことが鮮明になって、そして背中がスカスカしていることが我慢できなくなって、せめてと布団を出したのだ。

 クーラーをつけていれば暑くもなくて、温暖化が進んでいる地球には悪いけれど、こうしていると落ち着く。温暖化は氷河期の始まりでもあって、ずっとずっとさき――叶多が生きているうちでないことは確かでも想像してみた。
 戒斗に包まれてふたりで氷の中に閉じこめられたら、気持ちごと永遠にふたりでいられそう。頭の中のファンタジーはなぜかアダムとエヴァみたいに、いや、ふたりよりももっと無防備に裸だけれど、そのほうが氷の中でもきっと温かい。
 その氷の中、叶多の耳もとで戒斗が歌っている。
 その声はだんだんと大きくなっていって、声じゃなく音に変わった。叶多はハッと起きあがる。
 携帯電話の呼びだし音だ。慌てて画面を開きながら部屋の時計を見ると、まもなく十一時になろうというところだ。いつのまにか叶多は眠ってしまっていた。

 呼びだし音は云わずもがな戒斗からで、いつもと違う時間帯であることにまた悪い知らせだろうかと、叶多は電話がうれしい反面、気落ちしながら通話ボタンを押した。
「戒斗!」
 通じるなり、いつものように叫ぶと戒斗が忍び笑う。
『出るの遅かったな』
「うん。氷河期の夢見てた」
『なんだ、それ』
「やっぱり温かいのがいいなって思って」
『氷河期は寒いだろ。というより凍え死ぬな』
「それがいいの!」
 叶多の張りきった返答に戒斗がため息を吐く。肩をすくめて笑っていそうだ。電話の向こうから雑音は聞こえないものの、戒斗がなんとなく動き回りながら話しているように感じた。
「何かしてる?」
『叶多、帰る』
「どこに?」
 答えになっていない戒斗の発言にピンと来ないまま、叶多は眉間にしわを寄せて問い返した。
『おれが帰る場所は“One and Only”だ』
「……そう?」
『わかってるのか? 明日、日本に帰るって云ってる』
 おもしろがった声が具体的に報告したとたん、叶多は時間が静止したような気がした。
 喜ぶよりも不安になった。定例時間の電話はつい二時間まえだったのに、そんなことは一言も、いや、ほのめかすことさえなかった。叶多は自分の躰をぺたぺたと触ってみた。夢というにはやけに現実っぽい実体感はあるけれど。
「戒斗、やっぱりあたし、夢遊病みたい」
 自信なく、それどころか怖い気さえして叶多がつぶやくと、今度は戒斗がはっきりと声を出して笑いだす。
『そのぶんじゃ、帰ってきても信じなさそうだな。とにかく、明日の夕方、そっちに着く予定だ。じゃあ――』
「戒斗! ホントに?!」
 叶多は自分を疑いつつも期待を込めて戒斗のサヨナラ言葉をさえぎった。
『ああ』
「迎えにいく! どっちの空港?」
『それはおれのセリフだろ。飛行機は羽田着になる。けど――』
「じゃあ、近いから――」
『迎えはいい。事務所と交渉事があるし、何時に終わるかわからない。帰る準備でバタバタしてるから電話切るぞ。じゃあな』

 いつもと変わりなくあまりに呆気ない『じゃあな』のあと、電話はぷっつりと途絶えた。やっと会えるというのに戒斗は素っ気なさすぎる。叶多はそれがまるで戒斗であるかのように携帯電話を恨めしく見つめた。
 それも一瞬のことで、すぐにいまの会話を反復した。
 夢、じゃないよね。
 頬っぺたをつねると痛い。それでも自分は信用できない。
 部屋を出て階段を駆けおりた。お(しと)やかとはお世辞にもいえないほど勢いよくリビングのドアを開けたとたん、ソファから立ちあがりかけた詩乃とその傍に立つ隼斗の目が向く。
「叶多ちゃん、どうしたの?」
「あたし、起きてます?」
 詩乃は再びソファに腰を落ち着けて隼斗を見上げ、その隼斗は戒斗と同じしぐさでかすかに首をひねる。リビングは奇妙な沈黙が流れた。
「叶多ちゃんがいま起きてないとしたら、私たちはきっと相当に酔っ払ってるわね。コーヒーにブランデーでも入れたかしら」
 詩乃は可笑しそうに答え、叶多は決まり悪くふたりに笑い返した。
「いえ、明日、戒斗が帰ってくるって。だからその……夢じゃないっていう保証がほしかったというか……すみません」
 叶多の声はだんだんと小さくなっていった。
「あら、帰ってくるのね。楽しみだわ」
 詩乃はそう云って、ふふ、と小さく笑みを零した。叶多はそのとき、ふと、ふたりが手を繋いでいることに気づいて、つい凝視してしまう。いや、正確には隼斗が詩乃の手を取っているのだけれど。そういえば詩乃はさっき立ちあがる寸前だった。
 ……。もしかして……じゃなくて、やっぱり。ふたりって……隠れらぶらぶ?
「あ、えっと、その、お騒がせしました。おやすみなさいっ」
 叶多は深々と一礼をしてリビングを早々に出た。
 自分の頓馬ぶりが水を差したんでなければいいけれど。
 なんに?
 自分で自分に問いかけたあと、叶多は余計な妄想を振り払うように首を横に振った。階段を踏み外しそうになって慌てて体勢を立て直し、部屋に駆け戻った。

 それからまた携帯電話を取ると、今度は昂月の番号を呼びだす。情けないけれど、起きているのは証明されたとしても、やっぱり自分の聞いたことが本当なのかどうか疑ってしまう。こうも自分に疑心暗鬼になるとは犬以下だ。
 ため息を吐き終わらないうちに昂月に通じた。
『叶多、よかったね』
 叶多から連絡がくると予め察知していたに違いなく、開口一番、昂月が可笑しそうに声をかけた。このところ、昂月には愚痴の電話ばかりしていた。
「昂月、やっぱりみんな帰ってくるんだよね? よかったぁ」
『やっぱり、って?』
「や、ちょっと願望が強すぎて夢見てるのかなって不安だった」
 心底ほっとして脱力したようにベッドに腰を落とすと躰が小さく跳ねた。昂月は吹きだすように笑っている。
『叶多らしいね』
「昂月、ごめんね、ずっと愚痴ばっかり云って。でもね、明日は迎えにくるなって云ったの! 事務所と交渉事あるってことだけど酷いと思わない? 予定より二週間も延びてるのに……! あ、また文句云ってる。ごめん、昂月」
『叶多の愚痴聞くくらいのお返しはしないと』
 叶多は昂月の返事に眉をひそめた。
「お返しってなんのこと?」
『あ、気にしないで。とにかくよかったね』
「……よかったねって昂月もうれしいよね?」
『そうだね』
 昂月は他人事みたいな口調だ。こんなときまで冷静なんて、祐真が云っていた、“叶多と似ている”ところとはなんだろうと考えてしまった。
「とにかくホントにやっとって感じ。うれしくって、明日、戒斗に会ったら心臓発作起こしちゃうかも」
『ぷっ。それであの世行きってことになっても、未練たらたらで出てきたりしないでね』
「そんなことない! だってあたし、誰かに暗殺されるとしたって戒斗に看取られて死ねたら本望だから」
『暗殺? 叶多って話が飛躍するよね』
 昂月はくすくすと笑いだし、互いに、おやすみ、と口にしたあと叶多は電話を切った。

 隼斗たちにも昂月にも『おやすみ』と云ったまではいいとして、その実、眠れそうにない。
 明日はホントに心臓発作起こしたりして。じゃなくても気絶しそう。
 やっと安心しつつも叶多は馬鹿げた不安を持ちながら、戒斗の布団に包まった。

 *

 結局、叶多は眠れなかった。
 戒斗が迎えにきてくれた日――正しくは叶多がライヴに押しかけた日の夜みたいに、眠ったら夢になりそうだと思った。もしかしたら闘争本能剥きだしの犬みたいに、アドレナリンが躰の隅々まで広がっているのかもしれない。いざ眠ろうと思っても目は冴えきっている。
 さらに眠れないことが余計に待ち時間を長く感じさせ、ソワソワした気分を増長させて悪循環になった。眠ってしまえば三分も八時間も同じくらいちょっとなのに。
 独りでいるほうが落ち着かない気がして、詩乃がいるリビングで過ごすけれど時計ばかり気にしている。

「叶多ちゃん、お茶入れてちょうだい。あ、甘いものもほしいわね。手作りドーナツなんていいんじゃないかしら」
 十時になると、詩乃がいつもの命令じみた云い方で叶多に声をかけた。それは“命令じみた”ではなくて、その後、これが姑のあり方かと実感するほど何度も詩乃の命令が下った。
 大学が休みに入ってから引き受けている昼食の当番はさておき、お昼はホッケを食べたいわね、というメニューの押しつけにわざわざ買い物に出たり、地下室にある買い置きの絵の具を、取ってきてちょうだい、と云われてだだっ広く息苦しい地下に潜った挙句、探しきれなくて戻れば、あ、ここにあったわ、というまるで意地悪に遭った。
 その次は、リビングとは廊下を挟んで反対側にある部屋の畳拭きだ。リビング側は洋、反対は和と雰囲気が分かれていて、和のほうには使わない八畳部屋が四つも並んでいる。昔、同居していた衛守家が使っていたらしく、いまは何もないただの空き室だが、どこかしっとりした空気があって昭和初期の面影が漂っている。
 とにかく汗だくになって乾拭きを終わると、叶多は曲がった腰を伸ばすのに苦労しながら立ちあがった。明日には筋肉痛になっていそうだ。外側の戸を閉めながら見上げた空は、確かに天気はよくて掃除日和でもあると思う。けれど、戒斗が帰ってくる日にわざわざすることでもないだろう。

 そう思ってから叶多ははたと気づいた。和室の柱にある昔そのものの黒い木枠の時計を見ると、ちゃんと振り子は動いていて三時を示している。
 三時!
 待ち長かった時間も、飛行機が到着する予定時間まであと三〇分になっている。学校だったら、廊下は静かに歩きなさい! と窘められそうなくらい叶多はバタバタしてリビングに戻った。
「おばさん、ありがとう! もうすぐ戒斗が着く時間でした」
「どういたしまして。おかげでしばらくあそこの掃除がサボれそうだわ」
 叶多が勢いこんでお礼を云うと、詩乃はくすっと笑いながら受け合った。
 戒斗が日本に帰ったからと云ってすぐに会えるわけではないけれど、とにかく着いたという知らせだけでもうれしい。
 が、到着予定だった三時半になって間もなく、戒斗からではなく和久井から電話が来た。
 嫌な予感。
 戒斗に関するかぎり、その勘はけっこう働く。和久井は飛行機の到着が予定より遅れていると教えてくれた。イギリスの離陸が一時間もずれこんでいたらしい。
 叶多は誰かが邪魔しているんじゃないかと(あや)ぶんだ。ため息を吐きかけたものの、すぐにその息は呑みこむ。せっかく詩乃に気づかってもらったのだから、あと少しになった時間なんて大したことない。
 詩乃が描く絵を見ながら時間を潰した。掃除のせいで躰は疲れているものの、神経は変わらず冴えわたっている。待ちに待った電話が入ったときは五時近くになっていた。

「戒斗、おかえり!」
 ワンコールも鳴り終えないうちに叶多が応じると、戒斗が笑い声を漏らす。その声を聞いて一瞬にして叶多の気持ちが落ち着いた。そうなってから、いままでの時間、ソワソワやワクワクという期待ではなくて、ただあたりまえに帰ってきてほしいという願いだったと気づく。
『ああ。これから事務所に行く。この時間だし、夜は外で食べてくる』
「うん。何時くらい?」
『わからない』
「……うん」
 会おうと思えば会える距離に声があることがうれしいのか、淡々とした返事にがっかりしたのか、目が潤み、叶多は振り払うように瞬きした。
『帰ったら話す。叶多、頼むから家でじっと待ってろよ。ヘンなこと考えるな』
「帰ったばっかりなのになんだか酷いこと云ってる」
『北海道のときみたいにいざとなって会えないとなったら疲れるだろ。終わったら連絡入れる。じゃあな』
 散々な云い様に加えて、愚かな所業まで思いださせられた。
 けれど、それよりも何よりも、あとでという意を含んだ『じゃあな』がうれしすぎる。
「おばさん、戒斗、事務所との打ち合わせあって食べてくるって」
「よく待たせるわね」
 詩乃は呆れたように首をひねった。
「あたし、今日は夕食もやりますね。そのほうが時間早く過ぎてしまいそう」
「そうね。じゃあ……シンプル塩コショウ味の神戸牛が食べたいわね」
 神戸牛というブランドまで指定され、そこら辺のスーパーにあるんだろうかと思いながらも、詩乃によってまた叶多は買い出しに行かされた。

 戒斗から『もうすぐ終わる』と、要点のみのメールが届いたときは十時を過ぎていた。その直後に和久井から電話が入る。
「和久井さん、こんばんは。戒斗から連絡ありました?」
『ええ。それで電話を差しあげたんですよ。叶多さん、お迎えに同行されませんか』
「え、いいんですか?!」
『お叱りを受けるとしたら、私が喜んで引き受けますよ。それよりは私の苦労を戒斗に知ってもらわなくては』
「……苦労?」
『お気になさらず。では、のちほど』
 まったく、和久井も遠慮がない。気にならないわけないだろう。
 和久井の云う『苦労』を叶多がかけたことは事実であり、二重にため息を吐いた。
 それもつかの間、やっと会えるとなって叶多の口もとが盛大に緩む。急いで部屋に駆け戻ってパジャマから普段着に着替えた。



 ようやく内談を終え、戒斗はため息を押し殺しながら斉木事務所を出た。
「しばらく安泰だな?」
 先を行く高弥と健朗のあとから玄関口を出ると、背後の自動ドアが閉まるなり、横を歩く航が確認するように問いかけた。
「どうだろうな」
「どういうことだ?」
 曖昧に答えると、航が目を細めて鋭く聞き返した。戒斗は声を落とす。
「高弥と昂月ちゃんを引き離すためだけっていうには、帰国延期が大げさすぎるってことだ」
「……何がある?」
「それをいまから探る」
 航は肩をそびやかした。
「戒斗、一から――いんや、ゼロ以下からだってやり直してもいいぜ。誰だってそう思ってる」
 戒斗が鼻先で笑うと、航は肩を必要以上に強く叩いてから高弥たちを追い、事務所の駐車場に向かった。

 その背中を追ったあと、正面に向き直ると和久井が目に入った。互いに歩み寄り、合流したと同時に和久井がスーツケースを預った。
「おかえりなさい。叶多さんがお待ちかねですよ。もっとも」
 尻切れトンボに終わった和久井が問うように片側の眉を跳ねあげる。からかっているのは明々白々で、何をかいわんやだ。戒斗はかすかに肩をすくめた。
 歩道脇に止めた和久井の車まで行くと後部座席に手をかけた。
「戒斗」
 引き止めるように和久井が呼びかけ、戒斗が向くと、和久井は助手席のドアを開けて乗るように示した。
「なんだ?」
「いえ、バランス的にこちらのほうがいいかと」
「バランス?」
「とにかくどうぞ」
 戒斗は首をひねりながら和久井に促されるまま助手席に乗りこんだ。直後。

「戒斗、おかえり!」
 ありえない場所に叶多はいた。早く帰ってきてとおそらくは泣いていたわりに抱きついてくるわけでもなく、ただ首だけこっちを向けてきて、その笑顔はどこか引きつっている。戒斗は一瞬、思考停止に陥った。
「……何やってんだ?」
「戒斗のお迎え」
「座る場所が違うだろ」
「だから、免許取ったんだよ」
 叶多はハンドルから引き剥がすようにして左手を伸ばし、センターのコンソールボックスからライセンスケースを取って戒斗に見せた。確かに免許証が入っている。どこか畏まって、どこか照れている写り方はいかにも叶多だ。それはともかく、取得日を見れば今週の月曜日になっている。
「ホントは抱きつきたいんだけど、ちょっと緊張してる」
 戒斗があらためて見やると、ちょっとではなく叶多はガチガチに強張っている。
「かわれ」
「怒った?」
「呆れてる」
 戒斗はまさに憮然としていて、叶多はおずおずと笑った。叶多にとっては予想だにしない展開だ。驚くのは驚いたらしいが、おもしろがってくれると思っていた。
 気まずい雰囲気の中に和久井が後部座席を開けて乗りこんでくる。
「戒斗の送迎とかやれたらいいかなって思ったんだけど」
 叶多は弁明しながら後ろを振り返り、助けを求めるように和久井を見た。和久井はそれに応じてゆったりと口を挟む。
「重篤、ですね」
「こういうことを頼んだ覚えはない」
 和久井がおもしろがっているのに対して、戒斗は不機嫌に吐き捨てた。
「戒斗、大丈夫ですよ。ここまで来るにも問題なく到着しました。安全運転は保証します。何しろ私が就いて教習しましたから。とにかく、貴方にも一年ぶんくらい寿命を縮めていただかないと。私の十年に比べたら些細でしょう」
 和久井は手前勝手な理屈を戒斗に押しつけた。叶多にとっては侮辱にもなるがそれを気にするどころではなく、ますます機嫌が悪くなるんじゃないかと固唾を呑んで戒斗を見守る。
 やがて、戒斗は大きく息を吐いた。
「5キロだ」
「いい?」
「そう云ってる」
 素直じゃない了解だ。また和久井をちらりと振り向くと、可笑しそうな眼差しを向けてうなずいた。
「じゃ、行くね」
「“総領次位”を乗せてるってことを忘れるなよ」
 戒斗は地位を強調して云い、叶多はプレッシャーを感じるあまり惨めな顔つきで目を向けた。それを見た戒斗がやっと笑った。ニヤリとした笑い方だけでも、叶多は安堵する。素直じゃないところはやっぱり戒斗で、本物だという実感すら湧いてくる。
 車の運転という緊張度がマックスなせいで奇妙な再会になっているけれど、これが本物でなかったら本当に夢遊病だ。
「頑張る」
 叶多はうれしくなって軽く受け合い、パーキングからドライヴにシフトチェンジしてサイドブレーキを解除した。後方に車が来ていないことを確認すると、右足をフットブレーキからアクセルに移動してゆっくりとアクセルを踏む。車は滑らかに発進した。残念ながら叶多の技術ではなく、高級車ならではのパワーの賜物だ。

 それから十分、ここら辺で止まれ、と戒斗が云うまで、叶多は運転に集中していて気づかなかったのだが、車内は道案内を除いて一言も会話がなかった。
「どうだった?」
 叶多は期待に満ちた声で戒斗の評価を待った。舌を出して飼い主を見上げる犬そのものだと思いつつ、戒斗は笑うのを堪える。
「子犬の珍芸だな」
「酷い!」
 戒斗の暴言極まりない評価に和久井は後ろで吹いている。
「降りろ。後ろだ」
 叶多は戒斗の命令に渋々した気持ちで従い、運転席から降りて後部座席に移った。反対側から戒斗が乗りこみ、和久井が運転席に落ち着いた。
「ごゆっくり」
 和久井が声をかけたあと、前後の座席を仕切るカーテンが自動で伸び、後部座席はちょっとした個室になった。

 叶多は戒斗を向いたが、目が合うとなんとなく顔を伏せてしまった。叶多が戒斗から何か喋ってくれればと思うけれど、戒斗は眺めるだけでうんともすんとも云わない。
「髪、伸びたね」
 そのうち沈黙に耐えられなくて、ちょっとうつむいたまま叶多から口を開くと、戒斗は息を漏らした。顔を上げると、それが笑っているとわかって、叶多のくちびるも一気に広がる。
「散々文句云ってたくせにそれだけか? まあ、会えないってよりはマシか」
「会いたかった?」
 やっぱり答えはなくて、潤んだ視界の向こうで戒斗が首をひねった。
「触っていい?」
「訊くくらいなら触るな」
 戒斗の表情がはっきり見えないなか、即座に拒否されて叶多は顔を引く。今度は違う意味で涙を零しそうになったとたん、戒斗が躰を乗りだして叶多に迫ってきた。
 がさつに頭の後ろをつかむという乱暴なしぐさそのまま、小さく漏れた叶多の嗚咽をふさぐくちびるも荒々しい。戒斗の舌は痛いほどに口の中を這い、叶多はただされるがままだ。しばらくできなかったキスはくちびるも口の中も麻痺させる。ただ苦しくなってきた頃に戒斗は離れた。
 薄らと目を開けかけ、けれどその表情を確認できないうちに、戒斗が顔を傾けて再び軽く開きっぱなしのくちびるを覆った。今度は確かめるような触れ方で、泣きたくなるほど叶多の口の中がいっぱいになる。やがて外に這いでた舌はくちびるをなぞるように舐め、そして戒斗が緩く下唇に咬みつくと叶多は呻いた。
 キスに酔うよりも触れられること。ただそれが、よかった、と思う。
 戒斗が離れて、叶多の泣き虫という変わらなさがばれる。窓から入ってくる対向車のライトが叶多の頬を光らせて、それを見た戒斗はいったん目を細めてほったらかし、そして小さく笑って叶多を引き寄せた。
 叶多は許可を得た犬の気分で戒斗の足に跨ると、体裁かまわずくっついた。

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