Sugarcoat-シュガーコート- #127

第13話 My One and Only Place -7-


 戒斗から帰国延期の知らせを聞いた日から二週間を過ぎた。延びたという一週間を考えると帰国は今日のはずなのに、昨日の電話でも帰るという言葉は一言もなかった。戒斗が敢えて帰国の話題には触れないようにしている、と思うのは叶多の気のせいだろうか。

「どうされました? 最初はどうなることかと思いましたが、なかなかの上達ぶりですよ」
 和久井は叶多のため息を見逃さなかったらしい。有吏の家まで送られ、和久井が開けた後部座席のドアから降りるなりの質問だ。
「それはいいんです。楽しいし。でも……えっと、あたしのわがままだからやっぱりいいんです。きっと和久井さんに気にかけてもらうほどのことじゃないから」
「私も早く驚く戒斗が見たいところですが」
 和久井はからかうように云い、片方の手のひらを上向けると、どうぞ、と促すように門に向かって動かした。
 和久井が『私も』と同調したのは、叶多の内心が見抜かれていることを示している。叶多はごまかすように笑って一礼すると、和久井に見守られながら敷地内へと入った。
 門が閉まり、その向こうで車のドアが閉まる音がする。それから和久井の車が走り去ると、入れ替わりに着信音が鳴った。戒斗の音であり、同時にまだ夕方の六時という、いつもと違う時間の電話が何を意味するのか、叶多でも見当がついて顔を曇らせた。
 ううん。もしかしたら、予定どおり――といっても一度は延びているわけだけれど、とにかく明日帰るという電話かもしれない。
 悪い予感はすぐにそんな期待に変わって、叶多は通話ボタンを押した。

「戒斗!」
『ああ。叶多、また延びた』
 云うまでもなく、戒斗の報告はとうとつでうれしくもない。叶多の期待は二秒もしないうちに玉砕した。
 やっぱり。内心でつぶやくと同時に、目の前の景色がぼやける。
「さみし……」
 叶多は云いかけてやめた。泣きそうになって、けれど電話口でそうしてしまうのは、戒斗がいなくても頑張っていることを無駄にする気がする。仰向いて目を(しばた)いた。
「だって、明後日! 十九日はテレビ出演あるから――」
『中継になる』
「……酷い」
『少なくとも、叶多はおれが見れる』
「そういうことじゃなくってハグしたい!」
 叶多が即座に責めると、戒斗はちょっと間を置いた。
『なるほど』
 鼻で笑ったようなその答えはどこかへんだ。
「戒斗はそうじゃないんだね」
『どうかな』
「その答え、酷い」
『考えとく』
 またへんな答えだ。
「いつ帰るの?」
『未定だ。こっちのスタッフ、ヘンに力が入ってんだよな。今月末くらいになるかもしれない』
「そんなに!?」
 目を見開いた次の瞬間には意識する間もなく涙粒が零れ、叶多は小さく呻く。
『叶多』
 叶多は短い返事もできずに黙りこくった。それでも、戒斗は“じゃあな”と電話を終わらせることなく、叶多に付き合っている。ようやく口を開く気になるまで、五分くらいたったかもしれない。
「……おじさんがね、昨日、結束会の日なのにって怒ってた」
『だろうけど、叶多の前で怒ったりしないはずだ』
 叶多のむっつりした口調を戒斗は笑ってあしらうと、じゃあな、とあっさり電話を切った。
「戒斗のバカっ」
 通話時間を知らせる携帯画面に向かって詰った。
 そして、既視感(デジャ・ヴ)を覚えた。記憶をたどってみると、戒斗とずっと会えなくて、やっと見つけて追いかけたあの日、道路の向こうとこっちで鉢合わせしたことを思いだす。そのとき、叶多は似たような罵声じみたことを口にした。
 いまは道路じゃなくて海だ。しかも姿なんて見えなくて。
 あのときとは比べられないくらい、ふたりは近くにいる。それでも。
 戒斗のバカ。
 涙を拭ってつぶやいた。


 夜になって定時、戒斗からまた電話が入ったけれど、未定なのは変わっていなかった。
「昂月、また延びたって!」
 戒斗からの電話が終わるなり昂月に電話をかけ、通じたとたんに文句たらたらの口調で云うと、昂月は苦笑いといった笑い方をした。
『あたしも高弥から聞いた。ごめんね、叶多』
「……どうして昂月が謝るの?」
『なんとなく……叶多が怒ってるから、とりあえず謝っとこうって思って』
 きょとんとした叶多に答えた昂月は、ちょっと云い淀んだあとふざけた調子で云った。
「それってヘン。それより、昂月はなんともないの? 高弥さん、いないとさみしいよね?」
『しょうがないよ。音楽好きなのは確かだし、妥協っていうのもFATEには似合わないし』
 昂月は落ち着いていて、それでもって、そんなことを云われれば叶多の立つ瀬がない。
「やっぱり、あたし、わがままだよね」
『それが叶多らしくっていいんじゃない? 高弥が云ってたよ。叶多は何やっても嫌味がないって』
「……それって誉め言葉?」
『じゃなかったら何?』
「バカって聞こえる」
『ぷっ。大丈夫。高弥は皮肉云う人でも、お世辞云う人でもないから』
 昂月の声は確信に満ちていて、高弥のことをよく見ていること、信頼していることが窺える。
 帰国が延期になったと聞かされてから、昂月には毎日のように愚痴を聞いてもらっている。そのなか、一年前は昂月の口から一度も聞いたことのない、“高弥”という名が頻繁に出てくる。
 電話を切ったあと、叶多は心の中に、煙草を(くゆ)らせる祐真の姿を引っ張りだした。
 祐真さん、大丈夫だよね。

 *

 FATEの曲が遥か向こうから心地よく聞こえだした。その音はだんだんと大きくなっていく。
 戒斗だ。
 叶多は漠然と思って、枕もとを探り始め、程なく携帯電話に手が触れた。薄らと目を開けて通話ボタンを押す。そしてまた目を閉じた。
『叶多』
「うん」
『寝てた?』
「うん」
 夢現(ゆめうつつ)のなか、かったるく返事を繰り返すと戒斗の含み笑いが聞こえた。
『云うとおりにするんだ。まずは、左手を胸に置いて』
「うん」
『そのまま躰から手を離さないで反対の胸にゆっくり移る……そしてまた反対だ。それを繰り返す』
 戒斗の声は頭の中で螺旋状に響き、叶多の思考回路をおぼろげにして侵していく。
「うん。……んっ」
 インプットされた動作を繰り返す手のひらと胸の間の布が表面に摩擦をおこして、それから躰の奥に熱を生んだ。叶多がくぐもった声で呻くと、また戒斗の含み笑いが聞こえて、脳内でエコーした。
『手を下におろしていく。急ぐなよ。脚開いて。服の下に手を入れて……そのまま届くところまで滑らせて……ゆっくり撫でる』
「ぅんっ」
『弱く引っ掻くようにして……』
「んんっあっ」
 指先が、どこよりも熱く敏感な場所に触れたとたん、叶多は躰をくねらせて喘ぎ、一気に目が醒めた。思わず顔を上げて、膝を立てた自分の下半身を見下ろし、それからすぐに腹筋も首の力も尽きてまた枕に頭を落とした。なぜか脚の間に手があって、指が温かく潤んだ場所に潜んでいる。
「あたしの手、なんでこんなとこにあるの」
 頭の中がこんがらがっているうちに耳もとで笑い声がした。叶多はそれで、自分が携帯電話を持っていることに気づき、通話中であることにもギョッとした。耳から離して見上げた携帯電話は、確かに通話中という文字がある。慌ててまた耳に戻した。
「戒斗!」
 夢現だろうが、それがたとえ笑い声でも、戒斗の声を間違えることはない。
『叶多、最高だ』
「あたし、何やってた!? 夢遊病かも」
『いや、欲求不満だろ』
 おもしろがったその言葉にハッとして、脚の間に入れた手を下着の中から出した。それと同時に、寝ぼけているのをいいことに、戒斗から催眠術みたいに誘導されていたと知る。
「ち、違うっ」
『気持ちよさそうだった』
「違うっ」
『もう少しで抜けそうだったんだけどな』
「……戒斗、独りで何やってるの」
『叶多と同じことだ』
 からかっているのか本当のことなのか、戒斗の声からは判断が難しい。戒斗には叶多の顔が見えるはずもなく、赤面しようが気にする必要もない。が、いずれにしろ、話を逸らすべきだ。
「いま何時? どうかした?」
『こっちは夜の十時。そっちは六時だろ。ハグしたいって云うからそういう気分にしてやった』
「いまのはハグじゃなくて、えっち」
『尚更、いいだろ?』
「違う。戒斗の手じゃなかった!」
『へぇ』
 戒斗がニヤニヤしてそうな声で相づちを打った。もとの木阿弥(もくあみ)だ。話は戻ってしまっている。そのうえ、云ったことは取りようによって大胆な発言になっている。
「もうこの話はいい」
『叶多、気持ちよかったからって独りでやるなよ』
「だから、やらないってば!」
『だから、やろうってときは電話しろ』
「戒斗っ」
 叶多が悲鳴がかった声で名を呼ぶと、戒斗は本気で笑いだして、叶多のプライドをペシャンコにした。

 *

 その日から、夜のおやすみコールと朝のおはようコールが日課になった。
 そして、戒斗から、帰ってくる、と云う言葉は聞けないまま、八月もあと一週間になってしまった。電話の回数が増えたことは、戒斗なりに気を遣っていることなんだろうけれど、その効力も薄れつつある。

「渡来くん、もう帰ってこなくていいって云ってた」
『云わせとけ』
「頼が家に帰ってこいって」
『どこにいても一緒だ』
「崇おじさんが、うかうかしてると飼い犬を()っさらわれるぞって」
『叶多の気持ちが変わらないかぎり可能性はない』
 その声は自信満々で、そのとおりだけれど癪に障る。
「このまえ、渡来くんからバイクの後ろに乗せてもらったの。戒斗と同じくらい安全運転してくれたよ。それから崇おじさんとこでね、拓斗さんから護身術習ってるって話したんだけど、則くんたち、練習だって云って不意打ちで襲ってくるんだよ。拓斗さんが云ったとおり、何回も練習して躰に覚えさせないと、ああいうときって頭はパニクってるし、役に立たないんだね。則くんと貴仁さんはふざけてるから腕ユルユルだったけど、孔明さんは本気で抱きついてくるし――」
『叶多、覚えとけ』
 低く唸るような声がさえぎった。電話越しなのに、何やら不穏な空気が伝わってきて、叶多はちょっと後悔しながらプルッと身震いした。
 忘れてくれますように。
 叶多は急いで、信仰もしていないキリスト式で十字を切った。
「だって、戒斗が全然平気そうにしてるから! 犬じゃなくって、あたし、うさぎになっちゃいそう」
『なんだ、それ』
 険悪な声から反転して、呆れたように戒斗が応えた。
「うさぎってさみしいと死んじゃうんだよ。きっと犬だってそう。飼われた犬って狩猟本能なくしちゃってるし、だから、飼い主いなくなったら餌もらえなくって飢え死にしちゃう」
『なるほど』
 自分で云いながら目がウルウルしている叶多と違って、戒斗の声はどこか悦に入っているともとれる。叶多は、どうやったら戒斗みたいに余裕かませるんだろうかとくやしく思いつつ、云わないと決めていた“さみしい”を云ってしまったことを反省した。
「さみしいっていうのは嘘! 仕事頑張ってね。でもホントはさみしいの」
 昂月みたいに仕事だと心底から尊重できるほど大人になりたい自分と、悠然とした戒斗をせめて困らせられたらという自分が交差した。
『どっちなんだ』
 どっちってわかってるくせに。
 叶多が答えられないでいるうちに、電話の向こうから戒斗じゃない声が聞こえた。航みたいだ。
 そして思ったとおり、じゃあな、という言葉を残して電話は切れた。



 戒斗は携帯電話を閉じ、正面の方向にある窓から外の景色を眺めた。ロンドンで間借りしているこの事務所は中心部から離れていないが、日本とは違う、長閑(のどか)な緑の景色がある。
 一カ月半もイギリスにいると空気に馴染んだ感はある。それと反するように、空虚感は増していく。足りない。
 こっちに来て以来、当然ながら叶多の姿を見ることはなく、その動向だけが耳に入る。戒斗がいなくても、叶多はうまく乗り越えている。“乗り越える”どころか、持ち前の素直さ、あるいはわけのわからない引力で、叶多がどうこうしなくても周りが(おの)ずとそう導く。離れたことが、あらためてそう戒斗に知らしめた。
 おれは見合うのか。
 抱えている疑問が解決することはない。
 ただ、手が、躰が希求する。
 役に立ってる? 叶多はそう訊いた。そうじゃない。
 なくてはならない。
 心底が訴える。

「戒斗、どうした?」
 隣に座った航が不意に問いかけた。
「何が」
「いんや、さっきからボケてっからさ」
「考えてる、の間違いだろ」
「叶多ちゃんが恋しいんじゃないですか。いま、電話してたんでしょう? 溺れた挙句、這いあがって息継ぎができたところで、すでにそれは生命維持に必要なことではなくなってる、ってね」
 健朗の言葉に航が失笑し、その向こうで実那都がくすくすと笑う。向かいに座った高弥は口を歪めた。
 戒斗はため息まがいに笑い、長テーブルを顎で示した。
「自分がヘンだって思うやつ、早く除外しろ」
 部屋の中央にあるテーブルの上には、イギリス各地で撮影したアルバムジャケット用写真が並べられている。現地スタッフを含め最終選考の最中であり、肝心の音に関しては録りも終わって、不備がないか細部まで確認しているところだ。
 こっちのスタッフは日本人よりも音に拘りがあるのか、チェックが細かい。ノイズに限らず、奏することについても、半音伸ばしたらどうだ、とか。もともと日本に戻っていようが、八月いっぱいはチェック期間としてスケジュールに組みこまれている。つまり、二週間という滞在延期も活動にはほとんど影響ない。だが。
 戒斗は斉木事務所のスタッフと話している木村を見て眉をひそめた。木村の性格を考えると、リフレッシュを兼ねてといっても、この長期滞在はやけに悠長すぎる。

「高弥、水納から伝言が入っている。良哉が至急電話してほしいそうだ」
 木村は会社との電話を終わるなり、高弥に声をかけた。
 高弥はうなずいて席を立ち、窓際へと離れた。何気なく見ていると、高弥は昂月の名を口にしたあと、ふと表情を止め、そしてすぐに携帯電話を閉じた。
「高弥、昂月がどうかしたのか?」
 戒斗と同じく航も気づいていたようだ。高弥は航の問いには答えず、かすかに首を横に振って考えこむように眉をひそめている。それもつかの間、しかめた表情のまま、高弥の視線が木村に向いた。
「木村さん、帰国手続をしてもらえませんか。もうこっちでやるべきことはないはずです」
 木村を見据えた高弥の発言に、戒斗を始め、航たちも写真を持つ手を止めた。木村は訝るように眉間にしわを寄せ、首をひねった。
「仕事を(おろそ)かにしてもらっては困る」
「疎かにはしてませんよ。真剣にやってます」
 高弥は云い返し、どういうことかと見守っているうちに、木村はテーブルを離れて奥のデスクに向かった。引き出しから数枚の紙を取りだし、それは無造作に高弥の足もとへと投げられた。
 散らばったのは、高弥と昂月のツーショット写真だ。背景は空港と見て取れる。戒斗は、出発手続間近に控え室を出た高弥を思いだす。電話かと思っていたが、見送りには来ないと云っていた昂月はやはり来ていたんだろう。
 現地スタッフも異常を察したのか手を止め、そして実那都が席を立ってプリントアウトされた写真を拾いあげた。
(やま)しいことは何もない」
 高弥は顔を上げ、木村を冷たく見返した。
「まだデビューして二年のおまえたちが、女を連れてチャラチャラしてる場合じゃないだろ。航のときのファンの反応見ただろ?」
「何が云いたい?!」
「航」
 航がいきり立ち、戒斗は素早く制した。
 木村は再び高弥に向かう。
「一年後にはおまえか? ファンは許さないぞ」
「木村さん、一時的にファンが減ったとしても、すでにいまは去年以上に多くなっているはずですよ」
 戒斗は眉をひそめ、ほんの傍に立ち、威嚇を見せつける木村を見上げた。
「おまえのこともそうだ、戒斗。認めたわけじゃない」
「認めてもらう必要はありませんから」
「とにかくいまは高弥の話だ。相手がユーマの妹であるだけに狙ってる奴が多い。これまで報道をずいぶんと揉み消してきたがもう限界に近い。ヴォーカルといういちばん表に立つおまえにこういうことをやってもらっては困る。早すぎるんだ」
「早すぎるとかFATEには関係ねぇよ。おれらの音についてくるファンだけでいい」
「理想論でやっていけるほど、この業界は甘くない」
「それでも音がよければ世間は放っておきませんよ。いつでも僕らはベストを目指しています」
 航に重ねて健朗も援護した。
「自分たちの力だけでここまで来たとは思うなよ。切ることは簡単なんだ。高弥、あの()は高々、従妹(いもうと)というだけの立場でユーマを潰したんだぞ? 次の犠牲者はおまえか?」
 木村の侮辱は聞くに堪えない。高弥に至ってはもっともで、誰よりも早く反応して、窓の枠に腰を引っかけていた躰を起こした。
「そんな……!」
 続いて実那都が小さく叫び、航と、いつもは穏やかな健朗が眉間にしわを寄せて立ちあがった。その内心を示すように、椅子が大きな音を立てて倒れる。
「高弥、やめとけ」
 高弥が拳を握って一歩踏みだし、戒斗は木村に視線を置きながら低く(すご)んだ声で留めた。
「まぁ、おまえの替わりは探せばいいことだが? なり手はいくらでもいる」
 木村はあっさりと云い放った。
「FATEの音は高弥の声しか合わねぇんだよ」
「航、それはおれらがわかってればいいことだ」
 戒斗は航を諭しながら、木村をいつになく冷ややかに見据えた。
「木村さん、事務所に認めてもらう必要がないのは云ったとおりだ。けど、おれらが大事にしているものをぞんざいに扱われるのはまったく別の話だ。おれらは生半可な気持ちでチャラチャラしてるわけじゃない。手荒な真似をしてしまうまえに、いますぐスタッフ連れて席、外してもらえませんか」
 事の次第を把握できず、唖然として遠巻きに見るスタッフを顎で指し、戒斗は組んでいた足を解くと緩慢に、尚且つ意図的に非情さを表に出して立ちあがった。
 木村は何を感じたのか一歩退き、それでも怯むことなくプライドを保ち、一時間だ、とつぶやきながらスタッフを引き連れていった。

「くそっ!」
 航の蹴った椅子は壁に当たり、クロスが剥がれた。
「航、悪かった。おれのせいで――」
「てめぇのせぇじゃねぇよ」
 航は謝りかけた高弥をさえぎった。
「高弥、良哉はなんだって?」
 戒斗が促すと、高弥は軽くため息を吐き、それから話しだした。
「FATEのスケジュールは九月も白紙らしい。良哉は慧ちゃんから聞いたって云ってる。慧ちゃんの伝手(つて)は一つだ。昂月からっていうことに違いない。昂月が知ってるってことは……。さっきの木村さんの云い方からすれば、たぶん、引き離すつもりだろ」
 高弥の説明は淡々としているが、けっして穏やかじゃない。昂月が情報源だとすれば、昂月は事務所から圧力をかけられているということにほかならない。
「急に延期を決めたわりにこのまえの生中継の段取りがいいはずだ」
 戒斗はしばらく考え巡ったあと、口を歪めて皮肉を吐いた。テーブルに並べた写真を見下ろし、一度首を振ると、メンバーに向かって続けた。
「おまえらに云っておく。おれは斉木に拘ってるつもりはない。ここはでかいだけに妙な制限されて、やりたいことをやっているというよりはただやらされている感がある。おれはプロの世界でもゼロに近い状態から伸しあがっていくつもりだった。いくつか打診があったなかで、おまえらに一任されて斉木を選んだ理由は一つ。祐真とその音を守るためだ。おれはそれくらい祐真に惚れてた。おれはいまのFATEも絶対に捨てない。FATEに欠かせないものもとことん守ってやる。そのなかには昂月ちゃんも入ってる。高弥、すぐ日本へ帰るぞ」
「戒斗、おまえが手を回す必要はない」
「高弥、おまえのためだけじゃない。おれのためでもある。おれが叶多の泣きに弱いってことは知ってるだろ。いいかげん、電話越しになぐさめるのは面倒くさいし、一人寝も飽きたんだ」
 ははっ。
 高弥が笑い、殺気立った部屋も穏やかに戻った。

 戒斗は一つ、大きく息を吐く。

 もう充分だ。
 見合うかどうかなんて関係ない。叶多の気持ちがあるかぎり。希みのぶんだけ応えていけばいい。
 息継ぎも必要ない。叶多に溺れ、おれはその中ですでに呼吸の仕方を覚えている。
 怖れは取るに足りない。
 守りたいものを守る。
 それだけだ。

 叶多、帰るぞ。

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