Sugarcoat-シュガーコート- #125

第13話 My One and Only Place -5-


 やっと試験が終わった八月二日、明日から約二カ月間休みに入るということもあり、解放された気分で叶多は知らず知らず浮き浮きする。戒斗がイギリスに行って二十日になる。まもなく一週間で帰ってくると思うと、尚更で浮き足立ってくる。いや、それがきっといちばんの浮き浮きのもとだ。
 そんななか、今日は久しぶりに、ゆっくりとたか工房を訪ねる。文学部キャンパスの正門で、一緒に行くという陽と待ち合わせた。その時間まで叶多に付き合うことにしたユナと永は、暑さのあまり手で顔を扇いでいる。ここのところ続いている真夏日も、叶多の場合はうんざりするどころか、天気に負けじと自分から熱気を発散している気がする。

 待ち合わせ時間の二分まえに陽らしいバイクが見えた。
 そのバイクは目の前に止まり、わざわざ噴かせたエンジン音が一際大きく轟いた。むっとした空気が舞いあがって、ユナが、もう! と口を尖らせる。陽はそれに頓着せず、ヘルメットを取るなり、叶多の剥きだした耳を引っ張った。
「おまえ、気ぃ、緩みすぎじゃないか。顔、溶けてるぞ」
 そんなにだらしない顔しているのだろうかと、叶多は陽の手をどけながら、背中を伸ばして少し気を引き締めた。
「そんなことない」
「――はずないよねぇ。もうちょっとしたら戒斗さん、帰ってくるし、叶多、飛んでいっちゃいそうなくらいふわふわしてるよ」
 ユナが即、叶多のあとを継いで云い、その向こうにいる永が笑い興じる。気を悪くするよりは、本当に飛んでいけたらな、と遠い空を想像しながら叶多は思う。
「んじゃ、行くぞ。それ着てろよ」
 陽は、叶多が腕にかけているライダースジャケットを指差した。これは、ずっとまえ、バイクに乗るときのために戒斗から買ってもらったものだ。
 戒斗と同じで陽もまた用心深く、暑かろうが、万が一を考えて持ってくるように云い渡された。叶多はジャケットを着ると、バイクのマフラーにちょっと足を引っかけてリアシートに跨った。
「ちょろちょろして落っこちんじゃねぇぞ」
 永がまるで子供、いや、犬扱いしてからかい、叶多は手渡されたヘルメットを被りながら顔をしかめた。
「大丈夫だよ。戒斗のバイクには何回も乗ってるし、渡来くんからもケガしたとき乗せてもらったし。ね?」
「それ以前に、人乗っけてれば、もらい事故ってもパッセンジャーは死守するのがライダーだ」
 陽は鼻で笑い、大げさなくらい頼もしく答えると自分もまたヘルメットを被った。
「じゃ、ユナ、またね」
「気をつけるんだよ、渡来に」
 ユナは取って付けたように陽の名前を云い足した。
「どういう意味だよ」
「違うとこに連れていかれないようにって忠告」
「おれは戒みたいに卑怯じゃない。戒とおれを一緒にすんな」
 おもしろがったユナを見ながら陽は吐き捨て、それからブレーキを解除した。陽の発言がどういう意味なのか、叶多が訊くまえに陽が振り向く。
「しっかりつかまってろよ」
「うん。大丈夫」
 ユナに手を振ったあと、叶多は陽の胃の下辺りに手を回して組み、そしてバイクはゆっくり発進した。

 * 

「永」
 ユナはバイクを見送りつつ、ため息混じりに呼びかけた。
「ああ?」
「渡来って、ずっとあんなふうにやってくのかな」
「あいつが納得してんならいいんじゃねぇのか」
「見かけ……じゃなくって性格によらず、健気だよねぇ」
 永は豪快に吹きだした。

 * 

 たか工房の裏の駐車場にバイクを止めると、叶多と陽は店へと沿う歩道に出た。ちょうど走ってきた小学生らしい女の子と陽がぶつかりそうになり、その寸前で立ち止まった陽の背中に、叶多のほうがぶつかってしまう。通り過ぎた女の子は立ち止まり、びっくりした顔で振り向いて頭を下げると、叶多たちとは反対方向に走っていった。
 可愛いと思いながら後ろ姿をちょっとだけ見送って、それから叶多と陽は歩きだした。

「渡来くん、さっきの戒斗が卑怯って何?」
「さっきの小学生、おまえに似てた」
「え。あたし、あんなに可愛いかな」
 話が逸れたことは気にせず、叶多は単純に応えた。陽は呆れたようにため息を吐く。
「そういうことじゃなくてさ。おまえが十二んときの戒と、おれ、いま一つしかかわんない年だろ。さっきの小学生見て、どこをどうしたら発情すんのかわかんねぇってことだ」
「は、発情って……」
 叶多は後ろを振り返った。すでに女の子の姿は見えなくなっている。あんな小さな子に発情するって――。
「明らかに犯罪だろ」
 確かに、いまでも自分がそう大人だとは主張できないけれど、さっきの子は叶多から見ても子供すぎる。そう考えると、戒斗があのとき応えてくれたことがとてつもなく不思議に感じる。叶多は一生懸命で好きをぶつけて戒斗を見ているだけで、戒斗から叶多がどう見えているのか、あの頃は考えたこともなかった。
「あたしが勝手に好きだっただけだよ」
「勝手にとはいえ、戒はおまえに期待持たせたうえで待たせてる。おれは小学生を(たぶら)かそうって気は更々ない。そこが卑怯だって云ってんだ」
「やっ、だから発情とか、戒斗にはなかったと思う」
「んじゃ、何が戒に在って、再会したとたんくっつくっていう、いまに至ってんだよ」
 陽の突っこみに叶多は詰まってしまった。
「やっぱ、ロリコンだ」
 陽はふふんと鼻を鳴らして、勝手に結論づけた。弁解したとしてもなんでもかんでも突っこまれそうで、叶多は敢えて反論はせず、かわりにため息を吐いた。

「戒の親父、来んだよな」
「絶対ってわけじゃないよ。でも、おばさんが来るっていうことは、たぶんおじさんが送ってくるっていうことで――あ、毬亜さん!」
 陽が話題を変えてほっとしたところで、ちょうど店の角を歩道に沿って折れると、叶多は向こうからやって来る蒼井毬亜に気づいた。毬亜は手を振った叶多に応え、同じように返すと駆け寄ってきた。
「叶多さん、こんにちは! それから、渡来くん、だよね。こんにちは」
 毬亜の視線は叶多から陽へと動き、それから親しげに陽に挨拶をした。
「誰だ?」
 叶多に向かい、陽が問う。毬亜はどう見ても、要注意人物には入らない雰囲気だというのに、陽は不審そうにかまえている。

 戒斗がいなくなってからというもの、陽は本当に依頼されていたのか、まるでお目付け役みたいで、叶多のみならず、叶多の周辺の動向までチェックしている。陽は、たか工房で会う三人衆を――そこになぜ則友まで入るのか叶多にはわからないけれど、いまだに胡散くさく思っているから、そのせいかもしれない。
 毎夜、ごはんを食べる頃になると電話がかかってくる。メールですむことなんじゃないかと思うくらい、『どうなんだ?』と『何もないよ』というだけの会話を交わして終わることもある。
 今日のことについては、昨日の電話で、ついでみたいにたか工房に行く予定を話したことから、陽は同行すると云い張ったというわけだ。

「あ、友だちの蒼井毬亜さんだよ」
「正確に云えば、千重アオイ、で、通称が毬亜っていうの。よろしくね」
 毬亜は自分の名の立場を叶多への云い分とは逆さにして名乗り、人懐っこく首をかしげた。陽は名が二つ提示されたことに眉をひそめる。
「水商売でもやってんのか。似たような名前の源氏名持ってる奴を知ってるけど」
 陽が引き合いに出したのはおそらく真理奈のことだ。
「さすがだね。いい線いってる」
 陽のあからさまな不信感をものともせず、毬亜はいつものごとくあっけらかんとしている。
 いい線いってる、とはどういうことだろう。

 叶多にとって、毬亜の素性はいまだに謎めいている。毬亜とは四月にはじめて会って以来、電話も会うこともそうあるわけではない。電話番号は知っているけれど、毬亜の意向で叶多から電話することはない。つまり、連絡は毬亜任せで、その毬亜は思いついたように電話をして、お喋りに時間を費やす。
 昨日もたまたま毬亜から電話があって、たか工房の話をしたら、陽と同じく自分も同行したいと云いだしたのだ。
 詩乃が来ることを云ったにもかかわらず、毬亜は気にしていないようだ。それよりは俄然来る気になっていた。有吏一族には内緒にしてほしいと云ったことと矛盾している気がして返事に戸惑ったけれど、毬亜自身がいいのなら叶多に断る理由はない。

 陽は毬亜の返事を聞いてますます怪訝そうにしたが、すぐ傍に黒塗りの車が止まり、そっちに目を向けた。叶多も車を見やり、そのときちょうど運転席のドアが開く。出てきたのが衛守主宰とわかって、叶多はちょっとびっくりした。
「こんにちは!」
 衛守主宰は歩道側に回りながらうなずいて応え、後部座席のドアを開けると、詩乃に続いて隼斗が降りた。
「一時間したら来てくれ」
「承知しました」
 その会話から、隼斗もまたたか工房を訪ねるつもりであることがはっきりした。半ば唖然としているうちに衛守主宰の車は走り去り、隼斗の目は陽から毬亜へと移り、そして叶多に向く。叶多は紹介を促されていると察した。

「あ、あたしの友だちで――」
「渡来陽です。はじめまして」
 叶多をさえぎって陽が普段になく慎んで会釈すると、隼斗は自らも名乗ってわずかにうなずいた。
「渡来社長とは何度かお目にかかっている。戒斗からも聞かされているが、息子自慢はあながち誇張じゃなかったようだ」
「光栄です」
 陽から一目で何かを見切ったらしい隼斗は、次に毬亜を向く。いまでこそ慣れたけれど、遠い血縁という叶多でさえ尻込みしそうになるのに、毬亜は隼斗の目に合っても物怖じしていない。
「千重アオイです。はじめまして」
 毬亜は陽と同じ挨拶をして、どこか子供っぽくお辞儀をした。対して隼斗は眉をひそめる。
 叶多は事情を鑑みて、少しハラハラしながらふたりを見守った。
「まさかとは思うが、千重旺介(おうすけ)氏と――」
「はい。旺介は祖父です」
 毬亜が答えた直後、陽が叶多の腕を突いた。陽が驚いているらしいことはわかったけれど、叶多自身も陽に応えるどころじゃなく驚いている。

 千重旺介といえば、世界一の販売部数を誇るという、毎読(まいどく)新聞社の前々社長だ。叶多でさえ知っているほど名は通っている。一線を退いたいまも、毎読のみならず政財界にも発言権を持ち、公然と黒幕扱いされる人物なのだ。
 それにしても、だ。千重旺介と毬亜がどうにも結びつかない。

「そうか。千重氏にも何度かお目にかかったことがある。世間は狭い、らしい」
 隼斗はよほど予測外のことだったらしく、かすかに首を振りながらそう云ったあと、毬亜にもあらためて名乗り、それから詩乃をふたりに紹介した。
「じゃ、暑いし……というか、工房の中のほうが暑いんですけど」
「かまわん」
 隼斗は大きくうなずいて叶多を促した。
「叶多ちゃん、行きましょ」
「はい。じゃ、ま――アオイさんも」
 叶多は云い直して、率先していく陽のあとから三人を案内した。いつもと同じく無人の店を通り抜け、石畳の道を進んで工房へと入った。

「あら、すごいわね」
 熱気は想像以上だったらしく、詩乃は工房に入るなり、叶多の背後でつぶやいた。
 ざっと工房内を見渡すと、崇がいちばんに気づいて、熔鉱炉の近くに置いた椅子から立ちあがった。その傍にガラスを弄っている則友がいるのは当然だとしても、遠巻きに見ている貴仁と孔明が目に入ると、やっぱり叶多のスケジュールは崇を中心に巡っているとわかる。
 と、そこで叶多の目がふと止まる。見知らぬ女の子が孔明の横にいた。気づいたと同時に女の子が振り向いて、同じ年くらいだと思ったとたん、叶多はそれが誰なのか見当がついた。
 崇がこっちにやって来て、そのあとを蘇我一族の三人がついて来た。

「崇さん、ご無沙汰しています」
 隼斗の挨拶はどうとっても初対面ではなく、叶多はまた驚かされた。
 崇から隼斗と会ったことがあるとは一度も聞いたことがない。戒斗のことは話題に上ってもその父親のことまでは至らなく、聞いたことがなくても当然といえば当然だ。よくよく考えれば、投資する以上、そして崇の立場からすると投資を受ける以上、会わないことのほうが不自然かもしれない。
「とんでもない。私のほうが出向かねばならんところです。忙しいのはお互いさまですかな」
「そのようです。仕事中に申し訳ない。家内が工房を見てみたいと云うので遠慮なくうかがいました」
「どうぞお気遣いなく。うちはこのとおり、暇人の()り所になっているらしい」
 崇から顎で示された貴仁は苦笑いをして、一方で孔明は渋面になった。
「紹介していただけますか」
 その隼斗の依頼に叶多はハッとする。この状況は、戒斗に続いて、世紀の対面といっていい。
 崇がうなずくのとどっちが早かったのか、貴仁が一歩踏みだした。
「領我貴仁です。叶ちゃんの一つ先輩に当たります」
「貴仁の従兄で蘇我孔明と云います。こっちが、妹の美鈴(みすず)です」
 貴仁に続き孔明、そして美鈴へと、隼斗はその都度、目を移す。
「戒斗の父親で有吏隼斗だ。こっちは家内の詩乃」

 孔明がいつもとなんら変わりないのはおかしなことではない。対して、隼斗はそれなりの状況を視ているはずだが、さっき陽に接したのと同じ様で、傍からはなんの動揺も見えない。もちろん、そうでなければ一族の長として務まるわけないだろう。そして、戒斗の見解どおりなら、貴仁もまた平然と見えるほど精神力が長けているといえる。
 独り内心であたふたしていた叶多は、一先ず平穏無事に紹介が終わってほっとした。

 肩の力を抜いたとき、孔明の目が向き、叶多はまたわずかに緊張する。孔明はそんな叶多に気づかず、叶多の横にいる毬亜をちらりと見やった。
「叶、新入り連れてくるって云うし、いい機会だと思って妹を連れてきた」
「よかった。会ってみたかったから。美鈴さん、同い年ですよね。八掟叶多です」
 孔明に応えてうなずいたあと、叶多が話しかけると美鈴ははにかんだように笑った。
 背は美咲くらい高く、印象は、孔明に聞かされていたとおりで、美咲と対照的に控え目だ。孔明曰く、父親が高圧的なあまり消極的な性格になってしまったという。
「蘇我美鈴です。兄からよく聞いてます。叶多さんとは友だちになれたらって思ってるけど……」
 美鈴は自信なさそうにしながら、肩までのふわふわした髪を揺らして首をかしげた。
「あ、あたしもそう思ってました」
「ホント? よかった」
「じゃあ、あたしも。千重アオイです。美鈴さん、よろしくね」
「ホントに? わたし、友だち少ないからうれしい」
 美鈴は心底からうれしそうに微笑んだ。
 兄妹の構成といい、父親の威圧感といい、境遇はやっぱり那桜に似ている。けれど、美鈴は那桜よりもずっとおとなしい感じだ。

「いいわね。私も加えてほしいところだけど浮いちゃうわね」
 詩乃が茶目っ気たっぷりで口を挟んだ。そこへ一段落したらしい則友がやって来た。
「そんなことありませんよ。充分いけます。ね、叶っちゃん」
 則友はもと営業マンらしく口を添え、けれど空々しいお世辞っぽくもなく、あくまでからかった口調で嫌味がない。
 詩乃は、あら、と一言うれしそうに口にした。それから則友を見上げた目がつと止まり、詩乃は首をかしげた。
「挨拶が遅れました。芳沢則友です」
 則友は詩乃の様子を自己紹介の催促と受け取ったらしく、詩乃と隼斗をかわるがわる見て、それぞれに会釈を交わした。
「まだまだ見習いの身ですが、僕にも設備投資していただいてありがとうございます」
「いや、才能は申し分ないと聞いている。見せてもらうのを楽しみにして来た」
「ありがとうございます」
 則友が隼斗に向かい、軽く一礼をしたところで、詩乃が、芳沢さん、と呼びかけた。
「どこかで会ったことないかしら?」
「だとしたら、覚えてもらっていて光栄です。どうです、ガラスを作っていかれませんか。僕でよければお手伝いしますし、叶っちゃんでも……」
 詩乃は則友が申しでている間もまじまじと見入っている。そして、ふと笑った。
「そうね。芳沢さんに教わろうかしら」

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