Sugarcoat-シュガーコート- #124

第13話 My One and Only Place -4-


 逢瀬の間に戻って、叶多が百恵の前にお茶を置くと、百恵からだけでなく詩乃からも普通に、ありがとう、と云われた。すると、叶多は単純にも安心する。
 那桜が云う『気を遣う』というのが、どういうことかわかっていないなか、詩乃は少なくとも、叶多がやることを嫌がっているわけでもない。詩乃には母親として何か思うことがあるんだろう。
 そこまで思ったとき、ちょうど千里と頼が現れた。
「おばさん、母が来たのでちょっと行ってきます」
「いいわよ。いってらっしゃい」
 快く送られて、叶多は千里のもとへ向かった。

「お母さん――」
「叶多、あんたのバイタリティには感心しちゃうわね。ちょっと来て」
 挨拶の列に並ぶまえに話したくて呼び止めようとしたとたんに、千里のほうが先に叶多を呼びつけた。感心と呼べないくらい、ため息混じりだ。頼は、と見ると、顔をろくろ首みたいにニュウッと近づけてきて、恥曝しすんなよ、と意味不明なことを云う。千里は人気のないほうへと歩いていって、叶多は頼に手を引かれながらあとを追った。
 千里は壁際で立ち止まり、バッグから二つ折したA4版くらいの封筒を取りだすと中を覗く。そこから紙を一枚出して叶多に差しだした。
「はい、これ」
 ちらりと見えた封筒は、でかでかと『外務省』という字が目立つ。叶多は何かと思いつつ眉をひそめ、紙を広げた。
 まず、表題の『不受理』という文字が目に飛びこんできた。読んでいくうちに――というほど、文が長いわけでもなく、叶多は赤くなったり蒼くなったりしたすえ、しょげた顔を上げた。
「見た?」
「だからあんたに見せてるんでしょ。昨日、英悟さんがわざわざ持ってきてくれたの」
 千里は『わざわざ』をわざわざ強調した。英悟というのは哲の実の弟で、外務省勤めだ。確か、今年から外務審議官という、外務省で二番目くらいに偉いポストに就いたと聞いている。

「……この“間諜(かんちょう)”って何?」
「スパイだろ」
 ……スパイ。じゃあ、置き換えると……。
『貴方は“スパイ”の疑いがかかっている為、パスポートは発券できません。悪しからず』
 下のほうには、これでもかというくらいの太々とした字で叔父の署名と、何を印字されているか読めない角印が載っている。
「あたし、スパイじゃないのに」
 がっくりと肩を落として叶多は反論した。
 そもそも、スパイに向かって、スパイだと疑わしいなどと告知するわけがなくて、どう読んでもおふざけだ。つまり、手が回っているということ。パスポートが発券されないというのはただの脅しだと思って、試験の合間を縫って二日まえ、やっと申請に行ったのに、戒斗は本当に妨害工作をしていたらしい。ある意味、叶多は見切られているのか。
「あたりまえだろ。おまえを雇うようなスパイ組織なんて、とっくに潰れてる」
「……じゃなくって、バカなフリしてるかもしれないじゃない。相手を油断させたりとか!」
「口答えは一人前になってるな。少しは頭が回るようになったらしい」
 頼は尊大に云って鼻で笑う。
 そこへ千里が、叶多! と叱責するように割りこんだ。
「まったく。外務省にいるのが英悟さんだったからいいものの、一族に知れたら恥ずかしいでしょう。これで、もし取れてイギリスに行ってごらんなさい。叶多はいま本家にお世話になってるんだから、本家の顔を潰すことになりかねないのよ」
 千里に云われて、叶多はそのとおりだと気づく。自分の思慮のなさにため息を吐いた。
「ごめん。気をつける」
「愚痴を云いに来ないってことは、本家ではうまくいってるんでしょ。ぜひ、そうしてちょうだい」
 千里もまたため息混じりで小言を口にしたが、それは、叶多にとっては渡りに船になった。
「お母さん、愚痴ってわけじゃなくて、訊いてみたいことあるんだけどいい?」
「何よ?」
「うん。おばさんと那桜ちゃんのこと」

 それから叶多が感じていることを話してみると、千里はすぐには感想も云わず、かすかに顔をしかめて考えこんだ。
「那桜ちゃんは自分に気を遣ってるんだって云ってるけど、どういうことか、お母さんだったら同じ立場で考えられるかなって」
「んー、そうね。那桜ちゃんの云うとおりじゃない? 那桜ちゃんが普通にお嫁に行ってるとか、自立して独り暮らししてるとか、そういうので家を出てるのならともかく、事情が事情でしょう。いくら認められたとしてもそれまでにいろんな葛藤あったんだから、すぐに(わだかま)りが消えるわけもないわ。親子だからこそ遠慮してしまってもおかしくない。そのうえで――例えば、叶多が那桜ちゃんの立場だったとして、お母さんが頼のお嫁さんと仲良くしていれば、叶多は除け者みたいにさみしく思うんじゃないかって、母親の立場からしたらそう考えるわね」
 叶多は千里の云ったことをよくよく考えてみる。
「おれは叶多としか結婚しないぞ」
「そっかぁ。なんとなくわかって、すっきりした。お母さん、ありがと」
「詩乃さんもたいへんなのよね。でも、お互いに行き来があって縁を切ったわけじゃないから、そのうち詩乃さんも那桜ちゃんもきっと落ち着くわよ。那桜ちゃんが自分で気づいてるってことが救いだし、叶多にとっても(いさか)いってほどのことにならなくて幸運だわ。だから、いまは叶多がちょっと我慢してればいいこと。できるわよね」
「大丈夫。おばさんにはお母さんと同じに思ってって云われてるし、普段は全然問題ないの」
 千里は安堵混じりで満足げにうなずいた。
「ちぇ。無視かよ」
 頼はそう云いつつ腕を叶多へと伸ばしてきた。公然と抱きつかれようかという危機を、叶多は本能で察知して避けた。本気かどうかは別として、人としてか犬としてかも別にして、頼の行動も学習できている、と叶多は自信を持った。
「じゃ、お手伝いしてくるから!」
 乾杯に使うビールやジュースの準備をし始めた町田たちが目に入って、再び舌打ちする頼を尻目に、叶多は那桜や深智たちのところへ向かった。


 そしてまもなく、十一時に親族が無事にそろうと、堅苦しいことを抜きにした隼斗の端的な挨拶があって、懇親会が始まった。
 まずは立食パーティで、腹ごしらえだとばかりに若い子たちを中心にして、親族たちは真ん中のずらりと料理が並んだテーブルに寄って集った。
 有吏本家が座るテーブルには、ある程度の料理がまえもって並べられていて取りにいく必要もない。
 小さな子供たちは、乾杯が終わった直後から、待ちかねていたようにはしゃぎ始めたのだけれど、ともすれば(かしこ)まりがちな雰囲気が、それで一気に和んだ。こういうとき、たかが子供されど子供で、子供たちの力も侮れないと思う。
 やっぱり、子供って欲しかったかも。
 立場も身の程も子育てのたいへんさも脇に置いて、叶多は漠然と親子三人という構図を思い浮かべた。
「何想像して、ニタニタしてるの」
 突然、背後から耳打ちされ、叶多は取り皿に載せたばかりのから揚げを飛ばしそうになった。踊るようにお皿のバランスをとって、落とさなかったことに安心したとたん、那桜が笑い、その向こうにいた拓斗からは鼻先で笑われた。
「美咲ちゃん、落ちちゃうとこだったよ。びっくりさせないでくれる?」
「大丈夫。叶多ちゃんの評判て、これ以上に下がることないでしょ」
 今年、大学生になった美咲はやっぱり叶多より大人っぽい。ただ、やっていることは叶多よりも絶対に子供っぽいと思う。云ったら倍以上に返ってきそうで、指摘しようという気は到底ないけれど。
「そんなことないよ」
 いちおう抗議しつつも、叶多は耳を垂れた犬のような情けない顔で美咲を見上げた。もとい、立ち耳のダックスフンドなんて見たことない。
「じゃ、戒斗の評判を下げないように従姉妹たちに説明してみる?」
「え?」
「聞きたがってるのよね。叶多ちゃんがなぜここにいるのかってこと」
 美咲が指差したところには、二十才前後の、つまり叶多と同年代の従姉妹たちが(たむろ)している。なんとなく、里佳がCARYだとわかったとき、押し寄せた青南大生たちの反応を思い起こした。

 ここにいるのは、とどのつまり“なんとなく”でしかない。ここにいろと云われなければ、追い払われもせず、叶多は(いっ)するチャンスを逃した。
 せめて空いた席が一つなければよかったのだ。いや、なければないでちょっと傷つくかもしれない。戒斗がいたらどうするだろうと考えたすえ、本家から窺える雰囲気をかみ合わせてここに納まったのだ。
 居心地が悪いことはなく、それよりもたったいまのほうが、隼斗たちの前というのに美咲の発言が露骨すぎではないかと(おのの)いている。
 戒斗によれば、体面上は、蘇我の問題で叶多を保護中となっているらしいけれど、その話が従姉妹たちまでに伝わっているとは思えない。あくまで上層部に限って通じる理由だろう。

「……美咲ちゃん、どうしよう。云い訳、何かない?」
「さあね」
「云い訳する必要はない。そのままを云えばいい」
 口を挟んだのは拓斗だ。心なしか、テーブルが静まった気がする。
「そのままって……」
「戒斗と一緒に住んでて、留守の間は有吏の家にいるってことだ」
 ためらった叶多に対して、拓斗は淡々と云いきった。
 叶多は驚くよりも弱り果てる。
「でも……」
 どう反応していいかわからずに、おずおずと正面にいる隼斗と継斗を見比べた。変わらず威嚇たっぷりの無表情と、かすかに渋い面持ちに合う。その両端で、百恵はニコニコしたまま、一方で詩乃は、いつもなら口添えしてくれるはずが控え目にしている。有吏の家では詩乃も砕けているのに、一歩出れば――というよりは一族の目があるとそうなるようだ。
「父さん、そうですよね」
 叶多が戸惑っている間に、拓斗はすまして同意を求めた。隼斗は拓斗に向かい、重々しく口を開く。
「云うのはかまわんが、八掟の娘は(おとし)められることになる」
「戒斗を知っていれば、誰もそうは思いませんよ。その点、一族は“云わずもがな”でしょう」
「それと、認めることとは違う」
 尚も釘を刺した隼斗に、拓斗はうなずいて見せた。
「そのとおりです。そこからさきは戒斗の裁量であり、おれもまた然りです」
 拓斗はそう請け負って少し身を乗りだすと、那桜越しに叶多を向いた。
「堂々と公言してくればいい」
 拓斗は促すように首をひねった。隼斗と継斗はそろって息を吐いた。呆れたというよりはあきらめたのかもしれない。
「叶多ちゃん、行ってくれば」
「そ。行くわよ」
 立ち去りにくいなか、那桜に背中を押され、美咲に手を引っ張られて叶多は本家を抜けだした。

「み、美咲ちゃん、大丈夫かな」
「有吏家は大丈夫なんじゃない? 問題は従姉妹たちね。足、せっかく治ったんだから気をつけてよ」
 人の間を縫っていくなか、思いがけず、美咲は気を遣う。
「美咲ちゃん、ありがとう」
「叶多ちゃんのためじゃなくって、戒斗のため。叶多ちゃんがケガしたら、戒斗、飛んで帰ってきそうだし。仕事の邪魔になりたくないでしょ」
 遠回しに叶多の配慮のなさを突くという美咲の言葉は、やっぱり素直に喜ぶには程遠かった。
「ついて行きたいっては思ったけど邪魔しようとか思ってない。それに、襲われても、護身術習ったからちょっとは大丈夫」
「ホントに?」
 と、美咲は問いかけたとたん、抱きついてきた。驚いて固まったのは一瞬で、直後、叶多は美咲の脇腹をつかんでくすぐった。ぎゃはは、と巨大な声で笑った美咲と、そうさせた叶多は一族の注目を浴びることになり、結局はふたりともにひんしゅくを買ってしまう。
 恨めしそうな美咲の目が向き、お互いに責任を(なす)りつけながら従姉妹たちのなかに紛れこんだ。従姉妹たちは叶多たちのおふざけを見逃さず、呆れたせいか、叶多が戒斗とのことを打ち明けても、根掘り葉掘り訊かれただけでブーイングは起こらなかった。

 *

 親睦会は、二時間近くの立食パーティのあと有吏塾内を散策したりと思い思いに過ごして、また三時に逢瀬の間に集まり、お茶会――子供たちにとってはおやつの時間があって、それから一時間後に解散した。
 夕方の六時に邸宅で早めの夕食を取って、有吏の家に戻ったのは八時近くになっていた。
 昼からは食べてばかりでおなかが空く暇もなかった気がする。満腹感と疲れたせいで動くのが億劫ななか、戒斗が電話をくれる九時までに風呂に入ったりと、叶多は手早く寝る仕度だけはすませて部屋で待機した。“だけは”というのは、いま試験中であり、テキストにちょっとくらいは目を通しておきたいからだ。
 そして、戒斗からはほぼ時間どおりに電話がかかってきた。この時間、向こうは昼食をとったあとで一時になる。仕事はだいたい二時から始まるそうだ。どうせなら、一日の中にスケジュールを詰めこむだけ詰めこんで早く帰ってくればいいのに、と思うのは叶多のわがままだろう。

「美咲ちゃん、酷いの。あたしのバカがうつったって云うんだから」
 叶多が一通り親睦会の経緯を話すと、電話の向こうで戒斗が短く笑う。
『まあ、頼に抱きつかれなかっただけマシだな。攻撃するのに、くすぐるって手があるってのは気づかなかった』
「いい感じ?」
『実践で効くかどうか、自分から飛びこんでいって試そうなんて思うなよ。襲う奴は緊張してるから効かない可能性のほうが高い』
「そこまで単純バカじゃないよ。知らない人に抱きつかれたくなんかないし」
『知ってる奴でも抱きつかれるな』
 叶多のムッとした応えに返ってきたのは、予測した笑い声ではなく真剣な声だ。
「だから、日本人だし、そんなこと普通にないよ? それより戒斗はイギリスにいるんだし、戒斗のほうが抱きつかれてそう」
『ああ。そういや、こっちのスタッフは叶多みたいに平気でハグしてくるな』
 戒斗の声はさっきと打って変わっておもしろがっている。叶多は金髪美人と戒斗のハグを思い浮かべた。
「このまえ、護身術習ってるとき思ったんだけど、拓斗さんて戒斗に似てるんだよね」
 ムカつく。ちょっとしたその気持ちで云ったとたん、戒斗は何を感じ取ったのか、電話越しでも不穏な空気を感じた。
「……戒斗?」
『どういう意味だ?』
 据わった声だ。云わないほうがいいと思っていたけれど、やっぱり云わないほうがよかったらしい。
「あ、え……っと、別に意味ない。背の高さとか、体格とか兄弟だから――」
『体格?』
 戒斗が敏感に口を挟む。
「……ってほら、いま美術史ってギリシャ彫刻をやってるから、ついついそういう見方しちゃうっていうか……」
『まあいい』
 尻切れトンボの叶多に応えたその返事は、全然『まあいい』じゃない。帰ってくるまでにどうか戒斗が忘れてくれますように。叶多は天井を向いてそう願った。
「でもホントに拓斗さんて戒斗みたいに、困ってると助けてくれるよ。同棲のことも云っていいってことになったし。みんな、驚いてるっていうより、やっぱりねって感じだったかも。FATEのサイン入りCD頼まれた」
『メンバーに云っとく』
 話を変えた叶多に乗ってくれて、戒斗は可笑しそうな声で応じた。

「うん! 戒斗……」
『なんだ?』
「おじさんは同棲を公言することと認めることは違うって。それはわかってる。でも、公言したら、あたしは貶められることになるって。それってどういうこと? 拓斗さんはそういうことにはならないって云ってたけど」
『有吏一族の男には政略婚が用意されているのは知ってるだろ。分家本家に限っては、叶多がそうであるように女にも用意されるし、つまり、恋愛結婚は許されない。けど、遊ぶのは許されてる』
「遊ぶ?」
『世間一般でいう“愛人”は持っていいということだ。現時点じゃ、おれにも叶多にも蘇我との交換婚が待っている。だから、おれが叶多と同棲してるということは、叶多に対しておれがそういう扱いをしてることになる。逆も云えるけどな』
「愛人……」
『叶多?』
「うん。愛人てちょっといい響きだなと思って。無理してでも愛を貫きとおすって感じしない?」
 叶多がそう云うと、怪訝そうにしていた戒斗は笑いだした。
「笑うなんて。けっこう真剣に云ったんだよ」
『わかってる。現実の愛人はそうきれいごとじゃないけどな。叶多、時間だ』
 受け合った戒斗はからかった口調だ。それは差し置いて、最後のセリフに今度は叶多が笑いだした。
『なんだ?』
「懐かしいって思って。同棲するまえ、ずっとそう云って電話切られてた」
『たまには、離れるのもいい、か? 初心に帰れて――』
「だめ! 離れるのは全然よくない!」
 急いで訂正すると、戒斗はため息混じりで、そうだな、と口にした。
『叶多、スパイ容疑かかってるらしいな』
 ため息はどういう意味なんだろうと考えているうちに、戒斗が相づちに続けて云ったことは叶多を驚かせた。知られたくないと思っていたのに。
「もういい。我慢する。待ってる」
 矢継ぎ早に云うと、戒斗はふっと息を漏らした。笑っているとわかる。うんざりしているかと思ったさっきのため息も、いまと同じだったと気づいて叶多は安心する。
 それから、電話の向こうで戒斗を呼ぶ、航の声が聞こえた。
『叶多、じゃあな』
「うん」

 電話が切れたあと、叶多は考えた。
 有吏の家に迷惑をかけないで戒斗を驚かせられることってなんだろう。

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