Sugarcoat-シュガーコート- #121

第13話 My One and Only Place -1-


 タツオの車に送られ、大学からたか工房に行って、それから有吏の家へと帰途についた。もうまもなくというところでタツオはスピードを緩め、門扉前のスペースに横付けにして車を止めた。
 家に着いて緊張するのもどうかと思うけれど、車を降りた瞬間から叶多は妙に自意識過剰になる。カメラで監視されていることを意識してしまい、自分でも動作がぎこちないと感じる。
 いまの時期、例えば蚊が飛んできて鼻の上に止まったとする。そこで自分の鼻の頭叩いたら、蚊なんて見えるわけないだろうし、カメラの向こうで誰か笑うんじゃないだろうか、というのは考えすぎだろうか。
 いまでこそ戒斗は自活して解放されているけれど、よく、それまで我慢できたなと感心する。もっとも、物心ついたときにはそれも日常のなかの当然だったのかもしれない。
 あたしも慣れるんだろうか。
 そう思いながら、門扉を潜った。
 タツオはいつも、叶多が中に入って門扉が閉まるのを見届けてから帰っていく。閉まってしまう直前にタツオに手を振ると、タツオは頭を掻きながら小さくうなずいた。
 守られるとは単純に安心できることだと捉えていたけれど、そのぶん窮屈もついて回る。ずっと誰かの目があって、守られているというのにかえって気が抜けない。
 皇室だったらもっとたいへんだろうな、と他人事みたいに思ったところでそう他人事でもないと戒斗に聞かされたのを思いだす。
 戒斗がいるときはなんでもなかったことなのに。
 それだけ、戒斗がいれば、という気持ちが大きくて、きっと戒斗といることでいっぱいになっているのに違いない。
 あらためて自覚すると、叶多は一つため息を吐いた。

 戒斗は昨日イギリスに行ったばかりであり、即ち、離れている時間は始まったばかりだ。
 明日から海の日の月曜日までは四連休で、ついつい戒斗のことを考えてさみしくなりそうだ。ただし、火曜日から月末まで試験や補講が待っていて、その間の日曜日には一族夏休み恒例の親睦会もある。そうそうのん気ではいられなくて、もしかすると七月はあっという間に過ぎてしまうかもしれない。
 八月に入れば戒斗も十一日には帰ってくる。そう考えると意外とあっさり乗りきれる気もしてきた。
 でも、我慢するだけというのも納得いかない。やれることはやっちゃおう。
 叶多は独り笑って、そこで、カメラの向こうから見られているかも、とはたと気づく。慌てて笑顔を消し、家の玄関まで駆けだした。
 まもなく七時になるところで、夕食の時間だ。月曜日と木曜日、隼斗は帰宅が早いと決まっていて、ちらりと見た車庫にはすでに隼斗の車がある。高級車であっても、お金持ちにありそうな外車ではなく、国産車というところが有吏らしいと思う。と、そう納得してしまう叶多もかなり有吏に染まってきている。

「ただいま!」
 サンダルを脱いでいるうちに、リビングのドア越しに詩乃のこもった声が、おかえりなさい、と迎えた。
 まっすぐリビングに入り、キッチンに行けば、焼き茄子(なす)の香ばしい匂いが叶多のおなかを反応させる。空調設備がよすぎるのもどうかと思う瞬間だ。食事時はこんなふうに料理の匂いが立ちこめるほうが断然、家庭という気がする。
 このまえの日曜日ははじめての料理当番だったけれど、詩乃に訊いてから、二つあるキッチンの換気扇のうち、頭上にあるほうを止めてみた。そのときに戒斗が云った、やっぱり料理中の匂いって食そそるな、という発言から、詩乃も叶多に倣うといういまに至る。元来、空調設備がいいからこそ、そのあとの換気で充分に匂いは除かれる。
「おじさん、おかえりなさい」
「……ああ」
 隼斗が早く帰ってくる日、叶多のほうが帰宅が遅くても、つい戒斗に対するときの癖が出て、『ただいま』ではなく『おかえりなさい』と声をかけてしまう。隼斗は一瞬、返答に詰まったあと、『ああ』を返してくる。戸惑っているみたいだ。
「叶多ちゃん、ごはん食べましょう。隼斗さん」
 詩乃はかすかに疑問符のついた云い方で隼斗を呼び、叶多の返事と、隼斗の、ん、という一語が重なった。

 ため息が返事のかわりだったり、阿吽(あうん)の一語で会話が終わったり、この家にいると、戒斗は喋るほうなんだとしみじみ思う。ただ、けっして寒々としているわけではない。
 同棲を始めたとき、戒斗は八掟家をうらやましいと云っていた。けれど今回、帰ってみれば、ぎくしゃくした雰囲気も驚くほど改善されていると云う。
 拓斗と那桜が家を出て二年が過ぎ、その間ずっとふたりでいることが、もしかしたら隼斗と詩乃に変化をもたらしたのかもしれない。一族が集まる前では特に変化は見受けないけれど、この二週間で叶多にとっても印象が変わった。
 それに、戒斗が家を空けたとたんに、詩乃の呼び方が他人行儀な発音の『あなた』から『隼斗さん』になった。はじめて来た日に『あの人』と呼んだ云い方と似て、気を許した繋がりを感じる。
 隼斗についても、詩乃を叱ることはもちろん、文句を云うこともない。それどころか、昨日の戒斗を見送りに行ったときを思い返せば、隼斗はまるっきり詩乃を許容している。帰り道の車の中、厳つい隼斗も、見えないところではでれでれしているんじゃないかと叶多は疑ってしまった。
 息子たちの前では、これまでの威厳を保とうとするあまり、千里と哲みたいにベタベタするわけにはいかないだけで。
 そう感じたときから、緊張は抜けきれなくても怖さは全部なくなった。

「叶多ちゃん、ガラス作るのって楽しいかしら?」
 食事の最中、向かいに座っている詩乃が不意に口を開いた。
「あたしはきっと楽しいのを通り越してると思います」
「通り越してる?」
「友だちみたいに無くてはならないというか……あ、もちろん戒斗がいちばんですけど!」
「あら」
 詩乃が可笑しそうに目を見開き、戒斗の両親を前に、叶多は恥ずかしすぎる発言をしたと気づいて頬が火照った。斜め向かいをちらりと見ると、隼斗は黙々と焼き茄子を食べていて、別して気に留めていないようでホッとした。

 隼斗は、叶多と戒斗のことは基本的に反対であるはずだ。それでも昨日は、叶多を空港へ連れていった。詩乃の(はかりごと)だとはいえ、叶多でも見当ついたくらいだから、隼斗がそれに気づかなかったはずはない。
 それは反対していることと明らかに矛盾する行為だ。ここでも本音と建て前の差が見え隠れする。反対しなければならない理由が――つまり、有吏が蘇我と交換婚しなければならないほどのなんらかの重要事項があるに違いない。それは戒斗にもわからないことらしく、叶多には尚更で思い当たらない。

「今度、ガラス工房に連れていってもらえないかしら。見学してみたいわ」
「え。いまの時季、すごく暑いですよ。あたし、健康優良児ですけど、夏の間は必ず一回は倒れちゃうんです」
「大丈夫、気をつけるわ。ね、いいでしょ?」
 詩乃が許可を求めたのはもちろん隼斗だ。
「かまわない」
 首をかしげている詩乃をちらりと見たあと、隼斗はため息交じりに許可を出し、詩乃は叶多に向き直った。
「試験が終わってからでいいのよ」
 断る理由は別にないけれど、それ以前に断れないような云い方で詩乃は締め括った。
「はい。たかおじさんに云っておきます」

 顔を綻ばせた詩乃は、四十六才になるというのに少女っぽさがときどき覗いて、叶多から見てもどこか儚さを感じる。十六才という若さで結婚してその一年後には母親になったせいかもしれない。詩乃は未熟のまま、母親という大人にならなければならなかったはず。
 叶多は自分だったらと置き換えてみようとしたけれど、とても想像できない。つい半年前は、もしかしたら母親にということに直面した。ただ、高校生の頃といまの自分では幼さの度合いがかけ離れていると思う。
 叶多の場合、十八で同棲を始めて、結婚と同棲は体裁の問題だけで同じと思うけれど、そのときは一緒にいられればという気持ち一つしかなかった。詩乃の結婚とはやっぱり覚悟が違っていて根本もまったく違う。
 興味があるのは、隼斗と詩乃の結婚の経緯だ。同居するまえまでの詩乃の様子を見るかぎりでは、千里みたいに恋愛感情があるとは思えなかった。いまは印象が違ってきたし、戒斗がずっとまえに云った、叶多には変わってほしくない、という言葉が何かあったことを示しているような気がする。それでも恋愛結婚と位置づけるには程遠い。
 仲介主宰によれば、叶多にでさえ、蘇我以前に許婚(いいなずけ)が決められ、そのさきにいわゆる政略婚が待っていたというのだから。
 隼斗も例外に漏れなかったはずで、それなら、詩乃はどこから来たのかという疑問が浮かぶ。
 有吏本家と縁を結ぶからにはそれなりの名家であるはずなのに、普通に読めない大雀(おおさざき)という旧姓を聞いても叶多にはピンとこない。あの長ったらしいサークル活動をしている、歴史愛好家の慧なら知っているかもしれないけれど、訊いてみようと思っていつも忘れている。
 旧姓に(おぼ)えはなくてもどことなく品を感じる詩乃には、もう身内はいないと聞いた。両親は戒斗が小学生になるまえ、相次いで亡くなって親族もいないらしい。五才年上の姉がいたということだけれど、詩乃が結婚する以前に夫とともに突然いなくなって、それから失踪宣告により死亡とされているということだ。
 有吏家に負けず劣らず、大雀家も神秘的だ。

 到底結論まで行き着かないことを考えつつ食事をとっているうちに、隼斗が湯呑みをテーブルに置いて立ちあがった。
「おじさん、また有吏塾ですか?」
 早く帰る日、隼斗は夕食を取ったあと、いつも有吏塾へと出かける。有吏塾では毎日、心身ともの修養の場が開かれていて、一族の継承者たちがそれぞれに集い、主宰クラスが交代で指導に当たっている。
 戒斗もいまは指導者的立場で、同棲してからはじめて、哲と頼が決まって夜にそろって出かけていた理由がわかったという次第だ。
「そうだ」
 隼斗は無愛想な声で答え、それからつと叶多を見下ろし、その視線が止まった。
「あ、ちょっとまえ、戒斗が護身術教えてくれるって云ってたんですけど、足(くじ)いてたから治るのを待っててそのままになってるんです。だから、道場ではどんなことやってるのかなって思って」
「一緒に来なさい。十五分したら出る」
 戸惑って場をごまかすだけだったはずが、対する答えは思ってもいなかった。叶多がびっくりして返事ができないうちに隼斗はリビングを出ていった。

「おばさん……」
「あの人がああ云うんだったらいってらっしゃい。気まぐれでも発言の撤回はしない人だし、周知の事実でがんじがらめにするにはいい機会だから」
 詩乃は特に驚きもせず、すました口調で同行を勧めた。
「がんじがらめ、ですか」
「戒斗と叶多ちゃんのこと、あの人は反対せざるを得ないの。でも、あの人が叶多ちゃんに手を尽くしてることが一族の中で公になれば、叶多ちゃんは(おのず)と当然の扱いを受けるようになるわ。そうなって、一族が自然と戒斗と叶多ちゃんを一括りで考えるようになったら、あの人、反対なんてできなくなるでしょ。だから行きなさい。春も、そのまえの初会でも、一族から叶多ちゃんへの反発はなかったでしょ? まずは一族に公然と認めさせることから」
 控え目にしていて、その実、詩乃はいろんなことを観ているのだろうか。詩乃は(けしか)けるような微笑みで叶多を促した。
「おばさん、反対せざるを得ないって?」
「私のせいなの、すべて。あの人は嘘を吐かないけれど、それはほとんど何も話してくれないからあたりまえのことだと思っていて、私はどこかでずっと疑ってた。疑うことはなかったって知ったのは拓斗と那桜のことがあってから。あの人への尊敬を一族から奪って、私のために孤立させるわけにはいかないのよ」
 そう云った詩乃はどこか寂然としていたものの、すぐにそれを振り払ってがらりと表情を切り替え、おどけた様で話を戻した。
「あの人はプライド高いから、そう簡単に長年の計画を、ましてや方針を打ちだした本人なわけだし、撤回するわけにはいかないでしょ。だから、一族が叶多ちゃんを認める方向で固まれば、あの人にも改める理由ができるわ。もし、そこまで計算してあの人がやってるんだとしたら、見直してあげるんだけど。“長”でいることより、大事なことってあると思わない? ……ああ、私ったら矛盾したこと云ってるわね」
 詩乃はため息を吐いて肩をすくめた。
「わかる気がします。戒斗を見てて、もうちょっとラクにしてもいいんじゃないかって思うけど、きっといまあるものを一つでも奪ったら戒斗じゃなくなる感じ」
「そう、そこ。ありがとう。こういう話って一族の中でも外でも下手に口にできないし、那桜と話せるようになったらって思ってたわ。拓斗と那桜はきっかけを開いてくれたのに、肝心の那桜が私たちに遠慮してしまって」
 詩乃の微笑みの中に、長であるゆえの孤独がまざまざと見えた。
 だからこそ、自分が戒斗にとって少しでも気を抜ける場所でいられたら、と思うのは叶多のずうずうしい傲慢さだろうか。
「“ありがとう”はあたしが云うことです。本当を云えば、戒斗がイギリス行ったらどうしようって不安だったから、おばさんにそんなふうに話してもらえると、ここにいていいんだって心強くなります」
「そういう心配は私がいるかぎり不要よ」
 詩乃のふざけた口調は、叶多が知りたいことを訊きやすくさせた。
「はい。おばさん、おばさんはどこまで一族のことを知ってるんですか」
「知っているというより、身についてるの。大雀家は現天皇家同等に有吏に守られてきた一門だから」
 詩乃はそれ以上を話す気がないのか、そこで言葉を切った。それでもまずは訊ねてみようかと叶多が口を開けた矢先、リビングのドアが開いた。

「いいかね」
「あ、すみません。おばさんと話しててまだ着替えてないんですけど、どんな格好していったら――」
「そのままでいい」
 隼斗は云い残して先に行った。叶多は困惑しつつ、フリルがついて、スカートに見えなくもないショートパンツにTシャツという自分の格好を見下ろした。
「おばさん、あたしの格好、チャラチャラしすぎじゃないですか」
「そんなの気にすることないわ。それよりも待たせないほうがいいんじゃないかしら」
 その言葉に有吏の男たちが時間を無駄にしない主義であることを思いだす。
「あ、そうですよね。じゃ、いってきます!」
「いってらっしゃい」
 慌ててバッグをつかみ、叶多がリビングを出たときには、隼斗はすでに玄関を出ようかというところだった。急ぎ足であとを追う。玄関まで来たところで、携帯電話の着信音が鳴り始め、その音に叶多は思わず足を止めた。

「戒斗!」
『ああ』
 昨日の夜中、日付でいえば今日、ロンドンに到着したことを知らせるメールが入って連絡は取れたけれど、声を聞くのは出発から一日以上たっている。うれしさ余って、通話ボタンを押すなり叫んだ叶多を、戒斗は可笑しそうな声で迎えた。
「いま、そっち何時なの?」
『ちょうど昼になる。やっと落ち着いたとこで、昼食べたらスタジオに入る』
「こっち、もうすぐ夜の八時だよ。戒斗、声が近くに感じる」
 想像と違って、寝る頃には帰ってくるんじゃないかと思うくらい、戒斗はすぐそこにいる感じだ。叶多はサンダルを履きながら笑い声を出した。
『今時、国際電話は国内と変わらないだろ。それで、どうだ?』
「うん、ちゃんと乗りきれるかも」
『昨日の今日でもう立ち直ってるって?』
 戒斗の声は複雑に聞こえた。
「戒斗が置いてくって決めたんだからね」
 電話の向こうから舌打ちが聞こえ、それは気に喰わないといった様子がありありとしていて、叶多はまた笑った。
 玄関を出ると、静かなエンジン音が聞こえて車のライトがついた。
「戒斗、これから出かけるの。メールするよ」
『いまから?』
「うん。おじさんが有吏塾に連れてってくれるって」
『叶多――』
「戒斗、ごめん。待ってもらってるから電話切るね。あとで!」
 問い質そうとする戒斗をさえぎって、叶多は車庫へと駆けていった。



 未練も何もなく、電話はぷっつりと切られ、戒斗は待受画面になった携帯電話を見て顔をしかめた。
 どういうことだ?
 二重の意味で自分に問う。
「フラれてやんの」
 戒斗の意思に沿わず、電話を途中で終わらされたことはメンバーにも伝わったらしい。からかった航に釣られて高弥と健朗が笑う。
「意外に叶多ちゃんのほうがあっさりしてたりするんじゃないですか。……あ、意外じゃないようですね」
 戒斗が睨むように目を細めると、健朗はわざわざしかめ面を酷くさせる一言を補った。そして高弥が続く。
「夏休みに入れば問題ないだろうし、叶多ちゃん、呼んだらどうなんだ?」
「余計なお世話だ」
 素っ気なく云ったものの、心情は漏れたようで、それこそ余計な発言だった。三人から失笑が漏れる。
 戒斗は不快感丸出しにして、別の電話番号を呼びだした。

BACKNEXTDOOR


* one and only … 唯一無二の