Sugarcoat-シュガーコート- #120

第12話 Go to Receive -8-


「叶多ちゃん、コーヒー用意したから下りてきて?」
 命令じみた“いいわね”を付随したような声がドアの向こうから聞こえてきた。
「はい!」
 叶多はベッドから立ちあがり、机に置いた鏡を覗きこんだ。目と鼻の回りがちょっと赤くなっていて、たぶん泣いていたのがばれてしまう。けれど、詩乃もそこは承知だろう。
 机の上を見上げれば時計は八時半を差していて、戒斗が出発してからもう一時間が経っていることになる。コーヒーもそこそこに家を出ないと講義に間に合いそうにない。詩乃が心配して声をかけるはずだ。

 リビングへ行くと、ソファに座った詩乃が手招きした。今日は隼斗もまだ出かけていなくて、コーヒーを口にしている。
「座って飲みなさい」
 叶多の泣いた痕に気づいたのかどうなのか、詩乃は特別触れることもない。
「講義、忘れそうになってました」
 叶多がおどけると、詩乃は首をかしげ、それから隼斗を向いた。
「ねぇ、久しぶりに飛行機、見にいきたいんだけどどうかしら」
 飛行機?
 発言を無視された挙句、とうとつすぎる詩乃の誘い文句に叶多はぽかんとしてしまった。どうかしら、と問われた隼斗はうんともすんとも云わず、ただため息を吐く。
「ありがとう。叶多ちゃんも行くわよ」
「え?!」
「飛行場よ。私、飛行機の離発着見るのって好きなのね。同じ空間の中に、帰ってきた人、やって来た人がいるわけじゃない? なんとなくそれぞれの時間を感じてワクワクしちゃうでしょ」
 さっきの隼斗のため息が承諾とは思いもせず、ましてや同行を求められたことに叶多はますます混迷した。
「や、でも大学が――」
「そんなもの、今日はどうでもいいじゃない」


 詩乃のまったく無責任な言葉によって、叶多はバタバタと出かける準備をさせられ、そのあと隼斗の車に乗りこんた。
 車中、叶多は何か喋らないと、という気まで至らず、戒斗に思いを()せる。車はほぼ沈黙したまま都内を離れた。
 もしかして、と叶多が思ったとおり、行き先は羽田空港ではなく成田空港で、隼斗は迷いもせずターミナルビルにいちばん近い駐車スペースに車を止めた。
 ターミナルに入ると、隼斗のあとについて詩乃がスタスタと人の間を縫っていく。はじめて来たターミナル内では叶多の方向感覚も役に立たず、どこへ向かっているのかもわからない。エスカレーターで移動したあと、詩乃は立ち止まって叶多を振り向いた。

「来るなって云われて黙って引き下がるのは大間違い。戒斗には未練たらたらで旅立ってもらうわ」
 詩乃はふふと微笑みながら、携帯電話を取りだし、いくつかボタンを押したあと耳に当てた。
「戒斗? たいへんなの、叶多ちゃんがいなくなっちゃって。部屋で伏せってたからそっとしておこうって思ってたんだけど、あんまり出てこないから見にいったら……大学? それなら、“いってきます”くらい云っていくでしょう。きっと云えないところに行ったんだわ。私の勘ではあなたのとこね。ちゃんと探しなさいよ。誘拐されたら、千里さんに申し訳ないんだから」
 戒斗には有無を云わさない勢いで大げさに()くし立てたあと、詩乃は携帯電話を耳から離し、ボタンをぶっつりと押した。
「お、おばさん!」
「じゃ、ここで待ってなさいね。私たちは適当にしてるから」
 詩乃は方向転換してさっさと歩いていく。叶多は途方に暮れ、おそるおそる隼斗を見上げるとその目とばっちり合ってしまう。
「すんだら、四階のデッキまで来なさい」
 隼斗は渋々といった声で云い渡すと、はい、という返事を聞いたのかどうか、詩乃のあとを追っていく。直後に携帯電話の着信音が鳴った。

『どこだ?』
 戒斗の低い声がいきなり問いかけた。声音は機嫌悪そうともとれる。
「え……っと」
 云い淀んでいると、空港内に人を呼びだすアナウンスが響き、それから戒斗のため息が電話越しで届いた。見当がついたらしい。いや、この場合、見当つかないほうがおかしいけれど。
『どこにいる?』
 さっきよりは声が和やかで丁寧で、叶多はほっとする。
「たぶん二階で、カウンターがいっぱいあるところ。人がうじゃうじゃいてよくわかんない。ここ、はじめてだし」
『そこから動くな。おれが探す』
 電話はぷっつりと途絶えた。
 詩乃に強引に連れられてとはいえ、戒斗の意向に沿っていないわけで、これ以上に(わずら)わせたくはない。動くな、と云われたからには叶多は忠犬ぶりを発揮してじっと待った。
 その間、目の前をそわそわした様子で人が行き交う。詩乃が云った『それぞれの時間』をなるほどと思いながら眺めていると、おそらくは五分もしないうちに背後から肩を抱きこまれた。思わずあげそうになった悲鳴は口をふさがれて止められる。戒斗だと確信してはいたけれど、首を仰け反らせ、精一杯で後ろを振り返った先にその顔を確認すると、叶多はやっと安心できて肩の力が抜けた。
「行くぞ」
「どこ?」
 戒斗は足早に来た方向へと叶多を引っ張っていく。
「控え室だ」
「でも――」
「人目につくほうが問題だ」
 戒斗は問答無用とさえぎる。

 連れていかれた控え室は思っていたより広くて、個室になっているようだ。斉木事務所の人を含め、知った顔しかない。臆しながら入ったとたん、木村の目がジロリと叶多を向いて躰がすくんだ。せっかく軟化していた印象も二回分くらい後戻りしてツンケンしている。実那都をはじめ、メンバーが手招きしてくれたものの、自分が出すぎだという引け目は感じた。
「叶多、やっぱり来たんだ」
 叶多を見て、可笑しそうに手をひらひらと振りながらからかったのは弥永亜夜だ。
 亜夜の二つ年上の幼なじみである旦那さま、弥永聖央はプロのサッカープレイヤーで、いまイングランドプレミアムチームに所属している。聖央と健朗が親友ということもあり、亜夜は今回のFATEの渡英に同行して、イギリスで聖央と合流することになっているのだ。

「やっぱりってあたしは……」
 叶多は亜夜の隣に座りながら、奥に行って電話している戒斗をちらりと見たあと、また亜夜に戻って困ったように眉をひそめた。
「いいじゃない。好きだったら一緒にいたいっていうの、あたりまえだって思う。実はね、ここだけの話で。あたし、密かに留学準備中」
 亜夜は声を落として寝耳に水の話を打ち明け、肩をすくめて笑った。
「えっ――!?」
 叶多は素っ頓狂な声でオウム返ししそうになり、亜夜が慌てた素振りで口もとに人差し指を立てる。それを見て、叶多は急いで自分の手で口をふさいだ。それから声を潜める。
「留学?」
「うん。セーオーと離れてまだ半年なんだけど……やっぱりあたしには“半年も”なんだよ。自分で決めたのに、頑張ってるのに、やっぱりセーオーに対すると、あたしってわがままになっちゃう。健朗くんにはちょっと愚痴ったりしてたから、イギリスに一緒に行くのはどうかって誘われて、でも試験受けられなくなっちゃうから迷ってたんだけど。万里は出だしが一年遅れてるし、叶多たちともだけど、卒業が一緒になればそれもいいかなって思って。結局は学期末試験蹴っちゃったわけで、留年するんだったら、ついでに九月から半年、イギリスの大学に行ってみようかってこと。教授に相談してみたら紹介してくれて、とんとん進んじゃって準備はオッケー。とりあえず日本には戻ってくるけど、またすぐイギリスに行くことになると思う。セーオーにも当分、内緒だから」
 亜夜は、今度は違った意味で口もとに人差し指を立て、びっくり眼の叶多に向かうと茶目っ気たっぷりで笑った。
「亜夜ちゃんて行動派だったんだ」
「セーオーに関すると、だよ。叶多もそうじゃない?」
 亜夜は戒斗をこっそり指差した。そのとおり、戒斗のことになると考えるより先に動物的勘を頼りにまず動いている気がする。
「そうかも。あたしは後悔することも多いけど。いまはそう。ヒンシュク買っちゃってる」
「木村さんのことだよね。でも、FATEのみんながそう思うことないし、そっちのほうが大事だよ」
「うん……ありがと」

 亜夜になぐさめられたものの、奥から近づいてくる戒斗の顔がうんざりしているように見えなくもない。実際は、傍に来た戒斗からは少しも不機嫌な雰囲気を受けなかったけれど、叶多はため息が消せなかった。叶多の隣の椅子に座った戒斗はそれに気づき、何も云わないで、ただ、からかった眼差しで首をひねった。それから椅子にもたれると、戒斗は航に声をかけた。
「航、祐真のレクイエムライヴ、会場が取れた。こっち離れるし、当面、有志(つの)るのは真柴(ましば)に任せようと思う」
 真柴というのは、後輩バンド“DEEPBLUE”のヴォーカリストだ。電話はそのことだったんだろうか。
 レクイエムライヴという計画があることに驚いたけれど、それよりもその言葉で、叶多の中には祐真の死が生々しく浮上した。その話題を発した戒斗は平然としているけれど穏やかではないはずだ。
「ああ。祐真が呆れるくらいにド派手にやってやる」
 航は最大に口を歪めて笑みを見せているのに、無理していないとは云いきれない印象を受ける。戒斗は航に応えて単純に一笑に付したけれど、いまは誰もが苦しい時期なのかもしれない。
「屋外だし、舞台壊すなよ」
「人聞きわりぃな」
「スピーカー、邪魔だって壊した奴は誰だ?」
「なんですか、それ!」
「大きな会場でライヴやるときはスピーカー使うじゃないですか。それを、ナマで聴けって蹴飛ばしたんですよ。僕がFATEに加わってすぐの文化祭のときの話です」
 亜夜の興味津々の疑問に健朗が答えると、それぞれだった会話からいつの間にか全員参加に発展していて、控え室に笑い声が広がった。
 FATEではよくあるパターンで、戒斗と航がふたりで話しだすとすぐ、いまみたいに自然と一つにまとまっていく。航のガサツな声は嫌でも耳に入るし、聞き役の戒斗は、航の揚げ足を取るようなことを云ってみんなを引っ張りこむ。逆に、戒斗がすましていて航がそれをからかうという、入れ替わったパターンもある。
 いまは特に、旅立ちをまえにそわそわした気分が相俟(あいま)って、ちょっとしたことにも笑い声があがるのかもしれない。

 その文化祭の話から始まって賑やかに盛りあがっているにもかかわらず、叶多は独り、何か話しかけられれば答えても、気落ちして黙りがちだ。そのうち、戒斗が叶多の髪を引っぱった。
「母さんはどこだ?」
 戒斗は不意打ちで訊ねながら髪を離すと、叶多の椅子の背もたれに腕を伸ばした。その質問は戒斗が状況を把握していることを示している。
「飛行機、見るの好きって」
 叶多が目を(みは)っておずおずと答えると、戒斗は鼻で笑った。
「まさか、父さんも来てるんじゃないだろうな」
 そう云いつつも、そこにも戒斗は確信を持っているらしいことがわかった。
「どうしてわかったの?」
「電話。背後のざわつきが同じだった」
「怒った?」
「それより心配性だって知ってるだろ」
 戒斗は呆れたようにため息を吐き、それでいて大目に見てくれたような雰囲気を感じ取った。叶多は気がらくになって戒斗を覗きこんだ。
「だから、一緒にいるほうがいいと思わない?」
「間違ってもイギリスに来ようなんて思うなよ」
 戒斗は即行で釘を刺した。
「叶多ちゃん、戒斗はさ、仕事に集中できないくらい溺れてんだぜ。息継ぎさせてやったほうがいいのかもな」
 航のからかいに失笑が漏れるなか、戒斗はフンと鼻であしらう。まるでセイレーンとかローレライとかウンディーネとかいう水の魔女みたいに云われた叶多は、うれしいと思うよりも眉根を寄せて動じていない戒斗を恨めしく見やった。
「あたし、やっぱり仕事の邪魔になってるよね」
「叶多の問題じゃないってのはわかってるはずだ」
 わかっていても尚、しおれた顔で戒斗を見ると、その向こうのほうに座っていた木村が立ちあがったのが目に入った。
「あと三十分で搭乗手続きだ」
 木村は誰にともなく云い渡すと、控え室を出ていった。
 出発がいよいよとなって、叶多は嘆息した。
「なんだかわかんないけど、泣きそう」
「なんだかわからないなら、ここで泣くな」
 叶多と戒斗のやり取りに亜夜が笑う。
「あたしに比べたら短いんだから」
「って、なぐさめになってないみたい」
 向かいに座った実那都が亜夜のあとを継ぎ、目を潤ませた叶多を見て、やっぱりおもしろがった。
「叶多ちゃん」
 不意に呼びかけたのは高弥だ。
「はい」
「さっきの祐真のライヴの話、昂月には内緒にしててくれるかな。帰ったら、おれから話そうと思ってる」
 そこには、高弥がいかに昂月のことを考えているのかが滲みでている。
 叶多は戒斗を見上げ、かすかにうなずいたのを見て高弥に向き直った。
「はい」
 高弥は、ありがとう、と口にすると(おもむろ)に席を立った。
「戒斗、ちょっと出てきていいか」
「ああ。……叶多、おれたちも出るぞ」
 高弥が出ていくのをどこか思案した顔で見届けると、戒斗は出し抜けに立って叶多の腕を取った。
「叶多を送ってくる」
 メンバーに向けて戒斗が云い、叶多はあたふたと一礼した。
「お邪魔しました。いってらっしゃい!」
「公然わいせつ罪で捕まんなよ」
 いってきます、と答えが返ってくるなかで、航は当然のように揶揄(やゆ)するのを忘れない。
 戒斗は()なすように手を軽く上げただけで取り合わず、控え室を出ると、叶多の手を取って、来た方向とは逆へとどんどん歩いていった。

「戒斗」
 叶多が呼びかけても答えないで、戒斗は比較的人が少ない通路に入りこむ。わさわさとした空港特有のざわめきも届かなくなった。それからつと、“立入禁止”という大きなプレートのかかったドアを開け、戒斗は叶多を先に部屋に入れた。中は、さっきまでいた控え室と似た仕様で、大きさとしては半分くらいの広さしかなく誰もいない。
「戒斗?」
「なんで連れてくるんだろうな」
 戒斗は独り言のように文句をつぶやくなり、入り口側の壁につけてある棚の上に叶多を抱えあげた。
「戒斗!」
「泣きたいんなら、ここで泣けばいい」
「誰か入って――」
「来るわけない。立入禁止って見ただろ」
 叶多を継いで云い放つと、戒斗はいきなり口をふさいだ。キスは咬みつくようで、叶多が顎を引くと、戒斗は覗きこむようにしてくちびるを押しつけ、その勢いで背中が壁についた。キャミソールの裾から這いあがってきた両手は場所を(わきま)えず、ブラジャーの下に潜りこんで胸をつかんだ。叶多はとっさに戒斗の腕をつかみ返した。口はキスでふさがれていて、抗議できないかわりに呻くと戒斗はあっさりと離れた。
「戒斗っ、何してるの!?」
 叶多は目を見開いて間近にある戒斗の瞳を見つめた。
「泣きたいらしいから啼かせたいと思ってる」
「だって、こんなとこで!」
「こんなとこ、じゃなければいいのか?」
 戒斗はまったく叶多の揚げ足を取った。同時に叶多の胸をつかんだ手が微妙な動きでその先を刺激してくる。
「だめっ」
「じゃない」
 戒斗はすぐに打ち消して、すでに潤んだ叶多の瞳を見て自分の瞳を(けぶ)らせた。
 あふっ。
 戒斗の腕をつかんでいた手から力が途切れてずるずると落ちる。戒斗はそれを待っていたように、片手を胸から離して叶多の脚を開いた。戒斗がその間で棚に躰をつけ、脚を閉じられなくする。いつものことだけれど、絶対的に拒む理由がないと、戒斗がいったんその気になれば本気で抵抗する気にはなれない。それよりは、受け入れたくてしょうがないのかもしれなくて……と考えているうちに戒斗が直に脚の間に触れ、躰が反射でピクリと跳ねた。
 あぅっ。
 置かれている状況があやふやになって戒斗のみに神経が集中した。

「ちゃんと聞けよ」
 くちびるに息がかかったと思うと、戒斗がほんの傍で口を開いた。その声音は、やってることとちぐはぐで真剣に聞こえる。そこまではわかっても、とてもちゃんと聞ける状態にはない。かすかに首を横に振ると、戒斗は笑い、そして続けた。
「いますぐ何かあるってわけじゃない。将来、何かあるって確信しているわけでもない。けど、何かあったときのために、ベストを確保しておく。それが、叶多に対するおれの守り方だ。有吏の力があっても、向こうじゃ、こっちほどに幅が利かないのはわかるだろ。おれといることより、日本にいることのほうが安全だ」
 うくっ。
 短く漏れた嗚咽は、戒斗の手の器用さに応えたのか、切実に聞こえる云い訳に応えたのか、自分でもわからない。
「啼けよ」
 戒斗の指先が体内に入って、別の指先が剥きだした触覚を撫でる。
 あ、あふ……あ、あっ……くっ。
 “イっていい”ではない、啼けよ、という言葉には、戸惑うよりも考えられなくて、自然と命令に沿った。
 叶多の啼き声はほんの傍にある戒斗の息と混じり合う。堪えきれずに口が開くたび、戒斗の舌が侵入して悪戯をしかけ、そしてすぐに出ていく。
 胸を包んだ手までが動きだすと、もうだめ、と躰が訴えた。一方で、考えることができなくても本能がそれを引き止める。
 その先に行ったら、戒斗とサヨナラしなくちゃいけない。
 啼いているのか、泣いているのか、またわからなくなった。
「叶多」
 目を開けると、我慢しているのを知っているように戒斗が口を歪めた。そのままにくちびるがふさがれる。
 その気だらけの戒斗のキスはいつも叶多の感覚をぐちゃぐちゃにする。というよりは、神経のすべてが感覚の世界に落ちるのだ。そうなると制御できなくて、ただ(たかぶ)っていく。戒斗は快楽の急所をそれぞれ一度に突き、その瞬間に叶多は躰を強張らせて喉の奥で呻いた。躰の硬直が解け、快楽が弾けたのと同時に戒斗のくちびるが離れて叶多の声が解放される。
 あっ、ぁあああ――んっ。
 振り絞るような声は救いを求める悲鳴じみていて、その叶多を助けるように戒斗の腕が躰に巻きついた。戒斗のハグは気持ちよくて、やっぱり安らぐ。

 時々ピクリと震えていた躰もやがては治まって、叶多は戒斗の肩の上で大きく息を吐きだした。腕が一度きつく叶多を縛ったあとに戒斗は離れ、両手で叶多の顔を挟んだ。親指が涙を拭う。
「一時期きついときもあったけど、やっぱり叶多が泣くのを見るとさ、何があっても頑張ろうって気になる」
 戒斗は可笑しそうに笑った。泣き虫を少しでも直したいと思っている叶多にとっては、素直にうれしいと思うには引っかかる。
 どっちつかずで首をかしげると、戒斗は棚から叶多を下ろして抱きしめた。腕は息が苦しいくらいに強くて、けれど離れがたい。
「出るぞ。大丈夫か」
 しばらくして戒斗の腕が離れた。なよなよしていた脚もいまはしっかりしていて、叶多はうなずいた。
「……うん」

 通路に出ると、あたりまえだけれど人が行き来していて、叶多は声が聞こえなかったかとちょっと、いや、かなり不安になった。
「戒斗。あたしの声、お、おっきくなかった?!」
「いつものとおりだろ」
「酷い」
 叶多のひしゃげた顔を見下ろして戒斗はニヤリと笑った。
「せっかく離れられたのに、母さんにハメられてのこのこ来るからだ」
『せっかく』には戒斗の本音が見えて、さっきの云い訳は本気で切実だったことが裏づけられた。
「おばさん、戒斗には未練たらたらで行ってもらえって」
 戒斗が呆れたように笑っているうちに、詩乃に置いていかれた場所の近くまで来た。

「ここまでだ」
「うん」
「ずっとまえ云ったことは逆も云える」
「え?」
 戒斗は訳のわからないことを云って、叶多をきょとんとさせた。
「迷ったことはあっても、迎えにいくってのは永遠に健在だ。これからさき、地獄の底からだって迎えにいってやる」
 それがどんな意味を含んでいるのか考えないまま、叶多のくちびるが広がった。
「うん!」
「ありがとう、叶多」
 その言葉が耳に届いた瞬間に、さっきの言葉の真の意味がわかる。
 この時季に、この状況ではあんまりで――。
「酷いっ」
 戒斗を(なじ)るのと、涙が一粒落ちたのは同時だった。戒斗は笑う。
「じゃあな」
 戒斗はあっさりと背を向けた。悔しさがいっぱいになって、向こう見ずな気持ちが(はや)る。
「戒斗、渡来くん、戒斗公認でなぐさめ役やるって云ってた。渡来くんも発情期あるんだって。今度やらせろって云われた」
 陽の名を出しただけで足を止めていた戒斗が振り向く。眼鏡越しで睨みつけるような眼差しが叶多に注ぐ。
「じゃあね!」
 叶多は怯むことなく、むしろ笑いながら戒斗の挨拶言葉を云い返し、身を翻すと人並みに紛れていった。

 *

 叶多の後ろ姿を見送りながら、戒斗は舌打ちをした。
「覚えてろ」
 誰に毒づいたのか自分でもはっきりしない。
 これまでになく不快な表情をしていると気づき、戒斗は首を振って払う。
 五年に比べれば高々一カ月。
「……長いな」
 戒斗はため息紛いに笑った。

 *

 それから一時間後、戒斗の乗った飛行機は地を離れた。
「泣くのって、我慢しなくていいのよ」
 デッキで隣に並んでいた詩乃が声をかけた。ふたりの後ろに隼斗が控えている。
「さっき、泣いてきたから大丈夫です」
「そう?」
「はい。それに、戒斗には未練たらたらで行ってもらいましたから!」
 詩乃はくすくすと笑いだした。


 ありがとう、は、さよなら、じゃない。
 地獄の底だろうが、夢の中だろうが――地獄の底からだって。迎えにいってやる。
 その言葉があれば、あたしも頑張れるよ。
 戒斗、いってらっしゃい。

* The story will be continued in ‘My One and Only Place’. *

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