Sugarcoat-シュガーコート- #119

第12話 Go to Receive -7-


 有吏家に来て一週間を過ぎた。もちろん気を遣うことはたくさんあるけれど、生活パターンや環境には慣れてきて、だんだんと家に親しみを感じている。
 その日々のなかでありがたいのは、帰ったら夕ご飯ができていていることだ。大学に入ってからは平日の帰りが遅かったぶん、夕食の用意はたいへんだ。いまは実家にいた頃の感覚になって、ごはんよ、と云われるのが本当にうれしい。
 食事の内容は八掟家と、つまり叶多でも作れるくらいの料理という、至って庶民的で、平日、甘えているぶん休みの日は当番させてもらうことにした。
 戒斗はといえば、今週の水曜日にイギリスへと渡る。出発時間の関係上、その日は早朝から出なければならず、一緒にいられるのは実質的に月曜日の今日と明日のみだ。
 そのことが頭をよぎるたびに叶多はあからさまに嘆息する。
 隣に座った陽が眉をひそめ、お箸で叶多のカレー皿を突いた。

「そのため息、何度目だ?」
「嫁姑戦争でも始まったみてぇだな」
「違うよ」
 わざとちゃかそうとした永の努力を無駄にするほど、叶多は意気消沈した声で否定した。
「実際は同居ってどうなの?」
 叶多と同じ気分に違いないのに、昂月はまったく動じていないようで、おもしろがった口調で訊ねた。
 今日はFATE繋がりの全員が集まって、学生食堂の中、いちばん大きいテーブルを独占している。
「おじさんはちょっと怖いし、おばさんはヘンにストイックっぽくて、でも根はいい感じってわかってきたかも。それより昂月!」
 叶多の勢いに押されたように、向かいに座った昂月は躰を少し引いた。
「何?」
「戒斗が見送り来るなって! 酷いと思わない?」
「あたしは行かないよ」
 昂月はくすくす笑いながら、叶多が拍子抜けするようなことを云った。
「高弥さんもダメって云ってるってこと?」
「怖い木村さんがいるから」
 高弥の意向がどうかは云わず、昂月は頭に人差し指を立てて鬼を装った。
 そんな恐怖は差し置いても見送りくらい行きたいのに。

 誰が見ても昂月のほうが落ち着いていて、その一方で叶多はそれが本物だろうかと疑う。
 今月に入ってすぐは、有吏家に馴染もうと必死で思い及ばなかったけれど、戒斗の出発が目の前に迫り、憂うつになっていく最中に気づかされた。
 七月はバラバラになる別れの季節であること。
 叶多がここまでついて行きたいというわがままを云い張るのは、すべて七月というキーワードにある気がしている。
 ちょうど一年前、祐真が消えたことも、叶多の中にある“七月”のイメージに追加された。
 昂月にとっては一回きりの別れであっても、忘れているはずはない。忘れられないはずだ。

「なんだか、追いかけるのが癖になっちゃってるから、ついて行きたいってのも本能かも」
 叶多は自分の子供っぽさをごまかすようにおちゃらけた。
「犬だしな」
「それはあんまり認めたくないけど。たまには追いかけてもらいたいって思うんだよ」
「いるじゃない、隣に追いかけてる奴が」
 里佳はがさつに陽を指差した。
「じゃなくて、戒斗に」
「簡単にかわしてくれるよな」
 陽は口を歪めている。
「ごめん。でも、渡来くんのことは簡単に扱ってるわけじゃないんだよ。んーっと、つまり、いまは贅沢云ってるだけ」
「だよね。実家に連れてくくらい真剣なんだし」
 ユナは軽く持て成して、結局はそこに落ち着くことになり、叶多のため息は惚気(のろけ)話で終わってしまった。


「叶多」
 食堂を出ると、いちばん後ろを歩く里佳に呼びかけられ、叶多は立ち止まって振り向いた。
「何?」
「追いかけられるほうもね、けっこう不安だったりするんだよ」
 ふたり並んで歩きだすと、里佳はさっきの話をぶり返し、それは意外な感じがして、え? と思わず叶多は問い返した。
「ちゃんとついて来てるかって、しょっちゅう後ろを振り向いてる。小学校の頃、あたしはずっとそうだった。こんなあたしでもついて来てくれるのかなって」
 里佳が笑って打ち明けたことはただ叶多を驚かせた。里佳に憧れて、ついて行くばかりだった叶多にはわからなかったことだ。その本音を考えれば、どんなに捻じ曲げられたいう前提があっても、やっぱり叶多の言葉は里佳を傷つけた。せめて、直に叶多が里佳に伝えればよかった。
 叶多が顔を曇らせると、里佳は首をすくめて笑った。
「叶多、そういう顔させるのに云ったんじゃなくてね。戒もあたしと同じなんじゃないかと思って」
「戒斗が?」
「戒が云ってたんだけど。FATEのデビューって、ホントはもっとバンドが熟するっていうか、安定してからって思ってたみたい」
「そう? デビューした頃も充分すごいって思ってたけど」
 叶多はテレビの中に戒斗を見つけたときの衝撃を思い返しながら首をかしげた。

 メールをしながら何気なく音楽番組を見ていて、聞いたことのない歌声と、ビートがきいて、尚且つきれいなメロディに顔を上げた。はじめて聴くのにすんなりと耳が受け入れて、躰が自然とリズムに乗る感じだった。
 ベーシストの姿がズームアップされるなり、叶多の耳には一切何も入らなくなったのだけれど。

「あたしたちにはそう見えても、戒にはまだ思うところがあったんじゃない? こういうのってタイミングあるし、バンドとしてちょうど乗ってきたところにスカウトされればイケイケになっちゃうし。それでメンバーの意向がそうなら悪くないって戒も判断したのかも。それはそれとして、あたしは戒が早くデビューに踏みきったのには、もう一つ理由があるような気がする」
「それ何?」
「会いたかったんじゃない?」
「誰に?」
「叶多に」
「え?」
 里佳は首をひねり、目を丸くした叶多を指差した。
「あたしの推理どおりだとしたら、大人ぶってるけど、戒もただの男だね。あたしはね、叶多。モデルとかゲーノー界とかまったく興味なかった。ううん、いまもそう……って云ったら仕事を怠けてるみたいで怒られそうだけど、真面目にはやってる。あたしもFATEと同じでスカウトされたんだけど、一度は断ったんだよ」
「それがどうして?」
「見つけて会いにきてくれるんじゃないかと思って」
「誰が?」
「叶多が」
 てっきり離婚して以来会っていないという母親のことかと思った叶多は、さっきと似たような会話の繰り返しのなかでまたびっくり眼になった。思わず足を止め、里佳も立ち止まった。
「あたしのモデル名、“CARY”を日本語基準で反対にすると、“RYCA”なんだけどね。気づいてくれるかなって気持ち、無きにしも非ず」
「……だって、あんな化粧じゃ、わかるわけないよ!」
 奇抜であっても綺麗さもあった里佳の化粧は、歌舞伎役者とまではいかないけれど、それに近く、原色でくっきりと彩られていたのだ。わかるはずがない。
「そこが犬じゃないのかなぁ」
「犬じゃない」
「ま、それはともかく。だから、戒もそうだったのかなって思った。五年て長いよね。あたしはもっとで八年。追いかけられてるほうが一見、優勢に見えるけど、お互いに気持ちの引力あれば、追いかけるほうがずっとずっとパワフルで当てにされてたり。追いかけられているようでも、実は追いかけてるのかな、なんてね」
 里佳には、この一カ月の間に、一族のことを省いていろんなことを話した。その里佳が云うことだ。しばらく助言を考え廻ると、やがて叶多はうれしくなって笑った。
「違ってもそう思っておくことにする。ありがと、里佳」
「叶多、早く行くよ! 里佳、またね!」
 ユナが遅れたふたりを振り向いて声をかけた。
「うん、また――」
 つと、里佳の返事は途切れ、手を振ろうと上げかけた右手も止まった。ユナたちとの間を裂くように、横から人が割りこんできたのだ。それは珠美を含めた例の四人組だった。

「田村さん、訊きたいことあるんだけどいい?」
 叶多にはいつぞやの光景が甦る。珠美の友人は都合を伺っているようで、その実、強制的な口調だ。
 里佳はすっかりCARYとして浸透してしまい、いまでは青南にいるのがあたりまえになって騒がれることもそうなくなったのに、いままたなんだろう。ちょっと不穏だ。当の里佳は呆れたように肩をすくめる。
「もしかしてまだ云ってるの? あたしも戒も否定したはずだけど」
「それはいいの。くやしいけど、お友だちだってことはわかったから。でも、もう一人、田村さんのお友だちがいるじゃない?」
 叶多と里佳は顔を見合わせると互いに眉間にしわを寄せ、それから里佳は珠美たちに向き直った。
「回りくどいのって、あたし、嫌いなのよね。はっきり云ってくれないかな」
「じゃあ。実はCARYはダミーで、fillって子が戒の本命じゃないかって話!」
 “え”に濁点がつきそうな奇妙な声が漏れ、叶多は慌てて小さく咳払いをした。が、ごまかしを見抜いたかのように珠美の視線が叶多に向く。思わず姿勢を正した。
「どこからそういうふうに憶測を増殖させられるのか知らないけど――」
「行き着くのはやっぱり叶多なのよね」
 里佳におかまいなく、珠美がつぶやくと、叶多は息が詰まりそうに驚いた。
「だ、だから、あたしは従妹ってだけで」
「でも、なんとなくfillって叶多っぽいんだよね」
「fillのほうが断然キレカワだけど。写真なんて修正できちゃうからね」
 珠美の友だちから、またもや上から下まで一通り眺めて云われた暁にはがっかりだけれど、fillは詰まるところ叶多なわけで、複雑な心境だ。いや、がっかりとか、そんな場合ではない。
「珠美、それは似てるって云われたらうれしいけど――」
「田村さんと叶多は友だちだし、田村さんは雑誌対談じゃ、fillを親友って云ってるし」
 珠美は、叶多と里佳を交互に見ながらまたさえぎった。里佳は大げさなため息を吐いた。

「あのね、他人の空似アンド類友。あたしは叶多みたいな一見(どん)くさい子が大好きでほっとけない性質(たち)。fillもそうで、だからふたりが似てるのは当然」
「第一、おれが戒のこと認めるわけないんだよな」
 成り行きを見守っていた陽が、里佳をフォローして口を挟んだ。珠美は眉を跳ねあげ、陽に目を向ける。追及心が逸れたのか、からかった眼差しだ。
「あ、渡来くん。もしかして、あれって健在?」
「もしかしてって、一歩も譲ってるつもりはないけどな」
「……なんだか当てつけられただけみたい」
 珠美はため息を吐いたあと、友だちに向かって首をかしげた。
 里佳が云った『鈍くさい』と『大好き』に、叶多はがっかりとうれしさを同時に感じるという奇妙な体験をしつつ、陽の加勢もあってひとまず珠美たちは退散しそうで安堵した。
 じゃあね、と珠美が云いかけたとき、遠巻きに見ていたユナが叶多の隣から顔を覗かせる。
「珠美、『あれ』って何?」
 叶多を真ん中にしてユナとは反対側に立っている、陽の舌打ちが頭上から聞こえた。
「渡来くんに告白したときの断り文句。身も心も叶多になったら乗り換えてもいいんだって。叶多に別の男ありって噂あったでしょ。あのとき告白した子がそう云ってた」
 ぶ、と永が堪えきれずに吹きだす。珠美たちもやってきたときの不穏さはどこへやら、おもしろがって立ち去った。

「なあんだ、渡来、あのときの分身の術ってそのまんま断り文句だったわけだ」
「べつに断り文句ってわけじゃない」
 陽は不機嫌な顔でむっつりと云った。
「へぇ、本気だってさ。八掟、神様でも出てきてさ、分身の術、一回きりで使わせちゃるってぇときは何体いるか、よーく考えるべきだな」
 ユナたちがくすくすと笑い出したなか、永はからかうだけからかって、さっさと自分のキャンパスへ向かった。
「普通に使えるわけないのに」
「習得しろ」
 叶多の小声に反応した陽は、無理難題なことを云い放ち、叶多が拒む間もなく永を追いかけていく。行き先は違うはずだから、きっと一言でも云い返したいということなんだろう。

「今度こそ、戒のカノジョの件は落ち着くかな」
「ていうより、だいたいが戒斗さんの噂、なんで急に出てきたのかな。春の休講明けてすぐだったよね? 噂が広がるのも早かったし。マスコミが騒いだのはそのあとでしょ」
 ユナの言葉を受けて慧が指摘すると、誰もが首をかしげた。そのなかで独り、里佳が笑う。
「あー、云うの忘れてたけど、戒のカノジョが青南にいるらしいっていう情報の発信源はあたし。それから、いろいろ尾ひれがついたみたいだけど。口は災いのモトって反省してる。さっきも云ったとおり、気づいてよ、ってこと。叶多、お互いさまってことでチャラにしてくれるよね」
 その自白に呆気にとられている間に、里佳はすまして手を振り、小走りで教養学部の校舎のほうへと行った。
「なんとなく里佳って、渡来の女版て感じじゃない?」
 ユナがつぶやいた横で叶多はため息を吐いた。



 梅雨明けを間もなく控えた水曜日、およそ歓迎したくない、FATEの出発の日を迎えた。
 歓迎したくないとか、頑張ってねと素直に送りだせないとか、嫁失格より酷い、カノジョ失格だ。
 夜明けと同時に起きたのだけれど、白んでいく地上の様子から感じていたとおり、叶多の落ちこんだ気分とは裏腹で、太陽もすっかり顔を出して天気がいい。
 一緒に起きだしてから、いつかのように戒斗が行くところ行くところについて回ると、戒斗はうるさがるでもなく、犬を扱うみたいに叶多の頭を撫で――というよりは、目が回りそうなくらい振り回したり、髪を引っ張ってぐしゃぐしゃにしたりとおもしろがっていた。
 いざ家を出る七時頃になって叶多は戒斗から離れ、部屋に引っこんだ。笑顔で見送るどころか、ため息ばかりが出てしまって泣きたくなった。

「叶多」
 不意にドアが開いて、叶多は慌ててベッドから立ちあがった。顔が引きつった感はあるけれど、どうにか笑って見せる。
「うん」
「行ってくる」
 叶多はちょっと目を見開いて、ドアのところに立ったままの戒斗を見つめた。『じゃあな』ばかりだったのに、はじめて“行ってきます”をまともに云われた。憂うつが少し晴れて、くすぐったいような気分になった。
 はじめての別れのときは泣いてばかりで部屋に引っこんだままだったけれど、今日は別れではないし、やっぱり笑顔で送らなくちゃと思う。
「外まで送る!」
 叶多は駆け寄って、戒斗の手に自分の手を滑りこませた。見上げた戒斗はちょっと笑みを浮かべると、躰をかがめて、さっと叶多のくちびるに触れた。
 手を引かれながら階段を下りて廊下に出ると、戒斗はリビングに寄らず、通り過ぎた。
「おばさんたちには云ってかないの?」
「もう云った」
 玄関に置いた荷物もすでになくなっていて、普通に出かける感覚で一緒に玄関を出た。門の外に出るまで、いつもは長く感じるアプローチもちょっとしかない。人専用の門扉を出ると、そこには和久井が車の後部座席のドアを開けて待機していた。

「叶多さん、おはようございます」
「和久井さん、おはようございます! 空港まで戒斗をよろしくお願いします」
 叶多が深々と頭を下げると、二つの声が同時に笑った。
「一端の若奥さまですね」
「若奥さまってちょっと古風だけど、なんとなく格が上がった感じ」
「充分に将来有望ですよ」
「はい!」
「では、お送りしてきます」
 喜色満面になった叶多を見下ろして一礼すると、和久井は戒斗が乗りこむのを待つでもなく運転席に回った。

「叶多」
 名を呼んだ戒斗の声は極々真剣だ。
「うん」
「おまえが不安に思うことは何もない。いいな」
「うん。いってらっしゃい」
 不安もさみしさも消えないけれど、戒斗の声の力強さは叶多を心強くさせ、自然に笑みが零れた。髪をちょっと引っ張ったあと、戒斗は車に乗って窓を開けた。
「家に戻れ」
「戒斗って心配性だね」
「誰にもってわけじゃない。じゃあな」
 戒斗は口を歪め、それからかすかに顎をしゃくった。
 叶多はうなずいてから門の中に入り、自動で閉じる隙間から手を振ると、それを合図にしたかのように車は発進して、すぐに敷地内から消えて見えなくなった。

 一瞬後、笑みにかわって堪えていた涙が零れた。

   *

「大丈夫なんですか」
 車が出たとたん、ルームミラー越しに和久井の目が後部座席を向く。
「何が」
「貴方が、ですよ」
 そう問われるほど隠しきれていないのか……いや、そんなはずはなく、いつものとおり、和久井はからかっているだけだ。
 戒斗は薄く笑った。
「いない間、頼む。それだけだ」
 前を向いた和久井の目が再びちらりと戒斗に向かった。しばらくの沈黙のあと、
「御意」
と、戒斗の声に何を聞き取ったのか、最初のからかった口調から至って真摯にかわり、和久井は端的に請け合った。

 戒斗は窓の外に目を向け、ため息を押し殺す。
 不安の度合いは情けなくも叶多に負けていない。心配性というには遥かに度を越している。
 離れていようが叶多は大丈夫だ。
 戒斗は内心でつぶやき、かすかに首を振る。
 痩せ我慢なんていう馬鹿げた距離は置かず、めちゃくちゃ抱いとけばよかったな。
 心底と同様、(うず)く躰をごまかすように独り笑った。

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