Sugarcoat-シュガーコート- #118

第12話 Go to Receive -6-


 叶多は片づけている途中のスーツケースを放って、机の上に置いたクールサーバーを手に取った。
 グラスに麦茶を注いでいると、戒斗の手が背後から伸びてきて、叶多からグラスを取りあげる。零しそうになって慌ててクールサーバーを起こし、トレイの上に戻した。
 振り仰いで見た戒斗はグラスを口につけ、ちょっと仰向いた。喉仏が動く。そこから視線を下ろしていくと、うっとりした気分になって叶多は触れたくなる。
 裸の上半身は見ただけで筋肉質とわかり、それでも無駄に筋肉がついているわけではなく、一言で云うなら“美”を極めている。このまえ講義の下調べで美術館へ行ったけれど、そこに展示されていたギリシャ彫刻の露骨な男性像に比べ、戒斗のほうが全身に(わた)ってバランスが絶妙によく、断然いい。
 できるなら、いつでも触れるように飾っておきたい。まったくもって無理な望みとわかっていても、そう思うほど戒斗の躰つきは好きだ。いや、けっして変態発言ではなく、それは、戒斗だから、で、声も瞳も好きだし、何よりもさっきその口から漏れた心がいちばんだ。
 それなのに、離れなくちゃいけないなんて。

「叶多」
 顔をしかめたと同時に、戒斗に呼ばれ、叶多は目の前の胸もとから視線を上げた。その表情を見るまえに、焦点が合わなくなるほど戒斗が迫り、その顔が少し傾いてくちびるが触れた。
 戒斗のくちびるは麦茶の冷たさが残っていて、ぺたっとくっつくとひんやりして気持ちいい。コトッとグラスを置く音がして、ひんやりした手と温かい手が叶多の頬を挟み、キスは一気に誘惑モードに入った。一通り口の中を侵したあと、かがんだ戒斗はますます身をかがめて叶多の首もとまでキスを下ろした。
「戒斗?」
「叶多、おまえ見てるとチャレンジ精神を掻きたてられるんだよな」
 顔を上げた戒斗が叶多を見下ろして含み笑う。
「何?」
「というより、余計なイマジネーションが広がる。余計と云うのは余計か」
 叶多の問いかけは無視され、戒斗は独り言のようにつぶやいて、その次には叶多を抱えあげた。
「戒斗! 昨日も一昨日も、実家でやれないからって酷い目に遭ったんだけど!」
 戒斗の意思は明白で、叶多は腕の中でジタバタした。ここでまた手を出そうとするということは、ふたりの間に倦怠期とかマンネリとかやっぱり存在しないということはわかってうれしいけれど。
「酷い目? 良い目、の間違いだろ。最近は積極的だったくせにしらっぱくれるなよ」
「やだ! こんなとこでできないよっ」
「こんなとこ、だからいいんだ。自分の部屋に女連れこんでやるってスリルある。やってみたかったシチュエーションだ。パジャマってのがちょっと違うけどな」
 好き勝手を云いながら、戒斗はベッドの上に叶多を寝かせて躰を(また)ぐ。()しかかってくる戒斗を止めようと、その肩に手を置いて腕を突っ張った。
「女、ってその云い方、なんか違う」
「もとい、雌犬だ」
「違う!」
「いいから」
「その云い方も違う。OLにセクハラしてる部長みたい」
「なんだ、それ」
 戒斗は笑いだした。
(つば)、飛んできたよ」
 顔を(ぬぐ)おうと叶多が手を離した隙を逃さず、戒斗が手をつかみ、叶多の頭上で一纏(ひとまと)めにした。
「戒斗っ、明日、おばさんと顔合わせるの恥ずかしいから!」
「今更云うことか?」
「だって声出ちゃうからだめ」
「出さなきゃいい」
「無理」
「だな。叶多の感度は完璧だ。声でかくなりそうだったらふさいでやる」
 云う傍から戒斗は叶多のくちびるを丸ごと咥えた。
 階下に戒斗の両親がいると思えば、キスにぼんやりしながらも理性は残り、戒斗がパジャマの上着を開けていくのがわかる。
 硬い指先が胸骨に沿って素肌に触れる。それだけで、口にはできないけれど、もっと、という気持ちが募るのは、戒斗が云う完璧な感度のせいだろうか。小振りな胸を戒斗の手がつかんでゆっくりと練りだす。感触を確かめるように繰り返され、戒斗の手のひらの中で左の胸が熱くなって柔らかくふくらんだ気がした。

「叶多」
 戒斗が顔を上げて名を呼び、叶多は目を開けた。すると、戒斗の指が放置されていた右側の胸先を弾く。息をする音が立ち、躰が震えて叶多は背中を仰け反らせるように(よじ)った。
「叶多、目、開けてろ」
 無意識に閉じてしまった叶多に戒斗が無理強いする。
「だめ、恥ずかしい」
「声出したくないんだろ。だったら開けてるほうがいいと思うんだけどな。おれの反応を楽しむって手もある。もうすぐ離れなきゃならないし、そのぶんおれを見てろ」
 傲慢に響く声よりも内容を聞いて、叶多はパッと目を開けた。
「離れなきゃならないって人に強制されてるみたいに聞こえる!」
「そのとおり、仕事だ」
「だから、八月になったら海外旅行する。英会話の実践できるし」
 今日ははっきり云ってみた。
 このまえは、海外旅行したことないんだよ、とそれとなく云ってみれば、だろうな、という、たったそれだけで戒斗は叶多をあしらった。
「パスポートは申請しても発給されない」
 戒斗は考えを変える気は更々ないようで、素気(すげ)なく、しかも卑怯な手を示唆して叶多の出端(ではな)を挫いた。叶多の瞳が潤み、戒斗は真逆に笑う。そして胸にあった手が先をつまんだ。
 あふっ。
 とうとつに再開した戒斗はやっぱり叶多を知り尽くしていて、叶多の目に滲む涙の意味を変えた。見下ろしてくる瞳が叶多の瞳をつかんで放せなくさせる。
 目を開けていると、喘ぐような息遣いは止められなくても、戒斗が云ったとおり不思議と声は抑制できる。戒斗の観賞するような眼差しが目の上にあって尚更、声を上げてしまったら間抜けなほど恥ずかしい。
 そして、そう思う叶多のわずかな理性はだんだんと霞んでいく。そのせいなのか、かすかに顔をしかめた戒斗の瞳は淀んで見えた。
 一点だけ、それも胸先だけ責められるというじれったい感覚は苦しい。空気の流れを感じるくらいにデリケートになっていて、たぶんそこは戒斗の慾みたいに硬くなっている。そう意識すると、叶多は羞恥に駆られ、戒斗から逃れようと上半身をくねらせた。

「戒斗……もういいっ」
「そんなはずない。もっと、だ」
 戒斗の指が胸から離れ、パジャマのショートパンツの中に手が忍び入る。脚は戒斗の膝に挟まれていて、開く余地はそうない。手がショーツの下に潜りながら、脚を抉じ開けるように割りこんできて、精一杯まで広げられた。
 あ……くっ。
 戒斗の指が縦に沿ったとたん、叶多は背中を逸らす。戒斗はすくった蜜を指に絡め、繊細な場所を潤す。痛みから守るための動きのはずが、貪欲にも熱が派生する。
「あ……戒斗、だめっ」
 緩く回るように触れられただけなのに、ふわりと浮いた感覚の中に入って、叶多は目を開けていられなくなった。
「イケばいい」
 戒斗は、括っていた叶多の手を放して右側に横たわると、左腕を首の下に潜りこませる。叶多の頭を抱きこんで戒斗は顔を下ろした。叶多のくちびるに口づけたのはほんの掠める程度で、戒斗は左側のふくらみに下りた。キスマークをつけるほどではないけれど、戒斗は強く吸いつきながら移動する。到達先は明らかで、叶多はその感覚を予感して鳥肌が立った。
 あ、あふっ……んあっ。
 胸もとと脚の間とに意識が分散されて声の制御が利かなくなりつつある。叶多は戒斗の腕に潜りこむように顔を横向けた。
 同時に戒斗が胸先を口に含んだ。触覚同士が触れるとより繊細さが浮き彫りになる。脚の間は、這いずるように、けれど柔らかいタッチで弾かれた。
 だめ!
 戒斗の腕に触れた叶多の口が開いた。戒斗の腕がきつくなる。
 意識が蒸発しそうな感覚に躰が硬直して、(すが)るように戒斗の腕を咬んだ。次の瞬間には急速に降下し、さらに沈んでしまう錯覚に陥るなかで躰に痙攣が走った。
 んんんっ。
 漏れてしまった悲鳴を、小さく跳ねる躰ごと戒斗の腕が閉じこめた。
 そして、叶多の震えの度合いに添うように戒斗の腕が緩んでいく。やがて叶多はぐったりと躰から力を抜いた。
 戒斗が動いて胸に口づける。それからベッドヘッドに置いてあるリモコンを取ると照明を消し、ふたりの躰にタオルケットをかけた。戒斗の躰が叶多を背中から包む。

「戒斗……戒斗は?」
「収拾つかない」
「酷い、あたしだけなんて」
「おれは楽しんでるし、叶多も同じだってこと否定はできないはずだ」
 楽しんでいるというよりは感覚が好きということだけれど、大してそこに差はなく、叶多はぐうの音も出ない。感度が完璧というのは大げさだとは思うけれど、とにかく戒斗のためには長所でも、叶多にとっては重荷だ。
 叶多が黙りこむと寝転がった頭上で、くぐもった声が笑う。仕返しに腰に当たる戒斗をつかんでしまおうかと無謀な衝動が頭をもたげたけれど、どうにか誕生日の愚行を甦らせて思い留まった。
 拗ねた気分とだるさに叶多はもう寝てしまおうと目をつむる。
「おやすみ!」
 つっけんどんに云うと、短い笑い声と一緒に戒斗のくちびるが頭の天辺(てっぺん)に触れ、躰を縛る腕が少しだけきつくなった。こんな窮屈さは叶多を安心させる。はじめての場所ということも拗ねた気持ちも忘れ、いつもと変わらない場所の中で知らない間に眠っていた。

   *

 翌朝、叶多はぐずぐずしながらゆったりと目覚め始めた。
 目を開けようかというところまで浮上して、叶多は緩く瞬きをしたとたん、見慣れない木目の壁が目についた。どこ? と思うと同時に、めったにないほど脳みそが活躍して一瞬で頭が冴えわたった。叶多ははっとしてベッドの上に起きあがる。隣はもぬけの殻だ。
 時計を探して部屋を見渡すと、机の上に壁時計がかけられている。戒斗はずっと不在だったからもしかして止まってるのかも、と期待しながら叶多はベッドを出て、机に置いた携帯電話を取った。
 おそるおそる覗き見ると、時計の針と同じく八時五分と表示されていて、叶多は蒼くなったようなうんざりしたようなため息を吐いた。
 平日は目覚ましが鳴る直前にシャキッと起きられるけれど、週一で巡る休日は特別なことがない限り、遅くまで寝ていることが多い。感度に負けず劣らず叶多の体内時計は完璧で、今日を休みだと判断した躰はすっかりリラックスしていたようだ。
 だいたい、アラーム設定するまえに戒斗がいきなり襲ってきたわけで、それなのに置いてけぼりなんて。
 いくらゆっくりしていいって云われてても、それを素直に受け取って、起きるのが八時過ぎとは怠けてるって思われちゃう。どんな顔して下りていこう。
 またもや大きなため息を吐き、それから気持ちを切り替えて手早く着替えた。

 階段を下りて洗面をすませ、リビングのドアまで来ると耳をすました。が、声は聞こえない。もともと会話が少なさそうな雰囲気はある。
 昨日のことを思い返してみれば、詩乃はほとんど喋ることなく耳を傾ける側専門のようだった。残る男二人がお喋りなわけはない。
 叶多は一つ深呼吸をして観念するとドアを開けた。
「早かったな」
 リビングからの第一声に、叶多は戒斗に飛びついて口をふさぎたくなった。それでは普段から早起きができないように聞こえてしまう。
「おはようございます」
 挨拶した声は自分でも情けなく聞こえた。リビングからは男ふたりそろって、ああ、という一言で叶多に応じた。もしかしないでも、有吏家の男たちの挨拶は全部『ああ』ですまされるらしい。
「おはよう。ごはん、食べなさい。まさか、朝食抜きっていう不健康なことはしてないでしょうね」
 洗い物なのか、水の音が立つキッチンから詩乃が声をかけた。批難する口調ではなく、からかうようだ。
「あ、ちゃんと食べてます」
 叶多は答えながらキッチンに入った。戸棚に向かうと、
「戒斗のぶんもね。叶多ちゃんよりちょっとまえに起きてきたばかりだから」
と、詩乃はなぜか可笑しそうにしている。叶多は一人遅れたわけでもないとわかってほっとしながら、不思議に思って首をかしげた。詩乃もまたほんの少し首を傾ける。

「主人のことは云うまでもないけど、私の息子たち、ちょっと固いじゃない。一族の本家に生まれたからにはしょうがないんでしょうけれど、少しも子供らしさとか男の子らしさがなくて。何があっても型にはまった反応しか返ってこなかったわ。うちにいる頃は朝起きるのが六時を過ぎるなんてなかったし、今日みたいな寝坊なんて考えられなかったことなの」
「あ、すみませんっ。あたしが日曜日は遅く起きるから戒斗もなるべく合わせてくれてて……」
「どうして謝るの? 私はうれしいのよ。あの子が普通の感覚を身につけていること。考えてみて、家の中でまで(かしこ)まってるってぞっとすると思わない? 拓斗と戒斗はお堅い話以外では口もきかなかったんだから。十代の男の子がそうそうお喋りだとは思わないけれど、ふたりとも、家族という構成をつくる過程で仕方なく息子の役割についてるって感じだったわ。期待と重圧を背負(しょ)ってるからそうならざるを得なかったんだけど、年がら年中、緊張していなければならないなんて必要ないことだから」
 叶多が焦って云い訳したわりに、詩乃は朝寝坊にも戒斗の習慣を変えたことにも拘っていないようで、その口調には、千里と同じで息子たちを心配するしみじみした気持ちが見える。
 一方で考えさせられることもある。本家という位置は有吏家を孤高の存在にして、ともすれば家族の中でさえも孤独になるのかもしれない。詩乃はその穏やかな仮面の下でずっとそのもどかしさを持ち続けていたんだろうか。
「あたしもそう思います」
「いまは拓斗も戒斗も、お互いにいろんなことを話してるみたいで本当にうれしいのよ。叶多ちゃんのおかげね」
 確かに叶多が拗ねていることも拓斗の耳に入っていた。兄弟というのがどんなものなのかよくわからないけれど、親睦会のときのふたりは友だちみたいに見える。
「あたし、何もしてませんよ」
「そういうところが頼もしいのよね」

 詩乃はふふっと笑って、早く食べなさい、と叶多のお茶碗を持った手を指差した。
「はい、いただきます。戒斗、ごはん!」
「ああ」
 叶多はご飯と卵のお味噌汁をダイニングテーブルに並べ、詩乃が小魚の佃煮が入った鉢をふたりの間に据えた。戒斗が先に席について、叶多はその隣に椅子を引いて座った。
「戒斗、起こしてくれればよかったのに。嫁失格の烙印(らくいん)押されちゃうよ」
 叶多は声を落として戒斗を(なじ)った。当の戒斗は呆れたように笑う。
「最初が肝心ていうだろ。あんまり頑張りすぎるとあとがつらいんだ。そのままを見せてたほうがラクだと思うけどな。母さんにしろ、最初はよかったのに、って幻滅したくないはずだ」
「それって……なんとなく素直に聞けないよ」
「気のせいだな」
 戒斗はおもしろがって一蹴(いっしゅう)した。

「戒斗、昼から書斎でいいな?」
 不意に背後から太い声がして、叶多はびくっと振り返った。いつの間にか隼斗が近くに来ていて、座っている叶多からは、戒斗と同じでそびえて見え、重圧感たっぷりだ。足音を立てないのも有吏家の男たちの習慣らしい。
「ああ、かまわない」
 隼斗は重々しくうなずいてリビングを出ていった。挨拶したときはソファの陰になってよく見えなかったけれど、後ろ姿を見送ったところで、叶多は隼斗の気取っていない格好に気づいた。
「戒斗、おじさん、パジャマだったよ!」
 まるで宇宙人にでも遭遇したようにびっくり眼の叶多を見て、戒斗が笑い、つられて詩乃も声を立てて短く笑った。
「起き抜けだし、別におかしくない」
「だって、有吏塾にいるときだって、スーツっぽい格好しか見てないし。想像つかなかったっていうか」
「スーツで寝るわけないだろ」
 戒斗はもっともな指摘をする。
 そこへ詩乃が湯呑みを持ってやって来た。

「はい、お茶。温かいのでいいわね?」
「はい、ありがとうございます」
 隣から戒斗が左手を伸ばして、詩乃から湯呑みを受け取った。その詩乃がふと何かに気づいたように目を止めた。
「戒斗、それ、どうしたの?」
 詩乃が指差した場所を追っていき、戒斗の腕を見たとたん、叶多ははたと固まった。戒斗が着ている、パジャマがわりのTシャツは袖がほんのちょっとしかない。肩近くの剥きだしになった腕には痕がくっきりと残っている。
「犬にやられた」
 それが通用するはずない。うっ血した痕は、明らかに犬の歯形とは違うのだ。おまけに戒斗の理由を聞いた詩乃の目が、まさか叶多が犬だと知っているわけじゃないだろうに叶多へと移る。
 や、あたしは犬じゃなくって。
「あ、あたしじゃないです!」
 と、首を振り、手を振り、そう云ってしまったことが墓穴を掘ったのは事実だ。戒斗が忍び笑う。湯気が立ちそうに顔が火照った。
「叶多ちゃんじゃないってことのほうが大問題な気がするけど」
 詩乃はくすくすと笑いながら、さすがに重要ポイントをついてきた。が、自分だと手を上げるには決まり悪く、戒斗を見やって責めるようにくちびるを尖らせた。
 その瞬間に素早くキスされる。慌てて躰を引いて詩乃を見ると、背中を向けてキッチンへ向かうところでほっとした。
「酷い」
「酷い目に遭ったのはおれだ。まだ(うず)いてる。狂犬病の予防接種、ちゃんとやってるだろうな」
「ごめん。でも、やっぱり酷い。戒斗が無理やり――」
「にしては、ちょっと(いじ)ってやっただけでイクの早かっ――」
「ちゃんと隠れるようなの着てて!」
 囁く程度の応酬であり、詩乃は水を扱っているから聞こえはしないだろうけれど、叶多は素早く戒斗をさえぎった。赤くなった顔は迫力を半減するも、これで終わりだと云わんばかりの口調で引導を渡した。


 朝食あと、戒斗は叶多の云ったままに袖の長いTシャツに着替えてきて、そのおもしろがった顔にむっとしたものの、恥ずかしい材料は減った。
 午前中の間、家の中を含めて戒斗の案内で敷地内を探検した。
 家の広さもさることながら、地下に巨大なシェルターがあるのにもびっくりだったけれど、そのうえに冗談だと思っていた隠しドアが、目の錯覚を利用して数カ所に実在したことには、驚きを通り越して唖然とした。設計も建築も一族によって手掛けられているということに、徹底した要塞ぶりが窺える。
「もし何かたいへんなことが起きちゃって、みんないなくなったのに自分だけここで助かったとしたらやだ」
 思わずそう口にすると、戒斗は吹くようにして笑った。
「叶多らしいけど、それが独りじゃなくておれとふたりだったらどうだ?」
「エデンに戻ったアダムとエヴァって感じでいいかも」
 さっきの憂いとは打って変わって羨望の混じった声だ。宙を見た叶多の頭の中には、イチジクの葉で腰を覆っているアダムをイメージした彫刻が浮かぶ。それはすぐに戒斗の姿に移行した。イチジクの葉なんていらないけど。そう考えて脳みそが融けそうになった。
「単純だな」
「そういう状況ってホントにあったら悲惨なだけだし、あんまり真面目に考えたくないから」
「そのわりに、いま何考えてたんだ?」
「な、なんでもない」
 戒斗は独り慌てている叶多を見下ろし、さっき叶多が想像した映像に見当がついているかのように口を歪めて肩をすくめた。


 それから午後になると、戒斗は――おそらくは暗躍の話だろうけれど、隼斗と奥の書斎にこもり、叶多はその間、ダイニングテーブルで課題に取りかかった。
 詩乃はといえば、リビングの窓際で油絵を描いていた。那桜たちが家を出てしまってから楽しむようになったという。そこに詩乃のさみしさが見えた気がした。
 昼食も夕食のときも、食事の用意は詩乃の拒絶もなく、叶多は補佐をする形で手伝った。食卓の席ではめずらしく戒斗がお喋りになって、居心地も悪くはない。
 有吏家での生活は、思っていたより早く馴染めそうだ。戒斗がいてくれるからだろうけれど。

「どうだ?」
 叶多が寝る支度をすませて部屋にいると、あとから来た戒斗が昨日と同じように訊ねた。
 さっき下で、おやすみ、と云ってきたばかりで、叶多はそのときのうなずいた隼斗の姿を思い起こす。
「うん、戒斗、おじさんのパジャマもそうだけど、なんだかいろんなこと発見できそう」
 叶多は首をすくめ、期待に満ちた声で云い、戒斗はどういう意味なのかニヤリとした。
「何?」
「いや、サイコーだ、って思ってさ」
「何が?」
「なんだろうな」
 戒斗は(とぼ)けて答えず、ベッドに腰かけていた叶多の脚をすくいながら奥のほうに移動させた。
「戒斗、今日は違うよね?!」
「その云い方には合点がいかないけど、とりあえずは明日の朝、汚名返上させてやらないとな」
 恩着せがましく云いつつも戒斗は叶多のパジャマのボタンを外していく。
「戒斗!」
「さきに進むつもりはない」
 叶多のパジャマだけ剥ぐと、戒斗自らも服を脱ぎだす。ふたりはイチジクの葉のかわりに布で腰を覆うだけという格好になり、それから寝そべった戒斗が叶多を抱き寄せた。
 直に肌が触れると、片方の胸を包む戒斗の手もただ守るためだけにあるようで、叶多の気分は緩々になる。
 畏まることなくすごせたとあっても、気を遣うのは避けられなかったせいかもしれない。叶多はものの一分もしないうちに眠りについた。

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