Sugarcoat-シュガーコート- #117
第12話 Go to Receive -5-
食事が終わって、叶多と那桜が片づけている間に詩乃がコーヒーを淹れてくれた。詩乃は自分にコーヒー、リビングへと移動した戒斗たちにビールを用意して持っていき、そのまま残っている。叶多は那桜に誘われてダイニングテーブルに落ち着いた。
「叶多ちゃん、最近、窮屈じゃない?」
隣に座った那桜はちらりと後ろを向いたあと、声を潜めて叶多に問いかけた。
「窮屈?」
「そう。行動制限されてるようなプレッシャーを感じるというか、拓兄たちがなんとなく神経質になってる感じ」
「拓斗さん、そんなふうには見えないよ? 戒斗はそんな感じだけど」
食事のときを思い返しながら答えつつ、叶多は密かに安心した。戒斗の場合は『なんとなく』どころか露骨だけれど、それはきっと祐真のことを引きずっていたり、蘇我と直に接しているからで、それを差し引けば、戒斗に限らず、きっと有吏の誰もが同じなのだ。
「戒兄もやっぱりそう? いつも、いまも余裕たっぷりみたいだけど」
那桜が云った『拓兄たち』という『たち』は戒斗のことじゃないらしい。誰のことだろうと思う一方で、自分以外からは――妹からでさえ戒斗は変わらなく見えるようで、叶多は不思議な気がした。目を丸くした叶多を見て、那桜はうれしそうに笑う。
「わたしたち、それぞれに大事な人のことが見えてるんだね。なんだか自信ついてきた」
「自信て?」
「叶多ちゃんと違って、わたしっていざとなったら簡単に切り捨てられる立場なんだよ。だって、所詮は妹だから。わたしは拓兄にやってもらうばっかりで何もできてないし、お荷物なの。でも、わたしはちゃんと拓兄のことをわかっていられてるのかなって、いまは思えた。わたしって貴重な存在じゃない?」
那桜は最後に茶目っ気たっぷりで付け加えたけれど、そのまえに打ち明けた不安は意外だった。所詮は他人、で、所詮は妹、なら、そこにはなんの差異もなくて立場なんていうのは些細なことのように思えた。
「那桜ちゃん、好きでいることも一緒にいることもお互いに望んでることで、最低限のルールを侵さないんなら、きっと後ろめたく思う必要なんてないんだよ。いま、那桜ちゃんに云われてわかった」
「最低限のルールって?」
「んーっと……不倫して家族を壊しちゃったりとかはだめだってこと」
「ぷ。そういう面倒なこと、拓兄たちは絶対にやらないと思う。責任感は人一倍どころか、きっと百倍くらいありそうだし」
那桜が小さく吹きだして云い、叶多は、そうだね、と同調したものの、ふと考えこむ。確かに卑怯なことが嫌いな戒斗のことだ、責任感は満タンだろう。
「叶多ちゃん、どうかした?」
「那桜ちゃん、責任て……。もし戒斗にすっごく好きな人ができて、でも責任があるからってあたしのことを捨てられなくって、それで我慢するってこともあるんだよね?! 好きな人の問題がなくても、あたし、こんなんで飽きちゃうってことあるかもしれないし、それでまた我慢するってちょっと違う……じゃなくて全然違う」
戒斗に限って取り越し苦労だとわかっているのに、叶多の声はだんだんとしぼんでいき、伴って那桜までどんよりと顔を曇らせた。顔を見合わせて深々とため息を吐く。
戒斗のことを疑うことはなくても、こんなふうに考えるのはきっと置き去りにされるせいだ。とはいえ、立場がどうこう云うまえに常識を鑑みればついて行けないのもやむを得ない。
逸早く立ち直ったのは那桜で、叶多をなぐさめ始めた。
「叶多ちゃんは大丈夫。だって、戒兄、きっと初恋だから。ガラスのストラップ作ってるとき思ってたんだけど、自分が納得するまでやってて、それって適当にすませられないほど何かが戒兄の中にあったってことでしょ。それで五年も会わなくっても気持ちは変わらなかった。そういうブランクって勝手に相手のこと妄想したりして、実際会ってみたらがっかりってこともあるのに、すぐ同棲始めちゃってるし、それからもう二年だよ。叶多ちゃんがどんなんでも大丈夫。わたしも見てて飽きないよ」
「……那桜ちゃん、それって喜んでいいの?」
「そんなふうに聞こえてない? 叶多ちゃんと戒兄を見てると、倦怠期とかマンネリっていうの、なさそうだし」
「倦怠期……マンネリ……」
叶多はつぶやいてみて、もしかしていまの不安はそこから来るのかもしれないと思ってしまう。しかも叶多には倦怠なんて期間など更々なく、戒斗のまったくの一方通行で、ということはやっぱり戒斗にはリフレッシュしてもらうのに離れる期間が必要なんだろうか。
あたしってばやられてばかりだし、戒斗はそれでいいって云うけれど、実はやり返してほしい? だって、誕生日にやっちゃったら、普通じゃない格好させられて、それでもう一回って云ってみたら待ってたみたいに襲われまくって……。や、だからえっちのことじゃなくて。
ホントはホントにあたしにうんざりしてたらどうしよう。結局は何されてもホイホイ戒斗についていってるし、それってまるでバカみたいだ。……。
自分でも馬鹿を否定しきれないところに叶多自身がうんざりしてため息を吐いた。
「あ、わたし、ヘンなこと云った?」
那桜から覗きこまれ、叶多は急いで首を横に振ると、まさに馬鹿げた考えを払いのけた。戒斗を疑うようなことを思うなんてカノジョ失格だ。
「ううん。那桜ちゃんも大丈夫だよ。たぶん戒斗よりも一族に忠実だった拓斗さんが、決まり事に逆らっても那桜ちゃんを選んだんだから」
「決まり事って?」
那桜に問い返されて叶多ははっとした。慌てたあまり、余計なことを口走ったようだ。
「あ……綾! いまのは言葉の綾で深い意味はないの!」
それは云い訳にもなっていなくて、那桜が疑り深い目で見つめ返す。続いて、叶多を責めるより先にため息を漏らした。
「叶多ちゃんはいろんなこと知ってるんだね?」
強引にとはいえ、那桜が云いだした一族の調査メンバーに加えられ、一方で、戒斗から教えてもらったことは口止めされていなくても口外するものではないということはわかる。叶多は板挟み状態で答えようがなく、困り果てて顔をしかめた。気分は“犬のおまわりさん”だ。
叶多がワンとも鳴けないでいるうちに、那桜はそれ以上に追求することはせず、あきらめたように笑った。
「いいんだよ。話せないっていうのはわかるから。昔から内緒にされるのは慣れてる。でも、有吏に何か起きてることくらいはわかってる。仕事、楽しかったのにやめさせられたし、だから最近は閉じこもりでちょっとうんざり」
「那桜ちゃん、仕事って?」
「派遣の仕事だよ。いろんなことやってみたくて」
那桜はおどけたように首をすくめ、叶多はびっくり眼で見つめた。
つい先日、戒斗がたんまりとお金を持っているとわかったばかりで、拓斗もそうであるはず。那桜が働く必要はないだろう。
那桜は叶多の思考を察したのか、可笑しそうに首をかしげて続けた。
「叶多ちゃんだってガラスやってるじゃない? それと同じ。仕事っていうよりは楽しんでるの。このまえはスーパーの裏方。お肉のトレイのラップ巻きとか、野菜詰めやったり。そのまえは冷凍麺の工場でしょ。冷凍って云ったら寒いって思うだろうけど、寒いのは麺を保管する倉庫だけで作ってるほうは湯がいてるわけだし、汗だらけなんだよ。それから、まえのまえはコンビニ弁当の仕事。叶多ちゃん、知ってる? あのコンビニおにぎり、どうして米粒があんなにツヤツヤしてるのか……って云っちゃだめなのかな」
自分で自分に突っこんだ那桜は本当に楽しそうに話している。
「それで気に入った仕事あった?」
「んー、どれもいい感じ。怒られちゃったら落ちこむけど、お給料に拘りはなくって、逆にお給料もらえるくらい役に立ってる証拠だと思うし、だからうれしいの。有吏の男ってプライドの塊じゃない? 守ろうってばっかりするから女の出番てなくて、だから逆にさみしかったり不安になるのかな」
那桜が云ったことは、一年くらいまえまでの叶多が感じていたことと同じだ。守ろうとばかりして、たまには思っていることをわけてほしいのに口を閉ざす。
それを考えると、いまの戒斗のプライドはかなりのところで叶多に譲歩を示している。
「そういうのわかる。でもきっと順番を変えた時点で、拓斗さんも妥協は始まってるんだと思う」
「なんの順番?」
「大事なことの順番。有吏のことと自分の気持ちの優先順位というか……んっと、順番を変えたっていうよりは、たぶん気持ちを後回しにしないで引っくるめて考えてる。決まり事を蹴るかわりに別の方法を探ってるはずで、だから那桜ちゃんが大事だって云うように拓斗さんもそうなんだよ。妥協するまでには時間がかかるのかな。戒斗はたぶんだけど、ずっとまえに順番変えてくれたのに、五年も離れちゃってたし。それも、あたしが会いにいかなかったら、永遠だったかもしれないって云うんだよ。押しかけていってよかった。葛藤みたいなのはいまでもあって、でもだんだんと差はなくなってる感じがする」
「そっか。叶多ちゃんみたいに遠慮しないでドンと飛びついたらいいんだ」
「飛びつくって表現、ちょっとヘン」
那桜は可笑しそうにして、それから微笑みに変えた。
「わたしも叶多ちゃんみたいにまっすぐでいたいけど……。わたし、拓兄のこと大事だけど、一緒にいられないことを考えるだけで苦しいけど、整理つかないで吹っきれていないことがあるの。拓兄はそれを知ってる。たぶん、だけどね。だから、わたしは飛びついていけないし、拓兄は、戒兄が叶多ちゃんにそうしたようにはわたしに打ち明けてくれないんだよ。是が非でも守ろうとはするけど、心底から気を許してるわけじゃない」
「那桜ちゃん……」
「あ、心配するほどのことじゃないんだよ。拓兄の気持ちを疑ってるわけじゃないの。ただ、怖いって思うことがあるだけ」
那桜は曖昧に首をかしげて笑った。
兄妹だからこその怖さなのか、何が怖いのか、叶多には見当もつかず、那桜の様子から誰かが口を出すことでもないと察した。
後ろを振り返ると、拓斗は戒斗と同じように砕けて見え、さすがに隼斗は威厳ばりばりだけれど雰囲気は和やかだ。感情を表さずに上辺を繕うことがうまいとは知っているけれど、その術が冷ややかな仮面から気さくな雰囲気に変わったことは事実だ。
叶多と戒斗にも人に話せないことはあって、だからこそ自分たちで解決していくしかなく、ふたりでいるときの拓斗を見ている限りでは、那桜の怖さもいつの日か消えるかもしれないと叶多は漠然と思った。
「あたしは怖いって感じるよりも、考えなしで戒斗に飛びついてる気がする」
「やっぱり、飛びついてるじゃない」
那桜は声をあげて笑いだした。
それから那桜は、つまんないことばっかり、と云いつつも有吏家のエピソードを中心にいろんなことを話してくれた。
那桜は単独行動が許されなかったようで、叶多はそのことに驚きつつも、とりわけ中学時代の逃亡騒動には笑った。
監視カメラのことは知らなかったらしく、有吏要塞からこっそり脱出したつもりが、敷地内から十歩進んだところで衛守和惟が目の前にそびえ立ったと云う。反対向いて逃げるも、すぐに捕獲されて荷物みたいに肩に担がれて連れ戻されたらしい。
「叶多ちゃんは笑うけど、すごく惨めだったの。お母さんはお冠だし」
「那桜、帰るぞ。和惟が迎えにきた」
那桜のしょげた顔に叶多がまた笑ったところへ拓斗が傍にやって来た。那桜は不満そうにほんの少し口を尖らせる。
「え、もう?」
「九時過ぎてる。和惟は明日も早朝から仕事だし、無理させられないだろ」
「あ、うん」
「叶多ちゃんはしばらくうちにいるんだし、また来たらいいのよ」
那桜が立ちあがったとき、詩乃もまた立ちあがって声をかけた。
「そう?」
「そうよ」
「わかった。ありがとう」
那桜のためらうような問い、詩乃のさり気ない答え、そして那桜の返事。親子なのにどこか遠慮がちな会話だ。いや、遠慮しているのは那桜だけなんだろう。最後の返事は肩の荷が下りたように安堵した声だった。
那桜が来てくれたことで叶多の居心地は格段によくなり、話している間にリビングの風景にも慣れた。
拓斗と那桜が帰ったあと、ちょっとした後片づけを率先してやっても詩乃が制することはなく、ありがとう、が返ってきてほっとした。
もう休んだら、とお風呂を勧められて案内された浴室は、リビングから行けば二階への階段の向こうにあり、去年、戒斗に連れられて泊まったホテルみたいに贅沢で広かった。
あんまり心地よくてついついゆったりとくつろいでいると、戒斗が、遅い、といきなり裸で入ってきて、倦怠期なんて考えられないほど意欲満々の戒斗が目につき、叶多はバスタブの中に沈みそうになった。
体裁上、一緒にお風呂というのは恥ずかしすぎる。戒斗自身もできないと云ったくせに初日からどういうつもりだろう。
襲われたいか、という脅しに追い立てられ、叶多は急いで上がった。
パジャマを着て歯を磨いている間、戒斗がつぶやくように祐真の“PLACE”を歌っていて、はじめての場所なのに有吏の家が身近に感じてきた。
「戒斗、歌ってるの、FATEの曲じゃないよ」
「たまにはいい」
叶多がからかうとすました声が答えた。なんだかんだいっても戒斗が祐真の曲が大好きだということは叶多も知っている。
「戒斗はヴォーカルやろうって思わないの?」
「冗談だろ。おれはそこまで目立つつもりはないし、高弥に敵う奴はいない」
「その高弥さんだって目立つつもりなかったって。高弥さんてすっごく無口だからヴォーカルっていうのが不思議だし、だから去年の卒業と入学のお祝いで打ち上げに呼んでくれたときにね、歌うの好きなんですかって訊いてみたの。そしたら戒斗に無理やり歌わされてるって云ってたよ」
浴室のせいで、戒斗の笑い声が余計に響く。
「そのうち自分が楽しんでるってことに気づく」
戒斗は断言して、今度は叶多が笑った。きっと根拠のない確信、つまり戒斗の嘱望に違いない。
「じゃ、あたし、先に行ってるね」
「ああ」
洗い物は奥の棚の隅っこに置いて叶多は脱衣所のドアに向かった。
なぜかこっそりドアを開けて、きょろきょろと廊下を窺ってしまい、それは自分でも泥棒みたいだと思う。
「叶多ちゃん」
「はいっ」
廊下に出たとたん、不意打ちで詩乃に呼ばれた。何も悪いことをしていないはずが、叶多の声は上ずっていていかにも怪しげだ。
当の詩乃は怪訝そうでもなく、
「お風呂上がりは喉が渇くだろうし、お茶持っていきなさい」
と手招きした。
リビングへ行くと、お茶の入ったクールサーバーとコップがトレイに載せて用意されていた。
「いただきます」
「明日は休みなんだから朝はゆっくりしてちょうだい」
「はい。じゃ、おじさん、おばさん、おやすみなさい」
詩乃からは同じ言葉が、リビングにいる隼斗からは、ああ、という相づちが返ってきた。拍子抜けするくらい一日目は無事に終わって、リビングを出ると叶多の肩から力が抜ける。
それから戒斗の部屋に行き、スーツケースから荷物を出しているうちに戒斗が戻ってきた。
「どうだ?」
戒斗は極めて大まかに訊ねた。
「いい感じ」
叶多も合わせてファジーに答えると戒斗の口が歪む。
「那桜も『いい感じ』だったみたいだ」
「え?」
「那桜は家に来たがらないらしい。来たくないっていうよりよりはいろいろ気を遣って来にくいんだろうな」
戒斗の言葉に帰るときの那桜を思い返した。那桜が遠慮がちなのは確かだった。
同時に祐真の問いかけを思いだす。
兄妹だって云われたとしたらどうする?
それにあたしはなんて答えた? 一緒にいられる理由を全部取りあげられちゃう気がする。そう答えた。
所詮は妹。
一度、考えたことがあったのに。
素直に親子でいられない。兄妹で愛し合うということは、不倫じゃなくても、家族を壊すことにもなりえると気づいた。自分がした発言は、もしかして那桜を傷つけたかもしれない。
「戒斗、あたし、那桜ちゃんに無神経なこと云ったかも」
戒斗は濡れた髪をタオルで拭きながら、ベッドに腰かけた。
「なんだ?」
「家族を壊さなきゃ、一緒にいていいんだって云ったけど、いま有吏の家は壊れてるわけじゃなくても家族がうまくいってるっては云えないんだよね?」
「気にすることはない。時間がかかる。それだけのことだ」
戒斗になだめられると少し安心した。
「戒斗は最初、那桜ちゃんたちのことをどう思ったの?」
「戸惑わなかったと云ったら嘘になる。けど、拓斗におれと同じ気持ちがあるんなら止められないし、止めなくていいんじゃないかって思った」
「戒斗と同じ気持ちって?」
「おれは、たとえ、叶多と兄妹だって云われたとしても手放す気はない」
叶多の問いに返ってきたのは、遠回しなようで、まったくストレートな答えだった。緩んでしまった笑顔に応じて、戒斗が片方だけ口の端を上げ、叶多の好きな笑い方をする。おもしろがっていて、それでいてなんだか安心させられる。
「戒斗、お茶あげるね」
「お返しはそれだけか?」
戒斗は短く声を漏らして笑った。