Sugarcoat-シュガーコート- #115
第12話 Go to Receive -3-
改札口を出ると正面の出入り口から小雨がぱらついているのが見える。小雨といってもミザロヂーに着くまでにはしっかり濡れそうだ。
「叶多、引越しの準備は終わった?」
駅を出て傘を差しながらユナが訊ねた。
「引越しって大げさ。ちょっとの間お世話になるだけだし、洋服とか身の回りのもの持っていけばいいんだから、もういつだっていい」
「追いだされねぇといいけどな。戒斗さんが帰ってくる頃には嫁姑問題で破局ってな」
永が滅相もないことを口にした。
本音を云えば、いくら親戚とはいえ、そのあたり叶多にとってはかなりプレッシャーになっている。
梅雨に入って今日は六月の末日、明日から七月になって二日の土曜日は講義が終わり次第、戒斗と一緒に有吏の家に行く。
「そんときはおれがなぐさめてやる」
陽がすまして口を挟み、そこには何か云い含むような気配もある。ぶははっ、と永が下品な笑い方をしたせいで、すれ違う人が顔をしかめて通り過ぎた。
「な、何云ってるの!」
「どういう意味なんだろうね」
ユナもまた永と同じで単純におもしろがっている。
叶多はといえば、いまのような発言にいまだに慌てる。そのあたり、いかに叶多が異性に好かれ慣れていないかという証明だ。頼はさておき、ほか三名が本気かどうかはともかく、陽のダイレクトな発言には、応えられないだけにどう反応していいのか戸惑うしかない。
「何、って戒公認だ」
「え?」
頓狂な声を出すと、陽は叶多を見下ろして不気味にニヤリとして見せた。そのさきを答える気はなさそうで、叶多は眉間にしわを寄せてため息を吐いた。
「けどさ、八掟、おまえらってなんで結婚しねぇの。大学は規制なんてねぇし、戒斗さんの仕事を考えてってこともあるだろうけど、航さんはすでに結婚してんだから、そこはそう高いハードルじゃねぇはずだ」
「あ、えっと……戒斗はリーダーってこともあるから、そう勝手なことできないよ。マネージャーの木村さんて怖そうだし、あたしはいまで充分。実那都ちゃんから聞いたんだけど、結婚するって報告したときは散々なこと云われたって。航さんが強行突破したらしいけど」
いちばんのネックは一族のことだけれど、それは説明できるわけがなく、叶多はちょっと考えて思いついた理由を口にした。半分くらいはそうに違いない。
「そうだねぇ。いまは落ち着いたけど、航さんの結婚、公表されたときはファンの反応もシビアだったし、そういう前例があると余計にそのあとのほうが難しいかな」
わかっていることでも客観的に云われると、あらためてまだ障害が盛りだくさんなことを思い知らされる。
「うん。同棲解消ってことにならないぶん、まだマシ」
「でも、なんだかんだ云っても叶多って愛されてるよねぇ」
「え?」
「だってね、長くいないからって普通、自分の親に預ける? 叶多の実家でもいいわけじゃない? まあ、親戚ってこともあるし、同棲してるから今更ってとこだけど、両親に正式に認めさせる手段かなって思って。親としては託されたら、息子がいないところで下手なこともできないじゃない。戒斗さん、なんとなく先回りしてるって感じ」
「そうかな」
叶多としては、単純に安全面の問題を考えての判断だと思っていたけれど、事情を知らないユナの指摘は意外に合っていて、公認されるための一つの手段ということもあるのかもしれない。戒斗から聞かされたことによれば、詩乃はともかくとして隼斗からは体裁をつくって受け入れられても、歓迎されているという事実はない。
ということは隼斗おじさんとうまくいけばいい? って、どうやったら“うまくいく”ことになるんだろう。
「息子がいてもいなくても嫁いびりは姑のサガじゃねぇのか」
叶多が顔をしかめて考えていると、永が怖いところを突いてきた。
いくら乗り気だとはいえ、そこで見切りをつけられればおしまいだし、詩乃おばさんともうまくいかなければ! ……でもやっぱりどうやっていいかわからないし。
陽たちの目を憚らず、叶多は大きくため息を吐いた。
「とりあえず、出発までは戒斗さんが一緒なんだし、叶多なんだから大丈夫」
「あたしだからって根拠は何?」
「んーっと、なんとなく」
叶多は明確な答えを期待したのに、ユナの返事は無責任でがっかりした。
「だから、なんかあったらおれが引き取ってやるから心配するなって云ってる」
「わお、戒斗さんの居ぬ間にってやつ?」
「着いたぞ。すでに盛りあがってんじゃねぇか」
ユナがふざけてケタケタと笑っているうちにミザロヂーに到着した。壁越しでも、楽器の音とこもったざわめきが聴き取れる。貸切のプレートがかかったドアを開けると、一気にそれらの音が耳に響いた。
今日はFATEのデビュー二周年のパーティだ。大学からの帰りに寄ったのだけれど、すでに店内は満杯だ。
記念パーティは早くから話が持ちあがっていたけれど、近しい友人やスタッフの全員参加を都合した結果、一カ月半遅れてのお祝いになった。
呼び鈴も聞こえないほどざわついているなか、叶多の視線に気づいたように戒斗の顔が上がる。隣の人をちらりと向いて何か言葉を交わしたあと、戒斗は席を立って近づいてきた。
「こんばんは!」
「こんばんは。適当にやっていいから。ただし、叶多には――」
「酒飲ませんな、だろ」
戒斗といい、そのあとを継いだ陽といい、まったく人を“のん兵衛”扱いだ。むすっとした叶多をみて戒斗が笑う。
「まずはこっちだ」
戒斗は自分がいたテーブルに案内するとユナたちを座らせ、それから叶多の手を引いてカウンターへと向かった。
気配を感じたらしい木村が振り向く。
「木村さん、叶多です」
「こんばんは。今日はまたお世話になります」
叶多は素早くながらも深々と頭を下げた。
「ごゆっくり」
顔を上げると、木村ははっきりとうなずいて答え、それからもういいとばかりに背を向けた。
木村と対面するのは、大学に入学したての頃にはじめて会って以来、今日で四回目だけれど、戒斗は二回目も三回目もいまみたいに叶多と木村を引き合わせた。今日の木村の態度は、怖いのに変わりはなくても、一回目の無視よりずっとよくて、二回目のツンケンした挨拶や三回目の曖昧なうなずき方よりも軟化している。
戒斗に背中を押されてテーブルに戻りながら、叶多は肩を撫でおろした。店内は人の耳がひしめいている以上、木村について戒斗は何も云わないけれど、見上げた顔は笑っていて叶多の緊張と安堵を見抜いていることはわかった。
それから自由気ままにパーティは進んで、一時間もするとなんとなく女性ばかりで集まった。
「実那都ちゃん、準備できた?」
「ちょっとだけね。長期旅行ってはじめてで、しかも海外だし、何用意していいかわかんないって感じ。航ってば向こうで買えばいいって云うの。でも、航は仕事なんだからそんなに付き合えないだろうし、わたし、英会話の実践はほとんどなくて独りで買い物って怖いんだよね。これで叶多がついて来てくれたら心強かったんだけど」
昂月の質問に実那都は肩をすぼめて答えた。
実那都がFATEの渡英に同行することを知ったのはほんの一週間前だ。昂月に教えられた。
祐真の死からしばらく途絶えていた土曜日の昂月との食事はまた復活している。そのときに聞かされたのだけれど、叶多がショックだったのは云うまでもない。
「え、実那都さん、逆でしょ。叶多、絶対迷子になって実那都さんを困らせそう」
「里佳、酷いよ。あたしとしては、夏休みになるし、ホントは行きたい。仕事だってわかってるけど……戒斗はあたしと音楽とどっちを優先してくれるのかな……って不安になる」
「そんなの叶多に決まってる」
「でも、気が散るってレコーディングに連れていかないってなんだかヘン。一カ月いないんだよ? 実那都ちゃんは同行するのに!」
実那都がきっぱりなぐさめても、叶多はお門違いな不満をつい漏らしてしまった。
実那都が行くと知ってから、夏休みに入ったらあたしもイギリスに旅行しちゃおうかな、と何気なく叶多から云いだしてみた。戒斗は、気が散る、とそれ以上口が挟めないような雰囲気で即刻却下した。
「戒斗さんはいろいろ考えてやってるんだから、叶多は信じて待ってればいいの」
「男の人は男の人の事情があるんだよ。特に戒斗さんは。それは叶多もわかってるんでしょう? 見てるあたしたちからは戒斗さんが叶多を大事にしているのは一目瞭然なのに、当の本人はわからないよね。あたしもそうだったから」
そう云ったのはFATEを介して知り合った、青南大に在学中で一つ年上の万里と亜夜だ。健朗の繋がりで、あたしもそう、と云った亜夜は紆余曲折のすえに幼なじみと結婚まで漕ぎつけたという。その聞かされた経験値には反論しようもない。
それ以前に、誰に云われるまでもなく、戒斗が叶多のことをいのいちばんに考えていることはわかっている。
立場的に実那都と叶多には雲泥の差があることも、ともすれば、叶多が何かに遭ったとき仕事をどうにか都合つけて叶多を優先するだろうこともわかっている。こういう飲み会のときも仕事のときも、途中抜けださせてしまったことは何回もある。受験騒動も、同棲発覚しそうになったときも、そしてついこのまえ、孔明と遭遇したときもそうだ。
「一カ月って長いのに……」
叶多はため息を吐いた。
問題はそこだ。離れていた五年を考えれば微々たるものなのに、戒斗が叶多と距離を置きたがっていることを知っているから不安になる。
反省している、と云う戒斗が叶多を裏切るとは露ほども思わない。だから単なる、叶多のわがままでしかない。FATEには戒斗の許可がないと出入りできないことへの不満もわがままだ。戒斗には戒斗の思うところがあってそうしていることは確かなのに。
「戒斗さんはいろんな立場で考えてるから。わたしは時機を待ってるんじゃないかと思う。大事にされてるんだよ。わかってるよね?」
実那都に念を押されると、酷く子供じみた思考が歴然と目の前に提示されたようで、叶多はちょっと落ちこみながらうなずいた。
実那都はそれから昂月を向いた。
「高弥くんもすごく昂月ちゃんを大事にしてる。いちばん難しい人だから一年前は想像もしてなかったんだけど」
叶多の正面に座った昂月は実那都の言葉を受けて笑っている。どこか戸惑って見えるのは気のせいなのか、まだどこか昂月の中に拘りがあるように感じた。
一年前、祐真がいなくなった日がまもなくやってきて、そしていまという時間から消えてしまった日も近づいている。祐真の不在という時間に慣れていくなかで、その実、それを受け留められている人はFATE、そしてそこに絡む人たちのなかにいるのだろうかと思う。特に昂月は――。
祐真のことを考えると、叶多は自分のわがままな欲張りが後ろめたくなって反省した。
だめだなぁ、あたし。同じ立場の昂月は一言だって文句云わないのに。
昂月によれば、ツアーで東京を離れるとき以外は、ほんのわずかな時間でも都合をつけて高弥と会っているらしい。それを考えると、昂月にしろ、一カ月も離れるというのは不安だろうに不満を漏らすことはない。
人間の出来具合が違うのだろう。叶多は自分にうんざりして、内心で馬鹿に大きいため息を吐いた。
高弥の変化の話で盛りあがっていると、その噂の本人が寄ってきて、振動している携帯電話を昂月の前に垂らした。
「昂月、電話」
自分の携帯電話を見た昂月は、叶多の気持ちが伝染したようにうんざりした顔を見せた。たぶん、心配性の母親からなんだろう。祐真が死んでから神経質になっていると聞く。
昂月は立ちあがって高弥を向いた。高弥はおもしろがって顔をほんの少し傾け、昂月を見下ろす。
「早く出たほうがいい」
「他人事でしょ」
その短い会話でも、口ぶりからふたりの親密さが見える。昂月だけ席を離れて化粧室のほうに向かった。
「高弥さんて、昂月と離れて我慢できるんですか」
慧がからかうと、高弥はかすかに首をひねって笑みを浮かべた。
「どうかな」
高弥の場合は、そのたった一言の返事が心情を物語っている。女性陣は笑いながらそろってどよめいた。
「やっぱり、実那都ちゃんと違って、カノジョってだけじゃ連れていけないのかな」
叶多はまた愚痴ってしまう。
「叶多ちゃんは行きたいわけだ」
「当然です!」
思わず叫ぶと、高弥は可笑しそうに声に出して笑った。こういう高弥の笑い方も、実那都が指摘したように一年前はそんなに見られるものではなかった。
その変化を見ていると、祐真の祈りももうすぐ、もしくはもう届いているのかもしれないと思った。
とっくに日付が変わった時間にアパートへと帰りついた。
「昂月ちゃんが、叶多が拗ねてるって云ってた」
お風呂の準備で叶多がチェストから着替えを取りだしていると、背後で服を脱いでいた戒斗はとうとつに云いだした。もちろん、それだけではなんの話なのかさっぱり見当がつかなくて、叶多は手を止めて首をかしげた。
「え?」
「連れていかないからさ。FATEの飲み会にも、イギリスにも」
叶多はばつが悪く目を逸らした。
せっかく聞き分けのいい女房――ではなくカノジョのふりしてたのに。
「ちょっとマシになってるだろ」
戒斗は責めるでもなく笑っていて、果たして会話は繋がっているのかという質問をした。
「マシって何が?」
「木村さんだ」
「あ、うん」
叶多は今日のことを思い返してうなずいた。
「おれと叶多の場合、マスコミには情報が流れないし、木村さんの耳に雑音が入ることがないからな。それプラス、叶多が木村さんの目につくこともあまりない」
それは微妙な云い回しに感じた。叶多はちょっと考えこんでふと思い当たる。
「もしかして、あたしをFATEから遠ざけてる理由ってそれ?」
「とりあえず、木村さん自身がおれたちのことを黙認しているという状況をつくっておけば、いざとなったときも認めざるを得ないだろ」
「ユナがね、戒斗が先回りしてるって。実那都ちゃんは時機を待ってるって」
理由がはっきりするとうれしくなって叶多は口早に云った。戒斗は可笑しそうに声を出して笑う。
「散々おれのこと愚痴ってるらしい。まあ、遠ざけておく理由としては、気が散る、ってのがいちばんだけどな」
「酷いっ」
いつもの云い訳にむくれて叶多は襲いかかるように戒斗に飛びついた。
「責めるんじゃなくて、逆だろ。それだけ無視できないってことだ」
「ホントに?」
「躰が証明してないか?」
戒斗が首にぶら下がっている叶多の躰をしっかりと引き寄せると、おなかの下辺りで“気が散る”戒斗を感じる。
「反応が早いのは叶多と一緒だ」
抱きしめられていてよかった。赤くなった顔を見られなくてすむ。安心したとたん、躰がそのまま上に持ちあげられた。
「戒斗、今日いいの?!」
「ああ。一緒に風呂、からだ。明日までで、あとはしばらくできないだろうし」
「明日、大学なんだけど!」
うれしくて、けれどそれを露骨に表すには抵抗がある。戒斗の首にしがみつきながら、ごまかすように叶多はいちおう忠告した。
「なら、今日は程々にしとく」
戒斗は平気で嘘を吐いた。