Sugarcoat-シュガーコート- #114

第12話 Go to Receive -2-


 五月も最終日、天気は快晴だけれど、叶多の気分は清々しいとは無理強いされても云えない。
「叶多、どうだ?」
「うん……」
 叶多の浮かない返事に戒斗は首をひねった。
「あんまりイキすぎて飽きたか。物足りないみたいだな」
「なんだかスカスカしててさみしい」
「まだ何も入れてない。全部埋めたらよくなる」
「そういう問題じゃなくって」
「何が気に入らない? 叶多が喜ぶと思ってたんだけどな。ここなら思いきりやれるだろ。防音きいてるし、おれも遠慮なくやれる」
「思いきりっていうより、もとが狭いんだからあたしには大きすぎるよ!」
「でかいからって気分よくなることはあっても、文句云われるとは思わなかった」
 叶多は思わず引いた気分で戒斗を見つめた。
「……。なんだか……話の軸がズレてない?」
 こっそりと云うと、見上げた戒斗はにやついて叶多を見下ろした。
「気のせいだろ」
 眼鏡越しの眼差しを見れば『気のせい』とは云い難く、戒斗がすましている一方、叶多は独りあたふたして顔を火照らせた。ふたりきりならまだしも、他人に見聞きされているのだ。際どい会話は立場上もまずい。
 もっとも、ふたりに付き添う五十を過ぎた営業マンに、戒斗が“戒”だとばれていれば、の話だ。

「まあ、いまはお二人きりですし、このキッチンに限らず全体的に広くはありますが、将来はご家族も増えるでしょうからちょうどいいと思いますよ。セキュリティ、防音、素朴で尚且つ都心部からそう離れていない場所。ここは提示された条件をすべてクリアしてますからね。加えて見晴らしもいいという、こちらとしては最高のお勧め物件です」
 金額に糸目をつけない上客を目の前にして、不動産会社の営業マンは手を擦り合わせそうなくらい愛想がいい。
 確かに、これまでに案内してもらったなかではゴージャス極まりない。いま住んでいるアパートは2DKで、それにリビングと一つ部屋が多いだけの3LDKといっても、間取りが増えた以上にその一つ一つのサイズがこれまでの倍以上あるんじゃないかと思う。キッチン繋がりのリビングなんて走り幅跳びが余裕でできそうだ。
「戒斗、ここでいくらくらい?」
「四億だってさ」
「よんおく」
 叶多はピンと来ないままつぶやいてみた。
「新築でこれだけのクラスが四億というのはかなりのお買い得ですよ」
 叶多はつと考えこむ。いまのアパートは家賃だけで月十万円、年間で百二十万、十年で一千二百万で、五十年住むとしても六千万円だ。
 ……その六倍以上? よんおく、って家いくつ買えるんだろう……じゃなくって、このマンションは一個しか買えないわけで……?
 順を追わないとついていけないくらいの“四億”を叶多の思考がはたと理解する。
「よよ、四億って戒斗!」
「そのくらいある」
 戒斗は相づちみたいに軽く云った。
 有吏一族はいったいどれだけあくどいことをやっているんだろう――と、叶多は一瞬だけ疑う。
「汚い金じゃない」
 戒斗は叶多の疑惑を見逃さなかったらしい。
「ホント?」
「やっぱ疑ってるな。まあ見方によっては汚くないとは云いきれない」
 からかった戒斗がどこまで本気で云っているのか皆目わからず、叶多は困って眉間にしわを寄せた。
「なんだか、あたしには不相応って感じがするの」
 どう想像してみても、ここに自分がいるというイメージがしっくりこない。
「いえいえ。昔から云うでしょう、住めば都。暮らしているうちに、人も家も互いに調和してくるものです」
 口出されたセリフはさすがに営業マンというべきか。
 戒斗は部屋を見渡したあと、叶多を向いて問いかけるように首をひねった。
「どうする?」
「すぐには決められないよ」
 叶多は曖昧な口調で答えた。戒斗が独断しないということは、決定権は叶多にあるのだろうか。それなら、心は決まっている。
「お返事は今日でなくてもかまいませんよ。人気物件ですからほかから契約が入るかもしれませんが、ここがだめでもまた次を探させてもらいます」
 つまりは返事が早くほしいということだろう。脅しを込めながら遠回しに口にして、営業マンはにっこりと叶多たちを見送った。

 四月の半ば、孔明のことでパニックになって戒斗が引越しを云いだして、それから何度となくマンション巡りをした。今日は午後からの講義が教授の都合でキャンセルになって時間が空き、戒斗も仕事が休みだったことから急きょ出かけてきた。
 はじめて見学したときはわくわくしたけれど、いざ“住む”ということを考えたとき、今日みたいにどこも納得いかないのだ。
 そして、そのたびに叶多はため息を吐く。もう一つの気にかかっていることはこの引越しのことにほかならない。

   *

 家に帰り着くと叶多は夕食の用意を始めた。戒斗はその傍らで冷蔵庫に寄りかかり、叶多が料理するのに付き合っている。
「今日のマンションはいいと思ったんだけどな」
「戒斗、四億ってバンドのお金じゃないよね?」
「ああ。いくら売れていようが、まだバンドの収入としては十分の一がいいところだ」
 叶多はお金の出所がはっきり確認できると包丁を持った手を止めて、躰ごと戒斗を向いた。
「戒斗は同棲始めるとき、有吏のお金は使いたくなさそうだったよ? バンドでもらったぶんでって感じだったのに」
 そう云うと、戒斗の表情が止まり、その瞳だけがなんらかの――激情といってもいいくらいの情を映して叶多を見つめる。
「事情が変わったんだ」
 しばらくして戒斗はつぶやくように云った。
「蘇我家のこと?」
 戒斗は曖昧に首をひねる。
「孔明さんは悪い人には見えないよ?」
「問題はそこじゃない」
「あたしは……ここを出たくないよ。戒斗と始まった場所だし、いろんなことあって、ここは捨てたくない場所なの!」
 叶多の訴える瞳をしばらく凝視するように見ていた戒斗は、ため息なのか笑みなのか息を漏らし、それから自分の手に目を落とした。手にしたグラスを少し斜め向けて入っている水を揺らした。
「そうだな」
 それが、マンション探しをやめるということなのか、単なる相づちなのかは判断がつかない。叶多が訊ねようとした矢先、ドアホンが奇妙な沈黙をさえぎった。

「おれが行く」
 グラスを流しに置いて戒斗は玄関に行った。ドアが開くなり、真理奈の賑やかな声が届く。
「あ、やっぱり今日はいたんだ。お料理する音がしたのよねぇ」
「真理奈さん、今日はハンバーグですけど、一緒しますか?」
「いいかしら」
 と、こちらの事情をうかがいつつも、すでに真理奈は上がりこんできた。
「どうぞ。久しぶりだし大歓迎です」
「あら、ありがと。私もハグしたい気分よ」
 叶多のうれしさは伝わったようで、真理奈はハグのかわりに投げキスをした。その背後で戒斗は渋々と肩をすくめている。
 ダイニングテーブルについたふたりは、叶多が料理している間、専らFATEの話をしていた。
 大学に入って以来、叶多の帰りが遅くなったせいで真理奈との時間が合わず、一緒に夕食を取ることは少なくなったけれど、こんなふうにいまある普通の光景は捨てたくない。叶多はそうあらためて思う。
 どうやったら説得できるんだろう。あたしがしっかりしていれば、戒斗は云いださなかったのかな。
「いいわねぇ。目の前でジュウジュウお肉を焼く音って」
 フライパンにハンバーグを一個置いたとたん、真理奈のうっとりした声が背中に届く。
 そういえば、真理奈はお料理する音が聞こえてやってきたらしいけれど……。たまねぎのみじん切りをやっただけだったのに、それくらいの音で隣の部屋に筒抜けになるって……えっちのときのあたしの声ってどこまで届いているんだろう。……やっぱり防音設備だけはほしいかもしれない。
 叶多は突っ伏したい気分でそう思った。無意味に動揺したあまり、ペタペタと両手の間を行き来させ、空気を抜いていたハンバーグが飛びだしそうになって慌ててつかんだ。指の間からぐにゅっと肉が盛りだして、叶多はまた形を整え直す。
「ねぇ、戒斗ぉ」
 真理奈が粘り気のある声で戒斗を呼ぶ。
「なんだ?」
「叶多ちゃんのエプロン姿って、後ろから見てて襲いたくならない? 後ろから、っていうのがいいのよねぇ」
 叶多は再び取り落としそうになったハンバーグを間一髪でフライパンに投げこんだ。油が散ってエプロンがちょっと汚れてしまう。
「ま、真理奈さん!」
「何云ってんだ」
 叶多の悲鳴と戒斗のしかめた声が重なった。
「どうせなら叶多ちゃんに裸でエプロンってやってもらいたいんだけど」
「真理」
「あらぁ、その気なし? 残念」
 不快感丸出しで(とが)めた戒斗に対し、真理奈はおちゃらけて答えた。

 同棲を始めたばかりのとき、戒斗は真理奈と同じことを云った。ふざけていたけれど、戒斗が半ば本気だったことは疑いようがない。ただ、現状は戒斗に『その気なし』で、いつもなら(あお)りそうな発言でもそういう心配はいらない。
 叶多は複雑な気分で独り顔をしかめた。



 まもなく梅雨に入るいま、たか工房の中は熔解炉の熱が加わって、とても快適とはいえない空気が漂う。
 それでもここに集うのは“オンリーワン”が在るからなのか。

「孔明さん、父の日は何かあげないんですか? できるのがあったら作りますよ。写真のお礼です」
 依頼されたガラスの器を一つ仕上げ、それを除冷炉に納めたあと、叶多は一連の作業を眺めていた孔明に問いかけた。
「いや。父はこういうものの価値がわからない。亡者(もうじゃ)だからな」
「亡者?」
「権力、名声、金。そればかりだ。兄の聡明も父によく似ている」
「あたしにはそういうのよくわからないけど……お兄さんが跡継がれるんですか」
 四億という金額に驚きはしても無頓着だった叶多は首をかしげた。そこに貴仁が寄りつく。
「蘇我は孔明が継ぐべきだな。だろ、孔明?」
 貴仁がこのまえに続き()きつけたにも拘らず、孔明は肩をすくめて答えなかった。そこにあるのは、迷いなのか、密かな決意なのか。
「孔明くんもたいへんだね。親がいるからいいというわけでもないって世知辛いな」
「則くんはどうだった?」

 孔明にも貴仁にも丁寧だった叶多の口調が、則友にはとたんに気安くなる。
 自分がいない間、叶多と則友にどれだけの時間があったのか。戒斗はわずかに顔をしかめる。
 則友については、崇が一目置いている以上、人格を疑っているわけではないが、どこかつかめていない。母親は病弱だったらしく、まだ則友が中学生だったときに亡くして、父親はこのたか工房に身を置く一年前に急性の白血病で亡くなったという。ほかに身内はいない。このまま彼が独身を通せば、芳沢家の血は絶えることになる。当の本人はそういうことに(こだわ)っていないようだが。

「んー、それなりに尊敬してた。いまは崇さんが父親みたいなもので、叶っちゃんもいるし、僕は肉親がいなくても満足してるよ」
「あたし?」
「そう」
 則友は笑って一言の返事をすると、叶多は不思議そうに、あるいは戸惑って首を傾けている。

 どこまでが本気なのか。動く三つの視線はさまよってもまたそこに戻る。

「則くん、崇おじさんと一緒に住めばいいのに。ね、崇おじさん」
「崇さんが本当に迷惑じゃないって思えるようになったら、ね」
「おれはいつからでもかまわんがな」
 崇が即座にオーケーを出すと、則友は苦笑いを見せた。

「戒、あいつらなんなんだ?」
 工房の隅にある作業机に腰を引っかけ、陽は相変わらず胡散(うさん)臭そうな眼差しで叶多を取り巻く連中を眺めている。
「さあな」
「まあ、そういう戒自体、なんなんだってとこあるけどな」
 陽は鼻で笑い、すぐ傍で戸棚に背中を預けている戒斗に目を向けた。
「そういや、叶多が云ってた。渡来がヘンな妄想してるって」
「妄想なのか?」
「いい線いってるかもな」
 戒斗が半ば認めてみると、陽は、へぇ、と首をひねりながら短く笑った。
「渡来、おまえにしばらく叶多のことを頼みたい」
 とうとつな依頼に、陽はおもしろがった様から一転して顔を険しくした。
「どういうことだ?」
「へんな意味じゃない。ストレートに取ってくれ。しばらく傍にいてやれないから。無条件で任せてもいいって思うのはおまえしかいない」
「“てもいい”? おれは喜ぶべきなのか?」
「いずれ、おまえには話してもいいと思ってる」
 戒斗の含んだ発言に、陽は嘲弄した表情でありながらも声を出して笑う。
「ずうずうしいな。覚悟してろよ、戒」

   *

 ベッドに入って長い髪がもつれないようにまとめてから横になったとたん、戒斗が来て照明を消すことなく叶多の隣に滑りこんだ。
 暗くしない、ということは。
「戒斗?」
「逆らわないだろ?」
 びっくり眼の叶多を見下ろし、戒斗はニヤリとして布団を剥ぐと待ったなしでパジャマに手をかけた。ボタンの場所をたどるようにくちびるをつけながら叶多の肌を曝していく。抵抗するよりは息を呑んだ。戒斗の動きを感覚が追う。
 上半身が(はだ)けてしまうと、戒斗は左肘をついて顔を上げた。右の手のひらが、ふくらみに差しかかった左寄りの位置に下りる。ちょうど心臓の辺りだ。
「叶多、マンションはどうする?」
 恥ずかしいと思うよりさきに、戒斗はそれとは程遠いことを訊ねてきて、叶多はまたびっくりした。
 あれから二週間、叶多の説得は必要なく、戒斗は引越しのことは云わなくなって、あの『そうだな』は純粋に同意だったと勝手に結論づけていた。

「あたし、頼りない? もっとしっかりしてたら引っ越さなくてもいいの?」
「頼りないのはおれかもな」
 戒斗は自分を嘲るのではなく、ふざけた感じで首をひねった。
「あたしはここがいいよ」
「来月、仕事でイギリスに行かなくちゃならない」
 まったく話が繋がっていないことも気にならないくらい叶多は驚いた。
「イギリス? FATEの仕事?」
「ああ。レコーディングと、二周年てこともあってリフレッシュを兼ねてだそうだ」
「長い? いつから?」
「七月の半ばから一カ月だ」
 矢継ぎ早の質問に戒斗は淡々として答えるけれど、叶多にはちょっとショックだ。いままでもツアーで泊まりを含めて家を空けることはあった。けれど、それはせいぜい四、五日のことで、一カ月も離れたことはない。それに加えて、会おうと思ってもすぐには行けない場所だ。
「泣きそう」
 思わずつぶやくと、戒斗は可笑しそうに笑った。

「マンションの件はわかった。それで、だ。頼みがある」
 またマンションの話に戻って、叶多の頭はこんがらがりそうになる。
「頼みって?」
「おれがいない間、有吏の家にいてほしい」
「えっ?」
 叶多は飛び起きて戒斗を見下ろした。
「七月になったらとりあえず一緒に有吏に行く。イギリスに行くまでに慣れてくれればと思っている」
 慣れる……んだろうか。
 叶多は隼斗と詩乃を思い浮かべた。祖父母は八掟の祖父母たちと同じく、隠居生活で沖縄にいるらしいけれど、かえっていてくれたほうがいいかも、と叶多は考えてしまった。何しろ、戒斗がイギリスに立てば三人になるのだ。
「だ、大丈夫かな。あ、あたしで! ……こんなんだし」
 付け加えると、戒斗は吹くように声に出して笑った。
「何回も会ってるんだし、こんなもどんなもないだろ。実を云えば、母さんからはずっと連れてきてほしいって云われてた」
「詩乃おばさんが?」
「ああ。だからこの件は、おれが云うまでもなく、少なくとも母さんは乗り気だ。仲介主宰が云っていたとおり、おれたちのことが一族に黙認されてはいてもまだ公に認められていない以上、父さんは渋々にならざるを得ない。それで、とりあえず一時預かりで押しとおすことにした。叶多が蘇我と接触しているからには保護の必要ありっていう体裁があるからな」
「一時預かりって荷物みたい」
 戒斗は腕を上げて、不服そうな叶多の首の後ろに手を回した。引き寄せられて、不自然な姿勢でくちびるが触れる。そのまま押し倒されて戒斗が上に伸しかかった。

「どうする?」
 以前は戒斗の意向のみで大抵のことを決められていたはずが、このところ、戒斗はよく叶多の意思を確認するようになった気がする。
 単純にうれしくなって叶多は笑った。
「戒斗の頼みならきかないはずないよ?」
「なるほど、おれの云うとおりにしてくれるわけだ」
 その声音はがらりと変わり、意味深に妖しく響いた。同時に顔が下りてくる。
「戒斗! 今日は触られてないからっ」
 叶多は祝賀会の日の散々さをふと思いだして、せめて戒斗にセーヴしてほしいと暗に訴えた。にも拘らず。
 胸に触れる直前、戒斗の口が開いた刹那。
「見られてた」
 戒斗は殺生(せっしょう)に云いきった。

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