Sugarcoat-シュガーコート- #110

第11話 Encounter -9-


「叶多、今日も行く気?」
 いつもの四人で食堂を出ると、ユナは訊ねながら心配して眉をひそめた。
「うん」
「大丈夫なの? 授業だって――」
「ユナ、大丈夫。勉強は取り戻すの簡単なんだよ……って戒斗も云うはずだし」
 陽から疑いの眼差しがを向けられて、叶多は首をすくめて云い足した。
「それはいいとして、戒はいつまであの噂ほっとくんだ?」
「事実無根だし、反応しないとそのうち消えるって思ってるのかも」
「CARY探しの熱がまだ冷めてなくてもか?」
 陽は怪訝そうで、声も険しい。
「大学内の話だけでしょ?」
「だからまずいんじゃねぇか。探してるのはCARYじゃなくて、戒の“カノジョ”だ。万一、それが八掟だって知れたら袋叩きだぞ。ファンの集団心理は(こえ)ぇからな」
 永はめずらしく真面目に叶多のことを案じている。不安を(あお)られたのもつかの間、頼もしくて叶多は心強くなった。
「大丈夫! じゃあね!」
 叶多は軽く手を上げて教養学部のキャンパスに向かった。

   *

「まえは気づかなかったけどさ、あいつ、ヘンなバイタリティさがあるよな」
 叶多を見送りながら、永がつぶやいた。
「戒斗さん、目を離せないだろうねぇ。ね、渡来」
「なんだよ」
「不敵な人ほど、手を貸したくなる、って話」
「それ、誉め言葉だろうな」
「まあね……」
 ユナが云いかけていると、メールの着信音が鳴った。携帯電話を取りだして見ると、『発見!』というタイトルが目に入り、ユナが本文を開く最中、陽と永の携帯電話もそろって音を立てた。
『シーニックの新作CM発表。CARYの素顔判明。教養学部二回生、田村里佳』
 ユナは本文に目を通したとたん絶句した。
 事務的な文章は、(またた)く間にその情報が広がっていることを示している。三人は顔を見合わせた。
「教えるまでもなく、戒は知ってたらしいな」
 陽は素早く考えを回らし、口を歪めてつぶやいた。



 高台に位置した校舎へと続く階段のところで、叶多は里佳を見つけた。四月も終わりが近く、ゴールデンウィーク初日を明後日に控えたいま、こうやって里佳を追いかけるのも習慣化している。
 気づいたのは、里佳がいつも独りでいること。友だちといるところや、誰かと談笑しているところを見たことがない。
「里佳!」
 叶多が名を呼んだそのとき、メールの着信音がバッグの中からくぐもって聞こえた。けれど、いまは里佳を捕まえるほうがさきだ。
 変わらず里佳はうんざりした顔で邪険にする。それでも、今週は呼びかければ止まってくれるようになって、それはちょっとした、いや、かなりの進歩だ。
「犬だよね。尻尾が見えるんだけど」
 里佳は、階段を駆け上ってきて目の前で立ち止まった叶多を見ると、ちらりと腰辺りに目を落として皮肉った。
「よく、云われるよ。戒斗もね。戒斗はきっと、踏んでも蹴っても尻尾振ってついて来るって思ってるけど、そのとおりだって自分でも思う」
 叶多は息を切らしながら云って笑った。
 里佳が『戒をちょうだい』と云った理由は、戒斗のことを好きで云ったのか、ただ単に叶多のいちばんを奪うつもりで云ったのか、そこはわからない。ただ、戒斗の話題を避けるようなことはあえてやらないことにしている。
「戒の噂のこと、(だま)されてるかも、とか心配じゃないの? ゲーノ―界って力関係とか、いろんな意味で争奪戦すごいし」
「噂だってわかってるから」
「バカ犬って云われない?」
「え……っと、自分で思うかも」
 里佳は(うっす)らと笑った。それはいつもの嘲笑とは違い、呆れたような感じを受けた。普通のことならどっちも歓迎するものではないけれど、里佳の場合、叶多にとって雲泥の差だ。

「叶多、バカなカメラマンがいて、あたしと間違って――」
「CARYがいたっ!」
 突然、校舎のほうから叫び声が響き渡った。
「え、CARY!? どこ?」
 自分たちのほうへと駆けてくるちょっとした集団を目にすると、CARYという言葉に敏感に反応した叶多はCARYが近くにいるのかと後ろを振り向いた。
「あーあ。もうバレちゃった」
 叶多が素早く視線を巡らしているうちに、思いがけない言葉が里佳の口から飛びだした。叶多は困惑しながら、隣でため息を吐いた里佳に目を戻す。
「え」
「だから、あたしが――」
「田村さん、戒のカノジョって田村さんなのっ?」

 戒のカノジョが里佳? 違う、戒斗のカノジョはあたしで……じゃなくて、噂では戒のカノジョはCARYということになっていて、それが『戒のカノジョって田村さん?』ってことになるんだとしたら……CARYが里佳で、ということは里佳はCARYなわけで……。

「だったら?」
「信じられない!」
「どういう意味なのかな。別にいいじゃない、あたしが誰のカノジョであろうが」
 叶多が混乱している間に、里佳とその他大勢という構図になってしまい、里佳の返事にブーイングが起きた。
「田村さんが誰かのカノジョっていうのは関係ないけど――」
「でしょ。だから、あたしが戒のカノジョでもかまわないんじゃない?」
「だめよっ。その誰かっていうのが、戒だから問題なの! わたしはずっとファンだし、戒はファンのものなんだから」
「ファンのものって、子供じゃあるまいし」

 集まったファンのなかに、叶多ではだめでもCARYなら敵わないと納得した、珠美の友だちの顔も見えた。が、その表情は納得と程遠く不満丸出しだ。芸能界という遠い場所の存在であればかまわなくても、いざその本人が間近にいるとやっぱり許せないものなんだろうか。
 実際、いまの里佳の立場にいるべきなのは叶多であり、それを考えると怖れ慄いた。自分だったら太刀打ちできるんだろうかと思いつつ、いまはともかく里佳を止めるべきだと気づいた。
 里佳の発言はいちいち彼女たちの不満を煽っているに違いなく、剣呑とした雰囲気が漂いだしている。

「ちょっときれいだからって何? みんな許すわけないじゃない」
「許可なんて必要ないと思うけど。お互いに好きであれば当然じゃない」
「里佳、ちょっと――」
「わたしたちだって好きなのは変わらない」
 里佳を止めようとした叶多は、()えなくさえぎられた。『わたし』が、『みんな』とか『わたしたち』に変わって同調を生んでいる気がする。
「だから、お互いに、ってところが違うでしょ」
「やだっ」
 集団の奥からあがった子供じみた発言を、里佳は小馬鹿にして笑った。
「勝手に泣いてれば」
 おそらく独りでいることに慣れた里佳は嫌われることを恐れていない。けれど、叶多にはそれが里佳自身への投げやりな態度に見える。
 里佳は彼女たちを避けるように迂回(うかい)して階段を上っていくと、それを一人の子が追いかけたのを機に、一斉に里佳のほうへと詰めかけた。集団心理は怖い、という永の言葉を思いだすと同時に、里佳の腕を誰かが乱暴につかむ。叶多は慌てて追いかけた。
「待って。戒のカノジョは里佳じゃなくて、あた――」
「たかがCMモデルで何お高くとまって――!」
 叶多の言葉に被せて云った子の手が不意に目の前に迫った。里佳が払いのけた拍子に飛んできたのだ。顔をかばおうと上げた叶多の手にその子の手が接触した。階段であることを忘れて、ほんの少しずらした右足が段を踏み外す。
 あ、と思った瞬間に躰は斜め向いた。

「叶多!」
 叶多に向かって伸びてきた里佳の手は取れず、浮いた左足が一歩下の段に着地して態勢を整えようと踏みしめたとたん、へんにひねった。
「八掟!」
 その叫び声を耳にしながら、もうだめだ、と覚悟して目を閉じた刹那、叶多の浮いた躰はしっかりと支えられた。恐る恐る目を開けると、真上に陽の顔が見えた。
「渡来くん?」
「何やってんだよ」
 陽は大げさなくらい深くため息を吐いた。呆れた表情と裏腹に安堵したのかもしれない。その証拠に、陽はそのあとすぐ、大丈夫か、と訊いた。
「ありがと」
「叶多、間に合ってよかった!」
 ユナがほっとして叫ぶと、叶多はうなずいて答えた。自分の足で立ってみると、左足が少しずきんと疼く。
「どうかしたのか?」
「足、(くじ)いちゃったかも。ちょっとヒール高いから」
「叶多、ごめん。あたしが――」
「里佳のせいじゃない。戒斗のこと、里佳は噂の巻き添えになってるだけだし」
 叶多がさえぎると、里佳は下唇をかんでそっぽを向いた。
「てめぇら、マスコミの報道なんか信じてんじゃねぇぞ。ケガさせたらタダじゃすまねぇからな。傷害罪で退学っつう覚悟しとけ!」
 永の一喝でファン集団は一気に散らばった。“一家に一台”のように、友だちに“永”がいると本当に助かる。そう思って叶多は独り笑った。
「笑い事じゃないだろ。転げ落ちたら頭打って天国行きってこともありえた」
「うん。ホントにありがと。それよりどうしてここにいるの?」
「CARYが田村さんだってメール入ったから、ちょっと心配になって」
 ユナはちらりと里佳を向いた。叶多もその視線を追う。
「里佳、里佳がCARYってホントのこと?」
「そうだよ」
「じゃ、戒斗のことは本気で……」
 叶多が云い淀むと里佳は勝気な様で首をひねった。
「悪いけど、叶多の“おさがり”はいらない。マスコミにでたらめを流したのは、シーニックが名前を売るのに仕掛けたことで、あたしは便乗して叶多に仕返しがしたかっただけ」
「おまえ、逆恨みするのも――」
「渡来くん、違うよ」
「叶多、渡来くんの云うとおりだよ」
 里佳はそう云うなり、身を(ひるがえ)して階段を上っていった。

「里――」
「病院、行くぞ」
 呼び止めようとした叶多を陽がさえぎった。
「え、大丈夫」
「じゃない。この際、どういうことになるか思い知らせるべきだ」
 陽は怒っているのか笑っているのか区別のつかない面持ちで、叶多の腕を取って引っ張った。



 そのあと叶多は陽からバイクの後ろに乗せられて、強引に大学からそう離れていない総合病院へと連れていかれた。個人の整形外科でいいのにと思ったけれど、逆らうほどのことでもない。
 患者が多く、待ち時間が半端じゃないなか、テレビのワイドショーがシーニックの新作CMを流した。
 いままでの奇抜な化粧と違い、化粧しているのかと思うくらい、ごく自然にきれいな肌をしたCARYが映っている。それは里佳に違いなく、叶多はやっぱりうらやましい。
「人間、顔じゃない」
 嘆息した叶多の気分を察して陽がフォローしたけれど、微妙にフォローになっていない。
「なんだか失礼」
「表面だけ捉えたらな」
 叶多は首をかしげながら隣に座った陽に目をやった。と、その向こうに見えた姿に気づき、叶多は驚いて目を見開いた。視界の隅で陽も同じほうを向いて息を漏らした。
「早かったな」
 叶多の頭上から聞こえた声はおもしろがっていて、いまの漏れた息は笑い声だったらしい。

「叶多」
「戒斗、どうしたの?」
 戒斗は険しい顔で陽に目をやり、それからまた叶多に戻した。
「ケガしたって聞いた」
「戒、どういうつもりか知らねぇけど、結局こうなってる。本当に守れるのか?」
 陽の云い方は何か含んで聞こえた。戒斗は眼鏡の奥で目を細め、それから笑った。どう見ても形だけの笑みだ。
「手段は選ばない。これで答えになってるか?」
「余裕があればお手並み拝見てところで手を打ってやってもいいけど、どうなんだ? とにかく、戒、貸しをつくったからな。そのうち返してもらう」
 陽は返事を期待していないふうにすぐ席を立って叶多を見下ろした。
「戒には、重傷だって云ってやった」
 叶多が唖然としているうちに、にやりとして陽は立ち去った。

 ため息を吐いた戒斗は、それまで陽が座っていた場所に荒っぽく腰を下ろした。
「大丈夫だよ。ちょっと足をひねっただけだから」
 叶多が覗きこみ、戒斗が口を開きかけたとき、ちょうど名を呼ばれた。
「おれも行く」
 有無を云わさない口調で、なんとなく戒斗は仏頂面だ。
 戒斗に付き添われて診察を受けると、足首の捻挫(ねんざ)で軽度にも拘らず、全治三週間という診断が下った。そんなに、と思ったものの、意外に捻挫は完治まで長引くらしい。シップと包帯で足首から下を固定された。
 ヒールは履けず、叶多がちょっと困った素振りをすると、戒斗は医者や看護師たちを前にして(はばか)ることなく、おんぶか抱っこかの選択を迫った。目立つからどっちもとんでもないと断って、支えてもらうだけにしたけれど、戒斗にぶら下がり、叶多は片足で跳ねるように歩いている状態で、結局は注目を浴びてしまう。さっきテレビでシーニックのCM発表から交際の話題に流れたばかりで、せめて“戒”だとばれないように願った。

 精算を待っている間に、戒斗は底がぺったんこのサンダルを買って戻ってきた。
 左足をかばいながらゆっくりと駐車場に向かって車に乗ると、運転席に納まった戒斗はエンジンをかけても一向に車を出す気配がない。
「戒斗、仕事は? 今日はライヴの打ち合わせだったよね」
「もう最終確認だけだし、航に任せた。重傷だっていう連絡受ければやってられないだろ」
 戒斗は半ば吐き捨てるようにつぶやいた。
「ごめん。渡来くんが大げさで――」
「謝ることじゃない。渡来がいなきゃそのとおりになってた。借りができたのは確かだ」
 戒斗と陽はどこまで話したんだろうか。
「戒斗……里佳のこと……CARYが里佳だってこと知ってたの?」
「……ああ。様子見るつもりでCARYとの報道は放っておいた。云い訳すれば、守りたかったってのがある。いずれCARYが叶多と接触するとは思っていた。そのときはおれに云ってくれるもんだと油断してた。誤算は、叶多の思考回路がどういうふうに働くかを見過ごしたことだな」
「なんとなく酷い」
 戒斗の口調は自嘲するようで、その心境を和らげようと叶多はわざとむくれてみたけれど、努力は報われないまま逆に戒斗の表情は強張って見えた。

「おれがどんな気分でいるか、わかるか」
 戒斗はハンドルから左手を離して叶多の右の頬に触れた。すると、叶多はびっくり眼になって戒斗を見つめる。頬に触れた手は小刻みに揺れていた。思わず目をやった戒斗の右手は、不必要なほどしっかりとハンドルを握っていて、それはこの震えを止めるためだろうか。
「戒斗……」
「さっきまでちゃんとやれてたはずなんだけどな。たぶん、いま最大に気が緩んでる」
 戒斗はため息を吐くように薄く笑った。
「うれしい」
「弱いおれがうれしいって?」
「戒斗、あたしが戒斗を置いてどこか行っちゃうわけないよ。戒斗には置いてかれたけど」
 繰り言を云い添えると、今度戒斗から返ってきたのははっきりとした笑い声だった。
「CARYのことはどうする?」
「頑張る。勘違いかもしれないけど、里佳はあたしと同じ気持ちでいるって思うから」
「わかった」
 戒斗は顎を少し上げると暗に催促した。叶多は笑って戒斗に抱きつく。

 お返しの腕は息苦しいほどにきつく、“はじめて”の日を思い起こさせた。

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