Sugarcoat-シュガーコート- #109

第11話 Encounter -8-


 夜はまだ九時を過ぎたばかりで眠る時間には早いが、部屋の中はすでに暗くこもっている。ただ、フロアライトの暖色の灯りが親密な雰囲気でベッドを浮き彫りにしていた。
 ベッドヘッドをつけた壁に背をもたれ、脚を伸ばした躰の上で、華奢な躰が震えを伴いながらゆっくり上下する。躰が沈むたびに喘ぐような吐息が胸に熱く降りかかった。
「一寿……もういい?」
 躰を支えるため、一寿の胸に置いた小さな手が胸筋をぐっとつかんだ。アオイは顔をうつむけたまま、つらそうに許可を請う。動きに合わせて揺れる長い髪が、アオイの顔を隠してその表情は見えない。
 一寿はいつものアオイのセリフに顔をしかめた。
「好きにしろって云ってるはずだ」
 アオイは無言でうなずくと、それまで堪えていた声を小さく漏らし始めた。
「ぁ、ふっ……一寿……手……」
 一寿は両脇に垂らしていた手を上げて、アオイの手をそれぞれにつかんだ。アオイは指を絡めて一寿の手を握りしめる。その手を支えにして動くうち、程なくアオイの指先が一寿の手の甲に喰いこんだ。うつむいていた顔が仰向いて小さな悲鳴が響くと、繋がった場所からアオイの体全体に痙攣が波及する。
 アオイの体内が収縮して一寿を纏いつくようにして絡めとる。一寿は歯をかみしめ、漏れそうになる呻き声を呑みこんで()ぜるのを堪えた。
 アオイがぐったりと一寿に躰を預けてくる。震える息と連動して、胸の上でアオイの躰が小さくうごめくいた。それは体内も同じで、油断すれば弾けそうな感覚は続いている。

 快楽から気を逸らそうと(あらが)っているうちに携帯電話の着信音が鳴った。
 アオイの躰が震えながらも強張ったのがわかる。
 無神経だとわかっていながら、一寿はベッドサイドのテーブルに手を伸ばした。
 携帯電話の画面は、三十分前にこっちから電話をして不在だった相手を示している。

『遅くなって悪いな』
 有吏本家の真の護り手、衛守(えもり)家の長男である和惟(かずただ)は名乗りもしなければ、出た相手が一寿だと確認もせず、いきなり詫びた。いつもの調子で、どこかおもしろがっているような、少しも悪いとは思っていない云い方だ。
 ため息紛いで笑うと劣情が少し冷めた。
「いや、そう急ぐわけでもない。いまのところは」
『で、どうだった?』
「情報どおり、蘇我の兄弟仲は悪い。叶多さんが聞かれたところでは、聡明のほうが孔明を排除したがっているらしい」
『叶多ちゃんの情報源はどこだ?』
「領我貴仁だ」
『――しか、ありえないよな。頼りないって感じ受けてたけど、戒斗の“お気に入り”は侮れない。大したもんだ』
「そのぶん、リスクを背負ってる」
『戒斗はどう云ってる?』
「特段何も。叶多さんは領我貴仁にも蘇我孔明にも嫌な感じは受けないと仰ってる」
 和惟は笑い声を漏らした。
「なんだ?」
『おまえにとっても“お気に入り”なんだなって思ってさ。会ってもいないくせに、いまの云い方は叶多ちゃんに同意見だと援護してる』
「上に立つ者は指揮に()けてるだけじゃ足りない。従者にどれだけ守りたいと思わせるか、だ」
『なるほど。戒斗は無上を手に入れたらしいな』
「おまえはどうなんだ」
 有吏家を守るという立場では、和瀬ガードシステムも衛守セキュリティガードも同じだ。和惟は本家長男の拓斗につく。
 一寿が訊ねると、和惟は答える気がなさそうに笑った。和惟は、めったにどころか、まったく本心を曝すことがない。
『おれのことはいい。本題だ。領我家周辺のことを聞く限り、そこが突破口だろう。約定まで三年を切った。それまでに始末をつけられるか、もしくは――。千重家の出番がなければそれに越したことはない』
 和惟は最悪の事態をあえて口にしなかった。そこに和惟の切願、もしくは傷が見える。
「和惟、十七年前に何があったんだ?」
 約定が一族間で決したのは十七年前、ちょうど、住処を共にしていた有吏家から衛守家が出た頃だ。
『発端はおまえに話したとおり、十七年前じゃなく二十五年前だ。おれはとにかく“あれ”を繰り返したくない。じゃあな』

 和惟は一方的に話を切りあげて電話を切った。一寿は顔を険しく変える。
 詳細は語られないまま、その事実を和惟から聞かされたのは三年前のことだ。本家を守るという同じ立場だからこそ、衛守家の無念は計り知れないと思い至るのは容易だ。
 一族狩り。
 誰が犠牲になった?

「一寿」
 電話している間、身動(みじろ)ぎ一つしなかったアオイが躰を起こした。その指先がくちびるを撫で、それからアオイはくちびるを這わせてくる。
 一寿は携帯電話を放りだすと、繋がったままアオイの躰を倒して組み伏した。律動に合わせてアオイの躰が揺れ、一寿を見上げる瞳が濡れていく。
 千重アオイ。
 拾ってその名を与えた。
 拾ったのも気まぐれであれば、躰を重ねるのも気まぐれ。強いて加えるなら、ほんのわずかな同情。
 ――のはず。
「ん、あっ……一寿……手……」
 重ねた手の指と指が絡んだ。
 犠牲にしてたまるか。
 ……誰を?
 無防備になる直前、内心で当てもなくつぶやく。
 そして冷ました目と裏腹に、一寿の指先がかぼそい手の甲に喰いついた。
 体内の脈動が指と指のように絡み合う。呑みこんだ自分の呻き声が体内で叫ぶ。
 毬亜――。



 領我本家の屋敷は、一族の牙城である蘇我本家に比べればこじんまりしているが、まさに “お屋敷” としか表現しようのないほど、広々とした土地の奥にどっしりと構えられている。
 戦前に建てられたもので、その(たたず)まいはまだ昔の名残をふんだんに(たずさ)えて辛気臭い印象は否めない。うるさいくらいの、もしくは世間の目から隠蔽(いんぺい)するような雑木林の中を奥に向かった。
 この時期、ツツジの蕾が目立ち、なかには咲いているものもあり、鮮やかなピンクや白が少しだけうっそうとした空間を優雅に見せる。夏に向かえば、ツツジとバトンタッチして、背の高い姫沙羅(ひめしゃら)が涼しげに白を纏うだろう。

 貴仁は“勝手知ったる”で、来たことさえ告げずに玄関の戸を開け、高い上がり口にスニーカーを脱いで上がった。もとの色がどうだったのか、黒ずんだ板張りの廊下を奥へと進み、左手にある茶室の(ふすま)を開けた。
 小振りな座卓の傍に座り、庭を眺めていた領我本家の伯父が振り向いた。
 この一年、その瞬間にいつも貴仁は思う。
 似ている。
 果たして、伯父と似ていると云われる貴仁もまた“似ている”のか。
 温和な顔つきの下には威厳が見え隠れする。伯父は憂いにかげった顔をわずかに(ほころ)ばせた。
「座れ」
 貴仁はうなずいて伯父の向かい側に座った。
「うまくいってるか?」
「はい。“上”が一目で“一族”だと見抜いたように、“必然”のなかで惹かれ合っているのかもしれない。どこで顔を合わせようが、公然と話そうが、不自然じゃないところまで繋がりました」
「上はどうしている?」
「変わらず、マイペースだ。このまま凡人で終われればいい、と」
「そうか。あとは……」
「孔明は大丈夫ですよ」

 言葉を濁した伯父の憂いを察して口を添えた。伯父は感慨深げに嘆息して、床の間の上に飾った写真を見上げた。
 その写真には顔中包帯で巻いた、貴仁の祖父――つまり伯父の父親が写る。包帯は、戦地で負傷してできた醜い傷を隠すためだったが、死ぬまで、いや、死んでさえも祖父がその包帯を取ることはなかった。
「あってはならん」
 伯父が写真を見つめながら、無念を(わずら)い、宣誓するようにつぶやいた。
「はい」
「我が名に誓った。潰す、と……守らねばならん」

 なんのために。そう考えても虚しさしか生まない。
 凡人であることの至福とは程遠く、それは、宿命、なのか。
 見返りを求めるのではなく、ただ、守らなければならないものがある、その気持ち一つ。
 宿命をも平凡に変えてしまう非凡さ。誰もが惹かれ(つど)うのは必然なのか。
 いまは、守りたいものがある、その絶対一つ。

「はい。再び、一族狩りが始まるまえに」
 あの笑顔が壊れるまえに――。



 叶多はおずおずと教室を覗いた。はじめて訪ねる教室は、受講する学生たちも違えば雰囲気も違っている。
 前方のドアから覗いたとたん、自分に視線が集中したように思った。自意識過剰で気のせいだとわかっている。ここに来た目的のせいでどきどきが増していることも一因だ。
 後方に向かってちょっと高くなっている教室を見渡した。
 そうそう自分の授業を潰すわけにもいかず、こうやって大学で探し回るのも五日目だ。
 一学年二五〇〇人という壁は厚い。外部からの受験者となると、ほとんどが教養学部に集約されるから、とりあえずはそこから探し始めた。といっても千人を超えて手間取っている。いまは学校側に訊ねても個人のことは簡単に教えてくれない。ずっとまえの友だちを探していると云っても通じなかった。
 戒斗に、あるいはタツオにでも頼めばすぐにわかるのだろうけれど、いまの時点で戒斗に知らせたくはないし、タツオに頼めば、回り回って戒斗にたどり着く。タツオに内緒にしてほしいとは云えない。もしそれが判明したらタツオが叱責を受ける。これ以上迷惑はかけられない。

 一週間前の孔明のことについて、叶多がすぐ打ち明けなかったことで、タツオにとっては悪いほうに働いた。和久井から苦言を呈され、叶多の様子に気づかなかったことへの後悔と、叶多に頼りにされていないという不甲斐なさを与えてしまった。
 ただ、このくらいしっかりしなくちゃ、と、そういう気持ちのほうが強かっただけなのに。
 そう正直に伝えると、タツオも少し整理はついたようで、しょげかえった様子がしゃっきりと変わった。
 ちょっとした思うことのずれ。
 悪意がなくても、それどころか善意でやっても気持ちはすれ違う。そこであきらめるかどうかは自分次第。ずっとまえはあきらめた。
 けれど。タツオのことが好きで、タツオもたぶん叶多のことが好きで、その“好き”が素直にあるなら修復も難しいことじゃない。
 陽が云ったように、叶多があのときに拘っているのと同じだとするなら、もしかしたら里佳も――。

 叶多は見回していた視線をふと止めた。里佳を見つけた。奥の窓際のところで独り、何か手もとの本を読んでいるみたいだ。後ろのドアに回って教室に入り、叶多は空いている隣の席に座った。
「里佳、見つけたよ! おはよ」
 里佳の顔が向くのを待たずに、叶多は覗きこむように首をかしげた。ちらりと叶多を向いた里佳は驚くでもなく、挨拶を返すでもなく、叶多を無視してまた本に目を落とした。

「今度、中国語の授業だよね。あたし、中国語はじめてなんだ。あたしはイタリア語だから。なんとなく中国語って、聞いてるうちにリズムに乗っちゃうと頭がカクカクしちゃうんだよね。肩()っちゃいそう。あ、それはいいんだけど、あたしがどうしてイタリア語かっていうと、ガラス細工好きで、ヴェネツィアングラスって憧れ。それでイタリア語。いつか行けたらうれしいんだけど。あたし、里佳の云うとおり、甘ちゃんだけど、ガラスだけはけっこう上手くやれてるって思うの。切子細工の伝統工芸師さん――崇おじさんっていうんだけど、そこでずっとまえから作らせてもらってる。里佳、今度来てみない? おもしろい人、たくさん出入りしてるし――」

「うるさいんだよね。何? この授業受ける必要ないでしょ。自分の授業に行ったら」
「何、っていうか、あたしにできることを探してる」
 里佳は笑止とばかりに鼻で笑った。
「まさか、あたしのため? また同情? 叶多、偉くなったよね」
「違うよ」
「じゃ、(やま)しい、かな。いい子でいるには汚点なくしたいもんね」
「違うよ。あたし、自分がいい子じゃないってことはわかってる。里佳が云うとおり、ずるい。戒斗といられるのは里佳のおかげだから。戒斗とは遠い親戚で、里佳とのことがなかったら近づけないくらい、遠い親戚ってだけで終わってた」
 里佳はぷいと前を向いた。
 そのとき教授が入ってきて、ざわついた教室が徐々に静かになっていく。
「叶多にできること、一つだけあるよ」
 里佳がつぶやいた。
「里佳?」
「戒をちょうだい」
「え?」
「あたしのことがあったから戒といるんでしょ? だったら、戒と別れて。そしたら、チャラになるんじゃない?」

 しんとしたなか、叶多の周りだけ、さらにカプセルに入ったように音がなくなった。
 肩が凝りそうな中国語も耳に届かず、いろんなことを考えた。
 別れる。
 何度となく考えたことがある。正しくは、自発的にではなく、考えさせられた。
 けれど、どんな仮定を立てても、出る答えは――違う、どんな答えも必要なかった。別れることを考えるより、ほかにできることがあるはず、と、そう思って模索してきた。
 里佳のこともそう。いますぐどうにかなるなんて思っていない。
 授業が終わる頃には混乱した気持ちも治まった。
「里佳、あたしはチャラにしたいなんて思わない」
「友情より男?」
 里佳は鼻先であしらった。
「そんなの、比べられないよ。ただ、あたしはあのときのことを捨てたくないから」
「独り()がり。お気楽にやってれば」
 里佳は席を立って教室を出ていった。

 戻ってやり直せるなら。あの頃、何度もそう思った。
 そのうち、戒斗がいることに甘えて、逃げたのかもしれない。里佳を思うことが少なくなっていった。
 思うたびに募っていく後悔。いま考えると、それは後悔ではなくて、里佳が云う、疚しさのほうが合っている。
 見たかったのは里佳の笑顔。まるであたしのわがままだ。
 けれど、こんなに人が溢れているなかで、またあたしが里佳と会えたということ。独り善がりでも。
 あのときの後悔がここに繋がっているとするなら、あたしと里佳の気持ちはすれ違っていたんじゃなくて、ずっと通じ合っていたのかもしれない。
 そう信じる。

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