Sugarcoat-シュガーコート- #108

第11話 Encounter -7-


 ある程度気持ちの処理ができて、ようやく叶多が顔を上げると、陽はテーブルの向こうで黙々とご飯を食べていた。その姿にほっとして、笑えそうな気さえした。
「渡来くん、ごめん、ヘンなことに付き合わせちゃって」
 陽はかがみがちだった躰を起こすと、叶多にお箸を突きつけた。
「おれを見縊(みくび)んなよ。おまえが謝る理由はない。何があったか知らないけど、おまえに関して、田村って奴が云ったことが本当じゃないことは知ってる。あいつを()ん殴らなかったのは、あいつを『友だち』だって紹介したおまえへの敬意だ。覚えとけ」
 云っていることと口調の落差が叶多に笑顔を返らせる。小さく声に出して笑うと、陽は鼻で笑った。
「ありがと」
「早く食べろ」
「うん」
 叶多は促されるままにデザートのフルーツヨーグルトから食べ始めた。甘酸っぱさが口の中に広がるとへこんだ気分が柔らかくなる。深く訊いてこない陽に、叶多のほうが話したくなった。

「渡来くん、里佳のこと。戒斗といまこうなってるのは里佳のおかげなんだ。六年生のとき里佳とすれ違いがあって、そのことで悩んでなかったら、親戚だから戒斗と会うことはあっても、こうなってなかったと思う」
「んじゃ、ますますおれは田村って奴を殴るべきか」
 陽は本気で思っているように顔をしかめ、叶多は可笑しくて首をかしげた。
「でも、それがなかったら、あたしは青南にはいないよ。戒斗がその流れで家庭教師してくれたから受かったようなものだし」
「おまえの頭じゃあ、な。けど、おまえはともかく、戒がその時点で気持ち持ってたとしたら、やっぱロリコンだ。二十才でこれだろ。八年前ってどうなんだ」
 叶多は少なからずむっとして、『これ』と侮辱しながら鼻先に来た陽の人差し指を押し退()けた。
「ロリコンとかそういうんじゃない。戒斗にはいろいろ迷惑かけてるけど、いまはあたしだって役に立ってるかなって思うときある。たまたま始まったときはずっとずっと、あたしが子供だったってだけ」
「あんときか?」
「え?」
 いきなりの質問は意味がわからず、叶多はきょとんと陽を見つめた。
「ユーマが死んだあとさ。戒はユーマに一目も二目も置いてた。戒は普通にしてたけど、どんだけ強くても内心では穏やかだったはずない。おまえはおまえで、なんか張り詰めてたし。そろそろ口出してやろうかってときに、おまえ、ヘンに落ち着いたんだよな」
 叶多は目を丸くして陽を見つめた。戒斗とぎくしゃくしていたことはうまく隠せていると思っていたのに、陽は見抜いていたらしい。
「渡来くんが気づいてるとは思わなかった」
「おまえとの付き合いの長さは、“親戚”を除外したら戒と大して変わらないし、おまえをわかっているかということなら、おれは戒に負けてるとは思ってない」
 陽の言葉を聞いて、里佳の云ったとおり、叶多はあらためて自分がいろんなことに守られていることを知る。
「ありがと。祐真さんはあたしに取って置きの資格をくれたんだけど、渡来くんもそう。あたしの価値を保証してもらってる感じ」
「あんとき、何があったんだ?」
 陽は身を乗りだして首をひねった。
「内緒」
 陽の質問の答えに至る出来事は普段なら慌てることなのに、叶多は笑って長閑(のどか)に答えた。
 あのときあった“何か”には、恥ずかしさも怖さも後悔もない。戒斗の中では十字架になっていても、叶多の中では誰も踏みこめない神聖な時になっている。
 陽は片方の眉をかすかに吊り上げながら肩をすくめた。

 それから里佳とのことを陽に打ち明けるうちに、あのときの気持ちが鮮明に甦って、叶多は自分がどうすべきなのか、いや、何をしたいと決心していたのかを思いだした。
「そういうのはめずらしいことじゃないだろ。ま、おまえが拘ってるように、田村って奴も拘ってるのは確かだ。戒とおまえのことを知ってることと戒の噂、ヘンに絡まないといいけどな」
「うん。でも、とりあえず頑張ってみる」
「頑張るって――」
 陽が云いかけたところで叶多の携帯電話の着信音が割りこんだ。電話は戒斗からだ。
「渡来くん、ごめん」
 叶多は断りを入れてから通話ボタンを押した。

『叶多?』
「うん。どうかした?」
『今日、帰りに崇さんとこに寄るようにしてるけどいいか?』
 昨日の今日で気にかけているんだろうか、戒斗の誘いはいきなりに聞こえた。夜は有吏の裏の仕事で、確か従弟の仁補了朔(にほ・りょうさく)と会う予定があったはずだ。
「あたしはいいけど、会社に行くんじゃなかった? 今日は五時間まで受けるし、六時過ぎちゃう。それから崇おじさんとこに行ったら――」
『五時間目キャンセルだ』
 戒斗はあっさりと云いきった。
「戒斗、酷くない?」
『長い目で見れば酷くない』
 戒斗は声に笑みを含ませて断言すると、一方的に、じゃあな、と云い残して電話は切れた。

「なんだ?」
 陽は怪訝そうに叶多の不満顔を見つめた。
「五時間目エスケープしろって云うから。急に崇おじさんところに行くって」
 叶多はため息をついてから、残っている中華スープを食べきった。先に食べ終わって椅子に()け反っていた陽が躰を起こす。
「おれも行く」
「え?」
「崇さんとこだ。なんか匂う」
 陽は何を考えているのか、どうせ止めたところで聞かないだろうし、叶多は放っておくしかない。
 またコバンザメ呼ばわりされても知らないから……あれ?
 不意に叶多は思いついた。コバンザメといえば貴仁もそうで、確か、叶多が“たか工房”に行くようなことを云っていた。
 あたし本人よりも先にあたしの予定を知っているなんて。考えられるのは戒斗が崇おじさんに連絡して、それから……。
 崇から巡っているのか、いずれにしろ、連絡網がちゃんと成り立っていることは確かなようだ。
「渡来くん、それはいいけど、あたしが里佳に会ったこと、戒斗には云わないでほしいの」
「なんでだ」
「同じことで心配かけたくないし、それより、友だちとのトラブルに口を出してもらわなきゃいけないほど、もうあたしは子供じゃない……って思いたいから」
 最後はおずおずと叶多が付け加えると、陽は了解してくれたのかどうなのか、鼻で笑った。



 その日の夕方五時、最後にやってきた陽が合流すると、たか工房内は一瞬、叶多でもわかるほど異様な雰囲気の顔合わせになった。このメンバーがそろうのは、あの貴仁がフルネームで名乗った日以来だ。
 則友は穏やかに笑っていて、貴仁はちょっとおどけて軽い調子だ。陽は皮肉っぽく口を歪めている。つまり、誰もが普通すぎてどこかちぐはぐなのだ。
 戒斗にしろ、“戒”の仮面を被って人当たりよさそうに振る舞っていて、傍からすればなんの(わだかま)りもなく見えるだろう。
 叶多が意味不明にどきどきしているなか、真に普通なのは崇だけである。いや、普通にしてはかなり現状を興じているのが明々白々だ。

「わんこ、おまえのフェロモンは特別らしい。錚々(そうそう)たる顔触れだな」
 この状況下、崇は叶多にとって唯一の逃げ場所だけれど、案の定、からかわれるのは避けられなかった。崇は顎をさすりながら、則友の作品を批評している四人を愉快そうに眺めている。
「渡来くんはともかく、則くんと貴仁さんはふざけてるんだと思う。だって、別に何もないし」
「わんこ、何もないからといって何もないわけじゃない。品行を(わきま)えているからこそ事を荒立てるようなことはしない、と解釈するならどうだ」
「わからないよ」
 叶多は困って顔をしかめた。
 ニタニタとして口を開きかけた崇は、つと、ガタガタと音を立てた戸口へと目を向けた。
「そろそろ何か動くらしい。わんこ、極上の男たちがそろったぞ」
 叶多は、満足そうに云った崇の視線を追って工房の入り口を向いた。
 そこから入ってきたのは蘇我孔明だった。
 孔明が云った『この次』がこんなに早く実現するとは思わずに、叶多はびっくり眼でこっちに近づいてくる孔明を見つめた。戒斗がいるという安心感からか、驚いてはいるけれど、怖さはない。

「蘇、我さん、こんにちは」
 叶多がちょっと詰まりながら声をかけると、孔明は挨拶がわりなのか顎をかすかに上げた。
「下の名でいい」
 さも、温情をかけているといわんばかりの物云いだ。
「え、孔明さん、ですか」
「覚えていたようだな」
 果たして叶多の記憶力を試したのか、孔明は満足至極にうなずいた。そのしぐさがオヤジっぽく見えて、叶多は昨日の貴仁の云い様を思いだした。叶多のびっくり顔が笑みに変わり、孔明はわずかに目を細めて叶多を見下ろした。
「叶多」
 戒斗がさり気なくやって来て、崇とは反対隣に立った。続いてその向こうに陽が来て、胡散(うさん)くさいといった表情を隠しもせずに孔明を上から下まで眺め回す。
 対して孔明は挑むように一度首を軽く横に振って、戒斗から陽へと順番に見返した。そして再び戒斗に戻ると、ジロジロとつぶさに観察しているような様だ。それを気にするような戒斗ではないと思うけれど、気分的に叶多はハラハラした。
「へぇ。妄想じゃなかったらしいな。(かな)、紹介しろ」
 孔明は小ばかにしたような笑みを浮かべて、いきなり例外的な称し方で遠慮なく叶多を呼び捨てた。
 叶多は眉根を寄せて弱ったとばかりに隣を見上げてみると、戒斗はかすかに口を歪めているものの基本的に無表情で、それはつまり、激情とまではいかなくてもなんらかの強い感情を抱いているということだ。

「えっと、こっちが戒斗で、FATEの――」
「知ってる」
 孔明が端的に叶多をさえぎった。
「孔明さん、だ、か、ら、紹介してるんです。頼んだのは孔明さんですよ」
 さすがに腹が立って、叶多は云い聞かせるように一言一句、きっちりと発音した。すると、孔明は後悔したような戸惑いを見せた。昨日見せた一面と同じだ。
「あ、ああ。続けろ」
 孔明はすぐに尊大に戻ったけれど、叶多はなんとなく素直な印象を受けた。
「じゃ、続きです。FATEのリーダーでベースを担当してる戒。本名は有吏戒斗。それで、その向こうはあたしの友だちの渡来陽くん。戒斗、渡来くん、こっちは蘇我孔明さん。貴仁さんの一つ上の従兄さんだって」
 戒斗はほんの少し首をひねり、陽は貴仁の従兄と聞いてますます険しく眉をひそめた。
「有吏ってめずらしい名前だが、もしかしてあの一流のコンサルティングファームと関係あるのか」
「そのとおり、父がやってる会社です。一流とは光栄ですよ。蘇我さん、一つ進言させてもらえば、蘇我グループの後継を目指すのなら、せめて初対面では口の利き方に注意を払うべき、と思いませんか」
 戒斗は至って柔らかに忠告した。孔明はどう感じたのか、口を一文字に結んだ。と思った次には口もとを緩めて、その面持ちは恥入ったように見えなくもない。
「失敬しました。蘇我孔明です。どうぞよろしく」
「有吏戒斗です。よろしく」
 戒斗と、姿勢を正した孔明は、互いに差しだした手を取って企業人ぽい握手を交わした。
 それから孔明の視線は陽に向く。
「有吏さんがそうなら、きみは渡来自動車の?」
「渡来陽です」
 陽はうなずいたあと、あらためて自らで名乗り、ふてぶてしさを崩さないまま、よろしく、と云う孔明に同じ言葉を返した。

 孔明は斜め後ろに来た貴仁を振り向いた。
「貴仁、昨日の『いまにわかる』ってこのふたりのことか?」
「いや、それはそういう意味じゃない。もっと深く考えるべきだな。例えば、いま、なんでおまえがここにいるか、ってことだ」
 孔明は貴仁の言葉を受けて顔をしかめた。
 昨日と違い、落ち着いて観察できるぶん、孔明は態度が大きいわりに横暴ではないらしいと叶多は気づく。むしろ、矯正(きょうせい)できる素朴(そぼく)さも備えている。
「なんでここにいるかって、叶に作ってほしいものがあるから来たんだ。それをどう深く考えるんだ?」
 孔明に訊き返された貴仁は呆れてため息を吐いた。その背後で、こっそりと則友が笑っている。孔明から指差された叶多もよく会話が呑みこめず、則友を見て首を傾けると、則友は口もとに人差し指を立ててウィンクした。

「もういい。叶ちゃんに作ってほしいものってなんだ?」
「母にガラスの花瓶をやりたい。もうすぐ母の日だ」
「相変わらず、マザコンだな」
 孔明はからかった貴仁を鋭く見やった。
「領我家と違って蘇我家は打算ばかりだ。無条件で母に御方(みかた)をする奴がいない。領我家という恵まれた環境にいるおまえにはわからないんだ」
「だったら、おまえが変えろ」
 貴仁はいつになく真剣な眼差しで孔明に向かっている。孔明はそれには応えず、横柄さとは違う威圧を伴って貴仁を()めつけた。
 程なく孔明は、叶多をはじめ、いくつもの目が見守るなか、雰囲気を変えるように鼻で笑った。

「叶、金はいくらでも出す。作ってくれてもいいだろう?」
「母の日まででいいんだったら大丈夫です。でも大げさな値段をつけてもらったら渡しませんから」
 お金持ちだけに金額に糸目を付けなさそうで、叶多が念のために釘を刺すと孔明は肩をそびやかした。
「母はガーベラを好んでる」
「あ、それ、あたしも好きです。だったら一輪挿(いちりんざし)のほうがいいかも。可愛い花だし」
「ああ、それでかまわない」
 孔明は大きく一度うなずいて、叶多から戒斗に向き直った。
「有吏さん、CARYとのことは本当のところどうなんです? 昨日はかなり慌ただしかった」
 孔明からは指を差され、戒斗からはおもしろがって見下ろされ、叶多は顔を赤らめた。
「“本当”は叶多と一緒に暮らしてる。それがすべてですよ」
 戒斗が云いきると、孔明はちらりと叶多に目を向けた。
「信じてもらえました?」
「まだこれからだ」
 叶多が訊ねると孔明はよくわからない返事をして、また戒斗を向いた。
「シーニックはCARYの知名度が上がったと単純に公算して放っておくようです。が、化粧品が女性ターゲットであることを考えると逆効果だ。おれはまだ大学生の身で発言権がないし、だからこそ有吏さんには徹底的に否定してもらいたい」
「少なくとも肯定する気はありませんよ。蘇我さんはどこの大学へ?」
京東(けいとう)大学の経済学部です」
「なるほど。さすがに蘇我だ。優秀らしい」
 京東大学といえば、国立では合格するのに全国一位の難関と云われている大学だ。
 戒斗が感心を表すと、孔明は満足そうに笑った。

 戒斗にどういう算段があるのか、自分も経済学部出身だと伝えると、それから孔明とふたり、経済の話で盛りあがっていった。叶多には興味のない話題で、まず、経済の話で盛りあがる、という時点がすでに理解できない。
 陽もまた経済学部なのに、割りこむことなく傍観者に徹している。その眼差しは何やら考慮しているようで、叶多は昼の会話を思いだした。
 陽が裏を模索していることを戒斗に話しておくべきだったのに。
 叶多は自分の思慮不足にため息を吐いた。

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