Sugarcoat-シュガーコート- #107
第11話 Encounter -6-
叶多の悪い癖で、衝撃的な目撃から講義はそっちのけで里佳のことばかり考えてしまう。
高校までと違って発表を促されるようなことはめったにないからいいものの、学費を出している戒斗に申し訳ない。とはいえ、戒斗自身が講義を一つエスケープさせたのだから文句は云えないだろう。いや、後見しているからこそ自分の思うままでいいということなのか。
でもそれがえっちのためだなんて。躰の中には違和感が残っている。単なる朝のえっちのせいじゃなくて、一晩中戒斗の……が埋まっていたからかも……。ああ、もういい。あたしの頭の中ってどうしてこう落ち着きがないんだろう。
戒斗と再会してからいろんなことが目まぐるしく展開して、叶多にとってはあらゆる意味で激動の日々になっている。たぶん、それについていけていないだけで、追いつけばまた“ちょっとお惚けな子”くらいですむはずだ。が、その追いつくのがたいへんなのだ。有吏のことを考えればゴールなんて永久に見えないんじゃないかと思うくらい果てしなすぎる。
ただ、そんなことは大したことじゃない。叶多がどんなに落ち着かなくても、有吏の“八掟”でいうなら“如実”、つまりありのままでいいと戒斗は云うから。
二年前には考えられなかった同棲があたりまえになっていて、八年前には考えられなかった“好き”が必要不可欠になっている。そういういま、これ以上のことは身に過ぎる。
それくらい叶多は贅沢な時間に守られているけれど――。
里佳はどうなんだろう。
叶多と戒斗という、そもそもの始まりをつくってくれたのは里佳にほかならない。
傷ついて傷つけて。その上に乗っかった贅沢。
里佳、里佳にもそんな時間があったら。そう思うのはあたしのずるい贅沢なのかな。
本当にあれが里佳だったのか、確信が持てないまま探していて結局は見つからず、昼の待ち合わせ時間にちょっと遅れてしまった。食堂の前まで来たと同時にメールが着信した。携帯電話を見ると陽からだ。
『おまえまでキャンセルしてんじゃねぇぞ』
意味不明のメッセージだ。叶多は歩きながら首をひねると階段に気づかずにつまずいた。
「あ――」
「おっと」
前のめりになったところで腕をつかまれ、叶多はどうにか醜態を曝さずにすむ。
「すみません、ありがとうござい――貴仁さん!」
お礼を云いながら振り向くと、そこには知った笑顔があった。
「二度目だね。おれは叶ちゃんを助けるためにいるらしい」
貴仁は茶目っけたっぷりで叶多をからかった。
「あたしって助けられてばっかりですよね。お返し、なんにもできてなくて」
「見返りを期待してたら、真の意味で人は助けられないよ」
「それって難しいこと云ってます?」
叶多がちょっと眉間にしわを寄せると、貴仁は可笑しそうにふっと笑みを漏らした。
「どうかな。それより、昨日はありがとう」
「え?」
「孔明に無理やり付き合わせたから」
「あ……大丈夫ですよ。ガラス気に入ってくれて、もう一個って云われたのはちょっとうれしかったし」
いきなり孔明の名が出て戸惑ったものの、叶多はうまく対処できてほっとした。うれしかったのは本当だ。
貴仁は叶多の返事にうなずいて微笑んだ。
「あいつはバックがあるだけに云うこと為すことに遠慮がない。ガキの頃はあんなんじゃなかった。大丈夫かって思うくらい素直でやさしい奴だった。けど、兄貴と折り合いが悪くて……というよりは兄貴のほうが――聡明っていうけど、一方的に孔明を邪険に扱った。孔明の母親は、聡明の母親が死んで、そのあと若いときに蘇我に嫁いだんだ。おれの叔母になる。要するに、孔明と聡明は母親違いでさ、まあ諍いもありがちなことだけど。聡明の母親は政略結婚で外部から嫁いできたから、血縁的には孔明のほうが濃い。蘇我と領我はもともとが親戚なんだ。そのことが聡明を脅かしていて、余計に蘇我のトップに固執しているのかもしれない。父親は孔明への迫害を黙認した。それで怯むくらいならもともと後継者に値しないって判断だ。孔明としては後継なんて頭になかったけど、五年前、聡明の仕打ちが叔母に及んだときから孔明は変わった。よく云えば自主独立した。悪く云えば利己的になった」
貴仁がどうしてここまで叶多に話すのか、その意はわからないけれど、戒斗が教えてくれた“よくない関係”という裏事情は大まかにわかった。孔明の高飛車な態度と、相反して見せた気遣いを思いだしながら叶多は首をかしげた。
「そうなんですか。とにかく、貴仁さんからお礼を云われるほどのことはしてませんよ。あたしのほうがよっぽど助けられてるから」
「さすが、叶ちゃんだ」
「え?」
「いや。叶ちゃん、今日も崇さんとこ行くんだって? そう聞いたからにはおれも行くよ。じゃ、あとで!」
叶多がきょとんとしているうちに、貴仁は叶多の背後をちらりと見やり、身を翻すと背中越しに手を上げながら立ち去った。
「え、貴――イタっ!」
呼び止めようとした矢先、叶多は背後からいきなり耳をつかまれた。
「遅い」
ほんの目の前に陽の顔が下りてきて叶多を睨みつける。待ちあぐねて痺れを切らしたらしい。
「ごめん。ちょっと人探しやってたの」
「人探し? 領我と駄弁ってたとしか見えないけどな」
「それはたったいまのことだよ。渡来くんのメール見てて、転びそうになって助けてもらったの」
陽はふんと鼻であしらい、かがめた躰を起こすと貴仁が行った方向に目を向けた。すでにその姿はない。
「あいつ、ここで食べるわけでもないのになんでこんなとこにいるんだ? ストーカーじゃないのか」
「誰の?」
「めでたい奴」
陽は吐き捨てるように云うと、行くぞ、と叶多の耳を無理やり引っ張った。
「痛いっ。ちゃんと行くよ!」
叶多は陽の手を耳から引き剥がした。
戒斗のことでは、戒斗を前にしない限り――即ち、あくまで戒斗への挑発ということで意地悪しなくなったのに、今度は貴仁のことが陽を触発しているようだ。まだ貴仁に対する胡散臭さは拭えていないらしい。
「今日はこっちでいいだろ。戒のカノジョ、おまえじゃなかったな」
中に入ると、陽はカフェテリア形式のほうを指差して進みながら、皮肉っぽく云った。叶多は陽の後からトレイとお皿を取って順番を待った。
「それで昨日は珠美につかまったんだけど、噂がCARYだってわかって助かったっぽい。CARYは青南大生らしいって」
叶多の口調にはどこか納得していない曖昧さがあって、陽はほくそ笑んだ。
「人探しって、CARYか?」
「ううん、違うよ。昔の友だちらしい人見かけたから」
「見つかったのか?」
「だめだった」
「ふーん、学生多いからな。ま、そっちはともかく、CARY探しはもう始まってるぞ」
「え、そうなんだ」
「戒は弁明しないのか?」
「うん。なんかあるらしくて、しばらくほっとくんだって。あれ、ユナと時田くんは?」
何気なく定位置のテーブルを見るとそこはもぬけの殻だ。
「いちゃいちゃしたいらしい」
「いちゃいちゃ? ユナたちはいつもそうだと思うけど」
「おまえ、一時間目スルーしたらしいけど、やっぱ春だよな。知的さが欠けた人間がうようよしてる」
ユナたちの話からとうとつに叶多の話になり、陽は訳のわからないことを口にした。
「何、知的さに欠けてるって?」
「いまの時季、動物は発情期って云われてるし、おまえもご多聞に漏れず、そうだろ」
取り落としそうになったトレイを陽が素早く支える。叶多を見下ろして口を歪めた陽は、笑っているというよりはせせら笑いだ。
「違うよ」
違わないけれど、叶多も少しは嘘をつけるくらいに大人になった。
陽は明らかに信じていないように鼻で笑う。叶多は取り合わないことにして、並んだ料理を少しずつお皿に盛っていった。先に席に着いていた陽のトレイはてんこ盛りだ。叶多の倍くらいの量がある。
「今度さ」
陽は食べながらのせいか、へんなところで言葉を切った。
「何?」
「おれにもやらせろ」
「え?」
「おれも発情期、あるんだよな」
……。
しばらく考えた叶多は陽の云わんとするところを察すると、椅子の背もたれに背中が当たるまで躰を引いた。同時に、またもやウィンナーを喉に詰まらせそうになってむせた。
「渡来くん! で、できるわけないよっ」
陽は薄気味悪いくらい口を歪めた。冗談だ、とおもしろがっているけれど、なんとなく裏を感じるのは気のせいだろうか。
「いろいろとわかってきたことがあるんだよな」
「なんのこと?」
「おれらが普通にしてる日常の裏で動いてる奴がいるってことだ」
「何、それ」
「時野が入ってるあの長ったらしい名前のサークル」
「“歴史上の賢人は果たして実在したのか。日本を動かしたミステリー偉人の正体を暴こう会”! だったよね」
叶多は、呆れさせるくらい慧に何度も訊ねてやっと覚えた名前を一気に口にした。
「ああ。あれはあながちバカにはできない」
「え?」
「例えば、江戸時代初期、徳川を支えた天海。百才近くで死んでるけど、その頃にしては長生きしすぎだと思わないか。出生ははっきりしないし、明智光秀だって説もある。徳川が天下取るまで勢力争いが短期間で激動しすぎだ。何かが裏で動いてたって考えるほうが自然だろ」
叶多は呆気に取られ、摘んでいたかじりかけのウィンナーをお箸からポロリと落とした。
天海が有吏だとは聞いていない。が、聖徳太子がそうだった以上、考えられなくもない。
「渡来くん……さすがに考えてること違うよね」
叶多はとりあえず陽をおだてることで、内心の慌てぶりをごまかした。陽は怪訝そうに眉をしかめて叶多を見返す。
「おまえ、知らないのか」
「何?」
「戒、だ」
「……戒斗が何?」
「だから。暗躍してる“一族”が“有吏”じゃないかってことだ。おまえ、親戚だっていうし、もしかしたら……」
陽は云い含んで言葉を濁した。
目が点になる、とはきっといまの叶多のことだ。
「ま、まま、まさか! 渡来くん……考えすぎだよ!」
叶多は自分の鼓動音が陽に伝わっているんじゃないだろうかと卒倒しそうなくらい不安になった。
「そうか?」
「そうだよっ。だって、あたしがそんな偉い人の子孫じゃ恥ずかしいでしょ!」
「……まあな」
自分を卑下するのはあまり歓迎するところではなく、そこで同調されるのもどうにも納得がいかない。が、陽がどうでもいいように肩をすくめると、ひとまず叶多はほっと胸を撫でおろした。
「わ……渡来くんてすごいね。いろんなこと考えてて」
「のほほんとしてる奴と比べんなよな」
「それ、あたしのことじゃ――」
「叶多」
ふと、聞き慣れない、それでいて“知っている”と直感で思った声が叶多を呼んだ。テーブルの横に立った人を見上げると――里佳、は、いた。
「ここ、いいかな」
里佳は首を少し傾けながら、驚いて何も声にならない叶多から陽に目を移して親しげに訊ねた。長く、ストレートな茶色の髪がふわりと揺れる。
陽は里佳から叶多、そしてまた里佳へと向いた。
「いいけど」
陽が答えると、里佳は叶多の隣に座った。
小さい頃からきれいだと思っていたけれど、まもなく二十才になる里佳はますますきれいになった。目の高さは同じだから背は叶多とあまりかわらないのかもしれない。違っているのは、きれいさを抜きにしても、誰もを振り向かせるほどの自信だろうか。最後に会ったときの、色をなくした面影はない。
「里佳」
叶多が戸惑いつつ呼びかけると、里佳は薄らと笑みを浮かべた。会えたことにうれしさと不安が入り乱れる。
「覚えててくれたんだ」
「忘れることなんてないよ。どうしてるかって……ずっと会えたらって思ってた」
会えたからといってどうしたいのかまでは考えていなかった。ただ、あの頃のように――。
違う。つと、叶多は内心でつぶやいた。いま叶多の中にあるのは、うれしさと不安ではなく、怖さに似た困惑だけだ。なぜなら。
里佳はふふっと笑みを漏らした。そこにはずっとまえの深智と同じ笑顔がある。
なぜなら、その笑顔が見せかけの作り笑いだからだ。
「そう? 叶多はいつ見ても楽しそうだから、昔のこと忘れちゃってるのかなって思ってた」
「違うよ。忘れてない。あたしは――」
「忘れてなくても、叶多にとっては大したことじゃなかったんだよね」
「そんなことない」
「叶多、笑ってるんだよね。ね、知ってる?」
「八掟、誰だ?」
里佳に振られた陽は眉をひそめて無視すると、貴仁のときと同じように不信感丸出しで叶多に向かった。
「小学までの友だちで――」
「田村里佳。幼稚園からの親友。叶多って泣いてるか笑ってるかだったんだけど、いまも変わんないのかな、渡来くん」
叶多をさえぎって出しゃばった里佳は、陽の無視に頓着せず、笑いながら訊ねた。驚いたのは、陽が名乗るまえに里佳が『渡来』と知っていたことだ。
「概ね、変わらないんじゃないか」
「だろうね。そういうのってずるいと思わない? 泣いてれば守ってもらえる。笑ってれば可愛がってもらえる。叶多って世渡り上手なんだよね」
陽は首をひねりながら睨むように目を細めた。
「おまえ、親友って名乗るにしちゃ、云ってることが違わねぇか」
「ほら、渡来くんもいまかばってるじゃない。あ、カレシだから当然?」
「渡来くんは友だちだよ」
「だよね。噂じゃ、渡来くん、叶多にぞっこんだって話だけど、叶多は“戒”と同棲中なんだし。二股かけられるほど器用じゃない。でも、それでも渡来くんを友だちで留めておくなんてやっぱり上手いよ? 渡来くん、気をつけてね。叶多って、一見いい子ちゃんだけど、見限ったら親友でもすぐ裏切るような子だから」
里佳は席を立つと、なんでもなかったように、じゃあね、と声をかけて離れていった。
残った気まずさを感じないくらい、叶多はただショックだった。
里佳は叶多についていろんなことを知っていた。呼び止めたとき、立ち止まってはくれても叶多に応えてくれなかった時点で、それは里佳の答えだったのだ。
里佳は叶多よりもずっとずっと傷ついて、傷ついたままで。
ここで泣くわけにはいかない。そう思った。
陽が一言でも何か口にしたら、泣いてしまったかもしれない。それを知っているかのように、叶多が顔を上げるまで長い時間、陽は何も云わず、何も訊かなかった。