Sugarcoat-シュガーコート- #103

第11話 Encounter -2-


 毬亜の笑顔は薄いメイクのせいか、彼女をあどけなく見せる。叶多はつられて笑い返した。
「毬亜さんは何回生ですか? ここにいるってことは文学部ですよね?」
「ううん、あたしはいまでいうニート。叶多さんより二才上だよ。仕事してるわけでもなくて、勉強もまるでダメなの。高校はついていけなくて途中でやめちゃったし。もともと中学にほとんど通ってないから、ついていけないのはあたりまえなんだけどね」
 毬亜はあっけらかんとして明るい口調なのに、やっぱりどこか暗い印象が消えない。

 それにしても、毬亜は叶多の年まで知っているらしく、どこから情報を仕入れているんだろうと思った。勘繰ってみて、暗の一族が有吏だと目をつけた、蘇我家の一派という可能性もある。
 今年の正月にあった親睦会では仲介主宰と三人、おそらくは腹を割っての懇談を経て、それから戒斗は折に触れていろんなことを話してくれるようになった。領我貴仁が蘇我、あるいはその反乱分子として有吏に照準を定めつつあると教えられたこともその一つだ。
 怖いけれど、打ち明けてくれることで、それだけ戒斗から一人前の扱いを受けているといううれしさもある。

「あたしも勉強ダメなんですよ。ここに通えてるのは奇跡かも」
「そういうのはダメって云わないんだよ。あたしの脳みそは伸びきってて、叶多さん、見たらびっくりするかも」
「毬亜さん、自分の脳みそ、見れるんですか?!」
 脳みそとくれば、叶多にとって有向線分(ベクトル)の先は“えっち”だ。気絶することもしばしで、脳みそのことは普段から気にしていることであり、思わず訊いてしまった。
 毬亜は叶多の真面目な顔を見て吹きだす。
「覗けるわけないよ。想像だけ。とにかく、勉強したいって思うこともあるんだけど、もう手遅れかな」
「あたし、勉強は好きじゃないから何云っても説得力ないですけど、遅いことはない、って戒斗なら云うと思います」
 首をすくめておどけた叶多に応じて、毬亜は可笑しそうにうなずいた。
「そうできる自由があればいいんだけど、現実的に考えて無理なんだよね。だから叶多さんとお友だちになれたら、ちょっと気分だけでも味わえるかなって思ってる」
 ニートなのに自由がないとはどういうことだろう。経済的なことだろうか。初対面ではさすがに根掘り葉掘り訊きだすことはできない。叶多は曖昧に笑ってかすかに首を傾けた。
「それくらいのことでも役に立てるんだったら、なんだかあたしもうれしいです」
「それが本心から云ってることなら、叶多さんてうらやましいくらいきれいだよね」
 どういう意味だろう。他意のない叶多の言葉がどんなふうに聞こえたのか、毬亜が浮かべた笑みは形だけのようにも見える。
「毬亜さん?」
「あ、ごめんね。嫌味とかじゃなくって、ホントにうらやましいだけ。叶多さんに一つお願いがあるの」
「……あたしでできることなら」
「大したことじゃないんだけど、あたしのことは有吏一族には云わないでほしいの」
 叶多は口止めされたことよりも、毬亜の口からすんなりと出た『一族』という言葉に驚いた。
 明らかに毬亜は“暗の一族”の存在を知っている。叶多はあからさまに驚いた表情はしていないつもりでも、毬亜は何かを感じ取ったようにくすっと可笑しそうに息を漏らした。
「大丈夫、あたしは蘇我じゃない。あたしは有吏を守るために在るの。だからこそ有吏との接触は禁じられてるし、たぶんお互いに知らないほうがいいんだろうけど……叶多さんとはやっぱり友だちになれればって思って――」

 毬亜は云っている最中(さなか)、叶多から目を逸らすようにして正門に視線を向け、そうしてすぐ、言葉を途切れさせた。毬亜は大きなため息を吐きだして顔を曇らせた。
 叶多が毬亜の視線を追うと、その先にはタツオがいた。
 こっちへ近づいてくるタツオは、はじめて会ったときのように迫力満点の形相(ぎょうそう)だ。その矛先は毬亜にあって、叶多が慄くまでもないけれど、ちょっと驚いた。

 タツオに尾行――ではなく護衛されていると知って、和久井にどうせなら堂々としてくれないかとお願いして以来、タツオは叶多が一人で行動するとき、ちゃんと横に並んでくれるようになった。そういうときは叶多がいつも一方的に喋って、タツオは戒斗と同じように聞き手に回っている。
 一見すれば一方通行だけれど、互いに気を許せるまでの空気感に見誤りはないはずだ。
 叶多が友だちといると、タツオは一定の距離を置いて護衛する。親しい友だちは叶多がそうされていることを知っているし、タツオと喋ることもある。タツオは叶多だけではなく、叶多の友だちに対してもいつも敬意を払っている。
 それなのに、いまはどういうことだろう。今日は叶多が独りで早く大学を出ると知っていて、尚且つ予定時間になっても来ないから、叶多が正門を出るより早くタツオは顔を出したのかもしれない。
 それはいいとして、叶多がいまのように初対面の人と話しているからといって、あとから人物像を確認することはあるものの、タツオが叶多の前でのっけからこんな不快感剥きだしにしているのははじめてのことだ。

「アオイさん、何をなさってるんです?!」
 開口一番、すっかり身についた敬語とは相反するような、どすの利いた声でタツオは毬亜に向かった。どうやら二人は知り合いらしい。
「叶多さんとお友だちになろうとしてるだけよ」
 毬亜は動揺することも臆することもなくタツオに答えた。
「若頭がこんなことを許すはずがありませ――」
「だから、一寿には黙っててほしいの。あたしは“もしもの計画”をめちゃくちゃにしようとしてるわけじゃない。ただ、叶多さんのことを知りたいと思っただけ。タツオ、お願いだから見逃して。こんなあたしでも一つくらい夢が見たい」
「夢と叶多さんがどう関係あるんです?」
「一寿を知りたいから」
 毬亜の答えは果たして答えになっているのか、タツオは黙りこんだ。
 二人をかわるがわる見ながらやり取りを聞いていた叶多は、少なくとも毬亜と和久井に繋がりがあることはわかって、とりあえずほっとした。和久井もタツオも知っているのなら害にはならないはずだ。

「タツオさん、あたしはいいよ。毬亜さんのことは黙ってるから」
「……毬亜?」
 叶多を見下ろしたタツオは、恐縮さと怪訝さが入り混じった表情で毬亜の名を呼び、毬亜へとまた目を戻した。眉をひそめたタツオを、毬亜はおもしろがった眼差しで見返した。
「ああ、そうなんだ。タツオも知らなかったんだね。毬亜はあたしの本当の名前なんだよ。蒼井毬亜」
「本当の名前って……?」
 叶多が目を丸くして訊ねると、毬亜はほんの少し首をひねった。
「あたしの通称はね、千重(せんじゅう)アオイ。一寿からもらった名前。叶多さんとは毬亜で付き合っていけたらって思ってる」
 そこにどういう思いがあるのか、終始ニコニコしている毬亜からは何も読み取れない。叶多が戸惑う横で、タツオは大きく息を吐いた。
「おれたちは若頭から信頼を受けてすべてを知らされているんです」
「だから、裏切るつもりなんてない。あたしにとってもタツオにとっても、一寿は“絶対”なんだから。でしょ?」
 毬亜は云い聞かせるような口調で、タツオに向かって大げさなため息を返した。
 叶多は一人、会話から取り残されている。和久井と毬亜の関係がわかるはずもなく、話が進むほどに謎はふくらんでいくばかりだ。ただ、叶多と、あるいは有吏一族と関係していることだけはわかる。
「とにかく、あたしと叶多さんが友だちだってことは三人の秘密ね。タツオ、喋ったらあたし消えちゃうかもね。そうなって困るのは一寿だよ。じゃ、叶多さん、またね!」
 毬亜は露骨にタツオを脅迫したあと、叶多に声をかけて大学の門を駆け抜けていった。タツオは憂慮した表情で毬亜の姿を追っている。

「タツオさん、大丈夫だよ。和久井さんが信頼してる人でしょ?」
「アオイさんは……頼る人が常務のほかにいないんですよ。常務は信頼しているというよりは縛っているのかもしれません」
「え?」
「あ、いえ。すみません、余計なことを云いました。叶多お嬢さん、ずるいですよ」
 タツオは勝手に慌てふためいて、挙句の果てに叶多のせいにした。叶多が笑うと、タツオはいつもの癖で頭を()く。
「いえ、叶多お嬢さんのせいじゃないです。つい、叶多お嬢さんといると気が緩んでしまって。立場上、これではまずいんですが」
「あたしはうれしい。タツオさんはいつもあたしの都合で動かなくちゃいけないし、疲れさせちゃうって思ってたけど、気が緩んでくれるんだったらいい感じ」
 タツオは叶多の言葉を受け、愛想よく顔を崩した。タツオの笑った顔は、叶多とは五才という年の差を感じさせないほど少年ぽくて好きだ。
「では行きましょうか」
 和久井家に見こまれたというタツオは、要人を相手にするだけに、だんだんと上品さを身につけていく。おかしな言葉遣いも気に入っていただけに、いまはちょっとさみしい気がした。

 タツオは崇のところまで叶多を送ると、五時半に迎えにきます、と云ってそのまま車で走り去った。
 叶多はたか工房の奥へと進みながら携帯電話を開いた。いのいちばんに『戒斗&CARY交際発覚?!』という文字が流れたのに見入った。
 やだ。
 そう思ったと同時に呼びだし音が鳴って、携帯電話を取り落としそうになった。よりによって、ではなく、すぐにでも話したかった戒斗からだ。

『叶多、変わったことはないか?』
「戒斗、戒のカノジョ、ってあたしじゃなかった!」
 いきなり責めるように云うと、戒斗は電話の向こうで笑いだす。
『情報早いな』
「今日、渡来くんから聞いたんだけど、大学で戒のカノジョが青南大生だっていう噂があるって。それでなんとなく覚悟してたのに……CARYが青南大生ってホント?」
 戒斗はすぐには答えず、へんに黙りこんだ。つまりは、その沈黙が何かあると叶多に教えた。
『それはCARYのプライヴェートだから答えられない。叶多、しばらくこの噂はほっとく』
「ほっとくって?」
『否定しないってことだ。かといって肯定するつもりもないけど、ちょっと様子を見たい』
「様子って……」
 叶多は云いかけてやめた。電話の向こうから女性の声で、戒、まだ? と呼ぶ声が聞こえた。戒斗のことを『戒』と呼ぶ女性は知らない。
「戒斗、いまのは――」
『今日はツアーの中締めで飲み会があるからちょっと遅くなる。もしかしたら取材がアパートまで来るって可能性もある。とにかく引き止められても知らないで通せよ。じゃあな』
 戒斗はいかにも急いでいるといわんばかりに叶多をさえぎって、さっさと電話を切った。
 もしかして……あたしの質問を避けた?
 意味もなく、節電モードで画面が暗くなるまで携帯電話を眺めていると、工房の戸がガラガラと音を立てて開き、ようやく叶多は顔を上げた。

「叶ちゃん、そんなとこに突っ立ってないで入りなよ。遅いから迎えに出ようかと思ってた」
「貴仁さん、来てたの?」
「叶ちゃんが行くと聞けば、行かずにはいられない、ってね」
 コバンザメ宣言は冗談なのか本気なのか、いま貴仁が云ったとおり、叶多が工房へ来るとだいたい会うことになる。
 則友ほどではなくても、貴仁もまたガラスにはまったのか、もしくは領我家として、ということなのかどうかは見当もつかない。ただ、貴仁はたか工房に居ついた。
 戒斗には普通にできると云ったものの、はじめのうちは緊張が抜けなくて、叶多はそれを気づかれないようにするのが精一杯だった。いまでは蘇我一族ということを忘れそうになるくらい、叶多と貴仁は砕けている。それがいいのかどうかはわからない。
「冗談だよね?」
 叶多は困ったように首をかしげ、貴仁はおもしろがった表情で笑った。
「冗談に聞こえた? わかってるよ。叶ちゃんが戒斗さん一筋だってのはね。邪魔するつもりはないけど、隙は狙ってる」
 貴仁は捉えどころがなく冗談めかすと、叶多の背中に手を回して軽く押し、工房へと促した。
「今日は従兄を連れてきてるんだ。ヘンな奴だけど紹介しようと思って」
「そうなんだ」
 叶多は気も(そぞ)ろに答えた。貴仁が本気かどうかを気にするより、戒斗の名が出てさっきの電話のことがまた気になりだした。

 噂をほっとくとか様子を見たいとか何だろう? 肯定しないからいいってわけじゃないんだから!
 CARYの素性を教えてくれないのもどこかおかしい。自分でもけっこう口は堅いと思うのに。戒斗に信用されてるって思ってたのはあたしの勘違いなのかな。
 ……。こんなこと思ってたら、それこそ戒斗から信用してないって思われちゃう。違うの。戒斗の気持ちは疑ってなくて。ただ嫌なだけで……。
 文句を聞いていないどころか、ここにいるわけでもない戒斗に対して、叶多はまったく無駄な申し開きをした。

「わんこ、遅かったな」
「叶っちゃん、いらっしゃい」
 工房に入るなり崇と則友から声をかけられて、うん、と叶多は心ここにあらずで答える。崇たちはそろって眉間にしわを寄せたが、叶多は気づかないで貴仁についていく。
「叶ちゃん、こっちがおれより一つ上の従兄」
 奥の作品棚付近まで来て貴仁は立ち止まり、叶多もそうした。うだうだしながら見上げると、和風系の貴仁をくどくしたような顔がある。つまり顔立ちは悪くない。
「あ、八掟叶多です。はじめまして」
 叶多は儀礼的に挨拶をしてまた自分の思考にはま(・・)る。

 なんだか平等じゃない。顔立ちがいいってだけで、あたしじゃ不満たらたらで、CARYだったら納得しちゃうってどういうこと?

「蘇我孔明(こうめい)です」
 しかめ面の叶多は自分を見下ろしている怪訝そうな声にも眼差しにも気づかず、さらにその名を気に留めることもなく、少しうつむけていた顔を上げて貴仁の従兄を見つめた。
「CARYとあたしって、やっぱりCARYのほうが魅力的ですか」
「は?」
「FATEの戒、知ってますよね? あたしよりCARYのほうが“お似合い”ですか?!」

 目の前の険しくなった表情にもおかまいなく、さらに叶多が詰め寄ると、貴仁の従兄が答えるまえに崇の無遠慮な高笑いが工房に響いた。

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