Sugarcoat-シュガーコート- #99

第10話 Cry Boy -7-


 六年前に戒斗が云った“さよなら”と、三カ月前に祐真が云った“さよなら”はどこが違ったんだろう。
 本当のさよならが、こんなに悲しくて、つらくて、そして、ただ、ただ、苦しいなんて。
 いまのこの苦しさに比べれば、六年前の“ありがとう”というつらさは幸せだった。
 刻まれていく同じ時間の中に、戒斗が息していることは確かだったから。
 手段を尽くすなら、会おうと思えば会えるさよなら。
 けれど、祐真とのさよならは、何を尽くしても会えなくさせた。

 祐真が死んだ日、戒斗やメンバーたちと一緒に神瀬家を訪ねた。
 そこで会った祐真は、煙草を差しだしたら起きてくれるんじゃないかと思うくらい、布団の中で穏やかな眠りの中にいた。
 祐真を囲んで、叶多と実那都と唯子は泣いてしまい、反して戒斗たちは取り乱すこともなく、静かに祐真のことを語り合っていた。
 泣き言を聞いたのは一度。
 なんで、おれたち、こんなとこにいんだよ。
 告別式の日、悼辞(とうじ)を述べた戒斗が席に戻ったとたんの航の言葉だった。
 信じたくない気持ち。醒めない夢の中にいるような、いや、醒めない夢の中であってほしいのかもしれない。

 祐真の死は謎に満ちていた。
 叶多たちが知らされたのは、滞在先のホテルで人と酷くぶつかった際に壁で頭を打ったことが要因の、外傷性くも膜下出血による死ということだった。
 歌えなくなっていた祐真の死は、世間に憶測を招いた。すぐに警察から死因の公表がなされて名誉を汚すような憶測は止んだものの、要因は公にされず、“外傷性”ということがまた違う憶測を呼んだ。
 その被害は昂月をはじめとして祐真の家族に及んだ。昂月への取材では大学まで押しかける始末だ。
 見兼ねていた戒斗は、メンバーの高弥からの相談でついに動いた。警察には正式に経緯の発表をさせ、マスコミには根回しをして圧力をかけた。
 十月の末になって、ようやく昂月の周りは静かになった。
 その昂月は、現実にいるのかと疑うくらいに落ち着いている。
 あの日、休むことにしていた昂月に何があったのか。祐真の死を予期していたはずはなく。
 昂月が泣いているところを見たことがない。それどころか、祐真の話題が出るたびに泣いてしまう叶多とは対照的に、まったく別の話をしているんじゃないかと思うくらい、昂月は笑っている。
 ただ、一緒に出かけてくれなくなった。どんなもっともな理由を云っても、泣き落としも通じない。それは叶多とだけではなく、慧ともそうだ。
 そこに昂月の痛みが見えた。
 そして、十一月の初め。
 昂月を動かしたのは、FATEのヴォーカリストであり、祐真の親友である高弥だった。
 戒斗がそう教えてくれた。
 高弥は物静かな人で、ヴォーカリストにしてはめずらしく無口であり、テレビ越しでは無愛想にさえ感じる。まだ数える程度しか会ったことはなくても、いいかげんに物事と関わる人でないことは見てわかる。その高弥の気持ちが昂月にあるのなら、そこから昂月は立ち直れるきっかけをつかめるのかもしれない。
 祐真とした約束。証人であること。
 歌を始め、戻るつもりだった祐真は誓ったとおり、きっと立ち直ったはず。あるいは、きっかけをつかんだ。今度は昂月のばん。きっといつか。
 叶多にできるのは、その時まで昂月を見守ること。
 叶多はあらためて約束を心に刻みつけた。

 そんな時間が過ぎるなか、ほんのちょっとまえと違うのは、祐真と会えないと思う、こと。
 そしてもう一つ、戒斗が変わったこと。
 時間という観念は曖昧で、ただ瞬間がずっと続いているにすぎない。
 時が解決する。時が(いや)す。
 何かつらいことがあるとよくそう聞くけれど、いまの戒斗はその言葉と逆行している。
 眠った祐真と対面したときも、悼辞を託されても、戒斗は動揺もなく事実を受け止めているように見えた。そう見えるだけで、その実、戒斗だってつらいはずだ。叶多よりもずっと、ずっと。
 それでもはじめのうちは普通と変わらなくしていた。
 すぐに変わったことは祐真が死んでしまった日から、叶多を抱かなくなったこと。夜の間、ベッドの中では抱きしめていてくれる。けれど、抱かない。
 戒斗の中で何が起きているのだろう。
 一カ月たつうちに、だんだんと無口無表情になって、“それで?”もなくなった。
 戒斗は同棲を始めた日に、感情処理が苦手なことを打ち明けた。いままでも表情をなくすことはあって、それは戒斗にとってなんらかの感情を処理する方法なのだと学んできた。
 けれど、いまは酷すぎる。十一月になると、家にいることさえ少なくなった。
 ひょっとしたら、叶多に家にいてほしくないんじゃないだろうか。そう疑いたくなるくらい、帰るのは叶多が眠っているとわかる、日付が変わった時間であり、早起きなくせに、目覚めるのは叶多が大学に出たあとだ。露骨にも、叶多が休みの日は起きるまえにすでに出かけている。
 それが、“時が解決する”までの過程なら。そう思って、叶多はやり過ごした。そう思う根拠はもう一つあって。
 それは眠っている間、抱きしめていてくれること。背中はいままでどおり、いつも温かい。まるで引き止めるように。

「戒斗、行ってくるね」
 今日もまた、戒斗は叶多が出ていく八時過ぎになってもベッドから起きだしてこない。
 アルバム名、“Thanksgiving”と銘打ったツアーが十月下旬から始まっている。昨日、横浜であったライヴのあと遅く帰ってきて、起きだせないのも当然といえば当然かもしれない。
「ああ」
 横向きに寝ている戒斗は背中を向けたまま、眠そうでもない、はっきりした声で答えた。
「戒斗、誕生日のお祝いは――」
「必要ない」
 戒斗は素っ気なくさえぎった。
 昨日、二十一日は戒斗の二十五才の誕生日でもあった。二日間のライヴだったから、会えずじまいで、それでも電話でおめでとうは伝えた。そのときも素っ気なかった。時間が必要だとわかっていても、傷つかないわけじゃない。
「今日も夕ご飯いらない?」
「五時くらいから出る」
 叶多の帰宅は六時を過ぎる。そうわかっている戒斗の返事は遠回しだ。
「うん、わかった」
 いつが最後だったんだろう。ご飯を一緒に食べられたのは。

 大学の講義も集中力がだんだんと削られていく。ユナたちに隠す努力も限界に来ていた。
 隠せていることが不思議なくらいだけれど、そういう意味ではちょっと大人になれたかもしれない。のん気にそう思いながらも考えたすえ、叶多は講義を途中で抜けだした。
 やっぱり、このままやり過ごすだけではだめで、いまは叶多が動かなければ戒斗は(かたく)なになってしまいそうな気がする。
 アパートに帰ったのは四時を過ぎていた。戒斗がまだ出かけていないことを祈りながら、叶多は鍵を開けて玄関に入った。
 電話らしく、戒斗の声がしている。しばらく耳を澄ましていると、音楽の話で、メンバーの誰かとの会話だとわかった。以前と変わらない声音に泣きたくなった。
 真理奈はご飯を食べにやって来ても、戒斗がいないのは仕事が忙しいせいだと思っている。たまに会うらしいけれど戒斗がおかしいとは云わない。
 戒斗が変わったのは叶多に対してだけだと突きつけられた。

 部屋に入っていくと、ダイニングの出窓に腰を引っかけていた戒斗が顔を向けた。
「良哉、悪い。またかけ直す」
 戒斗は叶多を目にしたとたん、話を打ちきって携帯電話を閉じた。
「早かったな。おれはもう出かける」
 避けているのはみえみえで、そんなことをする戒斗を信じられない気持ちで見つめた。
「戒斗!」
 叶多は脇をすり抜けようとした戒斗の正面に回った。腕をつかんで見上げた戒斗はずっと昔、怖くて近づけなかった眼差しに戻っている。
「放せよ」
「祐真さんのことで戒斗が傷ついてるのはわかってる。それがいまみたいなことになってる理由なのかどうかは、あたしにはわからない。戒斗はどうしたいの? あたし……あたしにいてほしくないんなら、あたしがいることで家にいたくないんなら……あたし、出てくよ。あたしにできることならなんでもやるよ。だから、ちゃんと云って。いまの戒斗は悲しい」
 戒斗は睨みつけるように目を細めた。
「がっかりするよな?」
 久しぶりに見た戒斗の笑みは皮肉っぽく、嘲笑うようだ。
「え?」
 意味がわからず、叶多は問いかけた。
 戒斗は手に持った携帯を床に放った。
「ついでだ」
 吐き捨てた戒斗は、叶多が着ていたブラウスのボタンを引きちぎるようにしてカーディガンごと服を()いだ。
 あまりのことに叶多は息を呑んだ。いま自分の身に起きようとしていることを理解するまえに、すぐ傍にあったダイニングテーブルに押し倒された。冷たい感触に背中が震える。
「戒斗っ」
 叶多が訴えるように名前を呼んでも返ってくるのは表情のない眼差しだけだ。それは悪魔的でもなく、ただひんやりとしている。
 ブラジャーも取られ、両手をまとめて片手で頭上に(くく)られた。スカートとタイツも下着ごと剥ぎとられる。

「戒斗、違う――」
「何が違うんだ?」
 そうさえぎった戒斗の手が胸の先をつまんだ。
 あぅ。
 声と一緒に叶多の躰が震えた。
 反対側に同じように触れると、戒斗の手はすっと下に行く。テーブルから飛びだした叶多の脚を広げ、その間を指がなぞると条件反射で腰が捩れる。その滑りやすさから、叶多は自分の躰がすでに反応していることを知らされた。
「たったこれだけで感じる叶多が、おれから離れられると思ってるのか?」
 乱暴な云い方に伴って、触れる指の動きは荒く、そしてどこか柔らかい。その感覚を避けようとしても、脚の間に入って伸しかかっている戒斗が両手を固定してかなわないのだ。
「戒斗、違うの!」
「違う? そういうことか。おれでなくてもいいわけだ。捜しだしてまで拾ってやったのに、叶多は、犬は犬でも躾けた飼い主を簡単に捨てられる恩知らずな野良犬らしい。それならとことん……」
 戒斗は何かを含んだように言葉を途切れさせた。叶多がその発言にショックを受けたのは明白で、こめかみを涙が伝った。それをものともせず、叶多の脚を広げると、戒斗は薄笑いを見せて指を体内に浅く進めた。
 あ、くっ。
 体内を侵す指とは別の指が曝した襞に絡む。
 あ、ぁあっ。
 叶多を見下ろす目は怖いほど冷静で、これまでのどんな無理やりな状況とも違った。
 何より、心が抵抗している。
 それなのに、戒斗の意中に沿うように躰は反応を示している。
 それは自分をも信じられなくさせた。
「戒斗、ぃやっ」
「嫌なら、イカなければいいだけだろ」
 薄気味悪く云って、戒斗は指の動きを変えた。叶多を叶多自身より知っている戒斗は容赦なく弱点を突いた。
 戒斗の冷めた眼差しに耐えられなくなって叶多は目を閉じた。
 ブランクは二カ月に近い。そのぶん感覚をより鋭くさせている。
 うくっ……は……ぁふっ……やっ……ん、んんっ……。
 声を抑制しようとしても、息をするたびに漏れだす。快楽への抵抗もあえなく、叶多はすぐに限界に近づいた。
「いやっ」
「逆らえよ。嫌、なんだろ」
 せせら笑うようにこれまでとまったく逆の言葉が吐かれた。ショックが重なっていく。それでも戒斗を求める気持ちは消えなくて、指先は叶多を追い詰めた。
 いやぁああ――っ。
 叶多の腰が跳ねて、戒斗の指を締めつけた。
「まだ十分もたってないんだけどな」
 淡々とした云い方に叶多は嗚咽した。

「戒斗……どうして……」
「まだ終わってない」
 会話はかみ合わず、布の擦れる音がした。
「とことん、嫌えばいいんだ」
 戒斗はつぶやいた。押さえつけていた叶多の手を離した次には、膝の裏を支えて持ちあげ、叶多の脚を広げた。柔らかい襞に硬いものが押しつけられる。
「戒――うっくっ、あ、や、あっ――ぃゃあああっ」
 何が起きているのか察するまえに経験のない痛みに襲われた。逃れようとした叶多の肩を戒斗の手が押さえつける。
 戒斗の呻き声も聞こえず、ただ躰の中がひりついた。
「ぃやっ、やめてっ」
 戒斗は叶多の悲鳴を無視してさらに奥に進んだ。
「い――っ」
 引き裂かれた感覚に声が詰まった。内臓を(えぐ)られるのはこんな感じだろうか。息もままならなくて意識が遠のきそうになる。
 戒斗は叶多の躰の奥を確かめるようにしばらく微動だにしなかった。叶多が泣きだしたとたん、躰から力が抜け、それを待っていたように戒斗が動いた。
「いやっ、あ、くっ……痛……いっ……んっ」
 いかされた体内は潤んでいても緩和するほどに役に立たず、快楽の熱とは程遠い痛みが躰の奥に熱く焼きつく。萎縮する叶多のことはおかまいなしに戒斗の律動が続いた。
 テーブルは叶多の体温で温かくなり、冷たさはなくなっても、戒斗が動くたびにテーブルに擦りつけられてその硬さに背中が痛む。つかまれた肩も痛む。
 痛みだらけの行為から逃げられず、ただ悲鳴が出ないように、叶多はくちびるをかみしめた。

 どうして……。
 年の初め。本物のえっちに漕ぎつけること。その目標は達成できた。
 でも違う。こういうことじゃない。どこで間違ったんだろう。
 戒斗が大好きで、信じてここまで来たのに。全部がわからなくなる。

 ぼんやりとそう考えながら、ただ戒斗を受け止めた。
 痛みに任せた時間は長く感じたけれど、おそらくは叶多がいかされるまでにかかった時間と同じくらいで戒斗が苦しそうに呻いた。
 心と裏腹に躰の奥が温かくなった気がする。
 うっ。
 かみしめていたくちびるを緩めたとたん、泣き声が漏れた。堪えようとしたのに、そうしたせいで逆に酷くなり、胸を上下させてしゃくりあげた。
 戒斗が体内からゆっくりと抜けだすと、その感覚に躰が強張って泣きながら悲鳴をあげた。ちょっとでも動けば痛みが増しそうで、戒斗が離れても叶多は脚を閉じられない。寒さのせいなのか恐怖のせいなのか、躰が震えだす。
 また服の擦れるような音がしたあと、叶多の額に手が触れた。
 戒斗はそのまま何も云うことなく、叶多を見下ろした。(むせ)ぶたびに苦しそうに叶多の胸が上下する。
「悪かった。泣くな」
 やがて、やり切れないように振り絞った声が届いた。
 わからない。戒斗のことも自分の気持ちも。
 戒斗の腕が肩の下に潜り、もう片方が膝の下を支えた。躰が浮くと同時に叶多は躰の奥の鈍痛に呻いた。
 ベッドに寝かせられて布団に包まると、叶多は小さく身震いした。傷ついたくちびるに手がおりてきて、叶多は避けるように戒斗に背中を向けて丸まった。
「さ、さわ……触ら……ないで」
「わかった」
 今更に柔らかくなった声もわからない。
 戒斗は手を引っこめて寝室を出ていった。

 そのとたんに、いろんな気持ちが空っぽになったみたいに叶多の泣き声は止んだ。
 叶多は何も考えずに窓の外を眺めた。夕焼けなのか、空は赤っぽく色を変えている。外から聞こえる電車や車の音は、部屋が静かなことを一層強調した。
 思考が停止している頭に携帯音が響いた。有吏の音だ。何気なく数えた短いコール音は十二回を超えて止まった。応答もなく、そしてまた鳴りだす。持ち主に通じることなく、長いコールのあとまた切れた。
 戒斗は携帯を置いて出ていったんだろうか。
 そう疑問に思うと、叶多の脳が考えることを始めた。

 さっきのことは現実? まるで別人みたいな戒斗……。
 だんだんと戒斗のことがわかってきたと思っていたのに、ゼロより低い位置に落とされた気がする。
 何が戒斗を逆上させたんだろう。あたしはなんて云った?
 横向きになっていると背中がすかすかして寒い。暑苦しい夏でも、戒斗が背後にくっついているとただ温かい。
 ぎくしゃくしたこの一カ月もずっと背中は温かくて。それを信じてきた。
 戒斗を好きな気持ちは長すぎて、何があっても叶多の中では“絶対”になっているのかもしれない。
 戒斗にいてほしい。
 酷いことをされたのに、こんなふうに思うなんて、あたしはやっぱり愚かで泣くに泣けない。
 だって……戒斗を引き止めるときに云ったことはあたしの嘘。どんなに素っ気なくても、出ていく気なんてなかった。
 ただ知ってほしかった。あたしがなんでもないわけじゃないこと。ただ同じ場所にいられればいいわけじゃないこと。あたしの前では飾らないでほしい。“それで?”。そう訊いたときに話してほしい。あたしが六年前にそうしてもらったように。力にはならなくても、それが“一緒にいること”だと思うから。
 これからどうなるんだろう。あたしはどうしたらいい?
 叶多は心許なくなった。
 また逆上されるかと思うと怖い。いつも驚くくらい忍耐強くて……。……違う。
 ふと叶多は気づいた。
 怖いとかじゃなくて……。
 泣くな。
 いつも泣いていいと云うくせに。
 北海道のときがそうだったように、たぶん戒斗の『泣くな』は本当に後悔しているときだ。
 でも……さっきのはどこか違う。後悔とは別の苦しさが見えた。
 どんなに素っ気なくても温かい背中は戒斗の気持ちを保証している。
 ただ感情を処理しきれなくて……ずっと足掻いていた戒斗。逆上したのは……それがどんなに酷い仕打ちであっても、戒斗は……感情を曝したんだ。苦しいということをあたしに教えてくれたんだ。

 叶多はベッドから起きあがった。体内からとくんと粘液が漏れだす。脚を伝うのもかまわず、裸のままで寝室の戸に手をかけた。
 戒斗が叶多の信じているとおりの戒斗だとしたら、いまの叶多を置いて出ていったりなんかしていない。
 戸を開けたとたん、戒斗が目に入った。帰ったときと同じように出窓の枠に腰掛けていた。何をするでもなく、背をもたれて外に目を向けている。うつむきかげんで、脚の間に力なく両手を垂らした姿は戒斗の心を映して見えた。音に気づいた戒斗が顔を上げる。
 一歩踏みだすたびに躰の奥に違和を感じた。叶多が近づいていくと、戒斗の視線が足もとまで下りた。赤混じりの白く濁った粘液が脚の内側を流れている。
 それを見た戒斗の顔になんらかの感情がよぎった。すぐに消えて視線は上がり、目の前で立ち止まった叶多の瞳をまっすぐに見つめた。

「最低だな。弱さはとっくに認めたつもりだった。誰よりも叶多の前で強くいたいと思ってた。祐真がいなくなって…………失うということがどういうことかわかった気がする。失うくらいなら……」
 そこで戒斗は言葉を切った。
 とことん、嫌えばいいんだ。
 残酷な言動のなかで、つぶやかれた切実な声が甦る。全部が裏返しだったのかもしれない。
 ふたりはあの橋で、戒斗が抱きしめたことから始まって。そこから思い返してみるといろんなことの辻褄が見えてきた。
 いつもあたしには、触れることでしか伝えられない戒斗は……。戒斗、あたしに負けないくらい不器用すぎるよ。
「戒斗、感情は処理するものじゃない。きっと戒斗がそうしたように認めて、それから受け入れるものだよ。全部は無理。だから少しずつ。祐真さんもきっとそうできたから、戻ってこれるようになったんだと思う。戒斗、泣いていいんだよ?」
「叶多……」
 戒斗は顔をそむけた。
「そんなことで弱いなんて思わない。祐真さんのこと、大好きだって知ってるから。泣いていいって、戒斗はあたしにそう云うよね? だからあたしの前でも我慢しないで。戒斗にとっては、失うことの心配より、あたしを追い払える方法を見つけられるかってことのほうが深刻だと思うの。あたし、出ていけって云われても出ていくつもりなんてなかったから。それくらい、戒斗が大好き」
「……いまでも?」
 戒斗の質問は“らしさ”を失くしてためらいがちに聞こえた。
「うん!」
 叶多がはりきってうなずくと、戒斗は可笑しそうに声を出して笑った。

 それは一瞬のことで、戒斗は少し顔をうつむけ、右手を上げると、長めの前髪をかき上げるようにくしゃりと握る。その顔が笑みとは違う形に歪んだような気がした。その一瞬後、戒斗は叶多の胸に頭をつけて項垂(うなだ)れた。戒斗の手が痛いほどに叶多の両腕をつかむ。
 裸であることを気にするまえに、堪えきれなかった呻き声がかすかに聞こえ、それから――叶多の足の甲に水滴が落ちて弾けた。
 だんだんと暗闇になっていく静寂の中で、長い時間、戒斗は顔を上げなかった。
 その時間が、叶多の在り処を確かなものにした。この二カ月、“変わらない戒斗”ではなく、“変わった戒斗”を曝した場所が“叶多”であったこと。肌寒さが痛みを残した躰を冷たくしても、そのことが心を温める。
 在り処がないと真に強くはなれない。
 祐真はそう云った。男に限らず女だってそう。
 いま、叶多はちょっとだけ強くなれた気がした。
 ありがとう。
 こんな戒斗を見せてくれた祐真にかけた言葉はそれしか見つからなかった。

 すっかり暗くなった頃、戒斗はようやく頭を起こした。顔は薄らとしか見えず、その表情はわからない。
「風邪をひく」
 戒斗はつぶやくいて、叶多をすくうように抱きあげるとベッドまで運んだ。外の灯りが差しこむなか、戒斗が服を脱ぎ捨てる。
「戒斗……?」
「眠るだけだ」
 いつもは叶多だけが裸でいるけれど、今日は背中に戒斗の素肌が触れた。いつもより、ずっとずっと温かい。
 眠るには早い時間だったのに、互いの呼吸が子守歌になっていつの間にか意識はなくなっていた。


 それまで眠りが浅かった日が続いていた叶多はぐっすり寝てしまったようで、目が覚めたときはすでに明るくなっていた。
 背中が寒い。戒斗がいないことに気づいた。
 今日は祝日だ。仕事の予定は聞いていない。もしかして昨日のことは夢で、また戒斗は叶多が起きるまえにわざと出ていったんじゃないかと不安になった。
 急いでベッドから下りて、寝室を出ると同時に玄関が開いた。
 戒斗がちょっと驚いたように首をひねり、それから叶多を眺め回した。裸であることも寒さも忘れて叶多の瞳から涙が零れた。
「どうした?」
 戒斗が手に持っていた袋を床に置いて近づいてきた。
「また黙って出てってたから……」
「悪かった。コンビニ行ってただけだ。昨日の夜は食べないままだったし。今日は久しぶりにベッドでゴロゴロするのもいいかと思った」
 戒斗は安心させるように叶多を強く掻き抱いた。
 叶多の躰から緊張が解けると少し離れ、戒斗は叶多の頬を包んだ。躰をかがめて叶多をまっすぐに見つめる戒斗の顔が、これまでにない表情に変化していく。
 目の前に少年ぽく照れたような笑みが広がった。
「ありがとう、叶多」
 六年前と同じ言葉はいま、全然違って聞こえた。
『ありがとう』はやっぱり“ありがとう”で“さよなら”なんかじゃない。
 叶多は戒斗に飛びついて泣きだした。

* The story will be continued in ‘Egotist’. *

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* Cry boy(泣く少年)… 正確には『Crying boy』(第3話の『Crybaby』に引っ掛け)