Sugarcoat-シュガーコート- #97

第10話 Cry Boy -5-


「有吏戒斗です」
 そう答えた声は至って普段どおりだ。戒斗は腕を緩めて叶多を離した。
「どこかで……あ、そうだ、FATEってバンドの戒に似てる……っていうか名前、戒斗さんて、もしかして本物ですか?!」
 貴仁は云いながら自分で結論を出すと、目を見開いた。
「合ってますよ」
「うわぁ、おれ、ファンなんですよね。握手させてもらっていいですか」
 戒斗はかすかに顎を動かして手を差しだした。その手に合わせた手は、感触を確かめるように、もしくは印象づけるかのように力強く握り返してきた。
「それにしても驚くなぁ。叶ちゃんのカレシがどんな人かと思ってたんだけど、想像してたのと全然違ったな。戒さんとなればさらにって感じだ」
 貴仁がしみじみと云うと、叶多は首をかしげた。
「どういう人を想像してたんですか?」
「んー、もっとやさしい人かと」
「戒斗はやさしいですよ。ね?」
 叶多が同意を求めると、戒斗は問い返すように眉をちょっと上げて口を歪めた。
「あ、失礼。戒さんがやさしくないって云ってるわけじゃなくて、全体の雰囲気がってこと」
 貴仁が弁解するも、戒斗は気にしていないふうに肩をすくめた。それから戒斗は視線を移した。

「渡来、おまえとここで会うとは思ってなかった。何してんだ?」
「八掟から呼びだされたんだよ。会いたいから来てくれってな」
 陽は鼻で笑って、戒斗を挑発するべく、でたらめを口にした。
「渡来くん、違うでしょ!」
「んじゃ、なんでおれはこんなくそ暑い場所でおまえに付き合ってんだ?」
「そ、それは……」
 叶多は返事に詰まった。貴仁を前にして云えるわけないことを承知していながら、わざと訊いた陽を恨めしく見た。別の云い訳を探せない、まったく機転のきかない自分にもうんざりした。
 叶多がおずおずと戒斗を見上げると不審に思っている様子はない。それどころか、戒斗は陽に向かってニヤリとした。
「渡来が叶多の“コバンザメ”であることには違いないな」
「吸血鬼の戒に云われたくない。お互いさまだ」
 陽が(したた)かに云い返すと、戒斗は目を細め、崇は堪えきれずにぶぶっと吹きだした。
「戒、ついでに報告しておくと、こいつもコバンザメらしい」
 陽が貴仁を指差した。
 あれは乗りで云ったにすぎないのに、と叶多が思っていると、いきなり振られた貴仁は否定するでもなく、おどけて宣誓するように手を軽く上げた。
「ということです。よろしく」
 戒斗は云い添えた貴仁に目をやり、首をかすかにひねった。
「それなら、僕もコバンザメに名乗りを上げようかな」
「則くん?!」
 なんとなく恐々として成り行きを見守っていた叶多は、最後の最後に加わった則友の候補宣言に呆気にとられた。
 ついに崇は爆発したように笑いだした。
 その横で、戒斗は怪訝そうにしていた顔から一気に表情を消した。
 そのかわりに陽が最大級に顔をしかめた。則友と貴仁はのん気に、気が合うなぁ、などと年の差関係なく笑みを交わしている。
 いまの戒斗を見ると、叶多は嫌な予感を覚えた。

「いつまでもわんことは呼べんようだな。メス犬に成長したらしい。戒斗、まあ来たからにはゆっくりしていけ。たまには賑やかなのもいい」
 崇は笑い興じながら、やっぱり叶多を犬呼ばわりして、それから戒斗が断れない云い方をした。
 戒斗は渋々と――というのはあくまで叶多の推察で、その実は無表情でよくわからないけれど、肩をそびやかした。崇の意に沿ったことは確かだ。
 崇は無言のうちに、この場に居合わせた誰にも同じことを通達したわけで、陽たちも必然的に長居を強要された。
 それをいちばん歓迎したのは叶多だろう。叶多は執行猶予がついた気分でほっとした。息を吐いて無意識に戒斗を見上げたとたん。
 戒斗は警告するように顎をしゃくった。
「な、何?」
「何ってなんだ」
「な……にって……」
 まさかここでどうこうするつもりはないだろうけれど、その声音から戒斗が加虐モードに入ったのは一目瞭然だ。
 崇や陽たちの前でなければ、叶多は一目散に逃げているところだ。それを堪えながら目を逸らした先に時計が見えた。もうすぐ五時だ。
「ご、五……時……ご、ご飯。そう、ご飯! どうせならここで食べていけばいいし、みんなのぶん作ろうと思って。何がいいかな……?」
 我ながらなかなかいい引き延ばし策が浮かんだ。叶多はそう独り合点した。
「叶ちゃんて料理できるんだ。ラッキーだな」
「そういや、八掟が一人前なのはもう一つ、料理ってのがあったな」
「そうそう。叶っちゃん、料理うまいんだよね」
 戒斗が答えるまえに貴仁をはじめとして三人ともが口を挟んだ。ここは渡りに船だ。
「崇おじさん、いい?」
「好きに使っていい」
 お馴染みの台詞で崇の許可を得ると、叶多は戒斗と目を合わせないまま、そそくさと住まいに向かった。
 そのうち、戒斗が無表情じゃなくて普通に戻ってくれるように頑張るしかない。何をどう頑張るかがまったく見当ついていないけれど。

 叶多が食事の用意をしている間にどう折り合いがついたのか、みんなでテーブルについたとき、戒斗は普段に戻っていた。
 男だけにしてしまって余計に(こじ)らせてしまうかと案じながらも、また打開を先延ばしにして逃げていたわけで、叶多は彼らの長閑(のどか)さに拍子抜けした。
 や、待って……。
 叶多はしばし考えた。
 もしかしてあたしって、争いの素? やだ。だしの素じゃないんだから……。
 叶多はそう内心でつぶやいてから、ついついメニューと人を結びつけてしまった。
 差し詰め、則友はいま目の前にあるふわふわの中華卵スープ。貴仁はなんでもかんでも入り混じってわけのわかんないチャウダー。陽は辛味たっぷりのスパイシースープ。おまけで頼は砂糖を隠し味にした塩分過多の味噌汁。
 それなら戒斗は……やっぱり日本的に、極度の甘さでどろどろに包んだ毒入り葛湯(くずゆ)。しかもだしの素なんて不要で、つまり叶多の意向なんてまったく無視してただ甘ったるさが押しつけられる。
 なんだかおなかが……じゃなくて、さきが思いやられて頭がいっぱいになった。
「叶多、何考えてるんだ? 箸が動いてない」
「え?」
 正面に座った戒斗がふと声をかけた。顔を上げると、さっと見渡したすべての視線が叶多に注がれていることに気づいた。
「叶ちゃんてさ、見てて飽きないんだよね」
「え?」
「八掟、もうちょっと落ち着いてものを考えられないのか」
「え?」
「渡来くん、叶っちゃんは感情豊かなんだよ。ついでに表情もね。それがいいところだ。戒斗くん、そうだろう?」
「え……」
 叶多はまた百面相じみたことをやっていたらしいと気づいた。顔を赤らめて戒斗に目を戻すと、せっかくの普通がまた無に戻っている。
「そのとおりです」
 答えた声もまた無表情だ。
 叶多は内心で覚悟のため息を吐いた。
 せめて逆らわないこと。
 そう自分に云い聞かせた。

 そろって“たか”を出たのは九時を過ぎていた。則友と貴仁は電車だと云って、ふたり一緒に駅に向かった。
 陽はバイクで来ていて、それを知ると戒斗は興味深そうにした。
「渡来、バイク、何乗ってるんだ?」
「フェイズだ」
「へぇ。見せてくれ。おれはシャドウに乗ってる」
 戒斗と陽は共通事項を見つけたように、互いに首を小さく動かしてうなずき合うと、バイクを止めている工房の裏に向かった。
「渡来自動車はバイク手掛けてないし、できればおれの代でバイク事業を立ちあげたいと思ってる」
「シャドウを超えるバイクができたら乗り換えてやる」
 戒斗がそう応じると、陽は意欲満々な様子で笑った。
 陽のバイクを前にして、ふたりははじめて意気投合したようだ。叶多そっちのけで意味不明の専門用語が飛び交っている。とにかく、戒斗の機嫌がよくなったようで叶多はほっとした。ここは争いの素にならないように、余計な質問も控えた。
 しばらく叶多が見守っていると、バイクの横にかがんでいた戒斗が立ちあがり、陽もそれに倣った。

「戒、あいつは何者だ?」
 陽が一転して生真面目に口調を変えた。
 その瞬間に、せっかくの和んだ空気がまた(いびつ)になって、叶多は密かにがっかりした。
「誰のことだ?」
「領我貴仁、だ」
「お互い名乗ったのを見てただろ? 初対面で知るわけない」
「おれらのうちであいつがフルネームで名乗ったのは戒、おまえがはじめてだ。おれは貴仁ってしか知らなかったし、こいつも同じだ」
 陽は叶多を指差した。とうとつに振られて、叶多はびくっと背を伸ばした。
「叶多?」
「うん。下の名前しか云ってくれなかったし、訊きそびれちゃってた」
 叶多は確認を求められて、なぜか気後れしながら答えた。薄暗い外灯の下、戒斗が目を細めたのがわかる。
 陽はバイクに跨るとエンジンをかけた。
「警戒させるつもりでわざとあいつをコバンザメに仕立てたけど、当の戒は知らんふりしてる」
「知らんふりじゃなくて、おまえほど露骨にしてないだけだ」
 戒斗は格の差を明確にした。
「ふん。その余裕がなくならねぇといいけどな」
 陽は気分を害した様子はなく、エンジンの音にかき消されそうなくらい小さい声で云った。
「なんだ?」
「何があるのか知らねぇけど、戒、こいつに何かあったらおれは黙ってないってことだ」
 だんだん話が大げさになっていくなか、叶多は、再び自分を指差した陽を驚いて見つめた。いつも小馬鹿にしているくせに、やっぱり陽の気持ちはあの告白のままで。こういう真剣さはうれしいのに、もったいなくて叶多は複雑な気分になる。
 警告された戒斗と陽の間は、しばらく無言のまま空気が張り詰めた。
「云われるまでもなく、誰一人として指一本触らせるつもりはない」
「……だってさ、八掟」
 陽はニヤリとして、それがどういう結果を招くか考慮ももせず、叶多の耳をつかんだ。
「渡来くん!」
 陽はヘルメットを被るとエンジンを吹かして空気を揺るがせ、手を軽く上げて帰っていった。

 陽から叶多に視線を移し、戒斗は口を歪めた。脅すための悪魔の微笑だ。
「な、何」
「何が」
 戒斗は惚けた。そこへ和久井の車が滑りこむ。
 戒斗が支えた後部座席のドアから叶多が先に乗り、戒斗があとに続いた。
「和久井、領我貴仁は知ってるか」
 和久井が車を出すなり、戒斗が口を開いた。その口調は重々しい。
「領我眷属(けんぞく)ということだけです。特に個人については上っていませんが」
 叶多は戒斗を覗きこんだ。
「戒斗?」
「あいつをどう思う?」
 戒斗は叶多に問いかけた。
「え?」
「領我貴仁だ」
「よく知らないけど……チャウダーって感じ」
「なんだ、それ」
 戒斗が呆れたように肩をすくめた。
「メイン料理か、ただのスープかわからないってこと」
「なるほど」
 和久井が可笑しそうに相づちを打った。
「貴仁さんのこと、そんなに気になる?」
「あいつがどういう立場の人間かわかるか?」
 叶多が訊いてみると、戒斗は渋々といった感じで問い返した。
「え?」
「名に『我』が付くといえば?」
 和久井がヒントを出して、叶多の思考回路をスムーズにした。
「あ、蘇我一族?!」
 叶多は自分で答えて目を丸くした。
「そうだ。あいつは自分を目の前にしたときの、おれの反応を知りたかった、ということだろ。だからおまえたちには名前を明かさなかった。事前におれに知られていては反応を見れないからな」
「戒斗は何も反応してなかったよ」
「当然だ」
「どうしたらいい?」
 叶多は不安そうに首をかしげて戒斗を見上げた。
「これからさきも蘇我家の人間と関わることがないとは云えない。いままでどおりでいい。できるか?」
「うん。それくらいは大丈夫」
 叶多がうなずくと、避けるまもなく、顔を近づけた戒斗に左の耳をかじられた。叶多は和久井にへんに思われないように悲鳴を堪えながら、批難をこめて戒斗を見やった。戒斗はどこ吹く風で顎を突きだす。
 それからは当たり障りのない話題に変わって、やがてアパートの前に到着した。
「叶多、先に行ってろ」
「うん」
 叶多が建物の中に入るのを待って、いったん外に出ていた戒斗はまた車の中に戻った。

「どう思う?」
 戒斗は議題も口にせず、和久井に返答を促した。
「蘇我本家の動きには変化は見られません」
「本家は約定(やくじょう)を当てにしているはずだ」
「そのとおりです。蘇我本家が有吏本家の現事情を一切知らないことを(かんが)みれば、蘇我家としては下手に動くより約定の成立を待ったほうが賢明です。蘇我本家は独裁ですし、領我家以下、蘇我分家は瀬尾、和久井両家が窓口になっていることすら知らされていないはずです。今回の件に関しては、その本家の意向にそぐわない、領我家のフライングとも考えられます。領我家、もしくは領我貴仁が少なくともターゲットを絞っているのは間違いないでしょう」
「内乱の要因が領我家ということは?」
「内乱についてもまだまったく水面下のようで、情報として上がってきていませんが、領我家は有吏一族で云えば八掟家に当たる眷属です。現状の蘇我家を見る限り、その素志を重んじるならばあるいは……。憂いを耳にしたことはあります。領我家の意図がどうであれ、そこから探ってみる余地はありそうです」
「ああ、頼む」
 戒斗はドアを開けた。
「戒斗、叶多さんのことはご心配なく。全力で尽くします」
「心配していない」
「ありがとうございます」
 信託に謝意を表した和久井に口を歪めてみせた戒斗だったが、車が去ったとたんにその顔から表情がなくなった。

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* 文中意
  コバンザメ … 吸盤を持って大型の魚や船に吸着する海水魚  眷属(けんぞく) … 身内