Sugarcoat-シュガーコート- #96

第10話 Cry Boy -4-


 お盆休みを過ぎて週の半ば、北海道で二夜連続の夏のライヴを終え、戒斗は今日帰ってくる予定だ。一日中家にいて待っている予定が急に出かけることになり、叶多は念のために戒斗へ連絡を入れた。電話はすぐに通じた。
「戒斗、今日は夕方には帰るんだよね?」
『ああ』
「あたし、崇おじさんところに行くことになったの。あと三十分くらいして出るんだけど、もしかしたらあたしのほうが遅くなるかも」
『行くことになったって?』
 叶多の云い方からそれが予定外であることを察したようで、戒斗は怪訝そうな声で訊き返した。
「貴仁さんがガラス工房見たいって云ってて約束してたんだけど、さっき電話があって今日がいいって――」
『貴仁って誰だ?』
 戒斗は不愉快そうな声で叶多をさえぎった。
「あたしの論文を読んだって人。まえに云ったよね?」
『……。男だって云わなかったし、あれ以降、一言もそいつのことを聞いてない』
「そうだった? 話すほどのことなかったから云わなかったのかも。だってたまに見かけても挨拶言葉くらいで消えちゃうし」
 戒斗は電話の向こうで黙りこんだ。
「……戒斗?」
 いつまでたっても返事がなく、叶多はおずおずと呼びかけた。
『暑いから気をつけろよ。じゃあな』
 そう云った戒斗は至って普通だ。電話が切れると、しばらく携帯画面を見つめて叶多は首をかしげた。
 もしかして……怒ってる……?


 一時半になって叶多はアパートを出た。残暑とはいえ陽射しの中に出ると、くらくらしそうなくらい夏の暑さは厳しい。
「叶多さん」
 それが和久井の声とわかるのと、いつもの黒い車が目に入ったのは同時だった。アパートの階段からまっすぐに出た正面に車を止めて、その脇に和久井が待ち受けている。叶多は駆け寄った。
「和久井さん、どうしたんですか? 戒斗はまだ――」
「その戒斗からの依頼です。お送りするようにと。どうぞ」
 ……。戒斗って何考えてるんだろう。
「心配されてるんですよ」
 的確な答えに叶多は驚いて和久井を見上げた。
「あたし、いま声に出しました?」
 そう訊ねると、和久井は小さく吹いた。
「叶多さんの顔にはいろんなことが書いてありますから」
「え……」
 叶多はぺたぺたと自分の顔を触ってみた。
「冗談ですよ。真に受けるとはさすがに叶多さんです」
「……誉めてるんですか」
「もちろんです」
 和久井はからかうような表情から至って真面目な様になって答えた。あんまりうれしくもない。
「タツオさんは?」
「要人について遠方に出ているので、私がかわりに」
「和久井さん、タツオさんにお願いしたいことがあるんですけど」
「何か不手際でも?」
「いえ、どうせあたしのあとをつけるくらいだったら一緒に歩いてもらえないかと思って」
「……気づかれていましたか」
「このまえ、デパートに友だちと行ったときに気づきました。人が多くて混んでるのに、あたしが行くところはさっと空いちゃうし。一時期、高等部で電車のラッシュのときがそんな感じだったから。そう考えたら半年近くまえから何回も思い当たるようなことあって……もしかして二月のあの事件からですか?」
「いまはいろんなことが同時進行していますから、戒斗も細心の注意を尽くしているんです。窮屈でしょうが、叶多さんには堪えていただかなくてはならない」
「でも、ガードしてもらってることを隠す必要はないんですよね?」
「ええ」
「なんだか、こっそりガードしてもらってるかと思うと緊張しちゃうんです。ヘンなことできないし」
「へんなこと?」
「あたし、百面相しちゃうし……ほかには、転んでパンツ見えたらどうしようとか」
 ためらいがちに叶多が付け加えると、和久井は笑いだした。
「真面目に云ってるんですよ」
「わかってますよ」
「だから、並んで歩いてもらったほうがいいんです。きっとタツオさんにこう云っても断られちゃうだろうし、和久井さんから命令してもらったらと思って」
「承知しました」
「よかった」
 叶多はほっとして、和久井が開けてくれたドアから後部座席に乗りこんだ。


 ちょっと先に黒塗りの国産高級車が止まっている。黒いスーツを纏い、その車に寄りかかっている姿は、通りがかりでも思わず見惚れるほどスマートだ。
 この暑さの中、男の周りだけひんやりとした空気を感じる。それが不意にがらりと雰囲気を変えた。
 男の視線の先をたどると、ジーパンにチェリーレッドのTシャツという髪の長い女の子がアパートから出てきた。遠目に見た限りでは自分よりちょっと年下だろう。
 駆け寄った女の子は強面の男に物怖じすることなく、それどころか親しげだ。
「あの子は誰?」
「……若頭がお付きの、有吏家の坊ちゃんが同棲してる彼女ですよ。早く帰りましょう。若頭に知れたら大事になります」
 無理やり付き合わせて、あとをつけさせた和久井組の若衆、タケは渋々と答えた。
「一寿のあんな顔、はじめて見た」
 ここ一年、頻繁になった急な呼びだしにも渋面一つ見せず、それどころか微笑みすら浮かべて応じている一寿の行き先がどうしても知りたかった。今日みたいに抱いている最中でも、まるで俳優がクラッパーボードに反応するように、一寿は気持ちを簡単に切り替えて出かけていく。
 あたしには絶対に向けない、穏やかなやさしさと笑み。いま、一寿は声に出してまで笑っている。
 あの子は“叶多さん”。タケに聞くまでもなく、一目見ただけで見当がついた。
 あの子にはあたしがとっくに失くしてしまったものが見える。
「お嬢……」
 タケは一寿が身を置く世界に限られた敬称であたしを呼んだ。その声には同情が見えた。
 名前を捨て、自分を売ったあたしに残ったのは“一寿”という盾だけ。
「そんな呼び方、あたしには相応(ふさわ)しくない。一寿にとって、あたしは“いろ”にすぎないんだよ。もしかしたらもっと下級かもね」
 あたしを見る目はいつも冷たくて、情事のときさえ、それどころか自分の慾を吐きだす瞬間さえ、冷めた表情を消すことはない。
 希望は持っていない。あの子みたいに“きれい”には戻れないから。
 それでも欲しい約束が一つある。


 和久井に送られて“たか”の前まで来ると、無駄に怒らせたくないうちの一人、陽がすでに来て待ち構えていた。和久井は陽と挨拶を交わすと帰っていった。
 和久井は何も云わなかったけれど、やっぱり帰る頃になるとどこからともなく現れるんだろうか。
「渡来くん、急なのによく来られたね」
「予定はキャンセルした」
 折りあらば、メールで『まだか』と確認していた陽は肩をそびやかした。
「え……無理に付き合わなくてもいいのに――」
「冗談だろ。あの不審人物の正体をつきとめないと気がすまない。個人情報保護法っていう面倒なのがなきゃ、学生名簿で調べられんだけどな」
「もしかして調べてみたの?」
「あたりまえだ。タダ者じゃないと見た」
「あたしにはわかんないけど」
「おまえ、ヘンな奴を引き寄せる体質みたいだからな」
「ヘンな奴って……」
 そのなかには陽自身も入っているんじゃないかと思ったものの、叶多は突っこまないことにした。倍返しは避けられないとわかっている。
「渡来くん、休みは何してるの? ずっと忙しいみたいだね」
「親父の会社でバイトしてる。つってもタダ働きとかわらない。修行みたいなもんだ」
「偉いね」
 尊敬をこめて云うと、陽は鼻で笑った。
「起業するより後継するほうがたいへんなんだ。おれの代で潰すわけにはいかねぇから」
「渡来くんのそういうとこ、すごいと思ってる」
「ふん。戒を追い越してやる。おれを蹴って後悔するなよ」
「それって、あきらめてくれたの?」
「というより執着してる」
 わざとなのか、陽は脅すような声音と不気味な笑みを投げかけた。
 叶多が困って首をかしげると同時に、Tシャツにジーパンとスニーカーといういつものスレンダーな姿を視界に捉えた。
「叶ちゃん、お待たせ」
「貴仁さん、こんにちは!」
「あれ、カレシ候補も一緒なんだ。渡来くん、だったよね」
 叶多からすればなんでもなく聞こえても、陽は貴仁の口調を明らかに自分に対する挑発ととったようだ。
「どうも」
「どうも」
 陽の表情と同じくした不穏な云い方に対し、貴仁は可笑しそうにして同じ言葉で応じた。さすがに付き合いが長いぶん、叶多は陽がますます不機嫌になったのがわかる。
「渡来くん、来て。貴仁さんもどうぞ」
 とにかく間に立たされるのはごめん(こうむ)りたい。叶多は“勝手知ったる”で先立って店の中に入り、ふたりを案内した。

 工房に向かうといつものようにガラスを削る音が次第に大きくなる。むっとする工房に入って、崇と則友の作業が終わるのを待った。陽と貴仁が興味深げに工房内を見回しているうちに、ほどなく音が止んだ。
「わんこ、来たか」
「うん、連れてきたよ」
 則友も手を止めて立ちあがると、崇の傍に立った。
「崇おじさん、こっちが渡来陽くん」
「渡来陽です。突然お邪魔してすみません」
 さっきまでの様子はどこへやら、陽は育ちの良さを発揮して丁寧に挨拶した。
「ほう。わんこから聞いてはいたが、渡来も次世代安泰は間違いないようだな」
 崇は何を見取ったのか、陽を上から下まで眺めてそう云った。その目が貴仁に移る。
「それでこっちが――」
「貴仁です。見学させていただくのを楽しみにしていました。よろしくお願いします」
 叶多が紹介してしまうより早く、貴仁は自分で名乗った。
 やっぱり中途半端な名乗り方だ。快く応じている崇が気づいたのかどうかはわからないけれど、少なくとも陽はまた怪訝に顔をしかめた。
「渡来くん、貴仁さん、こっちが芳沢則友さん。崇おじさんの跡継ぎなんだよ」
 則友はいつもと変わらず、穏やかにふたりと挨拶を交わした。
 それから、まずは作っているところが見たいというふたりの希望に応えて、叶多はガラスコップの実演をしてみせた。崇や則友を除けば見られるという経験はなく、最初は緊張したけれど、作っているうちにふたりがいることさえ忘れた。叶多にとって、やっぱりガラス作りは無になれる場所だ。やがて叶多が出来に納得すると、付き合っていた則友もうなずいた。
「どう?」
「いまはじめて八掟が一人前に見えた」
 陽の返事は喜ぶには微妙すぎる。崇が陽の脇で豪快に笑った。
「ますます惚れちゃいそうだよね、渡来くん」
 貴仁が云い添えると、陽は育ちの良さもどこへやら胡散(うさん)くさそうに見返した。
 貴仁は平然として、
「おれもやってみたいな」
と叶多が持った吹き竿を指差した。
「僕が教えようか」
 則友が口を挟むと、お願いします、と貴仁が答えて、叶多は自分の場所を空けた。
 貴仁は本当にガラスに興味があったらしい。崇の住まいから冷たい麦茶を持ってきても、あとで、と熱心に則友から教わっている。叶多と陽と崇は熱気を少しでも避けようと、熔解炉から離れて遠巻きにふたりを見守った。

「八掟、やっぱおまえの周り、おかしな奴が多い。戒は論外に怪しいし、唯一まともなのはこのおっさんだけだ」
 陽は礼儀知らずにも本性を出して、伝統工芸師の崇に向かって『おっさん』と吐いた。云われた本人の崇は愉快そうに笑っている。
「渡来の(せがれ)はなかなか人を見る目があるな。ますますもって渡来の将来が楽しみだ」
 見る目がある、ということは崇も貴仁をへんに思っているということだろうか。
「あたしは渡来くんも変わってると思う」
「おれはまともだ」
 叶多がつい口にしてしまうと、陽は即座に反論した。
「八掟、おれもあれ、やってみていいか?」
 陽は仕返しすることなく、ガラスに興味を持ったのか、則友たちを指差した。
「則くんに頼んでみる」
「おまえが教えろ」
「え……だって教え方下手くそって云いそうだし――」
「わかってんなら、尚更おまえがやれ。初対面の奴を罵倒したくないからな」
 理不尽な理由を云って、陽は強引に叶多に迫った。
「もう……」
 叶多は口を尖らせつつも、陽を熔解炉まで連れていった。半ば恐々と叶多が説明すると、手前勝手なことを云ったわりに、陽は真剣にやり始めて文句を云うこともなかった。

 誰もが時間を忘れ、ガラスを削る音のなか、ふと空気が動いた気がした。叶多はかがんだまま、躰をひねって入り口の戸に目をやった。
 やっぱり戒斗だ。
 動物的な勘で誰よりも早く気づいた叶多は、勢いこんで立ちあがった。
「戒斗……!」
 あ……れ……?
 叶多の目の前が暗くかすんだ。
「叶多っ」
 叶多がくらっとした瞬間、今度は逆に誰よりも早く、いちばん遠くにいた戒斗に抱き寄せられた。
「やっぱ、夏になると一回は倒れないといけないらしいな。大丈夫か」
「急に立ったから……平気」
 すぐに眩暈は治まった。叶多が離れようとすると、戒斗の腕が引き止めるようにきつくなった。
「もうちょっとじっとしてろ」
「わんこ、大丈夫か」
 戒斗の声に重ねるように崇が呼びかけた。
「うん」
「叶ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫です。時間忘れちゃうとたまにあるんです」
 貴仁に答えながら、叶多は戒斗の胸から頭を起こした。
「もしかして、今度こそ叶ちゃんのカレシさんかな?」
「はい」
 顔を綻ばせて返事をしてから叶多は戒斗を見上げた。戒斗の問うような目が見下ろしている。
「戒斗、まえに話した――」
領我(りょうが)
 戒斗が叶多の紹介をさえぎった声に視線を向けた。
「領我貴仁です」
 貴仁がはじめてフルネームで名乗った。
 その瞬間、叶多を抱いている戒斗の腕が強張った気がした。

BACKNEXTDOOR


* 文中意 ◇ クラッパーボード … いわゆる「カチンコ」  ◇ いろ … 情人(愛人)