Sugarcoat-シュガーコート- #94

第10話 Cry Boy -2-


 文学部キャンパスの正門まで歩きながら、叶多は空を見上げた。
 試験発表から一週間、昨日まで二、三日続いた激しい雨が嘘みたいに、天上は清々(すがすが)しい青に染まっている。例年より早く梅雨が明けるのかもしれない。雨よりは晴天のほうが好きだけれど、太陽にうんざりする季節でもある。
 キャンパスを囲む壁沿いには背の高い木が並んでいて、その木陰に入ると乾いた風が心地よい。今日は地上に熱がこもるまえの、ちょっとした楽園の日だ。
 待ち合わせ時間ちょうどに、小走りに駆けてくる神瀬昂月(かんぜあづき)が目についた。
 土曜日の今日、ユナは講義が終わるなり早々と帰った。いつものことで、永とのデートだ。一方で叶多は、昂月と昼食を取ることが慣例になっている。

「叶多、ごめんね」
 昂月は叶多の前で立ち止まると開口一番、息を切らしてすまなさそうに謝った。
「どうかした?」
「うん、(けい)のかわりにサークルに出ることになったの。家庭教師仲間の人が急用らしくて、慧は二つ目の講義パスしてその人のかわりに家庭教師先に行っちゃってる。それで、あたしは慧のかわり」
 時野慧は昂月の親友で、ふたりとも国文学を専攻している。昂月の控え目な印象に対して、慧は真逆に、見た目どおりの利発な子だ。ユナと慧がそろうと、口を挟む暇がないくらいにぽんぽんと会話が飛び交う。
「慧のサークルって……えっと、歴史のなんとかっていうのだったよね」
「そう。“歴史上の賢人は果たして実在したのか。日本を動かしたミステリー偉人の正体を暴こう会”」
 昂月は暗唱するように宙を見ながらサークル名を一気に口にした。興味のない叶多は覚えようという気持ちすら湧かないほど、長ったらしいサークル名だ。
「欠席でいいんじゃない?」
「それがね、サークル認可のぎりぎりの人数だし、活動報告するのに人数割っちゃうと取り消しだって。あたしもたまには協力しないと」
 慧から無理やり頼まれて名前貸ししている昂月は、普通に考えてそこまで義理立てする必要はないだろうに、律儀にそう答えた。
「サークルやるのもたいへんなんだね。じゃあ、あたしはこのまま帰るよ」
「ごめんね」
「ううん。わざわざ走ってこなくてもメールでよかったのに」
「ケータイ忘れちゃってた。いま気づいたの」
「ぷ。昂月らしい」
「叶多に云われたくないよ。忘れ物は祐真兄が持ってきてくれるんだけど……あ、祐真兄ってどこにいても、あたしを探すのがうまいんだよ。でも今日は土曜だし、昼から帰るって思ってるから」
 そう云って昂月は肩をすくめた。
「祐真さん、元気?」
 叶多が訊ねたとたんに昂月は顔を曇らせ、さり気なさを装って目を逸らした。何気ない会話で昂月の口から祐真の名前が出るけれど、いざこっちから祐真のことに触れると、昂月は身構える。
「うん……じゃ、あたし行くね」
「うん、また月曜日にね!」
 答えるかわりに手を振った昂月の表情は、笑っているというよりは悲しく見えた。
 叶多は昂月の後ろ姿を見送りながら、自分にできることは何かないのだろうかとまた考えた。そのまえに、自分が知っていることを知っていると伝えていいのかも迷っている。
 一つため息を吐いて叶多はキャンパスを出た。

「叶多ちゃん」
 それは知った声だったものの、不意打ちに驚いて肩がびくっと跳ねた。視線を上げると、すぐ先に声の主を見出した。
「祐真さん!」
 叶多が叫ぶように名を呼ぶと、祐真は壁にもたれていた躰を起こした。祐真は咥えた煙草と入れ替えて、人差し指を口もとに立てた。
 叶多はキャンパス内にちらりと目をやった。昂月はもう遥か向こうにいて気づいていない。
「おれは元気だよ。このとおり」
 さっきの会話を盗み聞きしていたようで、祐真は可笑しそうに叶多を見た。
「よかった」
 叶多が答えると、祐真はうなずいてまた煙草を咥えた。
 祐真と会ったのは、航と実那都が入籍して内祝いパーティが開かれたとき以来、一カ月ぶりだ。
 歌えなくなったという祐真は、戒斗が心配しているほど荒れているわけでもなく、パーティでは落ち着いて見えた。
 叶多がそう云ったら、戒斗は、おまえがいたからな、と答えた。
 唯一、マネージャーというネックがあるけれど、叶多にとってFATEという場所は居心地がいい。それでも戒斗はあまり連れていってくれない。
 そういうなかで前もって叶多にパーティのスケジュールを立てさせたのは、祐真直々(じきじき)の呼びだしのせいだと戒斗は教えた。祝いの席をめちゃくちゃにしないための祐真の歯止めが叶多だったという。
 叶多にはよくわからないけれど、それが本当なら自分は役に立ったようだ。あの気難しいマネージャーの木村も含めて、パーティは終始お祝いムードに満ちていた。
 いま目の前にいる祐真も、“荒れている”というのが想像つかないくらい平静だ。

「叶多ちゃん、昂月と友だちになってくれてありがとう。昂月は相手がどんな奴かを見極めるまで緊張を解けなくて、仲良くなるには時間がかかるんだ。けど、叶多ちゃんにはかまえなくていいらしい。一緒に話してるのを聞いてて安心した。このまえ昂月は、おれが叶多ちゃんと似てるって云う意味がわかるって云ってたな」
 微笑を浮かべた祐真には、昂月への愛情が詰まってみえる。けれど、別の何かが祐真の中に見えた。
 どこかで叶多が見たものと同じ。なんだろう。叶多の中にざわざわとした気持ちが現れた。
「あたしも同じです。でも、わざわざそれを確認するのに? 昂月はケータイを忘れたって……」
 叶多が首をかしげると、祐真はふっと笑みを漏らした。
「ああ。昂月ってへんに抜けてるだろ。そういうとこも叶多ちゃんと昂月は似てる」
「祐真さん、戒斗と同じくらい酷いです」
 叶多がむっつりして云い返すと、祐真は声に出して笑った。
「悪い。けど、そういうとこが好きなんだよな。たぶん、戒斗も。おれがいないとだめだな、って感じかな。けど……昂月はおれがいなくても……」
 祐真は最後まで云わず、ただ笑みをだんだんと(ひそ)めていった。そして、以前、叶多に打ち明けたときの息の詰まるような雰囲気を纏った。

「叶多ちゃん、おれはまだ昂月とのことを引き延ばしてる。昂月と一緒にいると、いつまでたったって決断ができない。離れたほうがいいんだ」
「……離れるって……」
「昂月をつらくさせる。けど、そうしなきゃならない。おれが立ち直って、昂月が立ち直るまで、叶多ちゃん、証人になってくれないかな」
「え?」
 あまりにとうとつな告白に動揺したなか、祐真の依頼はますますもって叶多を混乱させる。
「このさきにどんな選択があろうと、おれと昂月の時間が間違っていないと証明したい。それがおれの昂月に対する責任だ。それができるまで、叶多ちゃんに立ち会ってほしいんだ。ただ見ているだけでいいから」
 祐真があっさりした『責任』という言葉を使ったのは、確かな決意の表れなのかもしれない。今度は歯止めじゃなく、証人として祐真の役に立てるのなら、それが叶多にできる“何か”なんだろう。
「はい」
「戒斗には心配かける。そのかわりに叶多ちゃんにちょっとしたプレゼント。男ってさ、在り処(ありか)に守られていないと真に強くはなれない」
 どこがプレゼントなのか、頭が落ちそうなくらい、叶多は首をかしげた。
「……意味がわかりません」
「自分がいないとだめだな、っていうのはお互いさまってこと。戒斗が完全無欠の人間だからって、叶多ちゃんが引け目を感じる必要なんてないんだ」
「そうなのかな……」
 叶多は自信なさそうにちょっと首を傾けた。祐真は笑みを漏らしてうなずいた。
「単純に見れば、戒斗と叶多ちゃんはうまくいってて、何も問題ないように幸せそうだ。あの戒斗が慎重にならざるを得ないほど問題はあるはずだけど」
「問題あっても、幸せじゃないってちょっとでも思ったら天罰ものです」
「そういうとこが叶多ちゃんのすごいとこだ。のうのうとやってるわけじゃないんだよな、そう見えても。高弥たちが云ったこと、頭じゃわかってたけど……叶多ちゃんがいてよかった。やっとここまで踏んぎりがついた。あとはおれが自分でやるしかない」
「祐真さん?」
「心配させるけど、大丈夫だよ。ありがとう、叶多ちゃん。じゃ、また」
 背中を向けた祐真を見送りながら、叶多は既視感(デジャ・ヴ)に陥った。



 土曜日、やっぱり梅雨明け宣言があった。その週明けに会った昂月はいつもと同じに見えても、笑顔はどこかぎこちなかった。祐真の言葉がなければ気づかないほど昂月はうまく隠している。
 それはずっと変わらず、明日から試験が始まるという木曜日になって、叶多は慧にそれとなく訊いてみた。
 そして、祐真が家を出ていったと知った。

 離れなければできない決断。そこに『どんな選択』という曖昧さはすでになく、祐真の答えは決まっていたということ。逆を選ぶなら、離れる必要なんてない。拓斗みたいに闘う必要はあっても。
 祐真の中に見えた、昂月への想いとは違う“別の何か”。それは、昂月から離れるために、まさに別の何かに心を明け渡そうという意思だったかもしれない。あと祐真に必要なのはなんだろう。覚悟?

 戒斗は祐真が家を出たことを知っているんだろうか。
 FATEはいま、三枚目のアルバムの制作をやりつつ、主要都市での夏のライヴを控えている。冬に始まったツアーが終わってからゆっくりできた日はつかの間で、戒斗はまた忙しくなった。今日も帰ってきたのは十一時近くだ。
 どのみち、バンド活動でゆっくりできても、空いた時間をほとんど有吏のために使っていて、いまの叶多みたいに、戒斗が独りでいるときにぼーっとテレビを見るなんてことはまずない。

「明日から試験ていうのに余裕だな」
 冗談めかした声にびっくりして叶多が振り向くと、音も立てずに浴室から出てきた戒斗は、冷蔵庫から麦茶を取りだしてコップに注いでいる。
「はじめてでどんな感じかわかんないし、だから、もうやりようがないの」
「そういうのを開き直りって云うんじゃないのか」
 戒斗はからかいながら和室に来て、叶多の背後に座りこんだ。
「ちゃんとやってる」
「わかってる。頑張れよ」
「うん」
 叶多が返事をすると、戒斗はテーブルにコップを置いて後ろからウエストを抱えこんだ。
「戒斗……」
「なんだ?」
 迷うように呼びかけたまま、促されても答えないでいると、叶多は躰をくるりと回された。
「祐真さんと連絡取れてる?」
 そう訊ねとたん、向き合った戒斗の表情が少しかげった。
「……なんで知ってる?」
 戒斗ははっきり顔をしかめて逆に問い返した。
「慧から聞いて……昂月が……」
 そこまで云うと承知したように戒斗はうなずいた。
「祐真とは連絡が取れなくなった。携帯も電源が切られてる」
 祐真は昂月から離れただけじゃなく、誰からも離れたのだ。心許(こころもと)なくなった。
「でも……戒斗は場所、わかるよね?」

 場所がわかるからといって何をしたいわけでもない。何ができるわけでもない。
 じゃあ、何?
 叶多は自分に問いかけた。そうしてみて気づいた、あの日の祐真の姿を見てからずっと感じていたもやもやの原因。それは、似ている、ことにあった。
 昂月は約束のない祐真の覚悟を受け入れられるんだろうか。
 叶多は無意識で自分に置き換えた。約束はあっても、あのときの、けっして納得のできない気持ちが、叶多の中に鮮明に甦る。

「突き止めることは簡単だ。けど、祐真は大丈夫だ」
「戒斗は……強いんだね」
「そうあればいいけどな。どうしたんだ?」
 戒斗はくちびるを歪め、いつになくつんけんした口調の叶多を覗きこんだ。首筋に手を伸ばして顎をすくい、顔を少しだけ持ちあげた。叶多のくちびるが何かを堪えるように歪んでいて、戒斗は笑みを引っこめた。
「ありがとうって云われるの、大嫌いだってことを思いだした」
 いきなり叶多の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「叶多?」
「この時季って大嫌いだったことを思いだした」
 何が叶多に六年前を思いださせることになったのか、涙に揺れながら訴えるような眼差しと責める口調が、戒斗にもまた六年前を思いださせた。
 こんなふうに涙が手を伝ったあの日、知らないうちに自分の決断は二重に叶多を傷つけてしまっていたと、たったいま気づかされた。
「悪かった」

 戒斗に引き寄せられると、胡坐(あぐら)を掻いた脚を(また)いで、叶多はぴったりと裸の胸にくっついた。戒斗は発情するでもなく抱いているだけで、そのうち、眠ればいい、と云った言葉に任せ、叶多はそのままの姿勢で眠りについた。


 ありがとう。
 忘れていた、その言葉の本当の意味。
 怖いのは、大切な人が目の前からいなくなる、ということ。

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