Sugarcoat-シュガーコート- #93

第10話 Cry Boy -1-


 七月に入ってすぐ、前学期末試験の日程が掲示された。大学生活にはどうにか慣れてきたけれど、試験というのははじめてでどきどき、ではなくてはっきり不安はある。救いなのは高等部と違って年に二回しか試験がないことだ。
「おまえ、単位落ちしないように気をつけろよ。おれはもう畑違いだし、試験勉強なんて手伝えないんだからな」
 陽は学食のうどんを食べていたお箸を向け、叶多の目の前で忠告するように揺らした。酷く馬鹿扱いした発言でも、陽なりの心配の仕方だとわかっている。
「ありがとう、心配してくれて。ちゃんとやってるから大丈夫」
 叶多は素直に答えながら、ありがたい友だちだと思う。よく云えば、ポジティブ、悪く云えば、能天気。傍からはそう見られるかもしれないけれど、心底からそれをうれしく思えるほどの付き合いで、底はけっして浅くない。
「ほんとか?」
 疑うような眼差しが向く。
「……と思う」
 叶多が付け加えると、ユナと永が笑った。

 昼食時に四人でいることは定番で、陽と永が一緒であるかぎり、戒斗が云う“視野が広がる機会”は奪われている。やっぱりここでもダブルカップルに見られているのか、四人セットでいると誰も近寄ってこない。
 一緒じゃなくても永はその雰囲気から近づく人はいないようだけれど、陽は相変わらず人当たりがよくて、よく合コンに誘われる、と面倒くさそうにしている。女の子から直のお誘いもあるらしい。二人は大抵、ジーパンにTシャツという特徴のない格好なのにやっぱり目立っている。
 そういう私服姿も、入学から三カ月を越えると新鮮さが消えてあたりまえになった。ユナは最近になって深智みたいにふわふわのパーマをかけ、服とか化粧とかますますお洒落になった。
 叶多も真理奈から習ったおかげで、それなりにメイクは進歩したのに。少なくともユナには好評だった。
『そのまんまでいいけど』
 そうつぶやいた戒斗の『いいけど』はメイクアップ中の叶多を見ている様子からそのうち、“いてくれ”という意味だったらしいと気づいた。戒斗はツアーが五月に終わって、朝遅くまで家にいることが多い。そんな日は叶多がメイクをしていると必ずやって来て、くすぐったり、キスマークをつけたりと明らかに邪魔している。
 ガラスに模様つけるみたいにメイクアップは楽しかったけれど、いまはリップだけにした。プラスするとしてもアイライナーくらいだ。
 そう変えてから一週間、戒斗が邪魔しに来なくなったことで、やっぱり気に入らなかったのだと叶多は確信した。

 全般に(わた)ってはっきり物事を口にする戒斗ではないものの、ともすれば子供っぽいともいえる、ああいう行動ははじめて見た気がする。
 脳みそレベルでは絶対に追いつけなくても、それ以外のところでだんだんと叶多と戒斗の距離が近づいているみたいだ。
 一年前のいまの季節に戒斗とやっと会えて、それでもそのときはまだ、いろんなことで距離がありすぎた。戒斗に会えた頃と同じように梅雨のいま、外はしとしとと雨が降っている。そのうっとうしさを忘れるくらい、この一年の変化は感動じみてじんとする。

 ……あ、でも、もう一つ追いつけないものがあった。それは、えっち。
 叶多はまだ素直になれていない。同棲からまもなく一年になろうとしているのに。その気になった戒斗にはすぐ観念しても、気持ちと躰は別行動をしていて、嘘吐きなのはどっちだろうと思うほど気持ちは抵抗しっ放しだ。戒斗が手を出せないとわかっているとためらいなくできるハグも、制限するものがなくなれば積極さが欠けてしまう。
 誕生日に気絶するまで酷くやられて、それ以来は普通になっているけれど。
 真理奈からもらった手錠と首輪もしまった。というより、隠している。戒斗はふたりの合意があればセックスに決まりなんてないと云うけれど、ああいうのを使うってどう考えても普通じゃない。どっちにしろ、普通でもやられているばかりだ。
 いや、普通というのはあくまで叶多と戒斗の場合だ。叶多だけがイクという状況がすでに普通じゃないことは確かだから。

 それを考えればあの誕生日……やっちゃってればよかった。はしたないけど、あの時を逃したことで余計に(さわ)れなくなった。まず云いだせない。
 イキそうになった、というのが本当のことかどうかはともかく。せっかく触れたのに……戒斗の……あれ……を……。
 そこまで至ると、叶多の回想はあらぬ方向に考え巡っていく。
 ……あ、あれって……あたりまえのことだけど、ずっと前に見た頼のとは全然違って……お……おっきい……それに……柔らかい皮膚を被ったなんとかみたいに……なんとか、ってなんでもいいけど、とにかく、なんとかみたいに……か、硬くて長くて……少なくとも指より……長かった。……あれがあそこに……指だっていっぱい……いや、戒斗の指はギター弾いてるから普通よりは大きいんだけど……それよりはおっきいし……あたしの中に……は、入りきれるんだろうか…………――。
 そこで思考停止した。

「……おい。八掟、おまえ云ってる傍からボケてっぞ」
 斜め向かいの永から目の前に指を突きつけられて、叶多ははっと我に返った。
「ボ、ボケてないよっ」
(よだれ)
「えっ」
 隣に座った陽が叶多の口もとを指差した。
 反射的に拭うと、陽は顔をしかめ、永は笑いだした。拭ってみても身に覚えのない涎は当然出てなくて、手が濡れるわけもない。からかわれたのだ。
「真っ昼間から何考えてんだよ。相変わらず、お盛んだよな」
「違うよっ」
 違わないけれど、歴然と赤くなりながらもとりあえず叶多は否定した。
「いいじゃない、お盛んでも。ね、叶多。これでも食べて落ち着いて」
 ユナは云いながら叶多の洋風幕の内定食に手を伸ばし、ウィンナーを取って口もとに差しだした。

 ウィンナーといえば……。
 回想していただけに、ずっとまえの真理奈との会話が否応もなく甦った。
 目の前のウィンナーは戒斗のあ、ああ、あれよりずっと小さい。あ、でも戒斗の指くらいはあるかも……。……じゃなくて。
 自分で思考を止めたとたん、三人の視線を一手に引き受けていると気づき、叶多は急いで妄想を振り払った。ここで口を開けてパクついたら最後、絶対にヘンな突っこみをされるに違いなく。

「ユナ、もういい」
 叶多はため息を吐いて、意図的なのか偶然なのか、よりによってウィンナーを持ったユナの手を押し退けた。
「あら、そ? 好物なのに――」
「叶ちゃん、おれも一緒していいかな」
 突然、ユナの背後から貴仁(たかひと)が現れたと思ったら、返事するまもなく叶多の横に座った。
「あ、貴仁さん、こんにちは」
 呼びかけるのと同時に叶多は隣の貴仁を見上げた。
「わ、びっくり。貴仁さん、神出鬼没ですね」
 ユナは目を丸くして貴仁を見ている。
 あれから、貴仁とは何度か会って“知り合い”と呼べるまでに発展した。呼び方も、いつの間にか『八掟さん』から『叶ちゃん』に変わっている。叶多と一緒にいることが多いユナも必然的に顔見知りになった。ユナの云うとおり、貴仁はいつもどこからともなく現れては、なんの用だったのかわからないうちに消えていく。

「ユナちゃん、こんにちは。そっちはカレ?」
「時田永です」
「よろしく。それでそっちが叶ちゃんの噂のカレシ?」
 貴仁は前のめりになって、叶多の向こう側にいる陽を覗いた。
「噂、ってなんですか」
 叶多は怪訝な顔で首をひねった。
「弟くんがカレシいるって仄めかしてたよね」
 叶多は貴仁の答えにほっとした。戒斗のことは隠そうと、こそこそしているわけではないけれど、公私ともにまだ公然としているわけでもなく、場合によって噂はとんでもない事態に発展する可能性もあって、叶多としては避けたいところだ。
「あ、そういうことですね。渡来くんは友だちです」
「じゃなくて、“カレシ”候補だ」
 陽が横槍を入れた。
「渡来くん、まだ――」
「へぇ、叶ちゃん、カレシいても候補受けつけてるんだ。じゃ、おれも参加しようかな」
 貴仁が軽いノリで云ったとたん、叶多の目の前で陽の顔が殺気だった。
「なんだ、こいつは?」
 陽は貴仁に視線を置いたまま、質問を叶多に向けた。
「た、貴仁さんといって文学部の二回生の先輩なの。話したことあるよね――」
「よろしく、渡来くん」
 叶多の紹介に重ねるように貴仁が口を挟んだ。陽は挑発ととったらしく、ますます顔を険しくした。叶多の後頭部から貴仁の小さく笑った声が聞こえた。
「怒らせたかな。悪いね。用件済んだら退散するよ。叶ちゃん、試験が終わって夏期休講に入ったら、ガラス工房に連れってってくれるかな」
 貴仁は陽に謝ったあと、叶多に向かって約束の件を持ちだした。
「あ、いいですよ。崇おじさんにも云ってますから。都合のいい日を云ってもらえれば合わせます」
「サンキュ。楽しみにしてる。また連絡するよ。じゃ、お邪魔しました」
 可笑しそうに四人を見回して貴仁は立ち去った。

「なんだ、あいつは?」
 貴仁の背中を見送りつつ、陽が再び同じことを訊いた。
「だから先輩――」
「そういうことじゃない。なんか胡散(うさん)くさい奴だな。普通、初対面でよろしくって云うときは自分も名乗らないか?」
「そういえば、叶多、名前はちゃんと訊いたの?」
「ううん。いつも訊こうと思ってるんだけど、いまみたいにすぐどっか行っちゃうし、探してもどこにもいないんだよね」
 叶多が首をかしげて困ったように云うと、陽はまた振り返って眉をひそめた。すでに姿はない。
「あいつが行くときはおれも連れていけ」
「どこに?」
 きょとんとした叶多に、陽は(はく)をつけた顔つきで云い渡す。
「ガラス工房だろ」
「……わかった」
 なんとなく気乗りしないままも気圧(けお)され、渋々と叶多は了承した。

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