Sugarcoat-シュガーコート- #92
第10話 Prologue Spell
叶多 13age 戒斗 19age
青南の中等部に入学してはじめての夏休み。
去年の夏休みと違うのは勉強から半分くらい解放されたこと。半分くらいというのは、青南のレベルが高くて叶多にはちょっとついていくのがたいへんなのだ。レベルが高いというよりは授業が進むのが早いといったほうが正しい。公立でほぼ三年間かけてやる課程を、青南は三年の一学期までに全部終わってしまうらしい。
叶多がそのスピードについていくには、授業のない長期休みに努力するしかない。戒斗が家庭教師をやってくれた半年余りの間に徹底して教えられ、勉強のやり方は身についた気がしている。
ユナという友だちもできて、一緒に出かける予定が立っていることも去年とは違う。
それは“うれしい”という違っていること。
“うれしくない”という違っていることは、戒斗と会えなくなったこと。
ずっと会えないわけではなくて、一週間に一度は来てくれる。ほんのわずかな一時間くらい。その時間に何をやってるかというと、やっぱり勉強を見てくれて、ちょっと話し相手になってくれて、そしてほとんどを寝ている。
いまもそう。大学が夏季休講に入った今日、戒斗は午後になってやって来ると、寝転がって叶多の相手をしているうちに眠ってしまった。
戒斗は叶多の家庭教師をやめると同時にバイトを始めた。眠ってしまうくらいきついのかな、と思うだけで、そこまでする目的がなんなのかは皆目見当がつかない。
その“なぜ”を知るより、叶多が重大視しているのは戒斗との時間が終わりそうな気配。最近になって、戒斗は何か云いたそうにして叶多を見ていることが多い。だいたいが鈍感なのに、戒斗に関しては本能が発揮されるのだろうか。
戒斗には云っていないけれど、やっぱり七月になると里佳のことが鮮明に記憶に還ってつらくなった。
時間を共有できるのなら眠っていてもかまわない。
怖いのは、さみしい、ということ。
叶多はテーブルの向こうで寝転がっている戒斗に近づいた。もうそろそろ帰る時間のはずだ。
叶多は胸の上にゴロンと載っかった。こういうときは“犬”でよかったと思う。戸惑いはあっても遠慮なく戒斗に触れられる。
すぐに目を覚ました戒斗は驚きもせず、含み笑いをしながら叶多の背中に腕を回した。
「戒斗……」
叶多はつぶやいて、そのまま黙りこんだ。
「……なんだ?」
いつもなら、ちょっと抱き返してもらうとすぐに離れるけれど、今日はそうしなかった。起きあがろうとする戒斗に、叶多は引き止めるように体重をかけた。
「……戒斗が好き」
叶多の告白に反応したのは耳の下にあった鼓動。どくんと一回大きく打って一瞬だけ静止したような。どういう応えなのかはわからない。
戒斗はしばらくして、たった一言を口にした。
「わかった」
あの時と同じ、『わかった』。
けれど、それは答えじゃない。
叶多が躰を起こすと戒斗も起きあがって、まっすぐに向かう瞳と瞳がぶつかった。ふっと戒斗が笑みを漏らす。
「泣くことなのか? 卑怯な手段だ」
「……何も教えてくれない戒斗のほうがずるい」
叶多が云い返すと、おもしろがった眼差しはふと表情を消した。
「そうかもな。バイトの時間だ。じゃあな」
何事もなかったように普段と変わらない“さよなら”をして、戒斗は帰っていった。
その夜、会った日にしてはめずらしく戒斗から電話があった。バイトが終わって、いまからここに来ると云う。
嫌な予感。
叶多は、もう寝るから、と云って、やっぱりめずらしく戒斗と会うのを拒んだ。めずらしくというよりは、はじめてだ。
それでも戒斗はやって来た。
出迎えもせず、灯りを消して暗くしていたのに戒斗はずかずかと部屋に入った。
「叶多」
部屋が明るくなって、戒斗の目が隅にいる叶多を捉えた。戒斗が近づいてくると、叶多は立てていた膝をさらに縮めて抱えこんだ。
「叶多、しばらく会いに来れない」
戒斗は目の前にかがむと淡々として結果だけを告げた。
「やだ」
「当然だったことが当然じゃなくなったんだ。自分を確かめたくなった」
「やだ」
「叶多、おまえといてそう考えるようになった」
「やだ。わかんない!」
叶多は伏せていた目を上げた。ずっと、いつも、まっすぐに叶多を見る瞳と目が合ったとたん、視界がぼやけた。戒斗の手が濡れた目を拭ってそのまま頬を包んだ。
「おまえの告白が決断させてくれた」
「やっぱり……云わなきゃよかった」
叶多の口が歪んで嗚咽が漏れた。
反比例して、『やっぱり』という声のニュアンスから、叶多がなんらかを気取っていたと知った戒斗の口は笑みに歪んだ。
「忠実な犬だけあって、さすがに嗅覚は鋭いんだな」
「云わなきゃよかった!」
叶多は同じ言葉を今度は叫んだ。
「叶多、ちゃんとおまえの気持ちは持ってく。それだけで頑張れるから」
引き止められないことはわかっている。誰がどんな反論を並べても、戒斗がいいかげんな人間じゃないことは胸を張って主張できる。
叶多に残ったのは『しばらく』という言葉。
「……いつになったら……会えるの……?」
拭っても拭っても涙腺は最大に開きっぱなしで、ポタポタと戒斗の手に落ちる。
「おれがやるべきことを見つけられて、それまでおまえの気持ちが変わらなかったら迎えにいってやる。どこにいたって」
叶多がうなずくと、滲んで見える戒斗の頭も縦に揺れた。
「ありがとう、叶多」
囁くように云って戒斗の手が頬から離れた。
きっと、ありがとう、と云うべきなのは叶多のほうだ。けれど、そう云うとずっと会えなくなるような気がして。
叶多の口から出たのは歯止めを失くした言葉。
「戒斗が好き、ずっと好き!」
叶多が戒斗を好きでいるかぎり、戒斗の言葉は嘘じゃない約束。そう信じた。
「じゃあな」
笑っていそうな声で、そしていつもの、どうとでも解釈できる挨拶言葉を残して戒斗は出ていった。
戒斗が好き。
それは約束が叶えられるための呪文。
* The story will be continued in ‘Cry boy’. *