Sugarcoat-シュガーコート- #90

extra Full course -2-


 戒斗が待ち合わせに指定した場所は、ビルや建物、公園が集合した、一つの町みたいな所でまだ真新しい。いちばん目立つビルはすこぶる高さで、すぐ下から見上げると倒れそうなほど首が仰け反った。
 待ち合わせの目印は広場の芝生の中にぽつんとある巨大なオブジェだ。何を表しているのか、像の耳に見える。人が多く、叶多と同じように待ち合わせらしい人もいて、このオブジェの前ならまずすれ違うことはないだろう。
 約束の時間は六時。それまで十分くらいあると携帯電話で確認したとき、遥か目の前に戒斗の姿を捉えた。
 顔なんてまったく見えない距離でも、ここは犬的反応が力を発揮して、叶多は匂いならぬ雰囲気で察知した。
 駆けていきたい衝動を抑えた。戒斗はすぐに叶多を見つけるだろうか。
 そのわくわくと、経験のないシチュエーションというドキドキに心臓が飛びだしそうだ。
 戒斗はまっすぐに叶多へと向かってくる。近づくにつれ、戒斗がいつにないスーツ姿だとわかった。前のボタンは開けっ放しだけれど、ジャケットまできちんと羽織っている。
 叶多にしろ、洋服はおニューで髪型はふわふわでメイクまでしているというのに、戒斗には探す手間も見えず、迷いなく正面に来て立ち止まった。
 縁の太い眼鏡の奥から目を細め、戒斗は叶多を一通りした。叶多が首をかしげると、戒斗は口を歪める。
 結局、驚かされたのは叶多のほうかもしれなかった。いつも無造作におろした髪は撫でつけられていて、いまの戒斗は重要ポストにいるビジネスマンみたいに落ち着いて見える。おまけに、普通なら不細工な眼鏡も、正体を隠すにはある程度役に立っているけれど、端整な容姿にはまったく影響していない。

「なんだかずるい!」
「なんのことだ?」
 叶多の第一声に戒斗は短く吹きだした。
「せっかく近づけたかなって思ってたのに、戒斗はますます大人な格好してる。それに全然、驚いてくれないし」
「これでも驚いてるつもりだけどな」
「だって迷わなかった」
「おまえも、だろ?」
 叶多はつと考えた。
 そう云われればそう。そっか。おんなじ、なんだ。
 尖った口が打って変わって広がると、戒斗は可笑しそうに叶多を見下ろした。
「行くぞ」
 戒斗がかすかに顎を動かした。叶多は躰をひるがえした戒斗の左手に右手を滑りこませた。
「どこ?」
「世間お決まりのデートフルコース。こういう待ち合わせとかやって出かけることなかったし、おれからの誕生プレゼントだ。ちょうどあの美術館でガラス展やってるから、そこからどうだ?」
「うん!」
 満面に笑みを浮かべ、叶多が大きくうなずくと、歩きながら見下ろしていた戒斗の口が片方だけ歪んだ。
「戒斗」
 耳を澄ましていないと聞こえないくらい小さく叶多が囁くと、思ったとおり戒斗は少しだけ身をかがめた。叶多はちょっと伸びあがって、衝動のままに素早く歪んだ口の端を舐めた。そのままちょっと下りて首筋に甘く咬みつく。
 戒斗が手を出せない場所になると、叶多はこういうことを平気でやってのける。
「覚えてろよ」
「きっと、覚えてないといけないのは戒斗のほうだよ」
 戒斗はまるっきり忘れているのか、その呆れたような声に叶多はがっかりとため息を吐いた。
「なんだ?」
「覚えてない?」
「何を? 覚えているとしても、叶多の思考回路はへんなとこに行き着くからな。おまえの結論を聞くまで判断しようがない」
「さりげなく酷いことを云ってる」
「ガラスで機嫌直してくれ」
 戒斗はおもしろがった声で云いながら、むっつりした叶多の手を引いた。


 美術館はデートスポットにあるせいか、閉館も九時と遅いようだ。人もそれなりに多い。計算された照明が展示したガラスに反射して、幻想的な空間を醸しだしている。
「今日ね、あたしが書いたガラスの論文を読んだって人が声をかけてきたよ」
「あの酷いやつをか?」
「……戒斗のほうがよっぽど酷い」
「冗談――」
「に聞こえない。自分の実力はわかってる」
 叶多が素早くさえぎると戒斗は足を止めた。さっきの不機嫌が尾を引いているのか、見下ろした叶多は怒ったようにそっぽを向いて、そのくせ手を離そうとすると引き止めるように握りしめる。
「叶多」
 叶多は笑みの滲んだ声にも振り向かない。
「きれいだ。可愛い」
 戒斗のストレートな賛辞はめったに聞けない。声に感情がこもっていなくても、話を逸らされても、ご機嫌とりだとわかっていても、叶多はすかさず反応した。
「ホント――?!」
 云いかけた叶多は、斜めに躰をかがめた戒斗のくちびるにさえぎられた。ぺろりと舐めてすぐに戒斗は離れたけれど、思わず叶多は周囲を見回した。広場と違って人との距離は近く、いくつか知らない目と合ってどぎまぎした。
「見られちゃってるよっ」
「美味しそうに光ってるから」
 声を潜めた戒斗は澄ましていて恥ずかしさの欠片もない。
「せっかくきれいにしてもらったのにリップ、取れちゃう」
「なるほど。はじめてにしては化けすぎだって思ったんだよな。誰にやってもらったんだ?」
「化けすぎって酷い」
「もとがよくないとここまでよくはならない。……ってことでどうだ?」
「最後は余計」
 叶多は手を繋いだままに戒斗の脚にぶつけた。

「それで誰だ? ユナちゃん?」
「ううん。真理奈さん。突撃訪問でしてもらった」
「……ふーん」
 戒斗はちょっと間を置いてから曖昧に相づちを打った。覗きこんでみたけれど、いつものことながら読み取れない。
「……何?」
「いや」
「そう? ちゃんと教えてもらったし、今度は自分でやってみる」
「おれはそのまんまでいいけど」
 戒斗はぼそっと零した。
「そうなの? じゃあ、こんなふうに出かけるときだけにしようかな。ガラス作るときなんて汗かくし、きっとメイクはボロボロになって余計に見られなくなってるかも」
「はっ。色気よりガラスなのか?」
 おもしろがって指摘した戒斗は、叶多が大きくうなずくと小さく笑い声を漏らした。
「だって。どんなにきれいにお化粧したって、ガラスには負けちゃう」
「叶多とガラスは似てるかもしれない」
「え、どこが?」
「例えば、熱くなるとすぐ溶ける」
 ……。
 考えこんだ叶多が戒斗を見上げると、そこにはニヤついた顔があって、いまの仄めかしが場所を弁えない話だと察した。
「ドロドロに溶けるのを見てると、熱いのを忘れて触りたくなるんだよな。グチャグチャにかき混ぜて舐め――」
 叶多は繋いでいた手を離し、急いで戒斗の口を両手でふさいだ。眼鏡の奥で目が細くなった。
 赤くなった叶多の瞳は潤んでいて、何を想像したのかは明白だ。戒斗は叶多の手をつかんで口からどかした。
「プレゼントと云ったからには履行しないとな。色欲は食欲を満たしてからだ」
 ついいましがたまでのからかった眼差しが消えて、戒斗は生真面目に云った。それはどこか宣言じみていた。


 やたらとのっぽのビルに入ると、振動を感じない高速のエレベーターで上昇した。満員に近いなか窓際に押しやられると、シースルーの視界は下が丸見えだ。叶多は落ちそうな気がして戒斗にくっついた。たぶん笑っているのだろう、頭の上で息が漏れた。
 あっというまに四十五階まで昇り、エレベーターを降りてまっすぐ先に進んだ。入ったレストランはいかにも高級そうで、戒斗が名乗ると給仕は奥へと先導して窓際のテーブルを案内した。七時をすぎ、すでに暗くなった地上は光が溢れて、遥か遠くまで一望できる。
 どちらかというと、叶多ほどの若いカップルは少なく、落ち着いた雰囲気だ。戒斗が目立つことを考えるとほっとした。戒斗は無頓着だけれど、叶多はばれないかとハラハラしっ放しだ。
 それでもその不安よりはやっぱり、うれしい、というのが先行している。
 食事中はバンドの話題がもっぱらだった。ツアーが一段落したと思ったら、また次のアルバムの製作に入るらしい。
 ビッグニュースだったのは、デビュー一年を経て航と実那都が八年越しの交際から入籍に至ったこと。まだ会ったのは数える程度だけれど、自分のことのようにうれしい。
 戒斗がそうであるように、叶多にとってもFATEという場所はなんだか温かくて、居心地のいい空間になっている。何より、戒斗の“普通”が見られる場所だ。

「戒斗、プレゼント、ありがとう。待ち合わせとか、こういうのははじめてで、いつも一緒にいるのにドキドキした。“普通”っていいよね? 手を繋いで歩くことってあんまりないからホントによかった!」
 レストランを出ると、感謝するように合わせた手を口もとに置き、叶多は満ち足りた声で云った。
 猫だったらゴロゴロと喉を鳴らしていそうな様子に、戒斗は笑った。
「時間取れないし、目があるからな。けど、こういうのもたまにはいい。知らないことに気づける」
「何?」
かしこまったとこだからさ、もっと戸惑うかと思ったけど、物怖じしないし、マナーも成ってた」
 戒斗は背後のレストランをちらりと見やった。
「深智ちゃんに付き合って鍛えられたから。でも見られながら食べるのはやっぱり苦手。急かされてる気分」
「深智とのことはまるっきりマイナスじゃなかったわけだ」
 戒斗の声はからかっているようで、その実、ちょっと複雑に聞こえた。事件を思いだすような話題が出るたびに戒斗はどこかしかめた口調になる。
「もう、大丈夫だよ?」
「わかってる」
「深智ちゃんと瀬尾さん、うまくいってる? このまえ深智ちゃんからもらったメールじゃ、曖昧っていうか……幸せっていうオーラがない感じ」
「瀬尾にはプライドがある。瀬尾に限らず、有吏の男が築きあげたプライドは生半可じゃない。感情よりも、やるべきことを最優先でベストを尽くしている。その順番を変えるということは、自分に負けたことになる。けど、それは負けじゃない。そうしたうえでやるべきことをやり抜く。そうできて、はじめてプライドは成立する」
「瀬尾さんは迷ってるってこと? 戒斗の云ってることは難しいよ」
「おれもその証明の途中だ」
 叶多が首を傾けて戒斗を覗きこむと、途中とは思えないくらいに自尊心が見えた。叶多を見下ろした戒斗の表情が不意に緩む。
「瀬尾に比べたら、おれのほうがかなり往生際いい」
「そう?」
「じゃ、その証明だ。フルコースといえば、最後はやっぱりデザートだよな」
 叶多の問いかけに答えた戒斗は、どう見ても“悪魔の微笑”を浮かべた。

 戒斗から背中を押されて乗ったエレベーターは下がるのではなく、さらに上昇した。
「戒斗?」
「せっかくの誕生日だし、たまには贅沢もいい。今日はここに泊まる」
「着替え! 持ってきてないよ」
「どうとでもなる」
 云い放った戒斗を引き止める間もなくエレベーターの扉は開き、叶多には不釣り合いな空間が広がった。尻込みしたけれど、戒斗は強引に叶多を引き連れて、案内するホテルマンのあとを追った。
 通された部屋は北海道のときよりも豪華で、花の香りが漂ってきた。ベッドルームの一面窓から見える夜景は圧巻だ。
「お届け物がございましたので奥の部屋に通しております。ご確認いただけますか」
 ホテルマンが云うと、叶多と戒斗は顔を見合わせた。戒斗はかすかに肩をすくめ、ホテルマンに続いて奥へ進み、叶多はその後ろから部屋を覗いた。
「……わぁ、きれい」
 花の香りの理由はこの部屋にあった。中央の丸テーブルに所狭しと大ぶりのフラワーバスケットがいくつかあって、色とりどりの花が部屋を華やかにしている。その横には、大げさすぎるくらいのリボンでラッピングされた箱が三つ添えられている。
 近寄ってみると、花にはそれぞれにバースディカードが入っていた。両親、和久井、瀬尾、拓斗、それにタツオからだ。
「これ、どうするんだ?」
 ホテルマンが去ったあと、戒斗は独り言のように唸った。
「ここに泊まるって教えたの?」
「教えるわけない」
 叶多が目を丸くすると、戒斗はため息紛いに笑った。
「目があるって云っただろ。有名税ってこととは別に有吏の情報網に見張られてる。こういうことは見張る必要もないけど、その気になれば調べられる。和久井のお遊びだな」
「でもゴージャスな誕生日でうれしい。プレゼント、開けていい?」
「おまえがもらったんだ。好きにすればいい」
 叶多はうれしそうにうなずき、戒斗に見守られながら箱を手に取った。

 一つ目の小ぶりの箱は那桜からでアクセサリーが一揃いしている。二つ目に開けた深智からの箱には、カチッとして、それでいてジーパンとか砕けた格好にも合うようなバッグが入っていた。赤茶という、季節もあまり選ばない感じの色で、オールマイティに活躍してくれそうだ。
 三つ目の箱にはカードがなく、とりあえず手に取るとジャラジャラと音がした。
 ジャラジャラ?
「へ?」
 箱の蓋を開けた叶多の手が止まる。
 く。
 戒斗が短く吹いた。
「……これ、何?」
 叶多は顔を上げて怯えたように戒斗に問いかけた。
「これはなんだ?」
 戒斗が中身を取りだして逆に問い返す。問われなくてもわかる。
「……手錠」
「じゃ、これは?」
「……首輪」
 長い鎖が付属した輪っかは、円周が小さすぎて明らかに腰につけるベルトじゃない。犬の首輪よりベルトの幅が広く、皮が黒光りしている。
「……これ……なんに使うの?」
 恐る恐る、情けないほどの声で叶多は訊ねてみた。
「犬が逃げないように、じゃないのか?」
「……あたし、別に逃げないよ!」
「叶多は自分のことを犬だって認めるらしい」
 戒斗がおもしろがって叶多の髪をつかんだ。ずっと幼い頃、よくやられていたように引っ張られた。
「大丈夫だ。こういうのを使う気はない」
「って云いながら一回縛られた!」
 叶多が責めてもどこ吹く風で戒斗は笑い、手を離して箱の中のカードを取りあげた。
「誰から?」
「……真理だ」
 そう云ったとたん、戒斗の瞳が妖しく光った。

BACKNEXTDOOR