Sugarcoat-シュガーコート- #89

extra Full course -1-


 高等部のときより二倍の長さになった講義は、ただでさえない叶多の集中力をだんだんと奪っていく。
 美術史の絵画専任の草野教授はよほど好きなのだろう、西洋絵画の話になると熱が入るあまり脱線ばかりしている。どこまでが自論でどこまでが史実なのか、まったくはっきりしない。つまり、自分で裏付けをとることになる。戒斗が云うには、それが“学ぶこと”らしい。
 こういう戸惑いが多くて、叶多は五月の連休を過ぎてもまだ大学の体制に慣れていない。週休二日ではなく土曜日に講義があることで、なんとなく一週間の流れが遅くなった気がする。

 今日はその土曜日、五月十五日で叶多の誕生日だ。
 三時限の授業が終わり、あとは帰るだけとほっと息を吐いたとき、空いていた隣の席にとうとつに人が座った。
 目を向けると、叶多は知った顔に合って驚いた。まさに顔を知っているにすぎず、中身の情報量はゼロだ。
「久しぶり」
 目を丸くした叶多を差し置いて、まるで長年見知った友だちみたいに話しかけられた。
「えっと……」
「命の恩人を覚えてない? 自信なくすな。おまけに薄情だ」
 あの短い時間で少なくとも、相手が叶多を覚えていることは確かなようだ。五カ月前に会った彼は、駅での出来事を持ちだして(なじ)った。責める口調とは裏腹に、すっきりときれいな顔立ちはおどけている。
「じゃなくて、その顔を覚えていないとしたら美的感覚を疑われそう。反対に、あたしが覚えられてることを不思議だと思って」
 首をすくめて叶多がそう云うと、彼は少年ぽい表情で笑った。
「よかった。名前は? おれは貴仁(たかひと)
「八掟叶多です」
「ビンゴだ」
 叶多が名乗ると、貴仁は指を鳴らしてニヤリとした。
「なんですか」
「ん。草野教授がさ、おもしろい論文を提出した子がいるって教えてくれたんだ。あ、云い忘れたけど、おれは哲学専攻の二回生。一回生のときに交流講義を受けて以来、草野教授とは息が合って話すことが多いんだ」
 青南は高等部から大学に進級するに当たって、希望する専攻科に論文を提出しなければならず、叶多は悪戦苦闘しながら、どうにか原稿用紙百枚というノルマをこなした。
 どう評価されるのかはよくわからないけれど、美術史科は希望者が少なく、叶多はすんなり希望どおり進級に至ったわけで、いまの貴仁の発言からすれば論文は意外に受けていたらしい。

「読みました?」
「悪いけど、読ませてもらったよ。タイトルに興味を引かれたんだよな。“ガラスと砂糖菓子”ってどうくっつくのかなって思ってさ。文章はお世辞にもうまいとは云えなかったな」
 自分の実力は承知していても、いざ云われたら傷つくような率直な感想だ。けれど、貴仁のからかうような口調のせいか、叶多は落ちこむより照れて笑った。
「それでどうでした?」
「美味しそうなガラスを作りたいって、かなり独創的だ」
「あ、でもけっこうガラスと砂糖菓子……っていうより、(あめ)なんですけど、共通してるんですよ。吹き飴とか岩飴とか、作り方が似てるし……ガラスって、たまに自分で作ってても水飴に見えて食べたくなっちゃうんです」
 叶多が首をかしげると、貴仁も合わせて可笑しそうに首をひねった。
「へぇ。今度、作ってるのを見てみたいな?」
「ああ……じゃ、(たか)おじさんに訊いておきます」
 どこまで本気なのか、ためらいながら叶多が申しでると、関心を見せて貴仁は身を乗りだした。
「崇おじさんて?」
「江戸切子の伝統工芸士さんです。そこでいつも作らせてもらったり、売ったりしてるんです」
「へぇ、売ってるんだ。ますます興味湧くよ」
「貴仁さん、ガラス、好き――?」
「叶多?」
 叶多が貴仁に訊ねかけたとき、違う教室だったユナが名を呼びながら近づいてきた。
「じゃあ、八掟さん、楽しみにしてるよ」
 貴仁は(おもむろ)に立ちあがってユナに挨拶じみて小さくうなずくと、教室を出ていった。かわりにユナが貴仁の背中を追いながら隣に座った。

「誰? またすんごいイイ男」
「まえにね、階段から落ちそうになったのを助けてもらったの。ここの哲学専攻の二回生なんだって。名前は貴仁さん……あれ、名字は聞いたっけ?」
「ぷ。叶多らしいね。それにしても叶多って、ここ一年イイ男の輪を広げてるよね。体内にそういうのを引き寄せる磁力持ってるんじゃない?」
 突拍子もないユナの発言に目を丸くしながら、叶多は声を出して笑った。
「そんなのあるわけないよ。それに貴仁さんは知り合いというほどでもないし」
「楽しみにしてるって云ってたじゃない」
「あー、じゃ、これから知り合いになるかも。あたしの論文を読んだらしくて、ガラス作ってるのを見たいんだって」
「ふーん」
「あ……でも連絡する方法、聞いてなかった!」
 今度はユナが笑いだした。
「さっきの人と叶多と、どっちが間抜けなんだろうね」
「間抜けって酷い」
「まあ、それはともかく。叶多、誕生祝い。おめでとう」
 ユナはバッグを探り、ゴールドのリボンでラッピングされた赤い箱を取りだした。
「ありがとう! 開けていい?」
「どうぞ」
 片手でつかめるくらいの小箱を開けると、中にはリップとピンクのマニキュアが入っている。
「今日は戒斗さんとデートだって云うし、いいかげん、ちょっと着飾ってもいいかなって思って。お化粧に慣れる第一歩としてどう?」
 そう云うユナは、スッピンの叶多と違って、もうメイクが板についている。
「うれしい。ありがとう。今日、早速使っていくよ」

「毎日一緒にいるのにデートって、戒斗さんも気がきくよね」
「うん。家でいいって云ったんだけど、やっぱりうれしい」
「戒斗さんの誕生日のプレゼントって何? けっこう興味あるんだけど」
 ユナが好奇心旺盛な眼差しを向けると、叶多はふと固まった。
「……えっと……その……」
「どうしてそこで詰まるの?」
「いや……ちょっとユナに訊いてみたいことがあるんだけど……」
「何?」
「えっとね……インラン、てどういうこと?」
「えっ?!」
 ユナの仰天した眼差しは叶多を余計に恥ずかしくさせる。
「いや、やっぱりいい」
「ふーん……そうだねぇ」
 叶多は慌てて取り消したけれど、ユナは何かしら結論づけたようだ。
「……そうだね、って?」
「えっちしてても叶多は叶多なんだと思って」
 身構えた叶多に声を潜めて答えたユナは、どこかしらニヤニヤしている。
「……どういう意味」
「同棲始めてからもう半年以上たったのに、まだ戸惑ってるみたいじゃない?」
「だって……慣れないんだよ」
「んー……それって相手が戒斗さんみたいな大人だからなのかもね。一方的? あたしの場合はなんとなく対等だし、ふたりで手探りしてるって感じ」
 へんな話にも拘らず、ユナが真面目に戻って答えてくれると叶多はほっとした。
「そういうところはユナがうらやましいかも。ユナの云うとおり戒斗は一方的だし、始めたら一回で終わらせてくれなくて、訳わかんなくなって気絶しちゃったり……怖いん……だ……。……ユナ?」
 気を緩めて打ち明けているうちにユナの目が点になり、叶多は尻切れとんぼになって口を(つぐ)んだ。
「……叶多、その……一度にどれくらいイっちゃってるの?」
「イ、イっちゃ――っ!」
 叫びかけた叶多の口はユナの手でふさがれた。慌てて周囲を見回すと、幸い、ほとんどの学生は教室を出ていて注目されることはなかった。ユナもそれを確認して、叶多を解放した。
「ユナ、こんなとこで……」
「この話題振ったのは叶多だよ」
「……そうだけど……」
「それでどうなのよ」
「……ぃや……だいたい二回……くらい」
 叶多は小さい声で控え目に云ってみた。
「だいたい、ってことはそれより多いときがあるわけだ」
 ユナは叶多の告白の裏を読んで、ふむふむと探偵もどきで推察した。
「……だってやめてくれないから」
「毎日?」
 叶多がおぞおずとうなずくと、ユナは驚嘆のため息を漏らした。
「叶多、あくまであたしの経験上だけど。えっちって気持ちよくされても、最後はやっぱりイキたいって気持ちを持ってないとイケなくない?」
「……。……そう?」
「だってね、しょっちゅう発情期って普通ないよね。気分的にダメなときあるし。まあ叶多の場合、航さんがからかったように、よっぽど戒斗さんがうまいのかもしれないけど」
 ユナは云い添えた。顔を火照らせながらも叶多は回想してみた。
 そういえば、いまでこそ自分でイケるようになったけれど、戒斗の許可がないとイケなかった。それはどこか自分をセーヴしているわけで……。でも、最近は我慢がきかなくなっている。というより我慢するって、もうその時点であたしはイク気満々?!
 そう気づいて、叶多は自分でも顔が赤くなったのがわかった。耳までカッと熱が出たみたいだ。
「……や、戒斗がうまいとかわかんないよ。比べられないし」
「それはともかく、いくらよくってもうまくっても、気絶ってのがわかんないのよね、あたしとしては」
「……ない?」
「ない」
 ユナがきっぱり云うと、叶多は不安になった。
「あたし……やっぱりおかしいのかも……」
「ていうか、うらやましい話だよねぇ。まえに戻すけど、そこまでイケる叶多って、インランに値すると思う。もしかして戒斗さんに云われた? でも、終わらせてくれないってことは別に嫌に思ってるわけじゃないってことでしょ。気にすることない……」
 ユナはふとなぐさめていた言葉を途切れさせた。叶多の表情は、傷ついているどころか不安が消えて晴れやかになった。
「あたしって……インランなんだ」
 それはなぜかうれしそうな、訳のわからない反応で、ユナは怪訝そうに叶多を覗きこんだ。
「叶多?」
「ユナ、ヘンな話に付き合ってくれてありがとう。あたし、がんばるね!」
 果たして淫乱という本来の意味がわかっているのか、ユナは叶多の思考についていけず、小さく肩をすくめた。



 大学から帰ると掃除したり、洗濯物を取りこんだりと時間が過ぎた。出かけるまで一時間を切った頃になって、叶多は久しぶりの、というよりは初のまともなデートの支度を始めた。
 今日の服はいつものすとんとした長めのチュニックではなく、少しだけボディコンシャスなグリーングラデーションのミニ丈のワンピースだ。スカートの裾はバルーン型になっていて、可愛い大人の女性を演出している。と、マネキンを見て思い、買ったのだけれど、叶多が着るとやっぱりどう見積もっても学生だ。学生には違いないけれど、下手すれば一階級下の学生に見られる。
 叶多はダイニングに置いたスタンドミラーを見てため息を吐いた。深智の雰囲気には程遠い。

 せめてと、ユナからもらったマニキュアをして、それが乾いてからリップを手に取った。
 そのとき、予定外のドアホンが鳴ると同時に、玄関の外から真理奈のくぐもった声がした。
「叶多ちゃん、いるよね?」
 叶多が応じながらドアを開けると、真理奈の視線が躰の上から下まで一通りしてまた顔に戻った。真理奈はなぜだか二度うなずいた。
「真理奈さん、どうしたんですか?」
「お誕生日おめでとう。お誕生祝いと、いつもご馳走してもらってるお礼もかねてデートのお手伝い」
 そう云って、真理奈は手にした箱を掲げた。
「え?」
「いいから、遠慮しないの」
 真理奈は有無を云わさず玄関に入ってきて、必然的に叶多は中に通すことになった。たぶん、遠慮すべきなのは真理奈のほうだろうと思ったものの、半ば家族化しているところもあって不快なわけではない。
 真理奈はダイニングテーブルの上に箱を置いて、叶多を椅子に座らせた。開けられた箱――メイクボックスの中にはこれでもかというほど化粧品が溢れていて、叶多は目を(みは)った。
「もう大学生なんだからお化粧の一つくらい覚えてもいいわよね」
 叶多はユナと似た真理奈のセリフに笑った一方で、自覚が足りないのかもしれないと少し落ちこまなくもない。
「ちょうど今日、ユナから誕生日プレゼントにリップもらったんです」
「そう? 見せてくれる?」
 叶多が取ってくると真理奈はリップの色を見てうなずいた。
「さすが、ユナちゃん。叶多ちゃんに合ってるわ。今日のお洋服にもぴったり」

 それから、じっとしてて、と、まずはホットカーラーで長い髪を巻くことから真理奈任せで叶多の変身が始まった。
 真理奈は叶多の顔にいろんなものを塗り重ねながら一つ一つしていることを説明してくれて、今度やるときは自分でできそうな気がした。終わりに近づいて、マスカラをのせてもらうと叶多は目を瞬く。
「なんだか(まぶた)が重たい」
「慣れなくちゃ。最後はリップね。軽く口を開いて」
 真理奈は笑いながらブラシにリップをつけている。
 左手で顎を支えられ、叶多のくちびるに色がつく。
「いい感じだわ」
 満足そうな真理奈の声が意外に近くにあって、伏せがちにしていた目を開けると、叶多は驚いて顔を引いた。同時に迫ってくる真理奈の口を手でふさいだ。可笑しそうにした瞳が叶多を見下ろす。
 叶多はすっかり忘れることが多いけれど、真理奈は“男女”でもけっして女じゃない。真理奈自身がまえにそう云ったことでもある。
「真理奈さん?!」
「惜しかったわねぇ。美味しそうなくちびるなのに」
「全然惜しくないです」
 叶多が即答で云い返すと、真理奈は、やあねぇ、と拗ねた。あの宣言がどこまで本気だったのか、とりあえずいまはあくまで拗ねた“ふり”なようで、すぐに真理奈は笑いだした。
「じゃ、あとは髪を整えればオーケーね」
 カーラーを外した髪はふわふわと叶多の頬に(まと)わりついた。まだ鏡を見られず、自分がどうなっているのか見当もつかない。真理奈は髪をくるくると指先に巻きつけて叶多の髪をセットしていく。見下ろした毛先はきれいにカールしている。
「はい、できたわ。鏡、見てみて」

 真理奈に促されてスタンドミラーの前に立つと、叶多はびっくりして鏡の中の姿に見入った。
「すごい。全然雰囲気が違ってる!」
 思わず近づいて、鏡の自分を覗きこんだ。
 カールした髪は可愛さを残して大人っぽく見せ、どこかちぐはぐだった洋服と叶多がしっくりくる。加えて、お化粧した顔は目鼻立ちがくっきりとなって、おっとりかげんの印象が抜けた。パール入りのオレンジピンクのくちびるは、真理奈の云ったとおり、ジュレみたいに美味しそうにぷるんぷるんして見える。
「気に入ってくれたかしら」
「はい! 真理奈さん、ありがとう」
「それじゃ、これは携帯用の化粧直しのセットとメイク落とし」
「え?」
「化粧している女の子の必需品よ」
 真理奈は茶目っ気たっぷりで云い、化粧の直し方と落とし方を簡単に叶多に説明した。
「戒斗の反応を見てみたいけど、お邪魔するのも野暮だし、今度どうだったか教えてね!」
 真理奈はどこか思わせぶりで、ひらひらといつものように手を振りながら帰っていった。
 ちょっと考えこんだものの、時計が出かける時間の五時を知らせると、叶多は急いで家の戸締りをしてバッグをつかんだ。

 玄関を出ると、吹き抜ける風がふわりとした髪を揺らした。
 真理奈が云うように、叶多にとっても戒斗の反応は楽しみなところだ。伴って、そわそわと緊張した気分もあるけれど。

BACKNEXTDOOR


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