Sugarcoat-シュガーコート- #87

extra A way to choose -first-


 有吏塾の敷地内にある、明治時代に建てられた邸宅は、どこかの領事館みたいな洋風の大豪邸だ。
 十年くらい前までは、いかにもという時代を醸しだした三階建ての西洋館だった。それが、わざと塗り方を荒くしたクリーム色の壁をサーモンピンクに近い茶系の煉瓦で縁取りしたり、窓枠を変えたりというリフォームで、お洒落な現代風の洋館に変身した。玄関の木製のドアは、ガラスをはめこんで彫り模様があしらわれている。

「戒斗、なんだかドキドキしてきた」
 屋根付きの広い玄関ポーチへと短い階段を上りながら、叶多は戒斗の手をぎゅっと握りしめた。戒斗は小さく笑い声を出して、ひんやりと汗ばんだ叶多の手を握り返した。
「狼に狙われた子羊みたいにしてるけど、一族は野蛮じゃない。むしろ、これ以上にない包囲網を張って守られているはずだ」
「嘘吐き。あたしにとって戒斗は野蛮な狼だよ? あたし何回も死にそうになってるんだから。昨日だって四日ぶりだって云って……」
 叶多が云い返すと戒斗は立ち止まって振り向いた。叶多を見下ろして気に喰わないといった様子で首を捻った。
「嘘吐き、だって? そういうことでおれがそうなら叶多もそうだ」
「あたし?」
 叶多が首をかしげると戒斗は口を歪めた。
「そうだろ――」
「玄関先でイチャイチャしてるなんて目障り」
 不意打ちで玄関のドアが開き、美咲が現れた。
「美咲ちゃん、おはよ!」
「おはよ。叶多ちゃん、来たんならお掃除とか手伝ってよ」
 叶多をちらりと見て美咲はさっさと奥に消え、玄関のドアが閉まった。返事をする間も与えられず、さきが思いやられて叶多は小さくため息を漏らした。
「叶多、明日、頼たちと一緒に来ればいいし、今日は帰ったっていいんだ。無理しなくていい」

 明日は春休み最初の日曜日で、恒例の親睦会の日だ。いつもは千里と同行するところだけれど、今回は深智が参加できないらしく、昨日連絡があって急きょ、叶多が遠方の親族を迎える準備を手伝うことになった。
 おまけに戒斗はツアー中で、これからすぐ出かけて夜も遅くなるという。心細くても、戒斗の母親、詩乃の要請と聞けば依頼を受けないわけにはいかない。

「ううん、大丈夫。お父さんもあとから来るし」
 そう笑って答えると、戒斗はかがんで叶多に顔を寄せながら口をかすかに開いた。叶多が習慣的に目を閉じて口を緩めた瞬間。
「生チョコはともかく、生キスはいただけないよ。恋だけに鯉が二匹。餌待ってるみたいに間抜けな顔してる。早く来てよね」
 まるで計ったように水を差した美咲は云い捨ててまた玄関に消えた。ダジャレにも笑っていいのかどうか判断がつきかね、叶多はぽかんとした。
 戒斗がその隙を狙って、一瞬だったけれど叶多の口の中を侵略した。

 家に入るとふたりは詩乃と挨拶をすませ、戒斗が部屋に案内した。
「すごい! なんだか“ローラ”になった気分!」
 八畳くらいの部屋はダブルベッド、ライティングデスク、チェストとホテルみたいな調度品があって、女の子が好みそうなアメリカンカントリー調にまとめられている。
 深智のかわりである叶多は当然ながら美咲と同じ部屋だ。
「なんだ、ローラって?」
「いつかお母さんが見せてくれたんだけど、アメリカの古いホームドラマの主人公の名前。『大草原の小さな家』って知らない?」
「さあな」
 さっきまでの憂うつを忘れ、叶多は素直にはしゃいだけれど、戒斗のおもしろがった表情に合うと、自分の単純さに気づいてごまかすように首をかしげた。それを見てますます戒斗の瞳が可笑しそうに揺れた。
「じゃ、おれは行くけど、嫌になったら連絡してくれ。すぐ迎えをやる」
 冗談かと思えば、見上げた目は生真面目に戻っていた。
「うん」
「じゃあな」
 戒斗はお馴染みの“いってきます”を口にすると、笑みの浮かんだ叶多の口端にちょっとだけくちびるをつけてから出かけた。
 戒斗がいま云ってくれたことで、どんな手段で狙い撃ちされようが跳ね返せそうな気がした。


 いざ手伝いに入るとそう()くこともなく、用意されていた花を客室に飾ったり、普段閉めきった家中に風を通したり、あとは棚の拭き掃除をするくらいだった。使わなくても定期的に人が入って掃除はされているらしい。
 はじめて入った有吏邸を探検がてら、のんびりと掃除して回った。
 どれだけ広いのだろうと思うくらい広く、内装は外観と違ってまだ昔の面影が色濃く残っている。柱は黒光りしてやたらと目立ち、いつかテレビドラマで見たことのある、まだ仕来りが重んじられていた時代の重厚な雰囲気が消えていない。調度品も心なしか豪華そうだ。
 案の定、叶多の背丈くらいある、馬鹿でかい壺だか花瓶だかわからない陶器を乾拭きしているときは、それ一千万するらしいから、と美咲に云われ、陶器ごと倒れそうになって冷や汗をかいた。
 午前中のうちに余裕で準備を終わり、その後は親族が到着するまで昼食に引き続いてお茶会になった。
 叶多のほかは有吏リミテッドカンパニーの役員夫人とその娘たち、つまりは従姉妹たちで、正月の食事会のときよりは雰囲気にも慣れた気がする。

「叶多ちゃん、深智のことはありがとう」
 矢取夫人が斜め向かいから声をかけた。食事会とは違って、叶多への接し方が柔らかい。
「あ、いえ! 深智ちゃん、まだ具合悪いんですか?」
 あれから深智は一週間の入院後、退院して元気だと聞いていただけに、叶多は今日の欠席を不思議に思って訊ねてみた。
「元気なんだけど……」
 矢取夫人は困った顔で言葉を濁した。
「叶多ちゃんは大丈夫? 戒斗は何も云わないから」
 矢取夫人を助けるように口を挟んだのは詩乃だ。
 詩乃のことは、いや、詩乃に限らず有吏一族のことはずっと何気なく見てきたけれど、戒斗と同棲しているいま、叶多にとっては最大の関心事で重大事だ。正月の親睦会である初会のときは、隙があればまず戒斗の家族を眺めた。
 詩乃は“清楚”という言葉そのものの印象で、常に出しゃばらずに隼斗の横に控えている。おとなしいというより、それはなぜか仮面に見えた。
 同棲のことについても、文句も云わなければ歓迎という素振りもなく、ただ誰に対してもそうであるように叶多にも物腰柔らかだ。今日、挨拶したときはうれしそうにしてくれたけれど、詩乃が本当のところどう思っているのかはまったくわからない。
 ましてや、このメンバーの中に同棲していることをどこまで知られているのかわからず、叶多は戸惑いながら、はい、と詩乃の質問に無難な一言返事をした。
「あれは深智が悪いところもあったんだけど、みんなも気をつけてちょうだいね」
 矢取夫人がため息を吐きながら声をかけると、従姉妹たちは一様にうなずいた。

 それから親族が到着するたびに、お茶会の参加者はどんどん増えていった。
 そうなると親族の世話役が回ってきて、就寝までヘルパーさんの補佐につき、叶多は従姉妹たちと家の中を動き回った。
 その間、叶多はこの場に初の参加ということで、何かにつけて詮索された。そのたびに深智のかわりだと哲にフォローされたり自分で釈明したりと気を遣うことも多く、寝る頃にはくたくたになった。
 もう十一時になっていて、戒斗はまだ帰らず、今日は顔を見ないまま終わりそうだ。

 歯みがきをすませてあとは寝るだけと叶多が部屋に戻ると、すでにベッドに入っていた美咲は隣を叩いた。
「あたし、いつもこっちだからお姉ちゃんのほうでいいよね?」
 今日の美咲は、来たときからそうであるように、素っ気ないけれどどこか惚けた感じで、叶多はどう捉えていいのか戸惑っている。
「うん」
「お姉ちゃんのことだけど……」
 美咲は云い淀んだ。洗面具をバッグにしまっていた叶多は、手を止めて美咲を振り返った。
「深智ちゃん、どうかしたの?」
「……家出しちゃった」
 美咲は小さく肩をすくめた。
 あまりに突飛な話に、叶多は『家出』という意味を考えこんでしまった。バッグのファスナーを閉じてからベッドに近寄った。
「家出……ってどこ――?」
 半信半疑のまま、叶多が美咲に訊ねかけたところで、ドアのノック音に中断された。どうぞ、と叶多が返事をしながらドアに近づくと、先に外から開いて那桜(なお)が顔を覗かせた。
「お邪魔しちゃっていい?」
「いいよ」
 叶多と美咲はそろって答えた。部屋にテーブルはなく、必然的に三人でベッドの上に座ると、那桜から缶入りのお茶を受け取った。プルトップを開けて一口飲む間、那桜はへんにそわそわした様子で落ち着きがない。
 叶多と美咲は顔を見合わせた。
「ついでに那桜ちゃんにも教えておこっかな。叶多ちゃん、さっきの話」
 美咲は気をきかせて話を戻した。那桜はとりあえず自分から視点が逸れてほっとしたように首をかしげた。

「なんの話?」
「深智ちゃん、家出したんだって」
「え?! だって先週会ったときは何も云ってなかったよ?」
 同い年の那桜と深智は仲がいいけれど、その那桜も寝耳に水のようでびっくり眼で訊き返した。
「だって一昨日だから、家出したの」
「それでどこに?」
「啓司さんとこ」
「え?!」
 叶多は右手に持ったお茶を零しそうになって慌てて左手で支えた。それから顔を見合わせた那桜も驚いたように固まっている。
「お姉ちゃん、大学卒業するのに就職活動なんてしてこなかったじゃない。最初の事件から、お母さんたちはお姉ちゃんには甘くて、いろんなことに目を(つむ)ってたし。退院してから、しばらくぼーっとしてたの。まえみたいに精神的におかしいとかじゃなくて、何か考えこんでる感じ。かえってこのまえの事件があってから精神的には落ち着いてたし、これからのことを考えられるようになったのかなって思ってたんだけど」
「あ、それあったよ。わたしと会ってるときも。どこか上の空で」
「うん。で、一昨日突然、昼間いなくなっちゃって。気づいてお姉ちゃんに電話したら、好きな人と一緒にいることにしたって。そのときは誰か教えてくれなくて、お母さんはパニック。啓司さんから電話があるまでたいへんだったんだから」
「それで、瀬尾さんはなんて?」
 けしかけたのが自分だと知られたらまたお(とが)めがありそうだと思いつつ、叶多は咳きこむように訊ねた。
「預かります、だって」
「そっかぁ」
 叶多はしみじみして云いながら息を吐いた。
「叶多ちゃん、もしかして知ってたの、お姉ちゃんが啓司さんのこと好きだってこと?」
「あの事件のときに気づいたんだ」
「ふーん……お姉ちゃんね、なんにも持ってってないんだよ。着替えとかお化粧品も。取りにも来ないし」
 美咲は呆れながら信じられないとばかりに首を傾け、叶多は笑った。

「気持ち、わかるかな」
「叶多ちゃんも押しかけだからね」
 叶多が深智のフォローをすると、すかさず美咲から(つつ)かれた。云い訳すれば、最初に云いだしたのは戒斗だ。それをいいことに半年前、無理に押しかけてしまったのは事実で、否定できないほど叶多はわがままだ。
 切り返しようもなく、返事に(きゅう)した叶多をすくったのは那桜だった。
「わたしも、わかるかも」
「那桜ちゃんにもそんな人いるの?!」
 控え目に云った那桜を美咲とそろって見つめ、叶多は驚いて訊ねた。
 いや、いてもおかしくない。那桜は詩乃に似ておとなしいけれど、“きれい”とはちょっと違う神秘的な印象に目を惹かれる。ただ、那桜から恋の話を聞くのははじめてのような気がした。

「叶多ちゃんが戒兄と同棲してるって聞いてからずっと話したかったんだけど、機会がなくって……というより勇気がなくて今日になったんだけど……いつかわかることだし……」
 自分の同棲と那桜の恋がどう絡んでいるのかよくわからずに、叶多は首をかしげて無言で問いかけた。
「わたしね、ううん、わたしも、なんだけど実はもう家を出てて……その……」
「もしかして那桜ちゃん、誰かと同棲してるの?」
 那桜が最後まで云うまえに、美咲が目を見開いて口を挟んだ。
「……うん、そうなの……」
 自分のことは差し置いて呆気にとられた叶多と、また?! と唖然とした美咲を見て、那桜は決まり悪そうな顔をした。
 けれど、驚くのはまだ早かった。続いた那桜の告白はふたりとも想像だにしないことだった。
「その……わたし、拓兄と一緒に暮らしてて……」
 一瞬、叶多と美咲の思考は完全にストップした。
「……ふたりで?」
 美咲が頓狂な声で訊ねた。そういう話だからふたりに決まっているわけで、しっかりした美咲でもいかに頭が働いていないかという証拠だ。
 那桜はおずおずとうなずいた。
 叶多の頭の中ではいろんなシーンが繰り返された。イメージが柔らかくなった拓斗とその横に佇んでいる那桜。いま回想してみれば、初会で見たふたりが、“ふたりでひとり”という雰囲気だったこと。
「……那桜ちゃんと拓斗さんて……ホントの兄妹……だよね? ていうか、わかった! あたしは全然知らなかったけど、拓斗さんが家を出ちゃってて、大学通うのに拓斗さんのところからのほうが近かった! そうなんだね?」
 美咲は自分の記憶に疑問を持ったかのように自信なく訊ねたあと、素早く頭を回転させて美咲なりの自論を立てた。
 那桜は困ったように首を振った。
「わたしも……自分でもよくわかってないかもしれない。でも、拓兄とは一緒に家を出たの。つまり……そういうこと」
「美咲ちゃん!」
 叶多は倒れそうな美咲の缶を素早く支えた。なんとかお茶は零れなくてすんだものの、端っこに座っていた美咲は低いベッドから滑り落ちて尻もちをついた。
「イタタ……叶多ちゃん、酷い。あたしよりお茶が大事なの?」
「じゃなくて、お布団が濡れちゃったらたいへんだと思って……ごめん」
 いつもドジをやるのは叶多のほうだけれど、いまは逆転しているうえ、叶多の弁解は美咲にとってなんのなぐさめにもなっていなくて恨めしそうに見られた。

 那桜は小さく笑みを漏らした。叶多が目を向けると、そこには可笑しそうでも楽しそうでもない微笑みがあった。
 自己嫌悪? 迷い?
 それは叶多が知っている表情に似ていた。
「ごめんね、こんな話。気持ち悪いよね」
 首をすくめて云った那桜は目を逸らして出窓のほうを向いた。
 初会のとき、そして今日の夕食と、叶多は自分に声をかけてくれた拓斗を思い起こした。緊張は抜けないけれど、以前に比べればずっとずっと気さくだ。何一つ感情というものを見せず、ただひんやりとしていた拓斗の目があんなふうに温かくなるのなら、正しいとは云いきれなくても、間違っていないと思った。
 叶多が美咲ほど動揺しなかったのは、まして受け入れられるのは、自分だったら、そう考える機会があったからかもしれない。
 拓斗はきっと、こうあるべき、ことではなく、こうありたい、と思う道を選んだのだ。

「那桜ちゃん、あたしはふたりがそれでいいならそれでいいと思う」
「待って。有吏のおじさまたちの立場を考えたら、いまの叶多ちゃんが云ってることは無責任。世間的に考えてもおかしいよ。法律では兄妹の結婚は許されてないんだよ」
 美咲はベッドに這いあがりながら、冷静さを取り戻して正論を示した。
「そんなことくらい知ってるよ。でも……」

「叶多ちゃん、いいんだよ。美咲ちゃんの云うとおりで認めてもらえないことはわかってる。気味悪く思われるのもわかってる。わかってるの、わがままだってこと。一緒にいること望んでるのに、やっぱりだめだって落ちこんだりする。拓兄はふたりでいられるように闘って、そうできるようになった。でも……拓兄は何も云わないけど、まだ迷ってるのもわかってる。わたしも……母たちとは会い難くて、それって自分自身もまだ認めきっていないということ……そう、わかってるの」

 ためらいながら打ち明けた那桜は、『わかってる』を何度も繰り返した。まるで自分に云い聞かせるように。
 そこには祐真と同じように、泣きたいくらいの“好き”が響いている。

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* 英訳 A way to choose … 選ぶ道