Sugarcoat-シュガーコート- #82

第9話 epilogue Be tied -first-


 高い塀、瓦屋根の門構えという、昭和初期の趣を残した重厚な豪邸の前に車をつけた。
 門をくぐるなり、玄関前に気の荒そうな連中が立ちはだかったが、石畳の玄関アプローチを臆することなく、むしろ眼中に入れることなく進んだ。
 背後には男二人とその二人に取り押さえられて抗う女を従えている。その猿ぐつわをされた女の姿が目に入ったとたん、行く手に立つ男たちは不穏(ふおん)に身構えたが、()めるように()めつけながら近づくと道は無言で開いた。
 意思を明示して、引き戸を叩きつけるように開けた。突然の来訪はすでに伝達されていたらしく、我立会長が総領一人、手下一人を従えて長い廊下の奥から現れた。
「朝早くからどうした。あがっていけばいい」
「ここで結構です」
 蘇我分家、我立家頭首は昔ながらの和服姿で、ごつごつした印象を受ける顔立ちはいかにもという強面ぶりだ。上がり口まで来ると、会長は背後をちらりと見やり、険しい表情で立ち止まった。両手をそれぞれ和服の袖に隠すように入りこませて腕を組んだ。
 二段上から見下ろされることにびくともせず、かえって威嚇(いかく)に溢れた様で会長を見据えた。
「で、どういうことだ、瀬尾?」
 娘を(あご)で指し、会長は目を細めた。
「ご存じないとは、さすがの我立会長も娘には甘いとみえる」
 瀬尾の合図で玲美の口が解放された。
「パパ! 啓司がわたしを監禁したの! どうにかしてよっ。パパのこともバカにしたんだよ! この男たちってば髪の毛引っ張ったり、足蹴りしたり、酷かったん――」
 玲美の訴えは無理やりさえぎられた。
 玲美は顎を持ちあげるようにぐいと捕まえられ、その勢いで玄関の戸に背中が鈍い音を立ててぶち当たる。足はつま先がようやく地に着くくらいで、顎をつかむ手を払いのけようとすればさらに顎をひねられて、痛みのあまり玲美の手はだらりと落ちた。叫ぶことはおろか、口を開くことさえままならない力に封じられた。
 会長はつかみかかろうと一歩踏みだした手下を片手で制した。
 瀬尾は顎一つ捕えただけの玲実を玄関の戸に(はりつけ)にしたまま、会長を斜め下から射抜くように見上げた。
「我立会長。Seduce(セデュース) の規律を無視して玲美さんの出入りを許しているのは、私から会長に対する表敬の証です。が、会長の品位を無にするようなお嬢さんの行動は如何(いかが)なものでしょう」
「何をやったんだ?」
「お嬢さんに訊かれたらどうです? 別荘に転がっている連中にでもいい。これ以降、私の女に何かしようものなら、かすかでも触れようものなら、覚悟していただきたい。なんなら、ここでお嬢さんの顎を砕いて差しあげましょうか」
 瀬尾の手に力がこもり、玲美は苦しさに(あえ)いだ。
「放してやってくれ。(しつけ)が足りなかったようだ」
「頼みますよ」
 我立会長は蘇我分家の上に立つ者として申し分ないほど呑みこみが早く、通りはいい。それでも瀬尾はくいと顎を上げ、警告を示してから玲美を放した。
「失礼しました」
 瀬尾は会長に一礼をし、冷ややかに玲実を一瞥(いちべつ)すると、従者二人を引き連れて玄関を出た。
 これが蘇我でなければ叩き潰すところだ。
 瀬尾は衝動を抑制すべく歯をかみしめた。


「まったく、下らんことをやったようだな」
 その場にくずおれた玲美を見下ろし、我立会長は苦虫をかみ潰したような顔でため息を吐いた。
「会長、このままでいいんですか!」
 瀬尾と入れ替わりで、外に待機していた若い男が玄関に上がりこみ、声を張りあげた。
「知らない、ということは気楽なものだな。わしがいいと云っている。下がれ」
 不自然なほどの静けさはかえって(すご)みを増し、若い男は一礼してそそくさと外に出た。
「玲美、あの男は別名を持っている。女だからといって情けをかけるような男じゃない。忠告したはずだ。瀬尾家と和久井家は一族のためなら(けが)れることも(いと)わない、むしろ自ら望んでそれを一手に引き受けている分家だ。二度とかかわるな。少なくとも、両家が忠心を置く暗の一族が判明するまでは、な。我らが一族内のこともある。動向が知れないいま、不利なことはやれぬ。(わきま)えを身につけることだ。おい、別荘に人をやれ」
 最後は手下に云いつけると、地に突っ伏して泣きだした娘を放ったまま、我立会長は身を(ひるがえ)した。



 ドアをノックすると、くぐもった声が答えた。ゆっくり引き戸を開けると、室内は高級ホテルと勘違いしそうな佇まいだった。
 ここに来るまでもセキュリティチェックを受けたくらいだから贅沢(ぜいたく)なのだろうと想像してはいたものの、やっぱり並じゃない。部屋の中央にあるのはパイプベッドではなく“家具”と呼んだほうが相応(ふさわ)しいベッドで、部屋の隅には応接ソファまで置かれている。十階にある病室は窓からの見晴らしもいい。
「叶多さん、どうぞ」
 ベッド脇にいた瀬尾が立ちあがり、微笑みを浮かべて促した。
「深智ちゃん、どうですか」
「ほとんど眠りっ放しですよ。眠らせてると云ったほうが正しいかな」
 深智は点滴している腕だけ出して、あとはすっぽりと布団の中に納まって目を閉じている。
 昨日の出来事から半日を越え、午後の三時を過ぎて深智が入院している部屋を訪ねた。
 月曜日の今日、本来は学校へ行っているところだけれど、事が事であり、戒斗の至当な見解のすえ叶多は休んだ。

 昨日はあれからまっすぐ、有吏一族が(たずさ)わっているらしいこの病院へ連れてこられた。
 躰は大丈夫か、気分はどうだ、と訊かれて叶多がうなずいたところで、戒斗は安心した表情を見せるでもなく、ただ念のためだと強引に診察させられた。
 医者の問診に受け答えしているとその質問から、戒斗が訊ねた『躰』と『気分』にどんな意味があったのか、叶多はようやくわかった。
 叶多はそれを飛び越えて男の『埋める』という言葉から、殺されるかも、と思っていたのだけれど、ニュースを見ても他人事として(とら)えていた“暴行”とか“薬”ということもありえたのだと思うと、何もなく救出されたことを本当に奇跡みたいに感じた。
 戒斗から連絡を受けた哲たちが病院に駆けつけ、一時は千里をなだめるのがちょっとたいへんだった。
 それからアパートに帰り着いたのは夜中の二時を回っていて、それでも心配して起きていた頼が出迎えた。
 戒斗は、なんでおまえの許可が必要なんだ、と不服そうだったけれど、とにかく頼の温情措置で寝室に入ることを許された戒斗は叶多に付き添った。
 その甲斐もなく、叶多は眠れなかった。救出後、病院に着くまで車内で眠っていたことと、その後の診察で目が冴えてしまった。戒斗は処方してもらった薬を勧めたけれど、やっぱり戒斗といることを実感していたい気持ちのほうが大きくて断った。
 眠れない叶多に付き合った戒斗は、いつもと立場が逆転して、ライヴのことやいろんなことをお喋りしてくれた。
 ようやく眠れたのは空が白くなってきた頃で、目が覚めたのは昼の一時過ぎ。叶多にずっと付き合った戒斗はちゃんと睡眠を取ったのか、起きたときはすでに着替えていた。
 それからいまに至るわけで、和久井の車で戒斗と家を出たのだけれど、叶多だけ病院で降り、戒斗はそのまま有吏の会社へと今回の事件についての経過報告に向かった。

「どうぞ、座ってください。矢取夫人は休まれています。ちょうど僕が交代したところです」
 叶多は勧められるまま、瀬尾とはベッドを挟んで反対側にある椅子に腰を下ろした。
「深智ちゃん、すごく怖がってました。和久井さんからまえにあったこと聞いたんですけど……」
「僕は叶多さんに謝らなければならないことがたくさんあるんですよ。今回のことも結局は僕の配慮のなさから巻きこんでしまいました」
 瀬尾は自嘲した笑みを向け、叶多はちょっと目を大きくして首をかしげた。
 その無言の問いかけにすぐには答えず、瀬尾は深智に目を向けた。
「誘拐のこと、詳しく訊かれましたか?」
 叶多が、まだです、と答えると瀬尾は顔を上げてうなずいた。

「では僕が。九年前……もうすぐ十年ですが、深智は気の狂った女に誘拐されました。中等部に進級して一カ月後にあるレクリエーション活動は知ってますよね? そのときはたまたま矢取家からそう遠くない場所にある公園で行われました。そこで深智は買い物袋を両手に抱えた女とぶつかった。女は足を(くじ)いたとかで、教師の許可のもと、深智は一緒にいた友だちと二人で送っていったんです。家に着いてから、女はぶつかったときに携帯を落としたらしいと云いだした。携帯は探すまでもなく、教師が気づいて拾っていました。深智は土地勘があったし、自分が届けると云って、今度は独りで女の家に向かったんです」
「それでそのまま?」
「はい。捜査では携帯を届けてもらったことは認めていましたが、そのあとは知らないと。女は責任を感じて心配しているふりをしたそうです。深智は二階の部屋に監禁されていました。今回の状態と同じですよ。拘束されて口もふさがれて。あの日、女は休憩がてら、しばらく公園でレクリエーション活動を眺めていたらしいんです。ぶつかったのが目的あってのことだったのか、携帯を落としたのは故意だったのか、逮捕後、女は本当に狂ってしまってその真相はわからないまま終わりました」
 昨日のことは叶多にとって、生きるか死ぬかという経験のない怖さだった。進学できないかもしれないという怖さなんて、昨日に比べたら馬鹿馬鹿しいくらいどうだっていい。きっと、深智がいたからやり過ごせた。その怖さを深智は独りで。そう思うと叶多は身震いした。
「大人たちが躍起になって情報を収集しているなかで、次の日、僕と戒斗はやっぱり目撃情報の最終地、つまりその女の家の前で誘拐された時間帯に張ってみました。習慣的に通る誰かがいればなんらかの情報を得られる。まだそのときは公開捜査じゃなかったし、有吏がすぐに解決できなかったということは長期戦になるということです。有吏の初動捜査は短時間で決着することで意味をなすんです。二十四時間を超えると警察もある程度、追いつきますから。その二日目に子供を叱るような声を聞いたんです。子供を亡くして、夫は仕事中で、一人しかいるはずのない女の家の中から。テレビの音にしては大きすぎた」
 それから瀬尾は深智を見下ろしてしばらく黙った。
「瀬尾さん?」
「僕は裏切ったんですよ」
「え?」
 淡々とした告白は話が繋がらず、叶多はきょとんと訊き返した。
「それから僕たちはすぐに行動を起こした。おまえが行ったほうがいい。戒斗はそう云いました」
 深智を見つめる瀬尾の横顔はなんとなく苦しそうで、昨日、Seduce で感じたように、ふたりの重ねてきた時間が見えた。
「僕は深智を探し、戒斗は女を捕えた」
「深智ちゃんは……戒斗が助けてくれなかったって。でも……」
「そうです。戒斗と僕は一緒に救いだした。けど、戒斗の名はその救出劇から外されたんです。中等部一年がレクリエーション活動をやっていたように、三年は二泊三日の校内合宿中でした。戒斗はそれを無断で抜けだしてたわけで、もちろん、それよりも人命救助のほうが優先されていいはずですが、戒斗は無慾、淡白な人間だし、深智のことを考えても事件を公にはしないほうがいい。その判断のもと内々に処理されたんです」
「深智ちゃんにも?」
「そうです。戒斗と深智には引かれたレールがあった。戒斗がどうだったかはともかく、深智はそのつもりだった。それだけ信頼を置いていたんです。五年前、叶多さんがそうだったように。だから、助けたのが戒斗ではなく僕だったということを、戒斗が自分を優先しなかったことを、受け入れられなかったんです。その深智の傷に気づいたのは六年前です」
 叶多ははっとした。
「あたしが戒斗に家庭教師をしてもらった頃……?」
 瀬尾はうなずいて答えた。

「助けだしたあと、深智はしばらく精神的に不安定でした。特に人とかかわることを怖がっていた。それは誘拐されたことが原因だと、僕も含めて誰もがそう思ってたんです。けど、そうじゃなかった。六年前、叶多さんが戒斗へと大学まで合格の報告に来たとき、深智が云ったんです」

『叶多ちゃん、中学生になるんだね。啓司、わたしみたいな目に叶多ちゃんが遭ったら、戒斗は合宿中でも、たとえ有吏のおじさんから云われた用事でも放りだして助けだすのかな』

「その時、打ち明ければよかったのかもしれない。けど、僕は云わなかった。深智がやっと戒斗をあきらめてくれるかもしれないと思った。深智は裏切られたと思っていても、まだ気持ちを捨てていなかったから。そして戒斗は知ってたんです。あの事件については、僕が一族として、単なる幼馴染として動いているわけじゃないことを。そういう僕がいなかったら、あるいは戒斗と深智はレールに沿っていたかもしれない。僕はふたりの信頼を裏切った。ふたりの邪魔をしたのは叶多さんじゃない。僕です」
 叶多は切なくなった。ただ、一つだけ、正しい、もしくはそうあるべきことがわかった。

「瀬尾さん、打ち明けるのはあたしにじゃなくて、いまのをそのまま、やっぱり深智ちゃんに云うべきだと思うの。すれ違ってる気がする」
「いずれにしろ、無理なんです。僕と深智はいろんなことで立場的に相容(あいい)れない」
「そんなのおかしい!」
 叶多が反論すると、瀬尾は薄く笑った。
「叶多さん、もう一つ謝らなければならないことがあります。深智は試そうとしてました」
「試す?」
「はい。深智が云った、さっきのことです。僕は誘拐事件を依頼されました」
 叶多は目を見開いた。
「……誘拐事件て……もしかして……あたし……を?」
「そうです。戒斗がライヴ先からでも飛んでくるのか。深智はどんな意味を求めたのか、それを確かめたかったんです。そして僕は引き受けたんですよ」
「……でも……」
「結果的にはこうなっておじゃん(・・・・)になりましたけどね。僕は叶多さんも裏切った。どんな処分でも受けるつもりです」
 瀬尾は叶多の目をまっすぐに見てきっぱりと云った。その姿勢に裏切りなんてものは皆無だ。むしろ見えるのは忠誠だけで、叶多は首を振って瀬尾の言葉を否定した。
「こうならなくても、瀬尾さんはそんなことしない。だって戒斗を裏切るわけないから。戒斗はそう信じてる。あたしも信じてる。瀬尾さんの全部を知ってるわけじゃないけど、ほとんど知らないかもしれないけど、あたしは信じてる。何より、深智ちゃんのことを考えてもそうするはずないから」
「……参ったな」
 力なくつぶやいて、瀬尾は苦々しく笑った。

「瀬尾さん、すごく好きって思っても、一方通行もあって……誰か泣いてるかもしれない。でも、“好きと好き”はくっついてもいいと思うの。そうじゃなくても、好きな人に“好きと好き”な人がいなければ頑張ってみてもいいと思うの! だって、戒斗を好きな人ってファンのこと考えたら数えきれないし、あたし、自慢できるところないから不安だけど、だからってあきらめようとか思わない。戒斗といることで、あたしが傷つけちゃった人はいるけど、それでも一緒にいたい。戒斗と引き離されたら死んじゃいそう。誰かに踏まれても蹴られても、きっとあたし、戒斗の脚にしがみついてる。戒斗に蹴られてもそうしてるかもしれない。それって戒斗が云うとおり、飼い主から離れられない犬みたいだけど……や、それはどうでもよくて。立場とか考えてないわけじゃなくて、でも戒斗は障害物があるほうが燃えるんだって云ってた。あたし、戒斗とならロウソクみたいに燃え尽きて一緒に溶けちゃってもいいかなって思うの!」

 叶多が勢いあまって云うと、瀬尾は吹きだしたと思った次には腹を抱えて笑い始めた。
「……瀬尾さん……」
「叶多さん、大好きですよ」
「だ、だだ……だから、それは云う相手が違います」
 叶多が好きと云われ慣れていないことは明白で、瀬尾はニヤついた。
「溶ける戒斗を見てみたいですね。期待してます」
 もしかしたら意味が違うんじゃないかという瀬尾の云い方に、叶多が困惑した表情を浮かべると、瀬尾はまた可笑しそうに短く吹いた。

BACKNEXTDOOR


* 英訳 Be tied … 束縛する、(人を)強く結びつける