Sugarcoat-シュガーコート- #81

第9話 Dis-mis・s・ion -7-


 瀬尾の名を聞いて安心したのか、深智が小さくうなずいて、叶多はそろって車を降りた。
 コートを着ているのに、それでも夜の風はさらに冷たくて、叶多は身震いした。
 顔を上げると、目の前に大きな家があって、薄暗い外灯が宙に浮かんでいるように見せる。
 今日は昼間から冬にありがちな曇り空だったけれど、夜になっても月は見えたり隠れたりして天気は良くない。いま月は隠れていて、素早く見渡した景色は真っ暗で何も見えなかった。つまり、都市部を離れたということだけわかる。灯りがなければ音も聞こえず、おそらく“近所”という家もないのかもしれない。
 さっきまであたりまえだった普通の現実からかけ離れ、果てしなく孤立した気がした。
「行け」
 叶多は急に背中を押されて、深智と一緒に前にのめりながら開け放たれた玄関に向かった。
 家の中に入ると奥へと連れていかれ、真っ暗な部屋に置き去りにされた。深智のバッグが投げつけられ、ドアが閉まると施錠される音が続く。
「深智ちゃん、大丈夫?」
「怖いよ」
 深智の云い方は極めて子供っぽく、車の中でのことといい、いままでとはふたりの立場が逆転している。
 叶多は、大丈夫だよ、と口癖になりそうな言葉でなぐさめて深智とくっついた。

 ドアの向こうでは男たちが乱暴な言葉を交わしている。何人いるのだろう。この家にはじめからいた人間がいるのかどうか、少なくとも車に乗ってきた男は四人いる。
 何が起こったのか、結果はこうなったものの、原因がわからない。叶多は頭の中で記憶を巻き戻した。恐怖のあまり、車の中では何も考えられなかったけれど、いま男たちと離れ、少しほっとしたことでようやく思考力が戻ってきた。
 男たちはとにかく言葉も扱い方も暴力的で普通じゃない。車の中ではやたらと“お嬢さん”という言葉が飛び交っていた。確か、一度、男がかけた電話の相手にもそう呼びかけていた。
 それはちょっとまえの瀬尾の云い方と似ていて、叶多はあの派手な玲美という女性を思い浮かべた。
 叶多の単純結論が正解なら、男たちは我立会の、つまり蘇我家と繋がりがあるということだ。
 この場に戒斗がかかわるというのは、ひょっとしてまずいんじゃないだろうか。東京に帰ってきた戒斗が、連絡が取れないと知ったら叶多を探さないはずはない。
 なんとかしなくちゃ。
 そう思って叶多は顔を上げた。暗闇に慣れた目で部屋を見回した。角部屋のようで、二面に窓があることに気づいた。
 そしてまた車の音がした。まもなくドアの閉まる音がして耳をすましていると、男たちが違った雰囲気で話す声がした。争うでもなく、仲間らしいと察すると、叶多はつかの間、絶望に近い気分になった。
 戒斗、怖いよ。
 心の中で深智と同じ言葉を吐いた。
 違う違う。
 叶多は頭を振って、恐怖を振り払った。
 立ちあがろうとすると、言葉をなくしたように黙った深智が、手探りしながら叶多の腕をつかんで引き止めた。
「大丈夫。窓があるからちょっと開くかどうか見てくるだけだよ」
 そう云うと深智の手が離れた。
 叶多の腰の高さにある窓の鍵を探った。普通に半回転させて開けるクレセントの鍵だ。
 鼓動が暴走しそうにドキドキしながらゆっくり回してみた。固くもなく拍子抜けするくらいに簡単に回って、叶多はそっと窓を開けた。
「深智ちゃん――」
「てめぇ、何やってんだ」
 叶多をさえぎったのは男の声だった。
 深智が悲鳴をあげた。
 叶多は自分の心音に邪魔されて気配に気づかなかったのだ。鼓動が止まるかというくらいにびっくりして、叶多はその場にへたりこんだ。

「おいっ、女を縛っとけ。逃げられたらどうすんだ!」
 深智の悲鳴をかき消すほどの大声に答えて、部屋の向こうからくぐもった声がした。
 すぐにドアが開いて二人の男が入ってきた。
 照明をつけられることはなく、一人の男がドアからの灯りを頼りにしながら奥に来て、震えて動けない叶多を深智の横に引きずった。
「だめだろ。ちゃんと拘束しておかないと。窓から逃げられるんだぞ。もう少し頭使えよ。玲姉さん、怒らせたら怖いぜ。おれがやるから縄持ってきてよ」
 頭上から聞こえた声は少年ぽい声だ。どこかで聞いた声のような気がする。一緒に来た男たちとは違う。ということは、あとから来た車の持ち主なのか。それはけれど、いまはどうでもいい。叶多は『拘束』という言葉に(おのの)いた。
「あ、ああ」
 逆光でそう返事した男の顔は見えないまま、ドアが閉まった。暗さに慣れていたのに、光が入ってまた部屋の様子が見えなくなった。
 すぐ傍に男の息遣いが感じ取れ、叶多は息が詰まった。男がかがんだ気配がする。
「顔を知られたくないんだ。悪いけど目隠しさせてもらうよ」
 その声はさっきまでの云い方よりもちょっと大人びている。
 さきに目隠しをされたのは深智のほうで、抵抗する悲鳴が聞こえた。
「深智ちゃん、ごめんね。もうヘンなことやらないから」
 叶多はとっさに深智の手を探って握りしめた。痛いほどに握り返され、伴って少し落ち着いたようで、悲鳴は治まった。恐怖にさらされているにしても、深智の反応は異常だった。まるで子供返りしている。逆に叶多はそこに支えられた。
 それから叶多もまた布で目隠しされた。
 まもなく出ていった男が戻ってきたようで、スイッチ音が聞こえて、足音がすぐ傍まで来た。視界をふさがれると耳が異様に音を(とら)える。何かが(こす)れるようなかすかな音まで聞き取った。
「女二人縛るくらいのことはおれだけで充分だ。外、見回りでもしたらどうなんだ?」
「わかった。うるさいから口もふさいどけってさ」
 どういう力関係なのか、声からすれば年上のほうの男が従って出ていった。

「ここは山の中だよ。逃げるのはやめたほうがいい。迷ったら最後、樹海みたいに簡単には出られない場所だ」
 手首を(くく)りながら云い聞かせる声は、叶多たちをさらってきた男たちと違って柔らかい。
 そう思うとへんな安心感が出て、躰の震えが少し治まった。いずれにしろ、自力で脱出しても深智の状態を考えると、逃げるどころか深智は思うように歩くことさえ難しいかもしれない。
「口をふさぐまえに、きみに約束してほしいことがある」
「……あたし……ですか」
「そう。目隠しはしたけど、いずれ、きみは僕の正体を見抜くかもしれない。そうなっても誰にも口外しないこと。どんなにきみが信じている人であっても。僕がいいと云うまで。いいかな?」
 いずれ。この男がそう口にするということは、きっと自分たちは助かるのだ。また廻り合うという確信があるらしい。怖いけれどあくどい印象は受けない。
 叶多はうなずいた。
 同時に立ちあがった気配がして数歩の足音のあと、スイッチの音。たぶん照明が切られたのだろう。
 足音が戻ってくると、目隠しが外された。かわらず真っ暗だったけれど、カチッという小さな音ともに光が漏れた。携帯画面がちらりと見えて、叶多は自分の携帯電話だとわかった。
 それが目の前にあることに驚きながらも、叶多は男が操作するのを黙って見守った。
 顔を隠すためなのか、携帯電話は不自然に遠ざけられているけれど、薄っすらと顔立ちが見えなくもない。声と同じで、やっぱりどこかで見た気がした。
 記憶を探ろうとすると探しあてる間もなく、とうとつに携帯電話が叶多の耳に当てられた。呼びだし音の一回目が鳴り終わったとほぼ同時に電話の相手が答えた。

『はい』
 抑制された声が叶多の耳に届く。昨日だって今朝だって聞いた声なのに、ずいぶん長い間、聞かなかった気がする。
 いつもと違って名前を呼ばないその応じ方から、戒斗がトラブルを知っているとわかった。
「……戒斗」
 気が抜けたようにつぶやくと、電話の向こうから複雑そうなため息が漏れた。
「彼に、僕が云うとおりに云って」
 すぐ傍から男が囁いた。
『叶多――』
「戒斗、ちょっと待って」
『傍に誰かいるのか? 深智?』
「うん。深智ちゃんもいるけど……」
 戒斗はただ淡々と訊ねる。慌てるでもなく、そのことが叶多を落ち着かせた。
「時間がない。云うよ。“戒定慧(かいじょうえ)をもって”」
「戒定慧をもって」
 意味不明の言葉で、戒斗にはとうとつに聞こえるだろうけれど、叶多は忘れるまえにと急いで口にした。
「暗命と」
「暗命と」
『叶多、何を――?!』
 戒斗の声は不審そうな、もしくは驚いているような感じがした。
「戒斗に伝えてほしいって」
 叶多がさえぎると、戒斗は黙った。叶多は男の言葉を復唱していく。
「戒定慧をもって……暗命と……如実(にょじつ)に……仁愛を(ひら)き……克己(こっき)を忘れず……泰然(たいぜん)として……信真のもと……忠心に尽くす」
 云い終わっても戒斗は黙りこんでいる。この言葉に何かが隠されていることだけはわかった。
『叶多、誰といるんだ?』
「わからない。暗くて見えないよ」
「もう一つ、伝えて」
 男が割りこんで云った言葉をまた叶多は繰り返す。
(かみ)は再生の時を待っている」
 そう云った直後、携帯電話は取りあげられ 叶多のバッグに放りこまれた。
 ドアの外から足音が近づいてくる。
「電源は入れたままだ。サイレントモードにしてる。あとは待てばいい。怖い目に遭わせて悪いと思ってる」
 男は口早に謝罪しながら叶多の口を布でふさいだ。
 ドアが開く。
「できたか?」
「ああ」
 男は出ていって叶多は深智とふたりきりで残された。縛られた手足首もふさがれた口も、逃れることはかなわないまでも束縛自体は(ゆる)く感じた。



 電話はぷっつりと切られ、戒斗はゆっくりと携帯電話を閉じた。
「瀬尾、どうだ?」
「捕れました。情報どおりです」
「今度は切れませんね。罠では?」
「罠だとしても行くしかない」
「叶多お嬢さんは無事なんですか?」
「生きていることは確かだ」
 それだけでいい。
 目的地まであと三十分。
 車は分岐点から山道のほうに入りこんだ。
 和久井は車のライトを消し、暗闇の中、暗視鏡(ナイトヴィジョン)の映像を頼りに音もなく奥へと装備車を進めた。



 身体的に拘束されてから、時間がどれくらいたったのか見当もつかない。
 時折、隣の部屋から、お嬢さんはまだか、と怒号じみた声が飛び交う。そのたびに苛立(いらだ)ちがこっちに向かってくるのではないかと躰が強張った。
 暗闇に戻って、またかすかにだけれど影を捉えられるようになった。
 窓の外では、土を踏む音がして、たまに赤い光がちらつく。おそらくは煙草で、監視役らしい男が時間を空けずに最低一人、部屋の周りをうろうろしている。
 戒斗が来ることは間違いない。
 訓練を受けているとは知っているけれど、女だからといって手加減しないほど暴力的な男たちだ。
 戒斗にケガをさせたらどうしよう。
 その不安と、猿ぐつわで深智をなぐさめることもかなわず、静かすぎることが心細くさせる。
 動けないことが躰をだんだんと冷たくしていた。ぴったりとくっついた深智の腕からも震えが絶えることはない。
 戒斗、戒斗……。
 口をふさがれてできないとわかっていても叫びたい衝動に駆られる。いったん叫びだしたら深智がそうだったように、止まらないような気もした。
 だから、ただ何度も心の中で唱えてみた。そのうち、なんだか可笑しくなった。

 だって。
 ねぇ、戒斗。こういうときに呼ぶ名前が戒斗であること、お父さんでもお母さんでもなく、戒斗、であること。なんだか感動しちゃう。
 こんな状況で笑うって、あたし、頭おかしくなってるかもしれない。
 戒斗、呆れちゃうだろうな……戒斗……。

 また唱え始めて頭の中で戒斗の名がいっぱいになったとき、窓の向こうに何かがよぎった。とたん、監視の影が違う影と重なった。見る間に影の一つが崩れ落ち、同時に重い物体が落ちるような鈍い音がした。
 立ったままの影とはまた別の影が現われ、方向的に玄関の反対側になるもう一面の窓のほうに進む。
 監視の男と違って土を踏む音も立てない。
 叶多ははっと気づいた。
 戒斗!
 その後ろからもう一つの影。影は全部で三つだ。
 あとから来た影がかがんでこっちを向いた。何か窓に細工しているように見えた。ほか二つの影はそれぞれの窓際で待機している。
 傷の入る音がした。鳥肌が立ちそうなくらい耳に障る音で、静かな部屋にはやたらと大きく響く。コンコンとガラス窓を叩く音が何度かして、窓は外側からそっと開けられた。冷たい風が入りこむ。
 待機していた二つの影が部屋に入った。百パーセント戒斗だとわかっても、いざ侵入されると逃げたくなった。
 二人は暗闇なのに迷いなく叶多たちのところへやってきて立ち止まった。
「大丈夫だ」
 目の前にかがんで囁いたのは間違いなく戒斗の声だ。いっきに躰のこわばりが解けた。脇の下と膝裏に腕が入ってそのまま抱きあげられた。深智がどうなったのかは見えなかったけれど、おそらくは瀬尾が来ているはずだ。
 外に出ると体格のいい影が先導した。タツオだとわかった。玄関近くにある部屋の窓からは明かりが漏れていて、そこを避けるように遠回りされた。
 わずかな明かりの中で見上げた戒斗は眼鏡をかけていた。
 どれくらい家から離れたのか、戒斗が立ち止まり、車のスライドドアが開く音がした。
 抱かれたまま車の中に入り、ドアが閉まって車内の灯りがつけられた。
 車の中は一面暗幕で外の視界が遮断されている。拉致(らち)されたときの車と似ているけれど、運転席との間に仕切りはなく、後部座席からでも重装備した計器類が見えた。運転席には和久井がいて、エンジンがかかっているにも拘らず、車は静かだ。
 黒いニット帽を被った戒斗が、水中眼鏡のようなヘンに分厚いサングラスを外した。

「大丈夫か」
 叶多がうなずくのを見届けて、戒斗は口をふさいだ布を外した。
「……戒斗」
 つぶやくと戒斗の顔が近づいて、素早くくちびるが触れ合った。戒斗は少し布の(あと)が残った頬を撫でた。
 叶多は手と足の縄を解かれている間、もう一つ後ろの席にいる深智を覗いた。
「深智ちゃんは……」
「大丈夫ですよ。安定剤を飲ませましたから、すぐに眠ります」
 瀬尾が振り向いて答え、それから申し訳なさそうな表情になった。
「叶多さん、大丈夫ですか」
「はい」
「叶多、おまえも不安なら――」
「平気。戒斗がいるってわかるほうが落ち着くから」
 叶多がさえぎって云うと、戒斗は毛布で叶多を(くる)みながら口の端で笑った。それを見て、叶多は心底から安心できた気がした。
「落ち着きました」
「ああ。じゃ、やるぞ」
 瀬尾の言葉に答えた戒斗は、和久井から何か黒い物を受け取った。どうするかと見守っているうちに、戒斗が広げた黒い物はマスクだとわかった。
「戒斗?」
「後始末だ」
 目の部分だけを残して顔を隠しながら戒斗は説明した。一瞬、意味がわからなかったものの、叶多はすぐに察した。
「危な……っ」
 戒斗の手が叶多の口をふさいで、人差し指を立てた。
「このまま逃げるほうが安全策だとはわかっている。ただ、手口が巧みだと思われるのはまずい。有吏として介入したことを隠さなければならない。つまりは、おれはここにいるはずがない。さっきの電話のことがあるし、気休めかもしれないけどな。まあ、おまえも拉致されたってことでおれが参戦してもおかしくないことじゃある。いずれにしろ、今回の件はあくまで瀬尾個人の仕業に見せかける必要があるんだ。大丈夫だ。助けだすまえに向こうのスケールはほぼ把握した。あの程度の連中には蹴り一本入れさせない。いいか?」
 叶多はうなずいた。戒斗は手を離し、和久井がさらに差しだした保護用のグローヴをして、感触を確かめるように握ったり開いたりを二回繰り返した。
「和久井、万が一、何かあったら頼んだぞ」
「はい。おふたりのことはご心配なく」
「瀬尾、行くぞ」
「はい」
 戒斗はグローヴ越しに叶多の頬に触れると、心配いらない、と小さくうなずき、瀬尾とともに暗幕を揺らして外に出ていった。

「……和久井さん」
「三人いれば背後は守れます。それに……」
 叶多の不安げな声に答えた和久井は言葉を濁した。
「それに、なんですか」
「いえ。叶多さんは知らなくてもいいことです。それにしても。泣いていらっしゃるかと思いましたが」
 和久井の声には感心が半分と、からかう気持ちが半分混じっている。なんとなく、静かな空間が和んだ。
 後ろを見ると、毛布に包まった深智は眠っているのか目を閉じて動かない。
「深智ちゃんがすごく怖がってて、それを見てたら、なんとなくしっかりしなくちゃって思って」
「ますます将来が楽しみです」
 和久井は笑みを見せてうなずいた。
「深智さんは中学に入られたばかりのとき、一度似たような経験をされていますから」
「え?」
「誘拐されたんです。子供を亡くしたとかで心の病んだ女に。夫は人攫いを黙認してしまったんですよ。助けるまで丸二日間。盲点でした。情報に挙がってはいましたが、有吏の判断でも、女がそうするとは“まさか”だったようです。男が云うには、女の気がすんだら還すつもりだった、らしいですが」
 和久井はそれ以上云わなかった。
 深智が狂ったように怯えていた理由がわかり、そして叶多は『助けてくれなかった』という言葉に行き当たる。
 考えてもその真相まではわかるはずもなく、叶多の思考は堂々巡りをした。
 そのうち、家とどれくらい離れているのか、ガラスの割れるような音が車の中まで届いた。
「和久井さん!」
「証拠隠滅です。片づいた(あかし)ですよ」

 和久井の言葉どおり、やがて車のドアが開いた。助手席にタツオ、後部に戒斗と瀬尾が乗りこんできた。瀬尾は後ろに回り、戒斗がマスクを()がしながら叶多の横に座った。
「出していい」
「わかりました」
 和久井は車内灯を消して前方の暗幕を開けた。車はライトもつけずに進んでいく。運転席横のダッシュボードにモニターがあって緑の映像が流れている。
 暗闇に戻った車内で、叶多の隣から、おそらくグローヴを外しているような擦れる音がした。
「戒斗」
「なんともない」
 叶多の不安を察して答えた戒斗は、言葉どおり、息切れさえしていない。
 不意に、戒斗が毛布ごと叶多を抱きあげて自分の脚の上に載せた。
「眠ればいい」
「うん」
 叶多は目を閉じた。
 静かで緩やかな車の振動と戒斗の鼓動が心地よく、揺りかごになった腕の中でやがて叶多は眠りについた。

* The story will be continued in ‘Be tied’. *

BACKNEXTDOOR


* 文中意
『戒定慧をもって暗命と如実に仁愛を拓き、克己を忘れず、泰然として信真のもと忠心に尽くす』
  ▼ 戒定慧 … 悪を止める戒と、心の平静を得る定と、真実を悟る慧
  ▼ 暗命 … 護る・深い命・暗躍  ▼ 如実 … ありのまま
  ▼ 仁愛 … 愛と仁義  ▼ 克己 … 我慢・努力(自分の欲心に打ち勝つ)
  ▼ 泰然 … 心身一致の不乱  ▼ 信真(造語) … 誠意  ▼ 忠心 … 忠実な心(団結)
暗視鏡(ナイトヴィジョン) … 軍事用として開発された赤外線カメラみたいなもの
因みに戒斗たちが侵入時にしていた眼鏡も似たようなものです。