Sugarcoat-シュガーコート- #80

第9話 Dis-mis・s・ion -6-


 深智が化粧室に消えている間、いつもに戻った啓司は、職業柄なのか戒斗が聞き役に回りがちなことに比べて、ずっとウィットに富んだ話をしてくれた。
 幼少の頃、ツンケンした戒斗をいかに普通の子供にしようかと奮闘した話に至っては心底笑わされた。
「瀬尾さんて幼稚園時代のこと、はっきり覚えてるんですね。あたしはもう曖昧になってきてる感じ」
「それだけ戒斗のマセかげんが普通じゃなかったんですよ」
 ふざけたように首を傾けた瀬尾の肩越しに深智が見えた。
「それってきっと瀬尾さんもそうだったと思うんですけど」
 そう云いながら笑顔のまま叶多が深智に目を向けると、すぐ傍まで来た深智は立ち止まり、顔を強張(こわば)らせた。
「どうした? どうせなら飲んでいけばいい。それから送る」
 瀬尾はテーブルのカクテルグラスを指差し、立ったままの深智を見上げて促した。
 黙って隣に座った深智が、叶多の前にあるグラスに目をやった。
「深智ちゃんがブラッディ・メアリー好きだって聞いて、あたしも飲みたいと思ったんだけど未成年だし。そしたら瀬尾さんがこれ頼んでくれたの。ヴァージン・マリーっていうお酒の入ってないカクテル。簡単に云えばトマトジュース。ちょっとレモンが入ってるだけらしいけど、ヴァージン・マリーって云ったらお洒落だよね」
「そだね」
 深智は短く相づちを打った。また違う深智だ。声には愛想がなく、つんと()ねた表情で、叶多はびっくりして深智を覗きこんだ。
「深智ちゃん――」
「オーナー、お電話が入っています」
 叶多をさえぎるように、不意に従業員がやってきた。
「誰だ? あとでかけ直すって云ってくれ」
「それが……」
 従業員が身をかがめて耳打ちしたとたん、瀬尾の顔が険しくなった。
「すぐ戻ります」
 瀬尾は(わずら)わしそうにため息を吐き、立ちあがりながら叶多に向けてそう云うと、ちらりと深智を見やってからカウンターの奥へと消えていった。
 それを見届けた深智がいきなり席を立った。

「叶多ちゃん、帰ろ」
「え、深智ちゃん、瀬尾さんが――」
 止める叶多にかまわず、深智は出口に向かった。精算することがなければ引き止められることもなく、深智はカウンターを通り抜けた。叶多は斜めがけのバッグをつかんで慌てて追いかけた。
「オーナーがご一緒では?」
 店を出ると、エレベーターの前で男に引き止められた。
「電話中。先に降りておけって」
 深智の嘘が見抜かれることはなく、男はエレベーターの壁にあるボタンを押してドアを開けた。
「深智ちゃん――」
「残りたいなら残れば?」
 深智はエレベーターに乗りこんで振り向くと、素っ気なく云い捨ててボタンに手を伸ばした。
 いまの深智には放っておけない雰囲気があって、叶多は急いで従った。
「心配しなくても、わたしがちゃんとタクシーで送るよ」
「そうじゃなくて……」
 叶多は最後まで云わなかった。
 心配なのは深智のことだ。けれどそう云ったら、余計なお世話だと()ねつけられるのは目に見えている。

 エレベーターが動いている間に、叶多の携帯音が短く鳴って止んだ。その音は戒斗を示していて、叶多は遠慮がちに携帯電話を開いた。
 Seduce(セデュース)にいたのはちょっとだと思っていたのに、時間はもう十時半になろうとしている。この場所が場所なだけに、学校に知れてしまえば即、退学を宣告されそうだ。
 戒斗からのメールは、予定を繰りあげて今日帰ってくるという、深智には内緒にした夕方のメールに続いて、東京駅に着いたという知らせだった。
 深智はなんとなく心ここにあらずで、探られることもない。返信の入力をしているうちにエレベーターが止まった。
 送ると云ったわりに叶多は置いてけぼりで、深智はさっさと降りて歩道に出た。
 叶多は入力しかけたまま携帯電話を閉じて深智を追った。通りが通りだけに合図するまでもなく、順番待ちのタクシーがゆっくり近づいてくる。
 と、そのとき、黒い車がタクシーの前に割りこんで、歩道脇に横滑りするように止まった。

「深智ちゃん!」
 一瞬、ぶつかるかと思って叶多の足がすくんだ。深智が本能的に後ずさりすると、ドキドキしながらも無事だったことがわかってほっとした。
 が、安心したのもつかの間、叶多が深智に駆け寄ろうとしたとたん、そのワンボックスカーのスライドドアが開いた。それから目の前で起こっていることが信じられなくて、また立ちすくんだ叶多だったけれど、次の瞬間には考えるより早く躰が動いていた。
「深智ちゃんっ!」
「いやっ!」
 名を叫んだ叶多と深智の悲鳴が重なった。
 急いで駆け寄って、深智の腕をつかんだ男の腕に飛びついた。
「てめぇに用はねぇんだよっ」
 云い放った男から振り払われて叶多の躰がよろけ、手に持っていた携帯電話が飛んだ。それを拾っている場合じゃない。深智が引きずられて車に乗せられようとしていた。
「啓司、啓司っ……啓司…………っ!」
 深智がさっきから何度も瀬尾の名を叫び続けている。
「深智ちゃん!」
 深智が車の中に押しこまれる瞬間、男につかみかかっても撥ね退()けられるに違いなく、かわりに叶多は無我夢中で深智にしがみついた。
「てめぇじゃないっつってんだろうがぁ! お嬢が始末してぇのはこの女なんだよっ」
 肩をぐいとつかまれたけれど、叶多は『始末』という言葉に(おび)えながらも尚更、深智を離してはいけないと思った。
「ここで手間取ってらんねぇ。奴が降りてきたらまずいぞ」
「仕方ねぇ。一緒に連れてけ!」
 何人いるかも把握できないまま、叶多は深智ごと乱暴に車の中に押しあげられ、ワゴン車のいちばん後ろに追いたてられた。
 車は急発進した。叶多は怖くて悲鳴さえ出せず、逆に深智は狂ったように瀬尾を呼び続ける。
「うるせぇっ!」
 前に座った男が喚きながら席を立って、深智を向くと腕を振りあげた。
 叶多のどこにそうする気力があるのか、深智の頭をかばうように抱き寄せた。その瞬間に手のひらが頭を叩いた。手加減ない力に頭がくらくらした。痛みよりも、容赦ないと知って躰が震えた。
 車の中は運転席のすぐ後ろで前後を仕切られ、窓には目隠しの黒いフィルムが貼られている。薄暗く閉鎖的で恐怖心が余計に増した。

 誰よりもきっと泣き虫なのに、いまは不思議と涙は出ない。
 戒斗……。
 叶多は心細くつぶやいた。



 車を寄せようとしていたタクシー運転手と通りがかった歩行者が、見知らぬ者同士で現場に集まり、興奮気味にざわついている。
 そのなか、通りに似つかわしくないスニーカーを履いた男がゆっくりと近づく。現場よりちょっと離れたところで足を止めると、男は身をかがめ、落ちた携帯に手を伸ばした。

「荒すぎるだろう」
 つぶやきながら携帯電話を開いてみると、メールのメッセージ入力画面が映しだされ、幸いにも壊れていない。
 そのメールの宛先を確認してから、中途半端に入力されたメッセージを消去し、かわりに一言だけ入力した。
 送信ボタンを押し、それから携帯電話の電源を切るとジーパンのポケットに忍ばせた。
 現場より数メーター先の歩道脇に黒塗りの高級車が横付けされる。助手席の男が降りてドアを開けるのを待ち、後部座席に乗りこんだ。
「どうされますか」
「待機だ」
「はい」
 ほどなく目の前のビルから、スーツを着た長身の男が出てきた。後ろに髪を束ねていて、端整な顔を隠すことなく(さら)している。すぐに騒ぎに気づいたその男は野次馬たちの中に入り、やがてその輪から離れた。
 状況を聴いたはずが、それでも慌てふためくことなく、男は携帯電話を取りだした。

 それを見て、自分もまた携帯電話を開いた。
『どうしたの?』
 電話に出た声は小気味よさそうな様子だ。
「退屈なんだ。玲姉さんなら何かおもしろいこと知ってるんじゃないかと思ってさ」
『あら、タイミングいいじゃない。ちょっとやっちゃったい子を捕まえたんだけど』
「おもしろいなら参加したいな」
 どうでもいい雰囲気で伝えると、電話の向こうで玲美はからからと笑った。
『あんた、領我(りょうが)家が嘆くとおり、不良坊やだわ』
「伯父は生真面目すぎるからな」
 うんざりしたようにため息を吐くと、玲美はおもしろがってまた笑い、気安く了承した。
『オーケー。別荘に行けば楽しめるわ。わたしは三十分後くらいに行けるかな。お楽しみはそれからよ』
「ヤバくなったら逃げるからね。玲姉さん、内緒にしててよ」
『わたしに取り入るなんてずる賢い子。ま、あんたは可愛いから許してあげるけど』
「サンキュ。じゃ」
 電話を切ると息を吐いた。

 玲美と話している間も観察し続けた男はとっくに電話を終えている。なんらかの行動を取るでもなく、ただワゴン車が消えた方向を見て(たたず)んでいる。
「彼がおれの探し求めている一員だとして、薄情なのか、それほど、訓練されているのか。後者なら、さすが、だな」
「そうですね。ようやく――」
「我立の別荘だ」
 助手席の男をさえぎって、行く先を告げた。ゆっくりはしていられない。
「派手に出せ」
「御意」
 運転手が答えると同時に急発進した車は、(きし)んだタイヤ音を辺りにまき散らした。
 後ろを振り向くと、思惑どおり、あの男の目がこの車を追っている。
 男はいったんビルの中に戻るようだ。
 見当がついたのか。まあ、あの浅はかな女のやることだ。疑惑の材料はボロ出しだろう。



 啓司が我立会の会長の呼びだしに応じている間に、深智と叶多は消えた。
 ビルを出るなり、二人の拉致(らち)を知った。状況と、店を出るまえにちらりと見やった玲美のほくそ笑みは考えるまでもなく勘で繋がる。
 一本の電話を入れ、すぐに情報網を張り巡らした。
 深智……。
 携帯電話を握る手が白くなる。
 ()るのはあとだ。
 そう自分に云い聞かせて、(はや)る気持ちを抑えた。
 ビルに戻ろうとした瞬間に、無理したタイヤの悲鳴が耳を(つんざ)く。
 振り向くと、黒塗りの車が目に入った。反射的に確認したナンバーは隠されている。
 啓司は思案に沈み、目を細めた。
 同時に着信音が鳴った。



 叶多にしては遅い返信メールを見たとたん、戒斗はバックシートにもたれていた頭を起こした。
『助けて』
 一言に一瞬、目を疑う。即座に叶多に電話をかけようとして思い直した。このメールが深刻なら刺激するだけだ。
「和久井、GPS で叶多を追ってくれ」
「わかりました。どうかされたんですか」
「タツオはどうしたんだ」
 和久井の質問には答えず、戒斗は怪訝(けげん)に訊ね返した。
「……タツオは外しました。叶多さんなら瀬尾と一緒のはずですが」
「どういうことだ」
 問い返す一方で、戒斗は瀬尾に連絡を入れた。一回も鳴りやまないうちに通じる。
「叶多はどこだ?」
『すみません。たったいま、深智と一緒に拉致されました。僕の不手際です。いま追わせています』
「謝るのはあとだ。手短に状況を教えてくれ」
 瀬尾の端的な説明で大まかに事情を把握し、戒斗は電話を切った。
 和久井がちらりと振り向いた。
「GPS は反応しません。深智さんのも調べましたが一緒です。電源が入っていません。最終地はSeduce 付近です」
 電話の話を聞きかじって事態を見当つけた和久井の報告に、戒斗は内心で舌打ちした。
「タツオを呼びだせ。装備車に乗り換える。とりあえずSeduce だ」
「飛ばします」
 和久井が云うなり、躰がシートに押しつけられるくらいに車が加速した。窓の外を光が流れる。
 叶多……。
 戒斗は窓ガラスに映る自分の顔から表情を消した。



 どこに連れていかれたのか、車が止まるや否やドアが開いて、叶多と深智は降りろと命令された。
 叶多が自分のかわりに叩かれたことは深智にも伝わったらしく、それから叫ぶことはなくなったけれど、深智は子供みたいに叶多に(すが)りついたままだ。
 こうなると、怖いのにかわりはないけれど、頼りない叶多でも気がしっかりしてくるから不思議だ。
「深智ちゃん、行くよ」
 目的が深智にあることははっきりしていて、そのせいか深智は無言で抵抗した。
「早くしろっつってんだろっ。もたもたしてっとそこら辺に埋めてやっからなっ」
 声を荒げた男に叶多はすみませんと口走った。謝るのは理不尽な気がしたけれど、これ以上に苛々(いらいら)(あお)りたくはない。
「深智ちゃん、あたし離れないから大丈夫」
 瀬尾さん、絶対に来てくれるよ。
 叶多は深智の耳もとに囁いた。

 保証なんてない。ここがどこかはわからない。携帯電話は落としたまま。深智のは折られた。
 それでも有吏が助けだせないはずはない。
 戒斗はそう教えてくれた。

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