Sugarcoat-シュガーコート- #79
第9話 Dis-mis・s・ion -5-
九時すぎ、和久井は密談を控えた、とある政治家を料亭の中まで送り届けた。
衆議院の解散が公然と囁かれるなか、慎重に慎重を重ね、相手は二時間も前から料亭にこもっていた。
それも当然至極のことだ。互いに対立政党にある二人が同席するとなれば波紋が広がる。それほどの政治界においては主要な二人だ。世間も本人たちもそう思っている。
このセッティングをしたのは、彼らそれぞれの政策職務を兼ねた公設第一秘書、延いては有吏一族にほかならない。
筋書きが用意されていることを当の二人は知る由もなく――和久井の顔に薄笑いが浮かぶ。
車に戻ったちょうどそのとき、胸もとの内ポケットに入れた携帯電話が震えて和久井を呼んだ。
『タツオです』
「どうした?」
『報告です。叶多お嬢さんですが、いま、瀬尾常務の店にいらっしゃいます』
タツオからの報告に和久井は顔をしかめた。
「啓司の?」
『はい。矢取家のお嬢さんとご一緒ですし、瀬尾常務もいま店内に入られましたから、心配することないかとも思ったんですが、叶多お嬢さんが行かれるような場所ではないです。それでやはり和久井常務にも報告したほうがいいかと……』
「いい判断だ。啓司にはこっちから連絡する。待機してくれ」
『了解っす』
せっかくそれらしい言葉づかいも、報告してほっとしたのか、最後には以前のタツオの口調に戻っていた。
わずかに苦笑いした和久井だったが、すぐに厳しく表情を変えると、ワンプッシュで携帯画面に瀬尾の番号を呼びだした。
『なんだ?』
長引いた呼びだし音のあと、瀬尾はいつになくぶっきらぼうに答えた。
「いま、どこにいる?」
和久井はわかっていてあえて訊ねた。
『店だ』
「どういうことだ?」
用件の趣旨を省いた和久井の質問に、瀬尾の漏らしたため息が答えた。
「啓司、頼の話では親睦会の日、少なくとも駅から叶多さん、もしくは八掟家に尾行がついていた。和瀬の人間じゃない。それが決着しないかぎり、安易な行動は許されない。いま、なんのために四六時中、叶多さんにタツオをつけていると思ってるんだ」
『わかっている。タツオに伝えてくれ。叶多さんはおれがすぐに送っていく』
「そうしてくれ。いまからおれは東京駅まで戒斗を迎えにいく」
『戒斗は今日、帰るのか?』
「ああ。予定変更だ。申し開きは自分ですることだな」
『当然だ』
気が抜けたような笑い声を残して電話は切れた。
時刻を確認すると、戒斗が到着するまで一時間ある。和久井はタツオに連絡したあと、ゆっくりと車を出した。
「助けてくれなかった……?」
「それが子供だったからって、有吏と名乗る以上、云い訳は通用しない。あ、啓司が来た。啓司は全部知ってるよ。わからないことは訊いてみたら?」
全部……。
瀬尾は最初に会ったとき、深智と同じ“女遊び”を仄めかした。
それは昔のことにすぎない。北海道に行ったとき、直接的ではなくても戒斗はいろんなことを話してくれた。
けれど、それとは別に、助けてくれなかった、という、いったい何が戒斗と深智の間にあったんだろう。
叶多は深智の視線を追って啓司にたどり着いた。
カウンター付近で携帯電話を使っている立ち姿はすっとしていて、半年前に始めて会ったときの見目麗しいという印象は変わらない。けれど、電話を切ったあと、近づいてくる瀬尾の表情は険しかった。
「何やってるんだ?」
「啓司、怖いよ?」
瀬尾の責める声音にも拘らず、深智はおもしろがって答えた。
目の前に座った瀬尾は、しかめた顔を深智から叶多に向けた。
「叶多さん、こんなところに来るべきじゃない」
「すみません。すぐ帰ります。……戒斗に怒られるかな」
「怒られるのは僕ですよ。ちゃんと送りますから心配いりません」
険しい顔が緩んで、瀬尾はうなずいてみせた。
「啓司って戒斗だけじゃなくて叶多ちゃんにも忠実なんだね。わたしとじゃ、言葉づかいが全然違う」
「きみが“特別”なんだろ」
瀬尾は素っ気なく口にした。
「そ?」
感情をこめずに短く問い返した深智はつと席を立った。
「どこへ行く? きみも送る」
歩きかけた深智は足を止めた。
「野暮なこと訊くんだね。女の子が断りなく席を外すときの理由って決まってるでしょ?」
そう云いながら深智は少し躰をかがめ、座った瀬尾の首に左腕を絡めるようにして回し、その左の耳に口を近づけた。
深智の声は聞こえてこなかったけれど、そのしぐさは叶多からすれば、ふたりに歴史を感じるくらい親密に見えた。
「おれは助けるために在る」
深智が何を云ったのか、瀬尾は不機嫌に云い返した。
瀬尾の首もとを撫でるように腕を外してから、微笑んだ深智は入り口のほうへと行った。
深智はともかく、物腰柔らかだと思っていた瀬尾のこれまでとは違った一面を目にしたようだ。残された叶多は居心地悪く、腰を少し浮かして座り直した。
「叶多さん、申し訳ありません。彼女が無理やりつれて来たんでしょう」
叶多は瀬尾がそんなふうに謝ることを不思議に感じた。
「違うんです。もとはといえば、あたしが戒斗と深智ちゃんの邪魔をしたから……それを解決できたらって簡単に考えただけで……深智ちゃんに逆らえないというか……」
「違いますよ。邪魔をしたのは僕だ」
否定に否定を重ねた瀬尾は、叶多の驚いた顔を見て息を吐くように笑った。
「彼女から聞かれたんですね――」
「啓司」
突然、観葉植物の脇から現れて、瀬尾を呼び捨てにした女性の声は深智ではなかった。
女性はほかの客と違って、職業を勘違いするほど派手な赤を身に着けている。背も高そうで、悪く云えば、それがより毒々しさを強調していた。
「これは我立会のお嬢さん。楽しんでいただいていますか」
「啓司を指名させてくれれば、もっと楽しめるんだけど」
女性は艶めかしく瀬尾の肩に手を置いた。彼女の声は若く聞こえるけれど、その振る舞いは声の印象よりもかなり年上に見えた。
「云ったでしょう。僕は同じ客とは最初が最後。二度と付き合うことはありませんよ」
「この子も?」
不意に人差し指を向けられて、その会話の内容に少し慄いていた叶多は躰を引いた。
「この方は違います」
「そうよね」
女性はちらりと叶多を見やると、すぐに瀬尾に視線を戻した。
そうよね……って。
叶多は簡単に対象外だと見下されたらしい。反論はできないけれど合点も行かなくて、叶多はこっそり口を尖らせた。
女性は腰を折ってテーブルに片手をつき、瀬尾のほうへと威圧するように顔を横向けた。
「じゃあ、あの子は何? 来るたびに啓司を呼んで、それに従うってどういうこと?」
「玲美さん、あなたには関係のないことです」
「どういうこと? パパに――」
「玲美さん、あなたは確かに我立会のお嬢さんだ。ですが、“お嬢さん”であって“お嬢さま”ではない。ここはそういう場所です。僕に我立会という名をふりかざしても通じませんよ。たとえ、会長の娘さんでもね」
瀬尾は玲美の顔を目の前にしながら辛辣にあしらった。
玲美の長く小さなウエーブのかかった爆発したような髪が邪魔をして、叶多から表情は見えない。それでも玲美の殺気だった雰囲気が感じ取れた。
しばらく張り詰めた空気は、玲美が躰を起こしたことによってやっと緩んだ。いつの間にか息を詰めていた叶多はほっと肩の力を抜いた。
さっと身を翻して、玲美は立ち去った。
「無様なところに立ち合わせました。大丈夫ですか」
「あ……社会勉強になりますから」
ちょっと考えてから叶多が答えると、瀬尾は可笑しそうに口の端を上げた。
「我立会は和久井組と相対関係にあるんです。どういうことか、わかりますか」
叶多は急に課題を与えられ、瀬尾の言葉を反芻した。
「え……っと……」
「この店については本来、ああいう礼儀知らずのお嬢さんは出入り禁止なんですが、いまのところ黙認せざるをえない」
瀬尾が出した二つのヒントで叶多は察した。
「……蘇我家の?」
「そのとおりです。赤点ギリギリだろうが、いまのように明察できれば問題ないですよ。重要なのは、勉強ができること、じゃない。機転が利く、ことです」
おそらくは三カ月もまえのことを持ちだされて叶多は困惑した。戒斗が云うわけはなく、情報網はどこまでも張り巡らされているらしい。
赤くなった顔を見て瀬尾は小さく吹きだした。
深智は化粧室の鏡に映った自分を見つめた。
他人がよく云うように、あるいは身内までもが云うように、きれいなのかもしれない。
けれど、そんなものはなんの役にも立たない。
戒斗は深智を選ばなかった。
可愛いから。
深智を選んだのは訳のわからない誘拐犯。
きれいな顔はただのお飾り。
同じ幼い初恋なのに、受け入れられた恋と、云えなくて形にさえならなかった恋。
わかってる。何をしても戒斗とはどうにもならないこと。戒斗が変わった六年前の時点で、わたしはとっくに納得できてたはず。
なのになぜいま、わたしは、狂ってるの?
助けてくれたのは戒斗じゃなかったと、そう知ったときの焦燥感に縛られ、また空っぽになった気がした。
半年前、叶多ちゃんの名がその口からやさしく出た瞬間に。
この気持ちは何?
見たくない。
さっき、そう内心でつぶやいたのはわたし自身なのに。
嫌いじゃない。それでもわからない。
啓司までもがやさしくなる叶多ちゃんと、わたしと、何が違うの?
わたしを助けて。
依頼に応じたのは口先だけで、きっと啓司は実行しない。
わたしには誰も残らない。
鏡に映った自分は、まるでいつ棄てられてもおかしくない人形。このまま心のない人形になれたら……。
深智は化粧室を出ようとドアノブに手をかけた。
とたんに深智より早く、外側からドアが開いた。後ずさってスペースを譲ったのに、そのまま奥に押しこまれた。
顔を上げると、深智より顔一つも背の高い女性が立っている。その眼差しは憎々しげだ。
「あんた、啓司の何?」
「どういうこと?」
「目障りなのよ」
その一言から一方的な攻撃の理由を難なく察すると、深智は女を上から下までわざとゆっくり眺め回して笑った。
「啓司のこと好きなんだ? お生憎さま。あなたには無理。見て」
深智は鏡を指差した。
大きく四角い鏡は上品に真鍮の装飾品で縁取られている。その下には陶器の手洗い鉢という、セレブの邸宅にあるような贅沢でおしゃれな化粧室だ。
「品のない服。もとがわからない厚化粧。延いては年齢不詳。幾つなの? 若く見積もって三十かな。若ければいいってことはないけど、あなたがわたしを越えてるのは背の高さだけじゃない?」
目の前の女はおもしろいくらいに鬼の形相になっていく。厚化粧じゃなかったらきっと顔は真っ赤なはずだ。
「何、それ?! わたしを誰だと思ってるの?! 我立会って知って――」
「誰であろうが関係ないよ。啓司は啓司。わ・た・し・の、なの」
深智は、ふふっ、と笑みを浮かべ、無責任に挑発するだけ挑発して化粧室を出た。