Sugarcoat-シュガーコート- #78

第9話 Dis-mis・s・ion -4-


 スタッフからの電話で呼びだされ、店内に入ると彼女は無邪気に手を振った。正確に云えば、呼びだしたのは彼女だ。
 顔を背けるようにため息をつき、その席に向かった。
「何をやってるんだ?」
「だって、全然実行してくれないから」
 躰を投げだすように座り、努めて不機嫌さを隠して訊ねると、彼女はねた表情で答えた。
「ここはきみが来るところじゃないだろ」
羅刹(らせつ)も、結局はあの子が好きなんだね」
 嫉妬するでもなく、憎々しげでもなく、ただ言葉を並べた云い方だ。
「きみは自分がどういう目に遭ったのか、覚えてないのか? それと似たような目に遭わせようとしてる」
「覚えてるのは……助けにきてくれなかったことだけ。……あとはどうでもいい」
 彼女は内容とは対照的に、怖いほど無邪気に笑って云った。
 そこだけがクローズアップされていて、彼女は覚えていない。恐怖は封じられた。
 そこまで(ゆが)んだ感情は『理解できない感情』なんかじゃない。
 ――おまえが行ったほうがいい。
 そう云った彼は、この心中を見抜いていたに違いない。
 たぶん彼女と同じ感情が存在して……(あざむ)いた。
 彼も……彼女をも。
 羅刹。
 彼女にその名を呼ばれると身に沁みる。
 その名は我知らず自分自身に課した、報いだと、いま、知った。
 はじめて後悔という感情を覚えた。
「羅刹、わたしを助けて」
 顔を近づけてきた彼女は、その力を知ってか知らずか、魔性の無邪気さで囁いた。
 守らなければならない彼女と、守りたい彼女。
 そこに違いがあるとは思いもせずに悪あがきして、おれは自分さえ欺いていたのかもしれない。



 二月初めの週末、三夜連続の名古屋ライヴも今日が最終日だ。
 “Sweet Die”と銘打ったライヴツアーは、いまや考えるまでもなく段取りが躰に沁みこんだ。アドリブも気持ちいいくらいに阿吽(あうん)の呼吸で音が乗る。
 三十分後に開演を控え、会場内に入った観客たちのざわめきが控室まで届いてきた。
 音に全神経を集中させようとしたちょうどその時、戒斗の携帯電話が震えた。
「戒斗、いまいい?」
 めずらしく美咲からだった。
「どうした? もうすぐライヴが始まる。あとで――」
「わかってる。ただ、ちょっとお姉ちゃんがヘンな気がして」
「ヘン、てなんだ?」
「精神的に不安定な感じがするの。あたしはあんまり覚えてないけど、ママがあの事件のあとと似た感じだって云ってる。考えてみたら、やっぱり叶多ちゃんのことがあってからおかしくなったんじゃないかって……」
「……今日は?」
「うん。いま、叶多ちゃんと一緒」
「わかった。気にかけておく」
 戒斗は顔を険しくし、いったん閉じた携帯電話をまた開いた。



 二月に入ると三月初日の卒業式を間近にして、寒さを忘れそうになるくらいに浮き足立ってきた。叶多だけではなく、三年生全員が残りの高校生活を満喫しようと、和気あいあいで楽しんでいる。
 学校は至って問題ない。
 伴って、頼が居座るのも今月いっぱいで、あとは誰に咎められることもなく――というわけにもいかず、一族とファンのことは考えないといけないけれど、ともかくまたふたりの生活が始まる。
 私生活も至って問題ない。
 もっとも、十二月から半年かけて全国を回るツアーのせいで、戒斗は不在になることが多い。
 それはそれで、帰ってきたときにうれしいと感じる度合いが倍増して、叶多は得した気分にさえなる。一歩間違えれば憂うつになりそうな事由を除けば、の話だけれど。

 頼がいて自由にできない……何が、というのはつまり、えっちで、戒斗はふたりきりになったとたん、完全に野獣化する。
 実際、冬休みが終わってから一カ月経って、やったのって……やった、ってなんだかえっち。や、だから、えっちの話なんだけれど。日数換算で云えば片手のぶんだけ。
 そのせいで毎回、激しすぎる。
 戒斗がやめないかぎり、どれだけイっても、強いて云えば気絶するまで終わらないあたしの躰ってやっぱりおかしい。自分で自分の首を絞めている感じだ。
 そんな状況下、何が恥ずかしいのか、という最大の要因がわかった。あたしだけ、というのが、戒斗のまえで独りえっちしてるみたいに思えるのだ。それってすごく恥ずかしい……ことだよね? 人がどうかって訊けないし。
 五月のあたしの誕生日まで三カ月。それまでには絶対に戒斗が云う“インラン”になりたい。って云っても……“インラン ”てどういうこと?

 叶多は眉をひそめた。
「叶多ちゃん、どうかした? ここ、美味しくなかった?」
 テーブルの真向かいに座った深智が、首をかしげて問いかけた。
 考えていたことが考えていたことだけに、笑ってごまかしながらも叶多は顔を火照らせた。
「ううん。すっごく美味しいよ。ちょっと考え事してただけで……」
「そ。戒斗のこと考えてるんだね」
 叶多は返事できずに曖昧に笑い返した。

 違うと云ったら嘘になる。たとえ考えていることが戒斗のことじゃなくても、違うと云ったところで深智は嘘だと思うだろう。
 深智の眼差しと口調にはいつものようにギャップがある。その時によってどっちがどっちかというのも違っていて、いまは眼差しが冷たくて、口調は朗らかだ。
 叶多はいまだに戸惑うばかりで慣れない。
 そんな反応が怖くて、二時間前にあった戒斗からのメールも、目敏く気づいた深智には、いまからライヴ始まるんだって、と嘘を吐いた。
 目下のところ、一大事的な問題はこの深智のことだ。
 矢取家での食事会の日以後、深智に誘われて週に二回のペースで夜に外食するようになった。もちろん、深智が最初に云ったとおり、それは戒斗が留守にする日だ。
 セッティングは深智任せで、そのせいか、叶多がよく利用するファーストフード店など言語道断と云わんばかりの、かしこまったレストランが多い。
 平日であれば頼と真理奈の夕食は放りだしてくるわけで、真理奈はともかく、頼は不満げだ。
 今日はそのふたりの夕食の心配がいらない日曜日で、そう知っている深智から食事を取るまえに洋服の買い物まで誘われた。結局、深智は気に入るのがなくて買わずじまいだったうえ、叶多は慣れないブーツを履いてきたせいで足が痛くなった。
 戒斗は嫌なら応じる必要はないと、それこそ嫌になるくらい何度も叶多に云い続ける。おれが断る、とまで云ったけれど、やっぱり後回しにしても仕方ない。
 付き合っていくうちに深智と本当に仲良くなれるのであればそのほうがいい。
 そう思ったのに雲行きは怪しくなっていくばかりで、人を好きになるというのは、時に人間関係を(いびつ)にしてしまうと思い知らされた。
 まだまだ子供っぽい思考回路で安易に考えてしまうけれど、ただ、歪んでしまったら、もとに戻すことはおろか、修復することさえ難しいということはわかっている。

「ねぇ、叶多ちゃんにいつも訊きたいと思ってることがあるんだけど……」
 深智はためらいがちに云って言葉を切った。その瞳に躊躇(ちゅうちょ)は見えず、叶多は無意識に躰を引いた。
「何?」
「うん……叶多ちゃんが戒斗のことを好きっていうのに見合うほど、戒斗って誠実?」
 とうとつな疑問を投げかけた目の前の深智は、会えば会うほど知らない人になっていく。意味がわからなくて叶多は一瞬、目を見開いた。
 いや、『誠実』という言葉の意味はわかる。けれど、そう訊く意図がまったく不明だ。
「……うん。考えてることはよくわかんないけど、いいかげんじゃないよ」
 むしろ、卑怯なことを嫌う戒斗に限って、叶多を裏切るなんて考えられない。
「ふーん。叶多ちゃんは知らないんだ。どんなに戒斗が不誠実な人間かってこと」
「……え……?」
 深智の発言と相反したにこやかさに驚いたあまり、叶多は言葉に詰まった。
「ここ、出ない? いい所に連れてってあげる」
 叶多の返事も待たずに深智は立ちあがった。


 タクシーに乗って、深智は派手なビル群の通りに叶多を連れていった。クリスマスはとっくに終わっているのに光が溢れている。
 まったく叶多とは接点のない世界だと一目で見て取れた。それでも断れないまま、深智のあとに続いてビルの一つに入った。
 エレベーターは七階まであって、おそらくは店名と思われる名前が並んでいる。そのうち深智は四階のボタンを押した。
 エレベーターが止まって扉が開いたとたん、両脇に屈強な男を目にして、叶多は降りるのをためらった。
「大丈夫よ」
 叶多は声をかけた深智にくっつくようにして降りた。
 片方の男が怪訝(けげん)そうに叶多を眺め回したのち、深智にうなずいて見せた。
「ここ」
 深智に案内されるまでもなく、エレベーターを降りてちょっとしたスペースの先には一つのドアしかない。
 そのドアの横に“Seduce(セデュース)”と筆記体で表示された電光看板がある。見慣れない英単語で、ドアの向こうも覘けずにどういう店か見当もつかない。
 門番のような男がドアを開けたとたん、煙草とお酒の匂いがした。

「いらっしゃいませ」
 中に入ると、入り口横の小さなカウンターから礼儀正しい声が出迎えた。美形の、どちらかというと“可愛い”寄りの男の人だ。
 ざっと見渡した店内は男女のカップルばかりで、やっぱり入ってみてもどんな店か、叶多には理解できない。
 足がすくんだ叶多の手を引いて、深智が強引に奥へと進んでいく。
「深智ちゃん……」
 呼びかけても答えることなく、深智はまるで定位置であるかのように勝手に隅のテーブルに連れていった。その一角だけ、ほかから目隠しするように観葉植物で囲まれている。
「座って」
 自分が場違いなのは誰よりも自覚している。立ったままというのも、葉のすき間からこれ以上にじろじろ見られそうで、叶多は深智に従って隣同士で座った。
「いらっしゃいませ。今日は――?」
啓司(けいじ)を呼んでくれる?」
「承知しました」
 さえぎった深智の依頼を受けて奥へと消えていく人もまた、顔立ちの整った男だ。それよりも叶多が気になったのは深智の口から出た名前だ。
「深智ちゃん、啓司さん、て……?」
「そ。瀬尾(せのお)啓司。知ってるよね、戒斗の忠臣。ここは啓司の店なの。だから安心して」

 叶多は目を丸くして深智を見つめた。
「……深智ちゃんて……有吏のことはどれくらい知ってるの?」
「大まかなところだけ。叶多ちゃんよりちょっと詳しいくらいかな、たぶん」
「瀬尾さんとは仲いいの?」
「啓司はたまにわたしのボディガードとしてついてくれるんだよ。でも知ってるのはずっとまえから。父についてくれたのが啓司のお父さんなの。戒斗にとって和久井さんみたいな感じかな」
「そうなんだ」
「そ。年が近いし、小さいときから戒斗と啓司も仲良かったんだよ。でもね……」
 深智は云いかけてやめた。同時にその顔から表情が消えた。
「深智ちゃん、『でも』何?」
「叶多ちゃん、美咲が何か云ったようだけど……気づいた?」
 いままで見たことのない、怖いくらいに真剣な深智の瞳が叶多に向いた。叶多の躰が心なしか強張(こわば)る。
「気づいた……って?」
「わたしと戒斗、婚約してたんだよ」
 一瞬、時間が止まった気がした。
「それを邪魔したのは叶多ちゃん」
 漠然と見当つけていたのに、いざ現実化すると、叶多はつかの間だけ放心した。

「深智ちゃん……」
「叶多ちゃん、この店、どんな店だかわかる?」
 深智は声をひそめ、それまでの流れをまったく無視して別のことを訊ねた。叶多は困惑しながら首を振った。
「一見、ただのホストクラブだけど、実情は高級デートクラブ」
「……デートクラブって何?」
 戸惑った表情で小さく問い返す叶多を見て、深智はくすっと笑った。
「戒斗と同棲してるくらいだし、男と女がするデートの最終目的ってわかるでしょ?」
 叶多は思わず、店内を見渡した。赤くなった次には蒼く顔色を変えた叶多を見て、深智は気味悪いほどにっこりした。
 深智が何を企んでいるのかはまったくわからないけれど、叶多は明らかに状況がおかしいことに気づいた。
「深智ちゃん、あたしにはこういうとこ合わない気がする!」
 深智は慌てて立ちあがろうとした叶多の腕を取って制した。

「啓司が来るから大丈夫って云ったよね。戒斗が誠実じゃない理由を教えてあげるよ。わたしと婚約してる間だって、戒斗はここで遊んでたんだよ。いろんな女とね」
 叶多は大きく目を見開いた。矢継ぎ早に云った深智は叶多の反応をおもしろそうに見ている。
「深智ちゃん、違――」
「違わないよ。いまはどうなのかな。まだ同棲始めて半年だし、叶多ちゃんがよっぽど満足させてるんならそんなことないだろうけど」
 叶多が云いかけた『違う』は深智の解釈とは別次元の意味なのに。
「あたし、全部ちゃんと戒斗から聞くよ! それは深智ちゃんから聞かされることじゃな――」
「だから、戒斗が本当のことを云うと思う? 戒斗は少しも誠実じゃない。助けに来てほしいときに助けてくれなかった。そのうえ、平然と一方的に婚約を破棄した。戒斗は、そんな男だよ」
 語気を強めた深智は、ふたりで会うようになって、はじめてその口調と瞳の感情を一致させた。

BACKNEXTDOOR


* 文中意 seduce … 誘惑する、そそのかす、(いい意味で)魅惑する