Sugarcoat-シュガーコート- #64
第8話 Get in the way -1-
コールは五回を数え終わると同時に通じた。
「戒斗です」
「めずらしいな。総領次位と連絡が取れるのはよほどのことでない限り、十一時までと聞いているが」
電話の相手はさほど驚いている様子もなく、むしろ、いつ電話が来るかと待っていたような声音だ。
戒斗はタンスの上に置いた時計をちらりと見やり、十一時をとっくに回っていると知って顔をしかめた。逸楽から手が引けずに時間を忘れた自分に呆れ、小さく舌打ちした。
「遅くにすみません」
「いや、よほど、のことらしいからな」
仲介主宰の嫌味に戒斗は薄く笑った。
「当然です。仲介主宰の真意を聞かせてもらいたい。今回の件、どういうことですか」
「なんのことだ?」
「馬鹿げたことに時間をお使いではありませんか」
「馬鹿げたこと、かな。一族の将来がかかっているというのに? 総領に次いで次位まで慣例を無視されるということがどういうことか心得ていただきたい。有吏本家としてどうあるべきか。今回の総領の件を認められた次位自身が証明すべきでは?」
「父の云うとおり、有吏本家は翼下を守ることにある。一族の将来がかかっているからこそ、あえて拒否しているだけです」
「いずれにしろ、我々従者は量らねばならない。次位についても、八掟家の娘については尚更のこと。破談になったのは単純に三件ではない。五件だろう? 次位がこのまま強行されるならば七件」
戒斗はその数の不自然さに伴って、仲介主宰の含んだ云い方に気づいた。
「どういうことです?」
「首領のお考えはなんら変わりないということだ。次位の愛妾には身の回りに気をつけられるよう忠告されたほうがいい」
脅しなのは明白だ。戒斗は険しく表情を変え、目を細めた。
「主宰ともあろう人の言葉とは思えませんが」
「今回は絆されてちょっかいを出したに過ぎない。単なる覇気向上のための悪戯だったとはいえ、愛妾がうまく乗りきられたことは一つの証明になるだろう。まあ、次位のお眼鏡に適う人であるからには当然そうあってもらわなくては困る。私は管轄内のことにしろ、これ以上に下卑たことをするつもりはない。ましてや一族間での争いを好んでいるはずもない。結束こそ一族の強みだ。ただ、人の心はそう単純に操れるものではないということだろうな。次位が立場を侮られるほど八掟家の娘にご執心なように。どう解決されるのか、楽しみにしておくよ」
仲介主宰の捨て台詞とともに電話は切れた。
戒斗は握りしめた携帯電話を投げるように枕もとに放った。
ベッドの窓側では“きれい”にした叶多がシーツを纏ってうつ伏せで熟睡している。手を滑りこませ、胸のふくらみをつかんだ。叶多はかすかに身動ぎしたが起きる様子はない。
大事にしたい気持ちと背中合わせにあるめちゃくちゃにしたい衝動。
誰かにめちゃくちゃにされるくらいならおれがそうする。
宙に強く視線を放ち、やがて口を歪めると、戒斗は叶多を見下ろしてシーツを剥ぎ取り、無防備なお尻に甘く咬みついた。
朝の通学ラッシュにも慣れ、青南駅に着くと叶多は余裕で電車から降りた。
叶多が乗り慣れた車両には青南の制服は少なく、見つけても中等部だったり、あまり面識のない子ばかりだ。乗り合わせる顔ぶれはだいたい同じで、いったんその雰囲気に慣れてしまうと車両を変えるのは勇気がいる。それに、最近になってあまりぎゅうぎゅうに押し潰されることもなく、知っている子を探してわざわざ車両を変えようとも思わなくなった。
人の流れが一段落してからホームを見渡し、暗黙の了解で待ち合わせているユナを探した。ほぼ同時に同じホームに到着するはずが、今日は遅れているのかまだ見当たらない。
十一月に入って、ホームの間を抜ける風が一段と冷たくなった気がする。下ろした髪が乱れないように片方に寄せた。
「叶多、おはよう」
「あ、佐奈、おはよ」
ホームの真ん中にある椅子に寄ったところで二年のときのクラスメート、田島佐奈に後ろから声をかけられた。いまはユナと同じクラスだ。
「叶多、引っ越したの?」
「え?」
首をかしげた佐奈から不意打ちで、しかも思ってもいなかった質問を向けられ、叶多はすぐに答えられなかった。
「まえはわたしと同じ電車じゃなかったよね?」
「あ……そう、引っ越したんだ」
叶多は焦った気持ちを笑ってごまかした。
「家族一緒?」
「……どうして?」
「噂じゃ……」
佐奈は言葉を切り、値踏みするように上から下まで叶多を見回した。
「普通に考えて……叶多がそうするとは思えないし、やっぱ噂だよね」
「噂って?」
「ううん。なんでもない。ユナ待ち? わたし、先に行くね!」
佐奈は噂がなんなのか明かさないまま、独り納得して出口へと行く階段を下りていった。
その背中を半ば呆けて見送っていると、叶多は肩を軽く叩かれた。
「叶多、おはよ!」
「……おはよ」
「どうしたの?」
どこかぼんやりしている叶多を覗きこんでユナが訊ねた。
「ユナ、噂って何?」
「え?」
心なしかユナはぎょっとした顔になった。
「佐奈が噂って連発していったんだけど……」
ユナは短く唸って考えこんだ。
いくら考えが至らなくてもそれだけで、叶多の知らないところで叶多に関係する何かがあるのだけはわかった。
「ユナ?」
「行きながら話そ」
ユナに促されて構内を抜け、青南に向かった。
「ちょっとまえからね、叶多が男の家に入り浸ってるって話が出回ってる」
「入り浸るって……」
「実際はそれより上手な同棲だよね。入り浸るっていう響きよりは健全な気がするけど」
ユナが云う響き的感覚はよくわからない。ただ、叶多にとってはどっちでも同じくらい危機感がある。
せっかく進路が落ち着いたというのに。
「いつから?」
「九月の終わりくらい」
「そんなにまえから……ユナ、酷い。教えてくれればいいのに」
「あたしが知ったのは試験が終わってからだよ。渡来から聞いたの。あたしはこれでも叶多の親友だし、噂が届くにしても叶多の直前くらいじゃない?」
「また渡来くん!」
「意外とこういうことって男のほうが仕入れやすいんだよ。女のほうがお喋りっていうのは間違い。男のほうがずっと明け透けなんだから」
もっともらしく云ったユナを、叶多はまじまじと見つめた。
「何?」
「や……さすがに二年近くも付き合ってると違うなぁって思って」
「永と渡来、見てるとわかるよ」
「ふーん。戒斗もお喋りなのかな……じゃなくて。どうしよう、先生に知れたら」
「あと四カ月クリアすればなんの問題にもならないんだけどね。まあ、叶多を見れば先生も噂を鵜呑みするとは思えないし、訊かれても絶対に否定するんだよ」
叶多が立ち止まるとユナも合わせて止まった。
「さっきの佐奈もそうだけど、ユナの云いぶんもなんだかへん」
複雑な気分で文句を云うと、ユナは、まあまあ、となだめつつ叶多の腕をつかんで歩きだした。
「渡来くん、どうしてあたしに教えてくれないの?」
ぽかぽか陽気になった昼休み、校庭でお弁当を食べる最中、叶多は不服そうに訊ねた。
「おまえに教えたら知ったところでまたバカげたことするだろ。知らぬが仏ってたぶんおまえのためにある言葉だよな」
陽の傍若無人な云いっぷりに叶多は抗議することすらつかの間忘れた。陽の向かいに座った永は高笑いしている。
「もう信じられない」
「ふん。噂がどうだろうと八掟が心配することじゃない。誑かしたのは戒のほうだろ」
「誑かしたって……」
「実質がどうだろうと世間はそう取る。なんてったっておまえは未成年だからな」
叶多は陽の云うことを考えた。
つまり、戒斗に迷惑がかかるってこと?
「戒斗のことも噂になってるの?」
不安いっぱいで訊ねた叶多に、陽は険しくした顔を近づけた。
「それが不思議なんだよな。戒の名前はいまのところまったく出てない」
「よかった」
「名前が出たからっておまえのせいじゃない。そんときは戒が処理するべきだ」
めずらしく陽がなぐさめた。が、ほっとしたのもつかの間。
「ていうより、学校にバレて八掟が退学ってことになったら、これからの大学生活、まったく張り合いないし、戒にはうまく処理してもらわないと困る」
……。
陽がなぐさめるわけもなく、それどころかまるで道楽物扱いに叶多はため息を吐いた。
「あーあ、渡来、それ云わなきゃ、一点くらい返せたのに」
ユナが茶々を入れると渡来はどこ吹く風で肩をすくめた。
「おかしいのはさ、噂自体もそうだ。なんでおれがいるのにそういう噂が流れんだ?」
「そうよね。叶多が否定しても信じられてなかったのに」
「そのまえに、付き合ってる、くれぇならまだしも男に入れ揚げるって八掟の柄じゃねぇよな。いまだにヴァージンっぽいし」
ユナに続いて永が口を挟んだ。
「だ、だから――っ」
「だから、なんだよ」
思わず否定しようとして陽に突っこまれると、叶多は自分がまた危うい発言をしかけたことに気づいて、このときばかりは陽に感謝した。
本物のえっちに漕ぎつけていないことは叶多の憂いであり、そのうえで脳みそが腐れそうという馬鹿馬鹿しい不安を持つほど感じさせられている、もしくは勝手に感じていることが引け目になりつつある。
その実情が知れて、陽が何を想像して、何を云うかと考えると、それこそノックアウトされそうだ。
戒斗が普段から大事にしてくれていることはわかるけれど、最初のときに宣言したとおり、えっちに関して叶多の立場は完全に玩具だ。
「あ、ぃや……だから、そんなこと学校で云わないでって云いたいの!」
陽はどこか納得いかないようで、ふーん、と生返事をした。
「ま、とにかく、だ。バカげたことすんなよ。知らぬ存ぜぬで通してれば、間違っても噂を本気にする奴はいないから」
陽の云い方は一見、叶多のことを心配しているようだけれど、今朝のユナといい、どうにも引っかかる。
「渡来くん、その云い方って、すごくあたしのこと、バカにしてない?」
「わかりきったこと訊くなよ」
隙なく無下に陽は云い捨てた。
「渡来くんには九回裏0対0ノーアウト満塁だって、絶対点入れさせない!」
唖然としたのち、どうにか立ち直って叶多が云い返すと、陽はぐっと顔を近づけた。ニタッと笑うさまは不気味そのものだ。
「ふん。おまえにしてはなかなかの切り返しだな。けど、おれは簡単じゃない。行くぞ、永」
陽は永を誘い、いつものように食べて早々、サッカーに加わった。
「渡来も相変わらずお子様だよね」
ふたりを目で追いながら、ユナは呆れているのかおもしろがっているのか、ため息を吐いて云った。
「何?」
「好きだから苛めるってやつ」
「そうなのかな。あの告白って幻想だったんじゃないかって思ってる」
叶多が口を尖らせてつぶやくと、ユナは吹きだした。
「噂の件では渡来も被害者なんだよ」
「え、どうして?」
「叶多に男がいるってことは、渡来がフリーってことじゃない? 告白タイム、すごいらしいよ。普段、人当たり抜群ていう皮被ってるし、そのぶん断るにもマナー無視できないでしょ。だからちょっとイラついてるみたい」
ユナの目が今度ははっきりおもしろがっている。
「……そのイライラがあたしに回ってきてるの? 渡来くん、ますます酷くなってる気がする」
「んー。渡来と頼くん、ふたりを見てると、好かれてるのに虐められるのって叶多の体質みたいなものかもって思うけど」
「……そういう体質、どうやったら変えられるの?」
ユナの指摘に、叶多は半泣きで訊ねた。
「いいじゃない。そのぶん、戒斗さんに可愛がってもらえるでしょ」
ユナは楽天的に答えた。
その戒斗からも虐められていないとは云いきれない。
叶多は惨めな気分で独り思った。